主日礼拝

再び来られる主イエス

「再び来られる主イエス」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ダニエル書 第7章1-14節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第13章14-27節  
・ 讃美歌:132,356,573

世の終わりに向けての苦しみ
礼拝において原則としてマルコによる福音書を読み進めています が、前回は6月8日のペンテコステの日でした。約一ヶ月ぶりにマ ルコ福音書の続きを読みます。今読んでいる第13章は、「小黙示 録」、小さな黙示録と呼ばれている所で、この世の終わりはいつ来る のか、その時にはどんなことが起るのか、という弟子たちの問いに主 イエスが答えてお語りになった教えです。その13節までをペンテコ ステの日に読みました。そこにおいて主イエスは、世の終わりが来る 前に、いろいろな苦しみが襲って来るとお語りになりました。7節以 下に、戦争の騒ぎやうわさが聞こえてくる、そして実際に民は民に、 国は国に敵対し、憎み合う、また地震や飢饉などの天変地異が起る、 さらには、信仰のゆえに迫害を受けることにもなる、とあります。そ ういった様々な苦しみが、この世の終わりが来る前に必ず起るのだと おっしゃったのです。けれども、主イエスがお語りになったことの中 心は、それらの苦しみが即この世の終わりではない、ということでし た。7節後半に「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の 終わりではない」とあります。また8節の後半にも「これらは産みの 苦しみの始まりである」とあります。これらの苦しみはまだ世の終り ではなく、世の終わりの始まりを告げているのです。ですから、これ らの苦しみが襲って来た時に、「もうこの世も終わりだ」と慌てふた めいてはならないのです。むしそその苦しみを忍耐して歩み続けるよ うにと語られています。それが13節の終わりの、「しかし、最後ま で耐え忍ぶ者は救われる」という教えなのです。

世の終わりは始まっている
7節以下に語られている苦しみは、この福音書が書かれた時、教会 の人々が既に体験していたものです。そして私たちもその苦しみを 今、別の形で体験しています。戦争の騒ぎや戦争のうわさは、今ひと きわ高まっています。集団的自衛権の行使容認が閣議決定されまし た。戦後の日本が日本国憲法の下で歩んできた基本的な姿勢が大きく 変更されようとしており、他国の戦争に巻き込まれていくのではない かという不安があがっています。「民は民に、国は国に敵対」するこ とも、世界各地で起っているし、この国も周囲の諸国との間にそういう難しい問題をかかえています。大地震が起り、聖書の時代の人々が 知らなかった原発事故も起っています。食糧の問題も世界的になって おり、飢饉も外交的な駆け引きの手段となるような時代になりまし た。また、信仰のゆえに迫害を受けるということも、今まだこの国に おいてそういうことにはなっていませんが、次第に自由にものが言え ない社会になってきていることは感じられます。福音書が書かれた時 代に教会の人々が感じていた苦しみは、いつの時代にもあり、今の私 たちにもあるのです。それらの苦しみは、世の終わりが既に始まって いることの徴です。世の終わりの終わり、最終的な終末がいつ来るの かは誰も知ることができません。その最後の時まで私たちは、苦しみ を耐え忍ぶことを求められているのです。

憎むべき破壊者
本日読む14節以下は、世の終わりに向けての苦しみが頂点に達す ることを語っています。19節に「それらの日には、神が天地を造ら れた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来る からである」とあります。このような空前絶後の苦しみは何によって もたらされるのでしょうか。14節には「憎むべき破壊者が立っては ならない所に立つのを見たら」とあります。このことによって、この 苦しみはもたらされるのです。「憎むべき破壊者が立ってはならない 所に立つ」という謎のような言い方は、旧約聖書ダニエル書の11章 と12章から来ています。ダニエル書11章31節に「彼は軍隊を派 遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき 荒廃をもたらすものを立てる」とあり、12章11節に「日ごとの供 え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千 二百九十日が定められている」とあります。イスラエルの民が主なる 神様に日毎の供え物をささげるべき聖所に、「憎むべき荒廃をもたら すもの」が立てられ、供え物は廃止されてしまうのです。これは一つ の歴史的出来事を指していると言われます。紀元前167年に、当時 ユダヤを支配していたシリアのアンティオコス4世エピファネスとい う王が、エルサレム神殿の祭壇にギリシャの神ゼウスの像を立てたの です。異邦人の神が、しかも偶像が神殿に置かれることは、イスラエ ルの人々にとって、主なる神様への最大の冒瀆であり、神の民である イスラエルへのこの上ない侮辱です。このことに怒ったユダヤ人たち は反乱を起し、マカベヤのユダを指導者としてシリアを打ち破って独 立を獲得し、いわゆるマカベヤ王朝が成立したのです。「憎むべき破 壊者が立ってはならない所に立つ」とは、この神殿冒瀆の出来事のこ とです。そういうことが世の終わりにまた起る、それによって神の民 の苦しみが頂点に達すると言われているのです。

根本的な苦しみの先取り
ここには大切なメッセージがあります。私たちは今既に様々な苦し みを負っており、それは世の終わりが始まっていることの徴ですが、 その私たちの苦しみは産みの苦しみの始まりであって、最も深い根本 的な苦しみは、戦争やそのうわさ、民と民、国と国の対立、天変地異 や迫害によって生じるのではないのです。「憎むべき破壊者が立って はならない所に立つ」ことによってこそ、根本的な苦しみが生じるの です。「立ってはならない所」とは、神様の場所、神様のみが立つこ とができる所であり、この世を支配する者としての場所です。そこ に、神ではない人間が立って、神様のご支配を否定し、自分が神であ るかのように支配しようとする時、その支配者は「憎むべき破壊者」 となるのです。その支配者は必ずしも独裁者ということではありませ んし、個人としての人間ですらなく、ある思想だったり政策だったり 人々の意識だったりすることもあります。そこには、この社会をより 良く建設し、改善し、人々の幸福をもたらそうという思いがあるのか もしれません。しかし神のご支配を忘れた人間の支配による建設、改 善は、かえって破壊と荒廃を生むのです。生きておられるまことの神 を認めない人間の支配が打ち立てられ、神の場所に人間が立とうとす ることによって、人間は幸福になるどころか、「今までなく、今後も 決してない」苦しみが生じるのです。この苦しみが「今までなく、今 後も決してない」ものだというのは、苦しみの大きさを比較している のではなくて、およそ人間がこの世で味わう苦しみの根本がこの、 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」ことによってもたら されるのだ、ということでしょう。私たちの苦しみは全て、この根本 的な苦しみとつながっているのです。それは私たち自身が、神様のご 支配を認めず、自分が神になりかわって支配しようとしているからで す。立ってはならない所に立とうとしているのは私たち一人一人であ り、そこに様々な苦しみが生じているのです。そういう意味では、私 たちが今味わっている苦しみは、「憎むべき破壊者が立ってはならな い所に立つ」ことによってもたらされる、世の終わりの根本的な苦し みの先取りなのです。

逃げなさい
さて、世の終わりに、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立 つ」ことによって苦しみが頂点に達することをお語りになった主イエ スは、その苦しみが襲ってきた時には「逃げなさい」と勧めておられます。15、16節には、家に何かを取りに戻ることなく、一目散に 逃げなさいと教えられています。17、18節も、そのように急いで 必死に逃げていく時に、身重の女性や乳飲み子を持つ女性は不幸だ、 そのことが冬に起るなら、ますます大きな苦しみが目に見えていると 語っています。3年前の東日本大震災ではまさにこの通りのことが起 りました。そこではそれに加えて、目に見えない放射能からも逃げな ければならず、身重の女性や乳飲み子を持つ女性がまさに最も深い恐 怖におののかなければならなかったのです。そういう苦しみが3年経 った今も続いていることを私たちは覚え続けていなければなりませ ん。
このように、世の終わりの大きな苦しみに際してとにかく「逃げ る」ことが教えられています。それは13節の「最後まで耐え忍ぶ者 は救われる」という教えとは矛盾しているように感じられるかもしれ ません。苦しみを耐え忍ぶとは、逃げずに踏み止まり、苦しみと戦 っていくことではないのか、苦しみに背を向けて逃げろという教え と、苦しみを耐え忍べという教えは相入れないのではないか、と思う のです。このことは、私たちの信仰の生活に対する大切な示唆を含ん でいると思います。主イエスは一方で、「最後まで耐え忍びなさい」 と言っておられます。忍耐こそ、苦しみの中で歩む私たち信仰者に求 められていることなのです。しかし他方で「逃げなさい」とも言って おられます。つまり、何がなんでも忍耐し、逃げ出してはならない、 逃げた者は救いの恵みから落ちる、ということではないのです。逃げ なさいというのは、自分の力で最後まで戦おうとするな、ということ です。自分で苦しみと戦って勝利しなければ神様の救いにあずかるこ とができない、などということはないのです。それは「最後まで耐え 忍ぶ者は救われる」という教えと矛盾することではありません。むし ろそこに、私たちへの神様の大きな恵みが示されているのです。信仰 を持って生きる人生には様々な苦しみが伴います。信仰の歩みは苦し みとの戦いの連続であり、そこには忍耐が必要です。耐え忍ぶことな しに信仰者であり続けることはできません。けれども、その私たちの 忍耐が救いをもたらすのではないのです。私たちが苦しみと戦って勝 利して救いを獲得するのではないのです。そんなことは私たちには出 来ません。たとえ今、苦しみの始まりにおいてある程度忍耐して持ち こたえることが出来ているとしても、その苦しみは世の終わりに向か ってエスカレートしていくのです。その苦しみの頂点においては、私 たちは逃げるしかないのです。「神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来る」のですから、その 苦しみに打ち勝つことは私たちには出来ません。逃げるしかないので す。

選ばれた人たちのための救い
それでは私たちの救いはどこにあるのか。20節にこうあります。 「主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。し かし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮 めてくださったのである」。苦しみに打ち勝つことはできない、逃げ るしかない、つまりこのままでは誰一人救われることのない私たちの ために、主なる神様が、苦しみの期間を縮めて下さった、その神様の 恵みによって私たちは救われたのです。この20節が言っているの は、終わりの時の苦しみが本当なら例えば一年間続くはずだったのを 神様が半年に縮めて下さった、というようなことではないでしょう。 神様が苦しみをどれだけおまけして下さったかということではなく て、私たちの救いが、私たちの努力や忍耐によってではなく、神様の 恵みによってこそ与えられるのだ、ということをここは語っているの です。そのことは、「ご自分のものとして選んだ人たちのために、そ の期間を縮めてくださったのである」というところにも表されていま す。神様が苦しみの期間を縮めて下さったのは、ご自分のものとして 選んだ人々のためだったのです。つまり私たちの救いは神様の選びに よるのです。神様に選ばれた人のみが救いにあずかるのです。この 「神の選び」という教えは、間違って受け取られやすいものです。例 えば、自分は神に選ばれているのだと誇って他の人を見下したり、逆 に自分は選ばれていないのではないかと不安になったり、あの人は選 ばれているのか、この人はどうか、と詮索したりということは全て、 神の選びの教えを間違って捉えていることによって起ることです。神 の選びの教えが語っていることはただ一つ、私たちは、自分の力や努 力や忍耐によって救いを獲得するのではなくて、ただ神様の恵みによ って救われるのだ、ということです。その救いにあずかった人は、自 分の中には救われるべき理由は何もない、自分が他の人よりも立派だ ったり信仰が深かったりすることはないし、忍耐強いわけでもない、 それこそ逃げることしか出来ない者だ、ということを知っています。 そういう自分が救われたのは、神様が自分を恵みによって選んで下さ ったからとしか言いようがない、と感じているのです。それが神の選 びの教えです。ですから、自分は選ばれたのだと人に対して誇るのは 全く間違いだし、自分のような者は選ばれていないのでは、と不安に なることも間違いだし、あの人は選ばれているとかいないとか詮索することも間違いです。私たちの救いは、「選び」という言葉で言い表 すしかない神様の恵みによって与えられる、そのことが、世の終り の、誰も耐えられないような苦しみの中で明らかになるのです。

救いの恵みを先取りして
この恵みは、世の終わりに明らかになると同時に、既に与えられて います。終わりの時の苦しみの期間を主が縮めて下さる、それは終わ りの時に与えられる恵みであるはずですが、「主はご自分のものとし て選んだ人たちのために、その期間を縮めて下さったのです」と、既 に与えられた恵みとして語られています。このように、終わりの時の 救いが既に与えられたものとして語られるのは、主イエス・キリスト の十字架と復活による救いが既に実現しているからです。主イエスは 私たちの罪によってもたらされる苦しみをご自分の身に負って、既に 十字架にかかって死んで下さったのです。世の終りの苦しみの期間を 神様が縮めて下さるのは、主イエスが既にその苦しみを背負って下さ ったからです。だからそれは既に実現したこととして語られることが できるのです。そのように私たちは、世の終わりに明らかになること が約束されている救いの恵みを、今この地上の人生において先取りし て味わうことができます。その印として与えられているのが、本日共 にあずかる聖餐です。聖餐によって私たちは、主イエスの十字架の死 によって既に成し遂げられている罪の赦しの恵みにあずかると共に、 世の終りに明らかになり、完成する救いを先取りして味わうのです。 先ほど申しましたように、私たちの苦しみは、世の終わりに向けて頂 点に達する苦しみ、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」 ことによる根本的な苦しみの先取りですが、主イエス・キリストによ る救いを信じる私たちは、世の終わりに明らかになる救いの恵みの先 取りをも与えられており、その恵みに支えられて苦しみを忍耐してい くことができるのです。

再び来られる主イエス
このように、世の終わりに明らかになる救いは、主イエス・キリス トによる救いです。世の終わりの苦しみの頂点を経て、主イエス・キ リストによる救いの恵みが実現し、完成するのです。それを語ってい るのが24節以下の「人の子が来る」という所です。世の終わりの 時、苦しみが頂点に達し、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空 から落ちる、つまり、それまで地上を照らしていた光が全て失われ て、闇が支配するのです。そこに、人の子が大いなる力と栄光を帯び て雲に乗って来るのを人々は見る。この部分は、本日共に読まれたダニエル書7章から来ているものです。ダニエルの見た幻においても、 神様に逆らって尊大なことを語り続ける獣が打ち破られ、「日の老い たる者」即ち主なる神様の前で、人の子がとこしえに続く権威、威 光、王権を受けて支配するのです。世の終わりにはそういうことが実 現する。その人の子とは、主イエス・キリストのことです。復活して 天に昇られた主イエスが、栄光の内にもう一度来られ、そのご支配が とこしえに確立するのです。この世の終わりには、憎むべき破壊者が 立ってはならない所に、つまり神様の場所に立ち、支配しようとす る、それによって空前絶後の苦しみが起り、この世から一切の光が失 われてしまう、しかし、それが終末、世の終りではないのです。そこ に、主イエス・キリストが再び来られます。大いなる力と栄光を帯び てです。再び来られる主イエスは、その力と栄光とをもって、あの憎 むべき破壊者を打ち破り、ご自身が王座に着いて下さるのです。この 世界は、憎むべき破壊者が王座に着くことによってもたらされる破壊 と苦しみの内に滅びていくのではなくて、再び来られる主イエス・キ リストのご支配の確立をもって終わる、聖書はそういう世の終わり、 終末を語っているのです。

見えない救いが見えるようになる
人の子が来るのを「人々は見る」と語られています。キリストがも う一度来られる時、全ての人々がそのお姿を見るのです。今私たち は、主イエス・キリストのお姿をこの目で見ることはできません。主 イエスが神の子であり救い主であられることを見える仕方で証明する ことはできません。それは信じるしかないのです。目に見えない主イ エスを信じ、目に見えない神様のご支配を信じることが私たちの信仰 です。そこに信仰の困難さと苦しみがあります。世の終わりに向けて の苦しみは既に始まっていると申しましたが、その苦しみは私たちの 罪によってもたらされたものであると共に、主イエスによる救いの恵 みが隠されていて目に見えないことから生じているとも言えます。こ の世が続く限り、私たちは、主イエスをこの目で見ることができない という苦しみの中を歩むのです。しかし、終わりの終わり、最終的な 終末においては、再び来られる主イエスのお姿が誰の目にもはっきり と示され、全ての人にそのご支配が明らかになるのです。主イエスが 再び来られる時に、主イエスによる救いが、その栄光が、目に見える ものとなり、顕わになるのです。

偽メシアに警戒せよ
21節以下に語られていることはそのことと関係しています。「見よ、ここにメシアがいる」「見よ、あそこだ」などと言う者たちに惑 わされてはならない、という教えです。主イエスが再び来られる時に は、その力と栄光とを全ての人が見るのです。つまり主イエスは、誰 かに「ここにいる、あそこにいる」と教えてもらわなければならない ような仕方で来られるのではないのです。だから、繰り返しあちこち に現れるメシア、救い主、再び来たキリストを名乗る者は全て偽者で す。その偽者たちは、しるしや不思議な業を行なって人を惑わそうと します。つまり奇跡を行なってみせるのです。そういうものに惑わさ れてはならない、どんなに驚くべき奇跡を行なう者がいても、それが 真実の救い主の印ではないのです。むしろそのような者たちこそ、立 ってはならない所に立とうとする憎むべき破壊者かもしれません。地 上を歩まれた主イエスは、奇跡によって人を引きつけて従わせようと はなさらず、むしろ私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下 さったのです。主イエスが再び来られることによって顕わになるの は、その十字架による救いの恵みなのです。

選ばれた人たちを呼び集めて下さる
27節には、「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てか ら天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」 とあります。再び来られる主イエスは、全世界から、選ばれた人たち を呼び集めて下さるのです。私たちの救いは、主イエスによって選ば れ、呼び集められることにあります。信心深い生活をして、苦しみを 最後まで耐え忍んだ者が救いを獲得するのではなくて、苦しみの中で 逃げることしかできず、散らされた者たちが、主イエスによってもう 一度呼び集められて救いにあずかるのです。主イエスの弟子たちもこ の後、そのことを体験していきました。主イエスが捕えられた時には 逃げ去ってしまった彼らが、復活した主イエスによってもう一度呼び 集められて、最初の信仰者として立てられていったのです。弟子たち と同じように私たちも、自分の力強さや正しさによってではなくて、 主イエスによって選ばれ、呼び集められることによって救いにあずか るのです。自分はこの「選ばれた人たち」の中に含まれるのだろう か、と不安に思う必要はありません。私たちは、現に選ばれ、呼び集 められているからこそ、この礼拝の場に集っているのです。礼拝を守 る者とされていること自体が、主イエスによる選びの印です。今私た ちを選び、呼び集めて下さっている主イエスが、世の終わりに再び来 られる時にも、私たちを選び、呼び集めて下さる、そのことを信じて 私たちはこの世を生きて行くのです。そこにこそ、世の終わりに向かう苦しみを最後まで耐え忍ぶ力も与えられていくのです。

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