説教 「人の計画、神の計画」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 出エジプト記第12章1-20節
新約聖書 ルカによる福音書第22章1-13節
受難物語の導入
ルカによる福音書を読み進めて、本日から22章に入ります。この22章からいわゆる主イエスの受難物語が始まります。共観福音書と呼ばれるマタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書のいずれもが、この受難物語を記しています。それに対して主イエスの誕生物語は、マタイ福音書とルカ福音書には記されていますが、マルコ福音書にはありません。福音書は主イエスの誕生物語がなくても成り立ちますが、受難物語がなければ成り立たないのです。福音書の中心は主イエスの受難物語に、主イエスの苦しみと十字架の死にあるのです。その意味でも福音書は主イエスの伝記ではありません。福音書に記されている主イエスのお言葉とみ業は、主イエスのご受難、とりわけその十字架の死から受けとめなくてはならないのです。この後の23章で主イエスの十字架の死が語られますが、その前の22章では、主イエスが弟子たちと共に過越の食事をとられたいわゆる「最後の晩餐」や、オリーブ山での祈り(マタイやマルコ福音書では「ゲツセマネの祈り」)や、主イエスの逮捕が語られています。本日の箇所はその導入と呼べるような場面で、マタイやマルコ福音書とも共通した場面ですが、ルカ福音書だけが語っていることもあります。そのことに注目しつつ、私たちは本日の箇所を読み進めていきたいと思います。
主イエスを殺すのを思いとどまる
2節では、「祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである」と言われています。祭司長たちや律法学者たち、つまりユダヤ教の宗教指導者たちが主イエスを殺そうとしていたことは、これまでも語られてきました。同時に彼らが民衆を恐れていたことも語られてきました。19章47、48節ではこのように言われていました。「祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである」。また20章19節でも、「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた」と言われています。「夢中になってイエスの話に聞き入っていた」と言われているように、民衆は主イエスに対して好意を持ち、また期待もしていました。受難物語が進んでいくと、この民衆の主イエスに対する好意は敵意に、期待は失望に変わっていきますから、そもそも彼らの好意や期待は的はずれなものであったと言えるでしょう。しかし勘違いだからこそ熱狂的になることもあります。宗教指導者たちは自分たちが主イエスを殺してしまうと、主イエスを熱狂的に支持している民衆が自分たちに敵対するのではないか、暴動を起こすのではないかと恐れていました。彼らは民衆の支持を失うことを恐れて、主イエスを殺すのを思いとどまっていたのです。
計画の変更
もちろん彼らは主イエスを殺すのをあきらめたわけではありません。「イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えて」、主イエスを殺す計画を立てようとしていました。しかし難航していたのです。過越祭や除酵祭では、多くの人たちがエルサレムに来ています。そのような状況で、民衆に気づかれないように主イエスを捕らえるのは現実的ではありませんでした。だから彼らは、祭りの間は主イエスを捕らえるのを見合わせました。マルコ福音書14章2節では、祭司長たちや律法学者たちが「『民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた」、とはっきり語られています。このように彼らの当初の計画では、過越祭や除酵祭の間に、主イエスを殺すことは考えていなかったのです。
ところがその計画を変更できることになります。4節にあるように、主イエスの十二人の弟子の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダが、祭司長たちや神殿守衛長たちのもとにやって来て、主イエスを引き渡す相談をもちかけたのです。主イエスのそばにいて、主イエスと共に過ごしていた十二弟子の一人であれば、民衆に気づかれることなく、騒ぎ出されることもなく、主イエスを捕らえる機会を見つけることができました。だから6節で、「ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた」と言われています。ユダの裏切りによって、当初はあきらめていた、過越祭や除酵祭の間に主イエスを捕らえて殺そうという計画がにわかに動き始めたのです。
ユダの裏切り
それにしても、なぜユダは主イエスを裏切ったのだろうか、と思います。現在に至るまで多くの人がそのように思い、ユダの裏切りの理由について実に多くのことが言われてきました。しかし私たちには聖書に書かれている以上のことは分かりません。そして聖書は多くのことを語っていません。もしかするとお金が絡んでいたのかもしれないとは思います。ユダが祭司長たちや神殿守衛長たちに主イエスを引き渡す相談をもちかけたとき、金をもらう約束を取り付けているからです。ルカ福音書の続きである使徒言行録では「ユダは不正を働いて得た報酬で土地を買った」とも言われています。しかしそれ以上のことは分かりませんし、それだけでは説明がつかないようにも思います。ここまでルカ福音書を読み進めてきた中で、ユダが主イエスを裏切るような気配は感じられなかったからです。ユダが主イエスに対する憎しみを膨らませていたとか、あるいは金に困っていたとか、そのようなことは語られてきませんでした。金が欲しくて裏切ったのか、裏切った結果、金をもらうことになったのか、どちらか分からないし、金が欲しかったとしてもその理由は分からないのです。
サタンが入った
しかしルカ福音書は、ユダの裏切りについて、マタイやマルコ福音書が語っていないことを語っています。3節にこのようにあります。「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」。「ユダの中に、サタンが入った」。ルカ福音書だけが語っていることです。サタンとは神様に敵対する力です。ルカ福音書は、神様に敵対する力によってユダが主イエスを裏切ったと語っているのです。私たちが見つめるべきなのは、このことです。何故なら、サタンの働きによってユダが裏切ったのであれば、それはユダだけに起こることではなく、私たちにも起こることだからです。私たちも神様に敵対する力に絶えず晒され、ユダのように主イエスを裏切ってしまいます。ユダが裏切った理由は何だろうかと考えている内は、私たちにとってユダの裏切りは所詮他人事でしかありません。ユダの裏切りの理由が何であれ、そこにサタンが働いていることを受けとめるとき、私たち自身もサタンの働きによって主イエスを裏切ってしまうことに気づかされます。私たちはユダの姿に自分自身の姿を見なくてはなりません。ユダの裏切りによって主イエスが十字架に追いやられることに、主イエスを裏切る私たちの罪によって、主イエスが十字架に追いやられることを見るのです。
サタンが力をふるい始めた
「ユダの中に、サタンが入った」ことは、「過越祭と言われている除酵祭が近づいて」きた、その時に、サタンが力をふるい始めたことをも示しています。ルカ福音書は、4章1節以下で主イエスが悪魔の誘惑に打ち勝たれたことを語っていました。その終わり13節では、「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」と言われています。主イエスを離れていた悪魔、サタンが、この時、「ユダの中に」入ったのです。それは、「時が来た」ということにほかなりません。主イエスを十字架に架ける「時」が来て、サタンが力をふるい始めたのです。このサタンの働きによって、神様に敵対する力によって主イエスは十字架へと追いやられていきます。その先にある十字架の死は、神様に敵対する力が極まる出来事なのです。
神の救いのみ業も前進している
民衆の目を恐れて、過越祭と除酵祭の間は、主イエスを捕らえるのを思いとどまっていた祭司長たちや律法学者たちは、ユダの裏切りによって祭りの間に主イエスを捕らえることができるようになりました。このことは、ユダの裏切りによって彼らが当初の計画を変更したに過ぎないように、つまり人間の計画の変更に過ぎないように思えます。しかしこの人間の計画の変更に、神様に敵対する力が働いています。神様に敵対する力はユダを用いて、人の計画を用いて、主イエスを捕らえる道を開き、主イエスを十字架に架ける準備を着々と進めていました。それに対して神様は何もしていなかったのでしょうか。神様に敵対する力が増していく中で、手をこまねいているしかなかったのでしょうか。そうではありません。ユダの裏切りによる人間の計画変更において、神様に敵対する力による準備が進んだだけでなく、神様の救いのみ業も前進しています。人の計画の変更によって、主イエスが過越祭あるいは除酵祭に捕らえられることになったのは偶然ではありません。たまたまそうなった、ということではなく、そこに神様のご意志、ご計画があったのです。
過越祭と除酵祭
このことは、過越祭あるいは除酵祭がどのような祭りであったかを知ることによって示されます。共に読まれた出エジプト記12章1節以下では過越祭と除酵祭について知ることができます。1~14節では過越の出来事と過越祭について、15~20節では除酵祭について記されています。イスラエルの民はエジプトで奴隷として暮らしていました。彼らはエジプトの人たちから強制的に労働を課されて、大きな苦しみと嘆きの中にありました。しかし神様はイスラエルの民をお見捨てになることはありませんでした。彼らの苦しみの叫びと嘆きを聞いてくださり、モーセを遣わして彼らをエジプトから救い出そうとされたのです。エジプトの王ファラオがイスラエルの民をエジプトから去らせるために、神様はエジプトとファラオに対して災いをくだされました。蛙とか疫病とかいなごとか、九つの災いがエジプトを襲いましたが、それでもファラオはイスラエルの民をエジプトから去らせようとしませんでした。そこで神様は、最後の災いをくだされます。「エジプトの国中の初子は皆、死ぬ」(11章4節)という災いです。11章5節では、「ファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで、また家畜の初子もすべて死ぬ」と言われています。しかし12章1節以下で言われているように、神様はイスラエルの民には、家族ごとに小羊を一匹用意し、夕暮れにそれを屠り、その血を家の入り口の二本の柱と鴨居に塗るよう命じられました。その夜、主なる神様は「エジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃」(12章12節)たれましたが、小羊の血が塗られた家は過ぎ越し、イスラエルの民の初子を撃たれることはありませんでした。この出来事の後、ファラオはイスラエルの民をエジプトから去らせます。この出来事によって、イスラエルの民はエジプトの奴隷状態から解放され、救い出されました。14節に「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」とあるように、神様がイスラエルの民の家を過ぎ越し、彼らをエジプトから救い出された日を記念して祝うのが「過越祭」です。
他方「除酵祭」というのは、その「過越祭」に続く七日の間に行われる祭りで、酵母を入れないパンを食べました。エジプトから救い出されたときのことを想い起こすためです。12章39節に、イスラエルの民がエジプトを脱出したときの様子がこのように記されています。「彼らはエジプトから持ち出した練り粉で、酵母を入れないパン菓子を焼いた。練り粉には酵母が入っていなかった。彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである」。イスラエルの民はエジプトから脱出したとき、急いでいてパン生地を寝かして発酵させる時間がなかったので、酵母を入れないパン菓子を焼きました。ユダヤ人は自分たちの先祖がそのようにしてエジプトから救い出されことを記念して、七日間、酵母を入れないパンを食べて除酵祭を守ったのです。このように過越祭と除酵祭は、もともとは別の祭りでしたが、過越祭に続いて除酵祭が行われることもあり、後に一つの祭りと見なされるようになりました。本日の箇所の1節で、「過越祭と言われている除酵祭」とあるのもそのためでしょう。いずれにしても過越祭あるいは除酵祭は、イスラエルの民がエジプトから救い出されたことを記念して祝う祭りである、ということが肝心な点です。小羊が屠られ、その血が流されることによって、神様が彼らの家を過ぎ越し、彼らを救われたことが大切なのです。
過越の小羊として
ユダの裏切りによって祭司長たちは計画を変更して、過越祭あるいは除酵祭の間に主イエスを捕らえることにしました。この人間の計画変更に、神様に敵対する力の働きがありましたが、それだけでなく、そこに神様のご意志、ご計画がありました。そのご計画とは、主イエスが「過越の小羊」として十字架に架けられ、血を流されて死なれ、そのことによって私たちの救いを実現する、というご計画です。イスラエルの民を救うために小羊の血が流されたように、私たちを救うために主イエスの血が流されることに、神様のみ心があるのです。神様に敵対する力による人間の計画の変更に思える出来事の中で、過越の出来事が指し示している、私たちのための神様の救いのみ業が前進していたのです。
屠るべき
このことは7節で「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た」と言われていることにも示されています。この一文は、二重の意味を持っていると言えます。一つには、「過越の小羊を屠る除酵祭の日が来た」という事実の報告です。1節では「過越祭と言われている除酵祭が近づいていた」と言われていましたが、いよいよその過越祭が、除酵祭の日が来た、と言われています。しかしそれだけではありません。マルコ福音書では、「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」(14章12節)と記され、マタイ福音書では、「除酵祭の第一日に」(26章17節)と記されていますが、ルカ福音書では、「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た」と記されています。ルカ福音書だけが、「屠るべき」という言葉を用いています。この「べき」という言葉は、神様のご意志、ご計画を言い表しています。たとえば9章22節で、主イエスはご自分の死と復活を予告されて、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と言われましたが、「必ず……なっている」というのが、「べき」と同じ言葉です。ご自分の死と復活が神様のご意志、ご計画であると、主イエスは言われています。それと同じように、「過越の小羊を屠るべき」とは、主イエスが過越の小羊として死ぬことに神様のご意志、ご計画がある、ということです。過越祭あるいは除酵祭に、主イエスが過越の小羊として死なれることに、私たちを救うための神様のご計画があるのです。
過越の食事の準備
主イエスはご自分が過越の羊として死ぬ「べきである」という、この神様のご意志、ご計画を受けとめておられ、それを弟子たちに伝えるために、弟子たちと共に過越の食事をとろうとされました。8節以下では、その過越の食事の準備について語られています。除酵祭の日が来て、主イエスは弟子のペトロとヨハネに、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われました。二人が「どこに用意いたしましょうか」と尋ねると、主イエスはこのように言われました。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい」。「都に入ると」と言われているのは、21章37節に「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた」とあったように、主イエスはオリーブ山からペトロとヨハネを都へ遣わそうとしていたからでしょう。「水がめを運んでいる男に出会う」というのは、何気ないことのように思えますが、当時、普通は女性が水がめを担ぎ、男性はぶどう酒の入った皮袋を下げていたようです。つまり主イエスは、都に入ると、水がめを運んでいる珍しい男性に、目立っている男性に出会うから、その人が入る家までついて行きなさい、と言われたのです。
主イエスが備えた道を歩く
主イエスは何でそんなことまでご存知なのでしょうか。13節には「二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだった」とありますので、主イエスが二人の弟子に言った通りのことが起こったことになります。そんなことがあり得るのだろうかと思われるかもしれません。ですからここでは主イエスによる奇跡が語られている、と考える人もいます。あるいは主イエスご自身が、弟子たちには知らせずに事前に過越の食事の準備を進めておられ、ほとんどすべての準備を終えた後に、二人の弟子を遣わして過越の食事の準備を完成させた、と考える人もいます。後者であれば、主イエスと私たちの関係が示されていると思います。主イエスは二人の弟子を遣わしたように私たちをも遣わされます。しかしそれに先立って主イエスご自身が備えをしてくださっています。私たちは思ってもみなかったところに遣わされたり、ろくに準備もできていないのに遣わされたりすることがあります。しかしそのようなときも、私たちを遣わす主イエスが、私たちのために備えをしてくださっています。二人の弟子がそうであったように、私たちは主イエスご自身が準備を進めてくださったところへと遣わされていくのです。そして遣わされた先で、二人の弟子が、「イエスが言われたとおりだった」という経験を与えられたように、私たちも主イエスが聖霊のお働きによって私たちのために備えをしてくださったことに気づかされるのです。二人の弟子は、遣わされた先で用いられて過越の食事の準備をしました。同じように私たちも遣わされた先で用いられていきます。しかしそれは、自分の力で何もかもを行うようなことではなく、主イエスがほとんどすべてを準備してくださった後に、その準備を完成させるようなものなのです。主イエスによって遣わされる私たちは、主イエスが備えてくださった道を歩んでいくのです。
人の計画、神の計画
この過越の食事の準備において、主イエスが過越の羊として死ぬべきである、という神様の救いのご計画が前進していきます。そのご計画のために主イエスご自身が備えをされ、また主イエスに遣わされた弟子たちもそのご計画のために用いられました。ユダの裏切りによって祭司長たちや律法学者たちは計画を変更して、過越祭あるいは除酵祭の間に主イエスを捕らえることにしました。しかしこの人の計画の変更をも用いて、神様の救いのご計画が前進しました。サタンの働きによって、神様に敵対する力によって、主イエスが十字架へと追いやられていくように見える中で、実は、神様の救いのご計画が前進していたのです。主イエスの十字架の死において神様に敵対する力は極まります。しかしまさにそこで、神様の救いのご計画は実現し、神様の私たちに対する愛が極まるのです。この主イエスの受難物語の導入部分において、人の計画をも用いて、サタンの働きに阻まれることもなく、私たちの救いのために主イエスが過越の羊として十字架で死なれるという神様の救いのご計画が前進していたのです。
この救いのご計画は主イエスの十字架の死において決定的に実現しましたが、今もなお世の終わりに至るまで前進しています。私たちは今も、人の計画を用いて、サタンの働きに妨げられることなく前進している神様の救いのご計画の内に生かされ、遣わされ、用いられていくのです。