「逆風の中で」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 申命記 第31章1-8節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第6章45-56節
・ 讃美歌:51、227、456
強いて舟に乗せ
教会はしばしば舟に譬えられます。舟が、教会を表すシンボルとして用いられることが多いのです。教会堂建築の歴史においても、私たちの礼拝堂で言えば左右の柱の間の中央の部分は「ネイブ」と呼ばれていました。それは「舟」という意味の言葉です。教会は舟であり、信仰者はその舟に乗って航海している者たちである、という感覚が昔からあったのです。本日ご一緒に読むマルコによる福音書第6章45節以下には、主イエスの弟子たちが舟に乗ってガリラヤの湖を渡っていくことが語られています。この弟子たちの船旅も、教会の歩みと重ね合わせて読むことができます。この船旅において弟子たちが体験したことは、私たちが教会に連なる信仰者として生きていく中で体験することと重なっているのです。そのことを見つめていこうとする時に、45節に「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ」と語られていることは大事な意味を持っています。主イエスが弟子たちを強いて舟に乗せたのです。弟子たちは、主イエスによって「強いられて」ガリラヤ湖へと漕ぎ出したのです。「強いられて」とは、自分の意志によってではなくて誰かに強制されてということです。弟子たちは主イエスによって強制されて、ガリラヤ湖へと漕ぎ出したのです。この弟子たちの歩みと、教会における私たちの信仰の歩みとはある意味で重なるのです。「ある意味で」と申しました。その意味は、決して表面的な単純なものではありません。なぜなら私たちが教会において信仰者として歩み、こうして礼拝を守っているのは、決して強いられてしていることではないからです。私たちの信仰は、また礼拝の生活は、全く自発的なこと、つまり自分の意志によることであって、誰かに強いられてするようなことではないのです。けれどもそれは、人に強いられ、強制されることではないけれども、神様との関係、主イエスとの関係においては、「強いられて」という表現があてはまる面が確かにあるのです。しかしこれも単純なことではありません。なぜなら神様が、あるいは主イエスが、私たちに信仰を強いることはないからです。神様は私たちを無理やりに信仰者にしようとはなさいません。神様は様々な働きかけによって私たちの心の扉をたたきながら、私たち自身が決心することを静かに待っておられるのです。だから私たちは強いられてではなく自分の意志で信仰者となるのです。けれどもその信仰において、主イエスに強いられることが二つあるのです。
主イエスに強いられていること
先ず第一に、主イエスはご自分を信じた私たちに、教会という具体的な人間の群れに加わって歩むことを強いておられるのです。それは別に強いられた覚えはない、教会において信仰の仲間たちと共に生きることは喜びであり、支えとなる、だから信仰者は強いられなくても教会の一員として生きていくのだ、と私たちは思うかもしれませんし、そう思うことは正常であり、幸せなことです。しかし私たちの中にはしばしば別の思いが起ってくるのではないでしょうか。教会における面倒な人間関係を避けたい、という思いです。教会の一員にならなくても、自分一人で神様を信じ、主イエスの教えを聞いて生きていけばよいのではないか。一人で聖書を読み、いろいろな参考書を読んで勉強し、気が向いた時には教会の礼拝に行って説教を聞くのはよいが、教会という集団に加わっていろいろと面倒な付き合いや働きを負うことはしたくない。そういうことなしに信仰者としてやっていければどれほど楽だろうか、という思いです。しかし主イエスは私たちに、それでは本当に私の救いにあずかって生きることはできないとおっしゃるのです。信仰者は、一人で生きるのではなくて、キリストの体である教会の一員となって、頭であるキリストにつながっていると共に、同じキリスト体の部分である他の兄弟姉妹との交わりに生きることによってこそ、神様の恵みに本当に養われることができるのです。つまり私たちが教会という人間の集団の一員となって信仰の生活を送っていくのは、自分の意志によるのではなくて、主イエスのみ心によること、つまりある意味で主イエスによって強いられていることなのです。
主イエスに強いられている第二のことは、どの教会の一員として生きるか、です。それは「強いられる」と言うよりも「導かれる」と言った方がよいでしょうが、自分の意志によってではなく、という意味では同じです。つまり私たちが最初に教会に通うようになる時に、自分でいろいろと比較検討した上でこの教会にしようと決める、ということはあまりありません。それぞれ、いろいろな出会いによって導かれてその教会に通うようになるのです。ですからどの教会で洗礼を受け信仰者になるかは、私たちの意志によると言うよりも、神様によって導かれ、与えられることです。場合によっては、いくつかの教会の中から自分で通う教会を選ぶ、ということもあるでしょうし、また洗礼を受けた後にいろいろな事情で別の教会に移ることになり、その時に自分で捜してここにしようと決断する、ということもあるでしょう。しかしそういう場合でも、「ここにしよう」と思える教会との出会いは、やはり神様の導きによって与えられるものです。ですからどんな場合でも私たちは、自分の意志によってと言うよりも、ある意味で神様に強いられて、その教会に連なる者となるのです。これら二つのことにおいて、弟子たちが主イエスに強いられて舟に乗り、湖に漕ぎ出したことは、私たちが教会という舟に乗り込んで信仰者として生きていくことと重なり合うのです。
主イエスが乗っておられない
ところで弟子たちが舟に乗ってガリラヤ湖を渡っていくという話はここが初めてではありません。4章35節以下にも同じような話がありました。その時には、嵐が起り、舟が沈みそうになりましたが、主イエスが嵐を鎮めて下さったのです。本日の6章では、嵐によって沈みそうになることはありませんでしたが、48節にあるように、逆風のために漕ぎ悩む、ということが起りました。漕いでも漕いでも風に押し戻されてなかなか前進できないということを彼らは経験したのです。どうも弟子たちが舟を漕ぎ出すとろくなことはない、という感じですが、それはやはり、教会という舟のこの世における歩みを描いていると言うことができるでしょう。主イエスによって強いられて、勿論自分自身も信仰の決断をして漕ぎ出した私たちの舟、教会は、いろいろな困難を体験し、妨げを受けるのです。時にはまさに沈みそうになるし、そうでなくても、逆風に見舞われ、いくら漕いでも少しも前に進まずにむしろ後退してしまう、という中で疲れてしまう、気力を失ってしまうということも起るのです。4章も6章も、そういう教会の姿を思い描きつつ弟子たちの船旅を語っているのです。しかし4章の船旅と6章のそれとでは決定的に違うことがあります。4章の方では、主イエスがその舟に共に乗り込んでおられたのに対して、6章では、主イエスは弟子たちだけを強いて乗り込ませた、つまり主イエスはその舟に乗っておられないのです。弟子たちは、主イエスの乗っておられない舟で湖を渡って行ったのです。どうして主イエスはこの舟に乗らなかったのでしょうか。
群衆を解散させる主イエス
45節には、主イエスが弟子たちを舟に乗せて出発させ、「その間にご自分は群衆を解散させられた」とあります。この群衆は、主イエスのもとに押し寄せてきていた人々で、男だけで五千人いたと44節に語られています。その群衆を主イエスが一人で解散させたのです。これは不思議なことです。この前の所には、主イエスがこの群衆を五つのパンと二匹の魚で満腹させたという奇跡が語られていましたが、そこでは、主イエスはパンと魚を弟子たちに渡し、弟子たちが人々に配ったのです。つまり主イエスはこの大きな奇跡を、弟子たちを用いてなされたのです。その主イエスが本日の所では自分一人で群衆を解散させておられます。弟子たちにはそれをさせずに、舟に乗り込ませて出発させたのです。なんだか弟子たちを早く群衆から遠ざけようとしておられるように感じられます。おそらくそうだったのでしょう。ヨハネによる福音書においてこの出来事が語られている所には、奇跡によって満腹になった群衆が主イエスを王にしようとした、とあります。こういう人が王様になってくれれば、貧困問題も、飢えの問題も一気に解決する、という期待を抱いたわけです。主イエスが弟子たちを急いで群衆から遠ざけたのは、そういう人々の思いに弟子たちも影響を受けて彼らまで主イエスを王にしようなどと思ってしまわないためだったのではないでしょうか。そういう事情によって、6章の舟には主イエスは乗っておらず、弟子たちだけで湖を渡ることになったのです。
目に見えない主イエス
しかしこのこともまた、この弟子たちの船旅を教会の歩みと重ね合わせて読む上で大事な意味を持っています。主イエスを信じる信仰へと導かれ、ある意味で主イエスによって強いられて教会という舟に乗ってこの世を旅していく私たちは、その舟に主イエスが乗っておられないことを感じるのです。「感じる」と言ったのは、主イエスは本当はこの舟にちゃんと乗っておられるからです。目には見えないけれども聖霊のお働きによって、主イエスは教会という舟に乗り込んでおられ、いつも私たちと共にいて下さるのです。マタイによる福音書の最後の所に、復活した主イエスが「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さったことが記されています。しかしその後、主イエスは天に昇られました。復活した主イエスは四十日間弟子たちに姿を現し、そして天に昇り、父なる神の右の座に着かれたのです。イースターから四十日目の、今年は5月9日、来週の木曜日がいわゆる「昇天日」です。天に昇ったことによって主イエスはこの地上にはおられなくなりました。それでは、「いつもあなたがたと共にいる」というあの約束は保古になってしまったのでしょうか。そうではありません。昇天から十日後、ペンテコステの日に、天に昇られた主イエスのもとから聖霊が弟子たちに降り、教会が誕生しました。今年のペンテコステは5月19日です。その聖霊の働きによって、主イエスは私たちと、教会と共にいて下さるのです。しかしそれは目に見えない仕方においてです。目に見えず、手で触れることもできないので、私たちは、主イエスがこの舟に、教会に、乗っておられないように感じてしまうのです。主イエスに促されて教会という舟に乗り込んで漕ぎ出したけれども、その舟に主イエスは共に乗っておられないのではないか、自分たちだけで、逆風の吹きすさぶ湖を渡っていかなければならないのではないか、信仰の歩みにおいて私たちはしばしばそう感じてしまうのです。そういう意味で、弟子たちのこの舟は、教会の姿と重なり合うのです。
執り成し祈っておられる主イエス
弟子たちだけを舟に乗せて出発させた主イエスは、群衆を解散させた後何をしておられたのでしょうか。この問いは、先程のことと重ね合わせるなら、天に昇った主イエスは今そこで何をしておられるのだろうか、という問いと重なります。46節に「群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた」とあります。主イエスは山の上で一人で祈っておられたのです。何を祈っておられたのか。その答えを、ローマの信徒への手紙第8章34節が語っています。そこにはこのように語られています。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。天に昇り、父なる神様の右に座しておられる主イエスは、そこで私たちのために執り成して下さっているのです。つまり私たちが、神様の救いの恵みによって守られ、支えられて歩むことができるように、父なる神様にはからって下さっているのです。それこそが、この山の上で主イエスが祈っておられたことです。主イエスは、逆風の中湖を渡っていく弟子たちのために、教会のために、執り成しの祈りをしておられたのです。つまり、主イエスがあの舟に乗り込んでおられないのは、弟子たちを突き放し、彼らに自分たちの力で湖を渡らせるためではありません。主イエスは湖を渡っていく彼らの舟のために父なる神に執り成し、その歩みを支えておられるのです。それは目に見える仕方でその舟に乗り込んでいる以上の恵みです。その恵みが、今私たちにも、教会にも与えられています。天に昇られた主イエス・キリストが、父なる神の右の座において、私たちのために執り成して下さることによって、私たちを、教会を守り支えて下さっているのです。
主イエスのその恵みは、48節の「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て」という言葉に表れています。弟子たちはもう大分沖に出ていたでしょう。しかももう夜です。弟子たちが漕ぎ悩んでいる様子を主イエスはどうして見ることができたのか、と思います。それは、月明かりがあったからとか、そんな話ではありません。弟子たちのために執り成し祈っておられる主イエスは、その祈りの中で、彼らが漕ぎ悩んでいる様子をしっかりと見つめておられるのです。教会の船旅を主イエスはそのようにいつも見守っておられるのです。そして主は、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。水の上をどうして歩くことができたのか、そんなこともここでは問題ではありません。どうしても答えよと言われるなら、主イエスは神であられたから、と言う他にありません。見つめるべきなのはそんなことではなくて、主イエスが、漕ぎ悩んでいる弟子たちの、私たちの舟を常に見守っていて下さり、必要な時には、どのような隔たり、妨げをも乗り越えて私たちのところに来て下さるということです。その恵みもまた、聖霊の働きによって与えられます。逆風に漕ぎ悩んでいる私たちのところに、主イエスは聖霊の働きによって来て下さり、共にいて下さるのです。
しかしここには、湖の上を歩いて来られた主イエスが、彼らの「そばを通り過ぎようとされた」と語られています。弟子たちは、主イエスが自分たちのところに来て下さったことが分からず、むしろ知らぬ顔をしてそばを通り過ぎて行かれるように感じたのです。それどころか、彼らは主イエスのことを幽霊だと思っておびえ、大声で叫んだのです。聖霊の働きによって主イエスが来て下さり、助けて下さるのに、その恵みを受け止めることができず、理解することができず、見つめることができずにむしろ恐れ、脅えてしまう弟子たちの、そして私たちの不信仰がここに描き出されているのです。
安心しなさい。わたしだ。恐れることはない
主イエスはそのように恐れ、脅えている弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけて下さいました。この「わたしだ」という言葉は、ただ「幽霊ではなくて私だ」ということではありません。この言葉は「わたしはある」と訳すこともできます。出エジプト記第3章で主なる神様がモーセにご自分のお名前をお示しになった時の言葉です。「わたしはある」と宣言なさることによって主なる神様は、人間があるとかないとか、良いとか悪いとかあれこれ考えることを越えて、神として確かに存在し、生きて働いておられるご自身をお示しになったのです。その言葉がここで主イエスによって弟子たちに告げられました。逆風の中で漕ぎ悩み、また主イエスが共にいて下さることをも見失ってうろたえ、おびえている弟子たちに、主イエスが、確かに生きて働き、共にいて下さるまことの神としてご自身をお示しになったのです。その主イエスが、「安心しなさい。恐れることはない」と語りかけ、弟子たちの舟に乗り込んで下さいました。すると、「風は静まった」のです。4章のあの船旅において主イエスが嵐を鎮めて下さったのと同じことが起ったのです。主イエス・キリストのみ心によってこの世へと漕ぎ出した教会という舟は、このように、確かに生きて働き、共にいて下さるまことの神であられる主イエスによって守られ、支えられているのです。
不信仰の現実
しかし51節の後半から52節には「弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」とあります。弟子たちは、主イエスが水の上を歩いて来て、舟に乗り込んで下さったら逆風が止んだことを、驚いたけれども、その本当の意味を捉えることはできなかったのです。彼らは「パンの出来事」も理解していませんでした。彼らが持っていた五つのパンと二匹の魚で主イエスが五千人を越える人々を養って下さったあの奇跡によって、弱く貧しく罪深い自分たちと、自分たちが持っているちっぽけなものを用いて、主イエスが人間の力をはるかに越える救いのみ業を行って下さることを示されたのに、彼らは心が鈍くなっていて、その恵みを受け止め、主イエスに信頼して生きることができていなかったのです。だからこそ、水の上を歩いて来て下さった主イエスのことを幽霊だと思って騒いだのです。弟子たちですら主イエスのことをこのように分かっていないのですから、他の人々がそうであるのは当然です。53節以下には、主イエスと弟子たちが上陸したゲネサレトで、人々が多くの病人を連れて来て、せめて主イエスの服のすそにでも触れさせてほしいと願ったことが語られています。主イエスはそれらの人々をお癒しになりました。それは苦しみ悲しみの中にある人々に対する主イエスの深い憐れみによることです。しかしこのような病気の癒しは、主イエスが人々に与えようとしておられた神の国の福音のしるしであって、福音そのものではありません。病気の癒しだけを求めて主イエスのもとに来るというのは、主イエスのことが本当には分かっておらず、心が鈍くなっていることの現れなのです。
逆風の中で
このように、世の人々は勿論弟子たちですら心が鈍くなっており、主イエスによる救いの恵みが理解できず、主イエスに信頼して歩むことができない、という現実がここには描かれています。そのような、教会に連なる者をも含めた人間の不信仰こそ、教会の歩みを妨げている逆風であると言えるでしょう。主イエスはその逆風の中で、救いのみ業を行って下さったのです。私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、それによって罪の赦しを与えて下さったのです。そしてその救いをさらに多くの人々に伝え、与えるために、主イエスは私たちを選び、召し出して、教会という舟に乗り込ませ、この世へと漕ぎ出させておられるのです。この世には私たち人間の不信仰の逆風がいつも吹きすさんでいます。その中で漕ぎ悩む教会の、私たちの姿を主イエスはいつも見守っていて下さり、父なる神様に執り成して下さり、あらゆる隔たりを乗り越えて私たちのもとに来て下さり、生きておられるまことの神として、「安心しなさい。恐れることはない」と語りかけて下さるのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、申命記第31章には、モーセが、自分の後継者となり、イスラエルの民を率いてヨルダン川を渡り、多くの敵が待ち構えている約束の地へと入っていこうとしているヨシュアに語った言葉が記されています。その6節に「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てることもしない」とあります。ヨシュアとイスラエルの民はこの約束を受けてヨルダン川を渡り、多くの敵が待ち受ける約束の地へと入っていきました。主イエスの促しによって教会という舟に乗り込み、漕ぎ出していく私たちの信仰の歩みも、逆風によって漕ぎ悩むことがしばしばです。しかし、目には見えないけれども聖霊によって共にいて下さる主イエスが、毎週の礼拝において、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけ、私たちを守 り導いて下さっているのです。