主日礼拝

神の国は近づいた

「神の国は近づいた」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書第40章1-2節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第1章14―15節
・ 讃美歌:1、494、577

主イエスの活動開始
 いよいよ、主イエス・キリストの活動が始まります。それが、本日ご一緒に読む、マルコによる福音書第1章14、15節に語られていることです。これまでのところには、主イエスがヨハネから洗礼を受けてすぐに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞いたこと。それからすぐに、“霊”によって荒れ野に追いやられ、そこでサタンの誘惑を受けたことが語られてきました。これらのことは全て、主イエスの活動開始のための準備だったと言うことができます。それらの準備がいよいよ整って、主イエスご自身の活動が始まるのです。

福音を宣べ伝える
 主イエスはどのような活動をなさったのでしょうか。「神の福音を宣べ伝えて」とあります。主イエスの活動とは、神の福音を宣べ伝えることだったのです。主イエスは病人を癒したり、悪霊を追い出したりという奇跡を行われましたが、それらのみ業もまた、「神の福音を宣べ伝える」ためでした。福音を宣べ伝えることこそ、主イエスの活動の中心的な内容だったのです。
 福音とは、喜ばしい知らせ、という意味です。主イエスはいったいどのような喜ばしい知らせを宣べ伝えたのでしょうか。その内容を簡潔に語っているのが、15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というお言葉です。主イエスはこのように語ることによって、福音を宣べ伝えていかれたのです。ですからこのお言葉を味わうことによって、主イエスがお語りになった福音とは何であったかを知ることができるのです。

時は満ちた
 先ず最初に、「時は満ちた」と語られています。時が満ちるとはどういうことでしょうか。そもそも、時とは「満ちる」ものなのでしょうか。ここで「時」と訳されている言葉は、私たちが普通に「時間」という意味で用いている言葉とは違う言葉です。過去から現在へ、そして未来へと流れていく時間を意味する言葉は、聖書の言語ギリシャ語においては「クロノス」といいます。それに対してここで用いられている「時」は「カイロス」という言葉です。それは、自然に流れていく時間とは違う、特別な意味を持った時、それによって歴史が変わるような、そして私たちに新しい生き方を迫ってくるような時を意味しています。その「カイロス」は、ある時にまさに満ちるのです。「時は満ちた」というのは、そういう特別な意味を持つ時が来た、ということなのです。この「クロノス」と「カイロス」の違いという話は、しばらく前までは、教会の説教や聖書研究においてしか語られていませんでした。しかし最近は、クリスチャンの文筆家として多くの本を出している佐藤優氏が、その著書においてこのことを繰り返し語っており、彼の影響でかなり一般にも知られてきたように思います。彼がしばしば語っているのは、2011年3月11日は日本に住む者たちにとって「カイロス」であり、2001年9月11日はアメリカ人にとって「カイロス」だということです。その他の日とは意味が違う、そして歴史が、また人々の運命が大きく転換した日、そういうカイロスが、一人一人の人生にもあるし、国の歴史にもあるし、人類全体の歴史にもあるのです。
 主イエスは、そのような特別な意味を持った時が今や来ている、とお語りになりました。主イエスがこの世に来られ、活動を開始なさった今、神様の救いにおけるカイロスが満ち、人類の歴史に新しい時が始まったのです。主イエスによってもたらされたこのカイロスこそ、世界の歴史における最も重大なカイロスであると言うことができます。主イエスがこの世に来られたことによって、世界の歴史を変え、そして私たちに新しい生き方を迫る、神の福音のカイロスが満ちたのです。

ヨハネが捕えられた後
 「時は満ちた」というみ言葉によって、神様の救いにおける新たな時が満ち、始まっていることが告げられたわけですが、14節には、その時この世の目に見える現実においてはどのようなことが起っていたかが語られています。「ヨハネが捕えられた後」というのがそれです。洗礼者ヨハネが、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって捕えられたのです。ヨハネはなぜ捕えられたのか、そのことはこの後の第6章に語られていますが、ヨハネはヘロデの怒りをかって捕えられ、そして獄中で首を切られてしまうのです。「ヨハネが捕えられた後」というと、主イエスはヨハネの逮捕を待っていて、それを合図に活動を始めたようにも感じられます。どうしてヨハネの逮捕を待っていなければならなかったのだろうか、などと考えてしまうわけですが、マルコがこのことによって語ろうとしているのは、主イエスが「時は満ちた」とお語りになって活動を始めたその時、周囲の世の中の目に見える状況としては、主イエスのために道を備える者として神様から遣わされ、洗礼を授けていたヨハネが権力者によって逮捕され、ついには殺されてしまう、ということが起っていたのだということです。つまり、神の福音が宣べ伝えられていくのに決して良い環境が整っていたわけではない、むしろそれに敵対し、妨害しようとする力が猛威を振るっているような時だったのです。私たちが「時」を判断するなら、つまり今この時がチャンスかどうか、私たちが情勢を判断するとしたら、「時は満ちた」などとは決して言わない、言えないような状況だったのです。そしてこのこととの関連で、次の「イエスはガリラヤへ行き」ということの意味も見えてきます。9節には「イエスはガリラヤのナザレから来て」とありました。主イエスがお育ちになったのはガリラヤのナザレです。そこから来て、ヨハネのもとで洗礼を受けたのです。14節はその流れで言えば、出身地であるガリラヤに戻ったという自然なことを語っているようにも思えます。しかしそのガリラヤは、ヨハネを捕えたヘロデが支配している地域です。ヨハネが逮捕された後、主イエスはわざわざそのヘロデの支配下にあるガリラヤに行って、そこで活動を開始なさったのです。「時は満ちた」というお言葉が、人間の感覚における「今がチャンスだ、潮時だ、時の利がある」というのとは全く違う事柄であることがここにも示されています。満ちたのは「神の時」です。神の時が満ちたならば、周囲の状況や人間の目に見える情勢などとは関係なく、それらによる妨害や敵対を乗り越えて、神様のみ業が実現していくのです。

神の国は近づいた
 「神の国は近づいた」と次に語られています。「神の国」とは、神様の王としてのご支配、という意味です。ある領域とか国土という意味ではありません。だから「近づいた」と言えるわけです。「近づいた」とは、以前より多少近くなった、というようなことではありません。つまり、どのくらい近くなったという程度問題ではなくて、決定的に近づいた、まさにそれが実現しようとしている、ということです。ですからこれは「神の国が来た」と言い換えてもよい言葉なのです。神様の王としてのご支配が、今や決定的に近づき、実現しようとしている、神の時、カイロスが満ちたことによって、そういう新しい事態が生じているのです。
 先ほど、周囲の目に見える状況がどうであれ、それを乗り越えて神様のみ業が実現していくのだと申しましたが、それは、神の国、神の王としてのご支配が実現していくからです。周囲の状況や目に見える情勢というのは、人間の支配や影響力の中で成り立つものです。人間が支配し、力を振るっている所では、例えばヨハネが捕えられたりという、神様のみ業に敵対する様々なことが起るのです。しかし神の時が満ちるならば、つまり神様がその救いのみ業において新しいことをなさる時には、神様のご支配が実現し、貫かれていきます。人間がそれを妨げたり、敵対して押しつぶすことはできません。ヨハネが捕えられようと、何があろうと、神様のご支配は、神様ご自身の力によって確立していくのです。「神の国は近づいた」というみ言葉はそのことの宣言なのです。
 そして「近づいた」という言葉にはもう一つ大事な意味があります。それは「あなたに近づいた」ということです。「近づく」という、距離を意識させる言葉が使われているのは、それを聞いた者が、近づきつつある神の国と自分自身との距離を意識するためです。神の国は遠い、はるかかなたにあるのではなくて、もう目の前に来ている、そのことを覚えさせようとしているのです。目の前に、すぐ近くに来ているということは、それに対して応答しなければならない、反応しなければならない、ということです。神様の王としてのご支配は今やあなたのすぐ近くに来ており、あなたに及ぼうとしている、それを前にしてあなたはどうするのか、神様のご支配を信じて受け入れ、それに服するのか、それともそのご支配を拒み、つまり自分が王であり続けようとし、自分の王国に閉じこもろうとするのか、あなたはそのどちらかをはっきりと決断しなければならない、どっちつかずに態度を保留していることはもうできない、「神の国は近づいた」という宣言によって主イエスは私たちに、そういう決断を求めておられるのです。

悔い改める
 しかし主イエスは、「どっちでもいいから好きな方を選べ」という突き放した言い方はしておられません。主イエスは人々に、そして私たちに、ぜひこちらを選んで欲しい、と語りかけておられるのです。それが「悔い改めて福音を信じなさい」というお言葉です。これは先ほどの決断においては勿論、神様のご支配を信じて受け入れ、それに服することを選び、その道を歩みなさい、ということです。主イエスは私たちがそういう決断をすることを願い、期待しておられるのです。けれども同時にここに示されているのは、私たち人間は決して、白紙の状態でその決断を求められているのではないということです。つまり、今までは全く独立しており中立だった私たちが、これからは神様のご支配に従うか、それともそれを拒むか、という決断をするのではないのです。先ほども少し申しましたが、私たちはもともと生まれつき、自分が王様である自分の王国に生きているのです。自分が支配することを追い求めているのです。自分が世の中で一番偉いなどとは誰も思っていないし、そんなことが通るはずはないことは誰でも分かっています。しかし、自分の意見や思いを議論において主張し、他の人の意見も聞きつつよりよいものを求めていくというのではなくて、自分の意見にあくまでも固執し、誰が何と言おうとそれを変えるつもりはない、ということがしばしば私たちにおいて起ります。そういう頑なさに陥る時、私たちは自分が王となり、他の人を家来として支配しようとしているのです。そういうことをお互いがしているために、私たちの間には常に新たに争い、対立が起り、憎しみや恨みが生まれていくのです。そしてこの争い、対立の中で、一方では優越感をもって人を蔑み見下すような思いが生まれ、他方では、劣等感から人を妬み恨むどす黒い嫉妬の思いが生まれます。いずれの思いにおいても私たちは、隣人を傷つけ、良い関係を破壊し、そして結局自らも孤独に陥っていくのです。それらは全て、自分が王であろうとしていることに根本的原因があります。生まれつきの私たちは皆、自分が王である自分の王国に生きているのです。

自分が王であろうとする罪
 ということは、私たちは基本的に、神の国、神様の王としてのご支配を受け入れようとしない者だということです。神様を王として受け入れるのでなく、自分が王であり続けようとし、自分の王国に閉じこもろうとしているのです。ですから、「神の国は近づいた」という宣言を受けて私たちがしなければならないことは「悔い改め」です。白紙の、中立の状態から神様のご支配を信じ受け入れるのではなくて、もともと神様のご支配に敵対し、自分が王であろうとし、あり続けようとしている罪を悔い改めることが私たちに求められているのです。今「罪」と申しました。聖書が「罪」という言葉によって見つめているのは、私たちが日々犯しているいろいろな悪いこと、人を傷つけてしまうような言葉や行い、無神経な言動、自分勝手な振る舞いなどの根本にある、神様を王とせず自分が王であろうとする思いのことです。自分が王であろうとする時、神様は敵となります、また隣人も、自分の支配を妨げる敵となります。自分が王であろうとしているために、神様をも隣人をも、愛することができずにむしろ敵として憎んでしまう、それが私たちの罪の根本です。「時は満ち、神の国は近づいた」という主イエスの宣言によって、私たちはその罪を悔い改めることを求められるのです。それは個々の悪い思いや行いを反省して直すことであるよりも、自分が王であることをやめ、神様こそが王であられることを受け入れることです。そういう意味で、私たちの心の向きが大きく、正反対に変わること、それが「悔い改める」ことなのです。神の国が近づいている、そのことに応答して私たちがなすべきことはこの「悔い改める」ことであり、「悔い改める」ことなしに神の国、神様の王としてのご支配を受け入れることはできないのです。

福音を信じなさい
 このように、主イエスがその活動の最初にお語りになったこのお言葉、宣言は、私たちの罪を鋭くえぐり出しています。この宣言によって、自分が王であり続け、自分の王国に閉じこもろうとしている私たちの罪が明らかにされ、そこからの方向転換が迫られているのです。けれどももう一つ、この宣言において主イエスが私たちに語りかけておられることがあります。それは「福音を信じなさい」ということです。福音という言葉は14節にもありました。主イエスは神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られたのです。このお言葉の全体が「神の福音」の内容を語っているのです。しかしその中で改めて、「悔い改めて福音を信じなさい」と語られていることには大事な意味があります。私たちが罪を悔い改め、自分が王であろうとすることをやめて神様が王であることを受け入れることが、「福音を信じる」と言い表されているのです。福音とは最初の方で申しましたように、喜ばしい知らせです。それは自分で作り出すものではなくて、あちらから伝えられて来るものです。思いがけない喜ばしい知らせがある日届くのです。その知らせを受けて喜ぶ、それが「福音を信じる」ということです。そのことと、私たちが罪を悔い改めることがイコールで結ばれています。つまり、罪を悔い改めることは、私たちが努力して、苦しい思いをして成し遂げることではなくて、あちらから、神様から思いがけない喜ばしい知らせとして伝えられ、与えられることなのです。

主イエスの十字架と復活によって
 どうして、私たちが悔い改めることが神様からの喜ばしい知らせなのでしょうか。悔い改めは私たちがすることです。向きを変えるのは私たちです。しかし、私たちが向きを変えることができるように、神様がして下さっているのです。神様が王であられることを信じ受け入れて生きることが、私たちにとって自然であり、またそこにこそ、神様をも隣人をも愛して、良い交わりに生きる本当に喜ばしい、生き生きとした歩みがある、そういうふうに神様がして下さっているのです。そういう喜ばしい知らせ、福音が、マルコがこれから語っていく主イエスのご生涯の全体によって私たちに告げ知らされ、与えられるのです。「福音を信じなさい」とは、主イエスのご生涯全体を通して実現する、神様による救いのみ業を信じなさい、ということです。具体的には、神様の独り子であられる主イエスが、私たちの罪を、つまり生まれつき自分が王であろうとしており、神様のご支配を受け入れず、自分の王国に閉じこもり、そのために神様をも隣人をも、愛することができずに憎んでしまい、良い関係を築くのでなくいつもそれを破壊してしまう、その私たちの罪を、主イエスが全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、神様と私たちの良い関係を回復し、罪の赦しを実現して下さったということ、また、その主イエスを復活させて下さることによって、父なる神様が私たちにも、神の子として生きる新しい命を与えて下さっているということです。主イエスの十字架の死と復活によって与えられる罪の赦しと新しい命という福音が、主イエスのご生涯全体によって私たちに、思いがけない喜ばしい知らせとして伝えられているのです。神様の王としてのご支配は、この主イエスの十字架と復活によって実現し、確立しています。そのご支配は、神様に敵対し、自分が王であり続けようとしている私たちの罪を赦して下さり、神の子として新しく生かして下さるという救いの恵みによるご支配なのです。この福音を信じることの中でこそ、私たちは悔い改めることができます。自分が王であり続けようとして、自分の王国に閉じこもるのをやめて、心の向きを180度変えて、主イエスの父である神様のご支配を受け入れ、その下で生きる者となることができるのです。つまり悔い改めることも、神様が独り子イエス・キリストによって与えて下さる喜ばしい恵みなのです。

福音を信じて歩み出す
 「時は満ち、神の国は近づいた」。ここには、私たちの努力や精進とは関係なく、神様がまことの王としての力によって、新しいみ業を行なって下さる、その神の時、特別な意味を持ったカイロスが今や満ちていること、それに敵対し、妨害しようとする人間の全ての力を乗り越えて、神様のご支配が実現していくことが宣言されています。その神の国は、独り子イエス・キリストがこの世に来て下さり、人間として歩んで下さったそのご生涯の全体によって、なかんずく十字架の死と復活によって実現しています。その神の国を前にして、私たちは決断しなければならないのです。どっちつかずに態度を保留していることはもうできないのです。主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」と私たちに呼びかけておられます。私たちは、自分が王であることをやめて、神様の方に向きを変えなければなりません。しかしそれは同時に、「福音を信じる」ことです。神様が、独り子イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの全ての罪を赦し、新しくし、神の子として恵みの下に生かして下さる、苦しみ悲しみ嘆きの中にいる私たちに、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と語りかけて下さる、そのことが、私たちの努力や力によってではなくて、独り子をすら与えて下さる神様の愛によって成し遂げられているのです。神様からのこの思いがけない驚くべき知らせを受けて、それを喜んで生きていくことによって、私たちは自分が王となろうとする罪に支配された自分の王国から解放されて、神様の方に向きを変え、神様の恵みのご支配の下で祝福に満たされた人生を歩んでいくことができるのです。

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