主日礼拝

目を上げて見なさい

「目を上げて見なさい」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:列王記下 第6章8-23節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第8章22-26節  
・ 讃美歌:14、172、446、96、72

対になっている癒しの話
 ガリラヤ湖畔の町ベトサイダで、主イエスが一人の盲人の目を開かれたという癒しの奇跡が、本日ご一緒に読むマルコによる福音書第8章22節以下に語られています。何週か前に申しましたが、この癒しの出来事は、7章31~37節の、耳が聞こえず舌の回らなかった人の癒しの出来事と対になっています。そこを振り返って読んでおきたいと思います。「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。』」。ここと本日の箇所との二つの癒しのみ業には共通していることがいくつかあります。先ず、どちらのみ業も群衆の目の前でなされたのではなく、癒される人が外に連れ出されていることです。またどちらの癒しにおいても、主イエスが手を触れ、唾を用いておられること、癒しが一瞬で行なわれたのではなくて、ある時間がかかっていることも共通しています。それに、このどちらの話も、マルコ福音書のみが語っており、他の福音書には出てこないという共通点もあります。これらのことから、この二つの癒しの話が一対のものであることが分かるのです。これらの話によってマルコが語ろうとしていることは何でしょうか。それは、神様の救いの時には「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、口の利けなかった人が喜び歌う」、というイザヤ書第35章5節以下の預言が、主イエスにおいて実現した、ということだと以前に申しました。主イエスがこの世に来られたことによって、目の見えない人が見えるようになり、耳の聞こえない人が聞こえるようになり、口の利けない人がしゃべれるようになる、という神様による救いが実現しているのです。

村の外で
 本日の箇所にはその中でも特に、「目の見えない人の目が開かれる」ということが語られています。その救いのみ業はどのようにして行なわれたのでしょうか。主イエスは、ご自分のところに連れて来られた目の不自由な人を、その手を取って村の外に連れ出されました。人々の目の前で癒しをなさろうとはされなかったのです。このことは、主イエスが癒しの奇跡を、人々にご自分の力を示して信じさせるためになさってはおられないことを意味しています。目の見えない人の目を開くことができるというのは、神様の恵みをストレートに伝えることができる素晴しい力です。もし皆さんが信仰によってそういう力を得ることができたならばどうするでしょうか。私だったらそれで一儲けしようとするかもしれませんが、良心的な皆さんは、目の見えない人々を癒すことによって神様の恵みを伝えていこうと思うに違いありません。しかし主イエスはそうはなさらなかったのです。主イエスは確かにそういう力を持っておられましたが、それを用いて伝道しようとはなさらなかったのです。それは何故でしょうか。癒しの奇跡によって人を集めて伝道すれば、確かに人は集まるけれども、本当に伝えなければならない神の国の福音は伝わらず、人々は主イエスのことをカリスマ・ドクターとしてしか見ない、ということもあったでしょう。しかしもっと根本的な理由は、癒しの奇跡によって伝道するとしたらそれは、病に苦しんでいる人、本日の箇所で言えば目の見えない人を、自分の目的のために利用することになってしまうからではないでしょうか。主イエスは、癒される人との出会いと交わりを大切にしようとしておられるのです。苦しみを抱えているその人と出会い、一対一の関係を結び、それによってその人が神様の救いの恵みを受けることを願っておられるのです。主イエスはそのためにこの人を、群衆の目のない村の外に連れ出されたのです。

手を触れて下さる主イエス
 彼と一対一になった主イエスは、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置かれました。あの耳が聞こえず舌の回らない人の癒しの時には、指を彼の両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れられた、とありました。どちらにおいても主イエスは、その人の苦しみの原因となっている部分に、両手でしっかりと触れて下さったのです。その力強いみ手によって癒しのみ業が行なわれたのです。主イエスの癒しは、このように直接手を触れてなされる場合と、全く触れることなく、言葉だけでなされる場合とがあります。その違いは、それぞれの話において見つめられている事柄の違いです。手を触れて癒して下さるという話は、主イエスが私たちの苦しみをただ見ているだけではなくて、直接手を差し伸べて救いを与えて下さることを語っています。み言葉のみによって癒されるという話においては、主イエスのみ言葉の力が見つめられており、主イエスの救いはみ言葉によってこそ与えられることが語られているのです。どちらも、主イエスによって与えられる救いの大事な特徴を表していて、どちらの方がより効果があるというようなことではありません。肉体をもって復活なさった主イエスは、天に昇り、全能の父なる神の右に座しておられますから、今私たちはこの世において主イエスをこの目で見ることはできないし、主イエスに直接手を触れていただくことはできません。しかし主イエスはみ言葉によって私たちと出会って下さり、手を触れるのと同じ救いを与えて下さるのです。

目を上げて
 さて彼に手を触れた主イエスは、「何か見えるか」とお尋ねになりました。これは単なる質問ではなくて、目の手術を受けてそれまで包帯を巻かれていた患者がいよいよ包帯を取られた時にお医者さんが、「あなたはもう見えるはずだから、目を開いていっしょうけんめい見てごらん」と促しているような言葉です。主イエスは彼をそのように励ましておられるのです。「すると、盲人は見えるようになって」と24節にあります。この「見えるようになって」という言葉は直訳すれば「目を上げて」です。以前の口語訳聖書では「顔を上げて」となっていました。この盲人は主イエスのみ言葉に励まされて目を上げたのです。それと同じ言葉は先ほど読んだ7章31節以下の、耳の聞こえない人の癒しの話にもありました。34節に「そして、天を仰いで深く息をつき」とある中の「仰いで」がこの「目を上げて」という言葉です。また6章41節にも同じ言葉が使われていました。五つのパンと二匹の魚を主イエスが取り、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」という所です。これら二か所においては、目を天に上げて祈る、という意味でこの言葉が使われています。その言葉が本日の箇所では、見えない人が目を開かれて見えるようになる、という意味で使われているのです。同じ意味で使われているのはこの後の10章51節です。やはり一人の盲人が、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言っています。これも直訳すれば「目を上げたいのです」となります。本日の箇所の盲人も、主イエスの励ましを受けて、見えないはずの目を「上げた」のです。すると、何かが見えてきたのです。

本当に目が開かれるとは
 この奇跡は、目の不自由な人にだけ関係する視力回復の出来事ではありません。私たち一人一人に起る救いのみ業がここに描かれているのです。私たちも、本当に見るべきものを見ることができなくなっている者です。私たちも、目を上げることができなくなっているのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、列王記下第6章8節以下がそのことを示し、教えてくれます。これは預言者エリシャがアラムの大軍勢に包囲されてしまった時の話です。エリシャの従者、召し使いは自分たちを包囲している敵を見てうろたえ、「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか」と言いました。するとエリシャはこう言ったのです。16節です。「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」。そして彼は17節で主に祈りました。「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」。すると「主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た」のです。「火の馬と戦車」は、エリシャらを守っている主なる神様の軍勢です。「わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」というのは、この神様の軍勢の方がアラムの軍勢よりも多く、強いのだということです。従者は、目を開かれてその事実を見たのです。この話は、本当に目が開かれるとはどういうことかを教えてくれています。私たちは、この世の現実をいつも見せつけられています。敵の大軍に包囲されて蟻の這い出る隙間もない、という現実をいつも見つめさせられているのです。しかし聖書は、その現実のみを見つめている目はまだ開かれていない、と言っているのです。本当に目が開かれたなら、そこには別の現実が見えてくる、火の馬と戦車が、つまり神様の軍勢が私たちを守っており、その数、力は、私たちの目に見えている敵の数よりもはるかに多く力強いのだ、という現実が見えてくるのです。私たちは、目を上げてそのことを見つめることがなかなか出来ません。肉の目に映る現実、圧倒的なこの世の力に取り囲まれている現実こそが、ただ一つの現実であると思ってしまうのです。そしてそこでうろたえ、本当には助けにならないいろいろなものを求めて右往左往してしまうのです。しかそれは私たちの目が閉ざされてしまっているからだ、と聖書は語っています。目を上げて見ることができないから、神様の恵み、守りが分からないのです。そういう意味で私たちは皆、目の見えない者です。先週読んだ18節において主イエスは弟子たちに「目があっても見えないのか」と言っておられましたが、私たちも、たとえ肉体の目は開かれていても、信仰の目が閉ざされ、肝心なことを見ることができずにいるのです。

主イエスとの出会いによって
 私たちの、閉ざされている信仰の目は何によって開かれるのでしょうか。私たちは自分でこの目を見えるようにすることはできません。この盲人がこれまで自分でいくら目を見開いても何も見えなかったのと同じです。また信仰というのは、本当は見えないものを見えたかのように自分の心に暗示をかけて思い込むことではありません。神様の守りとか恵みは見えないしよく分からないけれども、それがあるということにして、そう思って生きていこう、その方が人生に支えができてよい…、信仰とはそういうものではありません。そういう思い込みや自己暗示なら、それこそ「イワシの頭も信心から」で、信じるものは何でもよいということになります。信仰をもって生きることを、何かその人なりの心の支えを見出してそれに依り頼んで生きることだと思っているとそういうことになります。そしてそこから、日本人の間でよく言われる、宗教はどれも根本的には同じで、登る道が違うだけで頂上は同じなんだ、という考えが生まれるのです。何らかのものを支えにして平安や安心を得ることが宗教だと考えるなら、まさにその通りです。何らかのものはいろいろ違っていても、自分が平安や安心を得るという頂上は同じであるわけです。しかし聖書が教えている信仰はそういうものではありません。私たちが何かに支えを見出すこと、あるいは見出したと思い込んで生きることが信仰ではないのです。そうではなくて、私たちは信仰によって目を開かれて、それまで見えなかった神様の恵み、守りを見ることができるようになるのです。しかも単なる気の持ちようや思い込みではなく、本当にそれが見えるようになるのです。そのことは、主イエス・キリストが私たちに出会って下さることによって起こります。主イエスが私たちに出会い、み言葉を語りかけ、み手を触れて下さると、私たちの目は開かれ、神様の恵みや守りを目を上げて見ることができるようになるのです。  主イエスとの出会いによって神様の恵みと守りが見えるようになるのはどうしてでしょうか。それは主イエスがまことの神であられ、しかも私たちと同じ人間となって下さった方だからです。まことの神であられる主イエスが人間となり、私たちの罪を全てご自分の身に引き受けて、身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪の赦しを実現して下さったのです。その主イエスを父なる神様は復活させて、永遠の命を生きる者として下さいました。死に打ち勝って永遠の命を生きておられる主イエスが、今私たちに出会い、語りかけて下さるのです。私たちはその出会いによって、神様のはかり知ることのできない恵みと愛を、自己暗示や気の持ちようではなくて、目を上げてはっきりと見ることができるようになるのです。

具体的な恵みを見つめて生きる
 主イエスの促しによって目を上げたこの人は「人が見えます」と言っています。そしてだんだんに彼の目は見えるようになっていったのです。彼が目を上げて真っ先に見た「人」、それは主イエス・キリストだったでしょう。主イエス・キリストという人を目を上げて一心に見つめていくことの中で、彼の目は次第に見えるようになっていったのです。そこには私たちの信仰の成長が象徴的に示されていると言えます。主イエスを見つめ続けることの中で、私たちは神様の恵みを次第にはっきりと具体的に見ることができるようになっていくのです。それが自己暗示や気の持ちようではなくて、本当に具体的に与えられている恵みなのだということが分かってくるのです。それが分かってくる時に私たちは、信じて依り頼むべきものは、イワシの頭やその他のいろいろなものではだめなのであって、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストでなければならないことを知らされるのです。主イエス・キリストによってこそ私たちは、あのエリシャの従者が火の馬と戦車を見たように、神様が自分を愛し、守り、導いて下さっていることを、目を上げて見ることができます。つまり私たちにとって主イエス・キリストは、いくつもある登り道の一つではなくて目的地そのもの、頂上であり、神様の具体的な愛と恵みを見つめて生きるための唯一の道なのです。

目と耳を開かれて何を語るか
 本当に目を開かれるとは、この主イエス・キリストにおける神様の具体的な恵みを見つめる目を開かれることです。それを見つめることができないうちは、私たちは「目があっても見えない」者なのです。それと同じことは、7章31節以下の、耳が聞こえず口の利けなかった人の癒しにおいても語られていました。本当に耳が開かれているとは、主イエス・キリストにおける神様の恵みのみ言葉を聞く耳が開かれていることであり、本当に口が利けるとは、その恵みに感謝し、神様をほめたたえる言葉を語ることができることだったのです。そのように、この対になっている二つの癒しの話は、見るべきものを見ることができず、聞くべきことが聞くことができず、語るべきことを語ることのできない私たちが、主イエス・キリストによって目と耳を開かれ、語るべきことを語ることができる者とされる、という、イザヤ書35章に預言されている救いが実現していることを語っているのです。  目と耳を開かれた者は何を語るようになるのか、そのことが、来週読む27節以下に語られています。本日の箇所と密接に結びついていますので、少し先取りしてそこを見ておきたいと思います。主イエスは27節で弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは「洗礼者ヨハネだと言っています。ほかにエリヤだと言う人も、預言者の一人だと言う人もいます」と答えました。主イエスについて当時の人々がどのように考えていたかがここに記されています。ここに並べられている名前はどれも、神様から遣わされてみ言葉を伝えた人々として尊敬されていました。つまり人々は主イエスのことを大いなる尊敬をもって見つめていたのです。しかし主イエスはそこでされに「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」と問われました。人々がどう言っているかはともかく、あなたがたはどう思うのか、と問われたのです。それに対してペトロが、弟子たちを代表して、「あなたはメシアです」と答えました。要するに、あなたは救い主です、と彼は答えたのです。これは人々が主イエスを尊敬を込めて見つめていたのとは全く違うことです。ペトロにとって主イエスは、尊敬すべき先生、立派な教師ではもはやないのです。主イエスは救い主であられる、この方によって自分は、そして人々は、神様の救いを与えられる、この方を信じ、従っていくことによって、神様の具体的な恵みにあずかることができる、それが「あなたはメシアです」という言葉に込められた意味です。言い方を換えれば、多くの人々は、主イエスを尊敬していたけれども、神様の恵みにあずかる道は他にもあると思っていたのです。主イエスはいくつかある道の一つだったのです。しかしペトロは、主イエスこそただ一つの道であり、神様の恵みがはっきりと具体的に与えられるのはこの方によってのみであると告白したのです。この告白の言葉こそ、目と耳を開かれた者こそが語ることのできる新しい言葉なのです。

聖餐における主イエスとの交わり
 この後聖餐にあずかります。聖餐のパンと杯にあずかることによって私たちは、主イエス・キリストが私たちの救いのために十字架にかかり、肉を裂き、血を流して死んで下さった、そのキリストの体と血とにあずかるのです。その聖餐は、洗礼を受けた者だけがあずかることができるものです。まだ洗礼を受けておられない方々には、聖餐の間、ただ見ていていただくしかありません。聖餐によって神様の恵みを味わうのであれば、その恵みを我々には与えてくれないのか、と思われるかもしれません。しかしこの聖餐における恵みは、主イエス・キリストこそ神様の恵みと救いを具体的に与えて下さるただ一人の方であり、他の人がどう言おうとも、私は主イエスをこそ自分の救い主と信じ、主イエスとの関係をかけがえのないものとして守っていく、という信仰の告白と結びついてこそ本当に恵みとして味わわれていくものなのです。つまりそれは洗礼を受けるということです。主イエス・キリストこそ自分のただ一人の救い主であると告白して洗礼を受け、主イエスとの交わりに生きる者となることによってこそ、聖餐は主イエス・キリストの救いの恵みを具体的に味わうことができる恵みの食卓となるのです。主はこの聖餐へと、この礼拝に集っている全ての人を招いておられます。主イエスによって目と耳を開かれ、信仰の告白の言葉を与えられて、ここにいる全ての人が聖餐に共にあずかる日が来ますように、祈り願っています。

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