「御国に対する人間の責任」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; イザヤ書 43章 1節ー7節
・ 新約聖書; ルカによる福音書 第13章 22節ー30節
1 エルサレムへ向かう旅路
ルカによる福音書は、繰り返し繰り返し、主イエスが旅を続けておられたことを語ります。主イエスの地上でのご生涯、それはいつも旅をする中でかたちづくられていた歩みであります。それはどこに向かう旅であったのでしょうか。ルカは語ります、「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」(22節)。ルカが福音書の中でたびたび言及する主イエスの旅、その歩みはすべてエルサレムへと向かう旅なのです。町々村々を巡り歩きながら、主イエスは神の国が近づいたことを宣べ伝えました。悔い改めて福音を信じなさい、と人々を招いたのです。そのことを伝えようと、一つ一つの町や村を訪ねて回られた。人々の無理解や誤解、憎しみやあざけり、時には殺されそうになる危険に向き合いながらも、この歩みを貫かれたのです。
このすべての旅路はエルサレムへと向かうためであったのだ、というのです。エルサレム、それは主イエスが捕らえられ、人間による裁きを受け、十字架につけられて殺される場所です。しかしまた主イエスがこの死の中から甦られ、死の力に打ち勝ってくださった場所です。私たちに先立って、主が新しい体をもって、復活をされた場所です。エルサレム、そこに私たちの受けるべきすべての裁きが集中しています。しかしまたそこに、人を真実に生かす希望の光が輝きだしているのです。主イエスのご生涯、そこに起こる出来事はすべて、この十字架と復活へと向かう旅路の上で起こった出来事です。ということは、この旅路において起こる出来事一つ一つ、どれをとってみても、そこにはこの主の十字架と復活の光が差し込んできているのです。それを抜きにして、それらの出来事が語りかけている言葉は聞こえてこないのです。今、主イエスと旅路を共にしていたある人が投げかけてきた問い、それに対する主イエスのお答え、それもまたこの光の中で受け止められることを求めていると思うのです。
2 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」
主イエスが町や村を巡って、御国の福音を教えておられる、その旅路の途上で、ある人が主イエスに尋ねてきました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(23節)。おそらくこの人は、主イエスと今まで旅を続けてきた人です。弟子の一人かもしれませんし、主イエスと共に歩んできた群衆のうちの一人かもしれません。いずれにしても、この人はずっとこのことが気がかりでしょうがなかったのでしょう。ついに意を決しこの質問をしてみたのです。
「救い」、それは終わりの日に神の国に入れられるということです。そこで永遠の命、神とのとこしえの交わりに与かることです。けれどもそのようにして神の国に入れられる人の数は、えらく限られてしまっているのではないか。どれくらいの数の人が入られるのだろうか。そういう疑問が沸き起こってきたのでしょう。なにしろここに至るまで、主イエスは激しく悔い改めを求める言葉を繰り返しておられるのです。主人が帰ってくるまで目を覚まして心を尽くして留守を預かっていなかった僕は厳しく罰せられるのです(12:35-48)。自分を訴える人によって裁判官のもとに連れて行かれる、その途中で仲直りしようとしない者は、取り返しのつかない形で牢にぶち込まれてしまうのです(12:57-59)。災難に遭った人について、それを人事(ひとごと)のように思って悔い改めずにいるなら、自分たちも同じように滅びることを知れ、というのです(13:1-5)。そういうことばかり聞かされてくると、なんだか不安になってきた。神の国に入れる人はえらく限られているのではないか。よほどのことがなければ自分は救われないのではないか。そう思ったとしても不思議ではありません。
しかし一方で主は、神の国の大きさについてもお語りになります。それはからし種のように、またパン種のように、ぐんぐんと成長していくのです。大きくなっていくのです。空の鳥が集まって来て巣をつくるほどの大きな木になっていくのです。そうすると神の国は大きいのだろうか。救われる人は多いのだろうか、とも思われる。
そこでこの人は主に問うてみたのです。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。少ないと言われたらこの人はどうしたでしょう。どうか自分をその数少ない救われるものの中に入れてくださいと、主に取り入ろうとしたのかもしれません。あるいはどうせ自分なんか駄目なんだろうと、自暴自棄になったかもしれません。逆に、いや救われる者の数は多いという答えが返ってきたなら、この人は思うかもしれません。「ああ、それだったら自分もまだ見込みがあるかもしれない」。「たぶん自分も大丈夫だろう」、と。
3 「狭い戸口から入るように努めなさい」
けれどもここで主イエスは、この人の問いにまともにお応えになることを拒否されました。「多い」とも「少ない」とも、直接にはお応えになってはおりません。そんなことよりもはるかに大切なことがあると言わんばかりにこうおっしゃったのです。「狭い戸口から入るように努めなさい」(24節)。こういわれると、結局、神の国に入れる人は少ないと言っているのと同じではないか、とも思われます。実際すぐに続けて主はこうおっしゃっています、「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」。しかし主はここで、この問いを問われた人に、「なあんだ、やはり救われる人は少ないのか。じゃあ自分なんかどうせ救われないんじゃないか。駄目なんじゃないか」などという思いを抱かせようとはしておられません。そうではない。あなたのその問いの立て方そのものがおかしいのではないか、とおっしゃっているのです。多ければ自分も見込みがあるとか、少なければ自分は駄目かもとか、そういう問題ではないのだ。受身で自分が入るか入らないか思い巡らしてばかりいるのは抽象的な話なのです。全体でどれだけの人が救われるのかを論じているうちは、まだ自分の救いについて本当に真剣に受け止めていることにはならない。まだのんびりしている。まだぬるま湯につかっている状態だ。救われる人の全体の数が多かろうと少なかろうと、そんなことがあなたにとってどういう意味があるのか。たとえ救われる人が多くても、あなた自身が救われなかったら意味がないではないか。たとえ救われる人が少なくても、あなた自身が救われることが重大ではないか。問題なのは、あなたが、あなた自身が救われるかどうかではないのか。そのことのために自分が立ち上がり、動き出す思いを欠いたままで、救われる人の数について思いを巡らしていても、すべては虚しく、抽象的な話にしか過ぎません。そのことを主は問われているのです。
4 「努める」
ここで「努める」と訳されている言葉は「戦う」、「競技する」、「奮闘する」、「苦闘する」という意味の言葉です。もとの言葉には「人々が集まる場所」という意味合いが含まれているとも言われます。人々が集まる場所、今で言えばサッカー場や野球場のような競技場です。そこで選手は勝利を目指して戦うのです。競技をするのです。全力を尽くすのです。ある人はここをこう訳しました。「全力を尽くして今すぐ狭い戸口から入りなさい」(塚本虎二)。また文語訳の聖書もこう訳しています。「力を尽くして狭き門より入れ」(現代仮名遣い)。
主イエスはご自分の命を差し出すほどまでに激しい愛を私たちに注いでくださいました。どうかここに来て、わたしの愛の中に立ってほしい。そこに留まってほしい。わたしの救いの恵みの中を歩んでほしい。十字架と復活の光の中を歩み続けてほしい、そう招いてくださっています。その激しい愛を前にして、あなたは今何をするのか、どう応えるのか。それが問われています。その時「救われる者は多いのか、少ないのか」などといった問いは、悠長でのんきな問いにしか聞こえなくなります。黙って座っていて、私は入りますか、入らないのですか、と問うていても何も始まらない。もちろん、キリストの救いはいつも私たちに先立っており、私たちに与えられるものであることは確かです。その意味では私たちは受身です。しかしその救いが真実にこの私、自分自身のものとなるためには、立ち上がってそれを自らのものとして受け入れなければならないのです。他人の話ではない、自分自身のこととして受け入れなければ、それは自分にとっての出来事にはならないのです。今この激しい主の招きにどう応じるのか、私たちの出方が問われているのです。
5 「狭い戸口」
こうして闘いのために立ち上がった者は、狭い戸口から入るようにと勧められます。神の国にいたる戸口は狭い、と主はおっしゃる。私たちの普通の感覚で考えますと、そこに起こるのは競争です。争いです。他の人より先に、他の人を押しのけてでも、我先に戸口を突破しようとする争いが起こるでしょう。
しかしここで言われている「戸口の狭さ」とは、そのような私たちが考えるものとは違うものです。確かに私たちは救いのために闘うのです。競技するのです。けれどもそこで闘う相手、競技をする相手とはいったい誰なのでしょう。
この戸口はやがて時至ると閉められてしまう戸口です。神の国の主人、すなわち主イエスによって閉められてしまう。その時、私たちは戸を必死でたたきながら言うに違いありません。「御主人様、開けてください」(25節)と。その時、返ってくる主人の返事はしかし、「残念でした。あなたより先にたくさんの人が狭い戸口を通して入ってしまいました。もう定員いっぱいなのであなたは入ることができません」、そういう返事ではなかったのです。「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」(27節)。あくまでも入れなかった人自身のあり方が問題にされているのです。他の人との競争に敗れたから神の国に入れないのではない。そうではなく、あくまでも不義を行い、神のもとに来ようとしない、私たち自身がそこで問われているのです。
ということは、私たちが闘うべき相手、担うべき競技とは、ほかでもない、この私たち自身との闘い、自分自身との競争なのです。闘うべき相手は、自分自身の中にある罪です。自分自身を神から引き離し、神なしで自分の好き勝手に生きていこうとする不義です。この戸口の狭さ、それは自分自身の罪と闘う困難さを示していると言ってよいでしょう。私たちはすぐ他の人がどうなのかを気にします。人と比べて自分は優れているかどうか、他の人が自分より先に戸口をくぐっていきやしないだろうか。しかしそういうことが問題なのではありません。問題は自分自身です。自分が今、主が命がけで注ぎだしてくださっている激しい愛にどうお答えするかなのです。それを受け入れ、その恵みに生き続けるために、自分の罪と闘い、不義から離れ、悔い改めて神に立ち返る歩みに生きる、その腹をくくれるかということです。
4 「お前たちがどこの者か知らない」
この問いかけは、後でどうするか決めればよいといって、いつまでも放ったらかしにされていてよいものではありません。なぜならこの問いかけにはタイムリミットがあるからです。締め切りがあるのです。神との関係において、ここを過ぎたらもう手遅れという時があるのです。
礼拝にお誘いしても、「ありがとうございます。またそのうちに」という方があります。もちろんそれぞれの人に備えられた時があるわけですから、それはそれでいいのですが、しかしいつまでもその調子で招きをかわされてしまったら、その人にとって残念なことだと思うのです。葬儀や結婚式に出席された方が、とてもよい式でしたとおっしゃり、自分も将来教会で、と希望される方があれば、神様との関係が手遅れにならないうちに、との思いを込めつつ、「そのうちにと言わずぜひ今のうちから礼拝にどうぞ」と勧めることもまたあるのではないか、と思います。終わりの時が来る前に、私たちは神との関係を、曖昧さなしで、はっきりとさせなくてはならない。終わりの時に備えて身づくろいを整えて、神との関係をはっきりさせるのです。
いや人の話ではありません。この問いは何よりも私たち自身、教会自身に向けられているのです。主イエスは問いを発した人に直接お応えにはならず、「一同に」お話になったのです。この人たちは主イエスをよく知っている人たちです。主イエスと食事を共にし、その話を毎日聞いてきた人たちです。こんなに主イエスと親しくしているんだから大丈夫だろう、自分も神の国に入れるに決まっている、そう思っているであろう人々です。それはもしかしたら私たちの姿ではないでしょうか。こんなに教会に出入りして、お話を聞いているのだから、きっと終わりの時に主イエスは自分のことも心にかけてくれるに違いない。私たちはそう思っているところがあると思うのです。
そんな私たちにとって、主のお言葉はあまりにも強烈です。「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」。私たちは叫ぶでしょう。「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」(26節)。
私が闘わなければならなかったのも、ここにあるような甘さではなかったかと思います。牧師の家庭に育ち、主イエスがおられること、共に歩んでくださることが当たり前のようになってはいなかったか、救われるのが当たり前だと思ってはいないか、恵みを恵みとも思わず当たり前のように扱ってはいなかったか。そこで本当に恵みに生き、自分の不義から離れ去り、神の側につくための闘いを闘ってきたと言えるのか。その問いと誠実に向き合い、真実の悔い改めに生きなければ、自分は伝道者として立つことはできないはずだ、その問いかけの前にいつも立たされていることを思うのです。
ただ話を聞いた、一緒に食事をしただけではだめだというのです。小さいころから教会学校で話を聞いてきたからよく知っているというだけではすまされないのです。神との関係は、顔通しをしてあるから大丈夫だろう、コネができているから安心だ、そういったことでは片付かない。ただ一緒に食べただけではなく、共にしたその食事を通じてどのような主イエスとの交わりがそこに生まれたのか、それが問われます。ただ広場で教えを聞いたのではすまない。聞いたその御言葉にどう応えたのか、それが問われるのです。
5 イザヤ-四方からの神の民の招集
先ほど読まれた旧約聖書のイザヤ書は、29節の、東西南北から神の民が集められるイメージのもととなっている箇所です。5節から7節にこうあります。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り/西からあなたを集める。/北に向かっては、行かせよ、と/南に向かっては、引き止めるな、と言う。/わたしの息子たちを遠くから/娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。/彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者」。イザヤの預言においては散らされたイスラエルの民が集められることが見つめられていますが、今主イエスが見つめておられるのは、イスラエルが神の民と見なしていなかった異邦の民が、四方から集められるさまなのです。たとえ異邦の民であっても、神の国を生きたアブラハム、イサク、ヤコブの語りかけに聴き、預言者の言葉を通して神の恵みに生きる者ならば、主は御国の食卓に招いてくださるのです。神の国で宴会の席に着くのは心を頑なにせず、御言葉を拒むことなく、御言葉によって変えられ新しくされること、悔い改めることに開かれている民なのです。
イザヤは4節でこう語っています。「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする」。あなたのために独り子を贈り、身代わりとして十字架につけることも厭わないほど、わたしはあなたを愛している。どうかその激しい愛に応えて、あなたを神から引き離そうとするあらゆる力に抗して、神の民として歩み続けるための闘いを、今、ここから始めてほしい、それが神の願いであり、招きなのです。
6 信仰を守り抜く戦い、恵みの中に立ち続ける戦い
信仰を与えられた者は、それでもうすべてがうまくいったかのように残りの人生を安穏として暮らすのではありません。そうではない。むしろそこから闘いが始まるのです。奮闘、苦闘が始まるのです。何のための闘いか。救われた者として生き続けるための闘いです。救いを生き続ける、恵みに生き続けるための闘いです。 もちろん、私たちはこの闘いを自分で担いきることはできません。あの戸口の狭さは、自分との闘いに徹しきれない私たちの弱さでもあります。四方から神の民を招き集めるほどの御国の大きさを、受けとめ切れない私たちの心の狭さでもあります。悔い改め、不義から離れることの困難さでもあるのです。だからこそ主イエスは先んじて、私たちの闘いを闘ってくださったのです。逮捕されて十字架へ向かう前に、主はオリーブ山で祈られたのです。ルカが伝えているように、「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた」(22:44)のです。この主が闘ってくださった闘いがあるから、私たちもそれに続いて、自らの闘いを闘うことができます。主が担い、闘ってくださる闘いとして闘うことができるのです。それが先んじて主イエスにお会いし、恵みに生かされた者としての責任、御国に対する人間の責任です。「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」(30節)というのは、この先に召されている私たちへの警告であり、また恵みに留まり、キリストの義に生きるようにとの、招きなのです。義を欠如した者、不義を働くものは御国に入ることができない、と言われる。しかしそこで私たちは自らの義を立てようとするのではない。キリストの義、キリストが勝ち取り、私たちに与えようとしていてくださる義を受け入れるのです。それを阻む自らの罪と闘うのです。キリストの義を自らの義として生き続ける闘いを闘うのです。
自らの不義と闘う闘い、それは何よりも、内なるキリストの力に支えられつつ、キリストの義に留まり続けるための闘いなのです。主の御霊に支えられてこの闘いを闘うことができるように、祈りをあわせたいと思います。
祈り
主イエス・キリストの父なる神様、ただ食事を共にするだけではなく、あなたとの生ける交わりに生きることができますように。ただ話を聞いているばかりでなく、与えられた御言葉に生きることができますように。主が苦しみもだえつつ、私たちのために先んじて罪と闘ってくださいました。今、この主の闘いに支えられて、私たちもまた自らを主の恵みから引き離そうとする,あらゆる悪の力に抵抗することができますように。闘うべき霊の闘いを闘うことができますように、御力を注いでください。あなたが警告を通じて、私たちの中に呼び起こそうとされている真実に御国の民となるための闘いを闘わせてください。 御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。