主日礼拝

叫び続ける信仰

「叫び続ける信仰」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:創世記 第32章23-31節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第10章46-52節  
・ 讃美歌:127、280、481

エリコの門前の物乞い
 礼拝においてマルコによる福音書を読み進めてきまして、第10章の最後の所に来ました。最初の46節の前半に、「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき」とあります。主イエスと弟子たちの一行は、エリコに着き、そしてエリコを出発したのです。つまりエリコは主イエスの旅の通過点です。その旅は10章の1節から始まりました。ガリラヤからユダヤのエルサレムへと向かう旅です。そして次の11章1節以下には、一行がエルサレムに入った時のことが語られています。10章はエルサレムへの旅の途上における出来事を語っており、本日の箇所はその最後の場面なのです。実際エリコはエルサレムへと上っていくための最後の町です。主イエスはそのエリコを出発し、いよいよエルサレムに入ろうとしておられる、その時に、ここに語られている出来事が起ったのです。  この時、ユダヤ人の最大の祭である過越祭が近づいていました。その祭のために多くの巡礼がエリコからエルサレムへと上っていきました。「大勢の群衆と一緒に」とあるのは、その巡礼の人々のことでしょう。そのようにエルサレムへと向かっていく多くの巡礼者たちからの施しを期待して、エリコの町の門の外には物乞いたちが並んでいたのです。その中に、ティマイの子、バルティマイという人がいました。この人は「盲人の物乞い」だったと語られています。その一言から、彼が大きな苦しみと嘆きを背負って生きていたことが分かります。当時の社会においては、目が見えない人は、人通りの多い道端に一日中座って、自分の姿を道行く人にさらし、憐れみを乞い、何がしかのものを恵んでもらうことによってしか生きることができなかったのです。それは人間としての誇りを打ち砕かれ、喜びも希望も見出せない日々だったでしょう。彼はおそらくもう長い間そういう苦しみの中を生きていたのです。

大声で叫び出す
 ところがこの日彼は、周囲の雰囲気がいつもとは違うことに気づきました。目が見えない彼はそれだけ耳が敏感になっています。いつも巡礼が通っていく時に聞こえるのとは違う声が聞こえてきたのです。誰か特別な人が通って行こうとしているようです。耳を済ましていると、「ナザレのイエス」という声が聞こえました。ナザレのイエスが通って行こうとしているのです。その人があちこちで病人を癒し、目の見えない人を見えるようにしたことを彼は聞いていたのでしょう。そのナザレのイエスが自分の前を通って行こうとしている、それを知った時、彼は間髪を入れず、大声で叫び始めたのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。彼は主イエスが今どこにおられるのかを見ることができません。どこにいるのか分からない主イエスに何とか自分の声を届かせようとして大声で叫んだのです。周りの多くの人々は叱りつけて黙らせようとした、とあります。「うるさい。道端で大声を上げるな」と叱ったのでしょう。そのように叱ったのは主イエスの弟子たちだったのかもしれません。13節には、主イエスのもとに子供を連れて来た人々を弟子たちが叱ったことが語られていました。その時と同じように弟子たちは、これからエルサレムに上り、大切な使命を果たそうとしておられるイエス様の邪魔をするな、という思いで叱ったのかもしれません。しかしそのように多くの人々に叱られ、「黙れ」と言われても、彼は「ますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんで下さい』と叫び続けた」のです。

ダビデの子
 彼が主イエスのことを「ダビデの子」と呼んだことに注目しなければなりません。「ナザレのイエス」が通っていくと聞いた彼は「ダビデの子イエスよ」と叫んだのです。「ダビデの子」という呼び方はユダヤ人にとって重大な意味を持っています。ダビデは旧約聖書に出て来るイスラエルの昔の王であり、イスラエルの王を代表する人です。その子というのは、その子孫という意味ですが、それだけではなく、旧約聖書には、ダビデ王の子孫にイスラエルの救い主であるまことの王が現れ、主なる神様の救いがその王によって実現する、という預言がありました。ですから「ダビデの子」とは、神様から遣わされる「救い主」を意味する言葉なのです。彼はその言葉でもって主イエスを呼びました。つまりこれは、「イエスよ、あなたこそ、神様が約束して下さっていた救い主です」という信仰の告白です。つまり彼は、ナザレのイエスを、病気を癒し、目の見えない人を見えるようにすることができる奇跡の力を持った人、私たちの感覚で言えば「超能力者」のように考えて呼びかけたのではありません。主イエスを神からの救い主と信じて、その主イエスに、「憐れんでください」と叫び求めた、つまり神様の憐れみによる救いを叫び求めたのです。

主イエスのもとへ行く
 主イエスはその彼の叫びを聞いて立ち止まり、「あの男を呼んで来なさい」とおっしゃいました。苦しみの中から神様の憐れみによる救いを求めて必死に叫ぶ彼の声を、主イエスはしっかりとキャッチして下さり、彼をご自分のもとへと呼んで下さったのです。主イエスが彼のところへ近寄って行かれた、とは語られていないことに注目したいと思います。「相手は目が見えない人なんだから、自分の方から側に行ってあげる方が親切というものではないか」と私たちは思います。しかし主イエスは彼のところに行くのではなく、敢えて彼をご自分のもとに呼ばれたのです。そこに、主イエスによる救いにあずかることがどのように実現していくのかが示されていると思います。苦しみの中で主イエスに救いを叫び求める私たちは、主イエスによって呼ばれて、それに応えて主イエスのもとに行くことによって救いにあずかるのです。主イエスに呼ばれて主イエスのもとに行く、ということ無しには私たちの救いはないのです。

安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。
 しかしここにさらに重要なことが示されています。主イエスは「あの男を呼んで来なさい」とおっしゃったわけですが、そのお言葉は彼の耳に直接聞こえてはいないのです。主イエスが呼んでおられることは「人々」を通して間接的に伝えられるのです。人々は彼に、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と告げました。この三つの言葉に注目したいのです。先ず「安心しなさい」です。これは以前の口語訳聖書では「喜べ」と訳されていました。この言葉は聖書に度々出てきます。マタイによる福音書9章2節で主イエスは、床に寝かされたまま連れて来られた中風の人に「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」とおっしゃいましたが、その「元気を出しなさい」がこの言葉です。同じマタイ福音書9章の22節で、出血の止まらない病気で苦しんでいた女性に主イエスが、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃった、「元気になりなさい」も同じ言葉です。マルコ福音書では6章50節に、ガリラヤ湖上で逆風に漕ぎ悩んでいた弟子たちのもとへ、主イエスが水の上を歩いて来られ、それを見た弟子たちが幽霊だと思って脅えた時に、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」とおっしゃった、その「安心しなさい」がこの言葉です。ヨハネ福音書16章33節ではこの言葉が「勇気を出しなさい」と訳されています。このようにこの言葉は「安心しなさい」「喜びなさい」「元気になりなさい」「勇気を出しなさい」という幅広い意味を持っているのです。苦しみの中から救いを求める私たちの叫びを主イエスが受け止め、応えて下さることが、この言葉によって私たちに告げられ、私たちは安心と喜びを与えられ、元気になり、勇気づけられるのです。  次に「立ちなさい」とあります。主イエスに呼ばれた者は、立ち上がって主イエスのもとへと行くのです。第一の言葉によって安心と喜びを与えられ、元気を与えられ、勇気づけられて、私たちは立ち上がって主イエスのもとに行くのです。でもそれを支えているのは第三の言葉、「お呼びだ」です。これは正確に訳すと「お前を呼んでおられる」となります。主イエスがあなたを呼んでおられる、だからあなたは安心して、喜んで、元気と勇気を出して、主イエスのもとに行くことができる、とこの言葉は告げているのです。このような言葉が、人を通して間接的に彼に告げられたことによって、彼は立ち上がり、主イエスのもとに行くことができたのです。それはまさに、今この礼拝において起っていることです。礼拝において、私たちは主イエスの招きのお言葉を直接に聞くわけではありません。同じ人間である牧師、伝道者が語る説教を通して、間接的に、主イエスが自分を呼んでおられることを知らされるのです。つまり毎週の礼拝において語られている説教は、要するにこの「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」ということを語っているのです。礼拝において私たちは、説教を通して間接的に、主イエスが自分を呼んで下さっていることを知らされるのです。

上着を脱ぎ捨て、踊り上がって
 主イエスが呼んでおられることを知った彼は「上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来た」とあります。「踊り上がって」という言葉に、彼が安心して、喜んで、元気と勇気を出して立ち上がり、主イエスのもとへと歩み出したことが示されています。目が見えないのですからその歩みは勿論手探りで、おぼつかない足どりだったでしょう。私たちも、まさに手探りで、おぼつかない足どりで、信仰を求め、主イエスとの出会いを求めて歩んでいきます。しかし主イエスが呼んで下さっているのですから、私たちも安心して、喜んで、元気と勇気を出して、踊り上がって立ち、主イエスのもとに行くことができるのです。  「上着を脱ぎ捨てて」とあります。それは彼が、物乞いをして生きていたそれまでの生活の全てを脱ぎ捨てて、主イエスの救いにあずかって全く新しくなることを求めていったことの現れです。主イエスのところに来た彼は、「何をしてほしいのか」という主イエスの問いに、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。そこには彼が、自分はこのように新しくなりたい、変えられたい、という願いをはっきりと持っていたことが示されています。彼は、目が見えるようになることによって、物乞いをして生きていたそれまでの生活を脱ぎ捨てて新しく生きていきたい、という切なる願いもって主イエスのもとに来たのです。主イエスの救いにあずかるとはこのように、それまでの歩みを脱ぎ捨てて、主イエスによって新しくされ、変えられることです。それまで自分が持っていたものを総て抱えたままで救いにあずかることはできません。この10章の前の方で主イエスは、たくさんの財産を持っていた人に、「持っているものを売り払って、無一物になって私に従いなさい」とおっしゃいました。救いにあずかるためには、脱ぎ捨てるべきものを脱ぎ捨てることが必要なのです。  上着を脱ぎ捨てて立ち上がり、主イエスのもとに来て、願いをはっきりと述べた彼に、主イエスはしっかりと応えて下さいました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。そのお言葉によって、彼はすぐ見えるようになったのです。「あなたの信仰があなたを救った」というのは、彼の信仰の力によって目が開かれたということではありません。彼の目を見えるようにしたのは主イエスご自身の救いの力です。しかし主イエスは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と彼が叫び続け、主イエスによる救いを切に求めたことを、彼の信仰として受け止めて下さったのです。

目を開かれ、新しくされる
 このようにして彼は目を開かれました。願い求めていたことが主イエスの恵みの力によって実現したのです。この救いによって彼は変えられ、新しくされました。彼自身も思ってもいなかった者へと新しくされたのです。そのことが、52節の終わりに語られています。「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」とあります。目が見えるようになった彼は主イエスに従っていったのです。彼が願っていたのは、目が見えるようになり、物乞いの生活から抜け出すことでした。そうなれば、施しによってではなく、他の人たちと同じように自分の力で働いて生きて行くことができる、と彼は思っていたでしょう。主イエスによって目が見えるようになったことによって、まさにその願いを実現することができるようになったのです。しかし、目が見えるようになった彼がしたのは、主イエスに従うということでした。主イエスが、「目を開けてあげるから私に従いなさい」とおっしゃったのではありません。主は「行きなさい」とだけおっしゃったのです。「あなたの信仰があなたを救った。だからあなたは安心して、どこへでも、自分の思うところへ行きなさい。思い通りに生きていきなさい」と主はおっしゃったのです。主イエスの救いは、何の条件もなく与えられたのです。だから彼は、「本当にありがとうございました」と丁寧にお礼を言って、主イエスのもとを去ってエリコの町に入って職探しを始めてもよかったのです。しかし彼はそうするのではなくて、主イエスに従って行きました。主イエスのもとに留まり続けたのです。それは、主イエスによって目を開かれたことによって彼は、自分が本当に望んでいたこと、この目で見たい、見続けたいと願っていたことが何だったのかに気づいた、ということでしょう。彼が心の底で本当に望み願っていたのは、自分の手で仕事をして人並みの生活をすることではなくて、このような救いの恵みを与えて下さる救い主イエス・キリストとの出会いだったのです。彼が本当に見たかったのは、自分を招き、迎え入れ、救いを与えて下さる主イエス・キリストのお姿だったのです。主イエスによって目を開かれたことによって彼は、救い主イエス・キリストと共に歩み、主イエスを常に見つめ続け、主イエスに従っていく者へと変えられ、新しくされたのです。私たちが主イエス・キリストとの出会いによって救いを与えられる時にも、そういうことが起るのです。私たちは様々な苦しみの中から主イエスに救いを求めて叫びますが、主の招きによってみ前に行き、そこで救いを与えられる時、自分が願っていた、思い描いていたのとは全く違う者へと新しくされるのです。そしてその新しい歩みは、私たちが願い、思い描いていたものよりもはるかに素晴しいものなのです。

主イエスの進まれる道
 「なお道を進まれるイエスに従った」とマルコは語っています。主イエスがなお進んで行かれる道、それはエルサレムへと、そこでの十字架の死へと向かう道です。その道を彼は主イエスと共に歩んでいったのです。そしてその道の先で彼は、主イエスによって開かれたその目で、主イエスが十字架にかけられて死なれるのを見たのです。勿論彼も、主イエスが捕えられた時には、他の弟子たちと同じように逃げ去ってしまいました。十字架の死に至るまで主イエスに従い通すことはできなかったのです。しかし、自分の目を開いて下さった主イエス、長年の苦しみから解放して下さった主イエスが、はるかに大きな苦しみの内に死なれるのを見た彼は、主イエスが自分の苦しみと死を、そして主イエスを見捨てて逃げ去ってしまうような自分の弱さと罪を、全て背負って十字架の苦しみを受け、死んで下さったことを悟ったに違いありません。そしてその主イエスが三日目に復活なさったことを彼は、まさに踊り上がる喜びをもって受け止め、主イエスが十字架の死と復活によって、ダビデの子、救い主としてのみ業を完成して下さったことを悟ったに違いありません。そのようにして彼は、初代の教会の信仰者の一人になったのです。「ティマイの子バルティマイ」という彼の名前が記されていることがその証拠です。彼の名前は、この福音書が書かれた教会において、仲間の一人として知られていたのです。主イエスによって目を開かれた彼は、主イエスの歩まれる道を主イエスに従って歩む者となり、その歩みの中で、主イエスの十字架と復活の救いにあずかる信仰者となっていったのです。

主の熱心と私たちの熱心
 バルティマイが主イエスの救いにあずかることができたのは、彼が主イエスとの出会いの機会、チャンスをしっかり捉えたからです。主イエスが彼の前を通っていかれる、それは彼にとって千載一遇のチャンスでした。この機会を逃したら、彼はもう主イエスと出会うことは出来なかったでしょう。そのただ一度のチャンスを彼は捉え、主イエスに向かって叫び、救いを求めたのです。私たちが主イエス・キリストと出会うことにおいても、そういう機会、チャンスが訪れます。それはバルティマイ自身が求めていって作り出した機会ではなくて、主イエスが近づいて来て下さり、与えて下さったチャンスです。主イエスは私たち一人一人にも、そのようなチャンスを与えて下さるのです。私たちの人生の歩みの中で、主イエスが近づいて来て下さる時があるのです。そのチャンスを逃さないでしっかり捉えることが大切です。そのためにバルティマイは、どこにおられるのか分からない主イエスに向かって大声で叫び、周囲の人々に迷惑がられ、顰蹙をかいながらも、ひたすら叫び続けました。主イエスの憐れみ、救いを求めて叫び続け、それを得るまでは決して黙らない、そういう熱心さによって彼は救いを得たのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、創世記第32章23節以下は、アブラハムの孫であるヤコブが、何者かと夜通し格闘をしたという所です。その何者かは「神の人」と言われており、天使のような存在と思われます。ヤコブと格闘したその相手は、ヤコブに勝てないので、ヤコブの腿の間接をはずし、「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」と言いました。ヤコブは「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と言って、神の人からの祝福を求めたのです。この出来事によって彼は「イスラエル」という名を授けられました。このヤコブの「祝福してくださるまでは離しません」という思いが、あのバルティマイの、救いを求めて叫び続ける姿にも現れています。そのように叫び続ける彼の信仰に応えて主イエスは彼を呼んで下さったのです。それは決して、人間が先ず熱心に求めなければ主イエスも呼んで下さらない、ということではありません。主イエスは今、彼をも含めた全ての人々の罪の赦しのために、エルサレムへと、十字架の死へと歩んでおられるのです。その歩みにおいて主イエスは、道端で物乞いをしている彼の目の前を通って行かれます。十字架の死によって救いを実現して下さろうとする主イエスは、そのように必ず、苦しみの中にいる私たちのすぐ傍らを通って行かれるのです。主イエスに向かって叫び求めるチャンスを与えて下さるのです。あとは私たちが、主イエスに向かって叫び求めるだけです。つまり、私たちの救いのための主が先ず、十字架の死への道を歩んで下さっているのです。その主の熱心に応えて、私たちも熱心に主を求めていくのです。その時、主は私たちを呼んで下さり、ご自分のもとに迎えて下さるのです。私たちはこの招きによって立ち上がり、喜びをもって主のもとに行き、そして目を開かれて主イエスを見つめ、主イエスと共に歩む者とされるのです。そこに私たちの救いが、新しい人生があります。ティマイの子バルティマイの姿は、私たちが主イエス・キリストと出会い、その救いにあずかることがどのようにして起るのかを、生き生きと示してくれているのです。

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