夕礼拝

メシアはダビデの子なのか

2024年9月8日
説教題「メシアはダビデの子なのか」 副牧師 川嶋章弘

詩編 第110編1~7節
ルカによる福音書 第20章41~44節

よく分からない箇所
 一か月ほど間が空きましたが、本日から再び、ルカによる福音書を読み進めていきます。前回8月の第一主日の夕礼拝において、20章27~40節を読みました。本日は41~44節を読みます。たった4節の短い箇所です。短いだけでなく、さっと読んだだけでは何を言っているのかよく分からない箇所です。最初の41節に、「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」とあり、最後の44節にも、「どうしてメシアがダビデの子なのか」とあるので、この箇所は「メシアはダビデの子なのか」という問いに挟まれていることになり、このことがこの箇所のテーマらしいことはなんとなく分かります。しかしこの問いそのものがよく分からないのであって、一体、主イエスはこの箇所で何を言わんとしているのだろうか、と思わずにはいられないのです。

創立150周年を意識する夕礼拝で
 正直に申せば、この箇所が本日の夕礼拝の聖書箇所として示されたとき、「う~ん」と唸ってしまいました。続けて聖書を読む連続講解をしているので、この箇所を読む時が必ず来るのは分かっていましたから、いつもなら唸ることはなかったと思います。しかし本日は、私たちの教会にとって特別な日です。10時30分から行われた主日礼拝は、教会創立150周年記念礼拝でした。この夕礼拝の方は、特に創立150周年を記念して守っているわけではなく、いつも通りの夕礼拝として守っていますが、とはいえ創立150周年を意識しないわけではありません。創立150周年を意識する夕礼拝で、何を言っているのかよく分からない箇所が与えられたことに、「う~ん」と唸ってしまったのです。しかし私たちは、そして私たちの教会は、聖書が神様の言葉であり、私たちの信仰の規範(物差し)である、と信じています。この箇所を通しても、神様は私たちと私たちの教会に語りかけてくださっている、と信じているのです。ですから私たちはこの箇所ともしっかり向き合って、神様からの語りかけを受けとめていきたいと思います。そして、聖書を神様の言葉として聞くことは、この教会が150年に亘って続けてきたことでもあります。この教会の150年の歴史は、聖書のよく分からない箇所や難しい箇所とも格闘し、そこから神様の語りかけを聞いてきた歴史でもあるのです。そのことを思えば、創立150周年を意識するこの夕礼拝で、一見、何を言っているのかよく分からない箇所に向き合うことは価値あることなのではないかと思うのです。

主イエスの問いかけ
 さて、この箇所を読み進めていくにあたり、この箇所がどのような文脈の中に置かれているのかを確認しておくことは大切なことです。19章28節以下では主イエスのエルサレム入場が語られていました。この日から主イエスのご生涯の最後の一週間が始まります。主イエスはこの週の金曜日には十字架に架けられて死なれるのです。ですから本日の箇所も主イエスのご生涯の最後の一週間における出来事ということになります。エルサレムに入られた主イエスは毎日、神殿の境内で教えておられました。その主イエスの周りには色々な人たちがいました。まず、民衆がいました。民衆はこのときはまだ主イエスに対して好意を持ち、期待していました。また、祭司長や律法学者、長老たちがいました。彼らは主イエスをなんとかして陥れようとして、主イエスに問いをぶつけました。しかし20章で語られていたのは、そのような彼らの問いに対して、主イエスが見事にお答えになったということです。主イエスの言葉じりをとらえようとした宗教指導者たちの目論見は外れたのです。さらにサドカイ派の人たちもいました。本日の箇所の直前では、サドカイ派の人たちが主イエスに対して自分の主張をぶつけています。しかし主イエスはそれに対してもしっかりと間違いを指摘されたのです。このように20章ではこれまで、ユダヤ教の宗教指導者たちの問いかけに対して、主イエスが見事にお答えになり、彼らとの論争に勝たれたことが語られていたのです。その続きである本日の箇所では、今度は、主イエスが問いかけておられます。これまでは問答をしかけられていた主イエスが、今度は問答をしかけたのです。41節冒頭には「イエスは彼らに言われた」とあります。主イエスが問いかけた相手は「彼ら」と言われていて、はっきりしませんが、おそらくこれまで論争してきた宗教指導者たちを指しているでしょう。しかしそれだけでなく、主イエスの周りにいた民衆や弟子たちも含まれているのではないでしょうか。誰に問いかけたかをはっきりさせないことで、主イエスの周りにいたすべての人たちに対する問いかけとなっているのです。そしてその問いかけは、今このみ言葉と向き合っている私たちへの問いかけでもあるのです。

メシア
 その主イエスの問いかけが、41節の「イエスは彼らに言われた」の後から44節の終わりまで続きます。その冒頭に、「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」とあります。新共同訳は「メシア」と訳していますが、元々のギリシア語の言葉は「クリストス」であり、日本語に訳せば「キリスト」です。ですから口語訳では、「どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか」と訳されていました。こちらのほうが元々のギリシア語を日本語に訳しているという点で、適切な訳だと思います。その一方で「キリスト」と訳すと、「キリスト」を人の名前だと思ってしまい誤解が生じやすいとも言えます。おそらくそのような誤解を避けるために、新共同訳は「メシア」と訳したのではないでしょうか。この「メシア(マーシーアハ)」という言葉はヘブライ語です。ヘブライ語の「メシア」をギリシア語に訳したのが「クリストス」ですから、新共同訳はギリシア語の「クリストス」を日本語に訳すとき、わざわざヘブライ語の「メシア」を用いたのです。「メシア」は人の名前ではなく、「油を注がれた者」という意味であり、いわゆる肩書、称号です。旧約聖書において王や預言者や祭司という特別な職務に任命されるときに油を注がれました。とりわけ元々は王に対して、「油を注がれた者」、すなわちメシアという肩書、称号は用いられたのです。しかし時代が下って王国が滅亡し、王がいなくなると、メシアは王ではなく、将来、神様がイスラエルの民を苦しみから救い出すために遣わしてくださる「救い主」に対して用いられるようになります。イスラエルの人たちはもはや王国も王も存在しない時代に、来たるべきメシア、救い主を待ち望むようになるのです。主イエスの時代においても、人々は来たるべきメシアを待ち望みつつ生きていたのです。

来たるべきメシアなのか
 主イエスは、「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と問われています。しかし20章のこれまでの箇所の背景にあった問いは、むしろ「主イエスは来たるべきメシア、救い主なのか」という問いです。民衆が主イエスに対して好意と期待を抱いていたのは、主イエスが来たるべきメシアだと思っていたからです。それに対して宗教指導者たちが主イエスに敵対していたのは、主イエスが来たるべきメシアだとは認めていなかったからです。だから主イエスを陥れて、主イエスがメシアではないと暴くことによって民衆を失望させようとしたのです。本日の箇所においても根本的に問われているのは、「主イエスは来たるべきメシア、救い主なのか」という問いです。しかし主イエスはそのことをそのまま問うのではなく、「メシアはダビデの子なのか」と問うたのです。

メシアはダビデの子
 この問いに対して、私たちがまず思うのはこのようなことではないでしょうか。主イエスの「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」という問いは、「メシアはダビデの子ではないのに、なぜ人々はそのように言うのか」、と問うているように思える。つまり主イエスは、メシアがダビデの子であることを否定しておられるように思えるのです。しかしそうではありません。なぜならルカ福音書は、メシア(救い主)がダビデの子、ダビデの子孫であると一貫して語ってきたからです。主イエスの誕生物語において、ダビデの子孫からメシア(救い主)が生まれると繰り返し語られていました。誕生物語だけではありません。18章35節以下で主イエスは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(38節)と主イエスに向かって叫んだ盲人をご自分のもとに招かれ、語りかけ、癒やされました。主イエスはご自分を「ダビデの子」と呼ぶ者を拒むことなく受け入れられたのです。ですから主イエスは、メシアがダビデの子、ダビデの子孫であることを否定しているのではないのです。

ダビデのような人物だと考える
 では主イエスは何を問うておられるのでしょうか。人々が「メシアはダビデの子」と言うとき、そこにはメシアはダビデの子孫であるという事実だけでなく、メシアは「ダビデのような」人物であるという思いや考えがあります。主イエスが問うておられるのは、メシアがダビデの子孫かどうかではなく、むしろなぜ人々はメシアをダビデのような人物だと思い込んでいるのか、ということなのです。来たるべきメシアをダビデのような人物だと考えることは、約1000年前に生きたダビデという過去の人物の姿や働きからメシアを理解しようとすることです。それも1000年という年月の中で、ダビデの姿はかなり理想化されてきました。ですからイスラエルの人たちは、来たるべきメシアを自分たちの理想のダビデの姿の中に閉じ込めた、と言えるでしょう。そのようなダビデの姿として多くの人が共通して思い描いていたのは、武力によって敵に勝利し、イスラエル王国を築き、統治する姿であり、要するに軍事的、政治的な姿でした。イスラエルの人たちは、この理想のダビデの姿を基準として、来たるべきメシアかどうかの判断を行いました。主イエスの時代の宗教指導者たちも、このようなダビデの姿を基準にして、主イエスは来たるべきメシアではないと判断して、主イエスが救い主であるとは信じなかったのです。結局、彼らは自分たちの知識によるダビデの姿でしかメシアを捉えようとしませんでした。自分たちの固定観念にとらわれ、来たるべきメシア(救い主)に対して「ダビデのような」というレッテルを貼っていたのです。それでは、このとき主イエスに対して好意と期待を抱いていた民衆は、この「ダビデのような」というレッテル貼りとは関係なかったのでしょうか。そうではありませんでした。なぜなら民衆が主イエスに対して好意と期待を抱いていた理由も、主イエスを「ダビデのような」人物だと思い込んでいたことにあるからです。だから民衆はこれから数日後に、自分たちの期待が外れると、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び、主イエスを十字架へと追いやったのです。このようにイスラエルの人たちは、メシアをダビデのような人物だと考えていました。一方で宗教指導者たちは主イエスがダビデのようでないからメシアではないと判断し、他方で民衆は主イエスがダビデのようだと思い込み、メシアに違いないと期待していたのです。その判断は正反対であるにもかかわらず、どちらも自分たちの思いや考え、願いや期待、あるいは知識や経験の中にメシア(救い主)を押し込めていたことに変わりはありません。そして自分たちの思いや考えに合わなければ、自分たちの願いや期待に応えてくれなければ、自分たちの知識や経験で理解できなければ、主イエスをメシアではないと判断して退けるのです。主イエスの「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」という問いは、このような人々の姿をこそ問うているのです。

自分の思い通りになる救い主を求める
 そしてこのような姿は、私たちと無関係なのではありません。私たちは主イエスがメシア(救い主)であると信じているし、主イエスに「ダビデのような」というレッテルを貼ったりもしないでしょう。しかし私たちも、自分たちの願いや期待に応えてくれる主イエスを求めてしまいます。自分たちの知識や経験の中に主イエスを閉じ込めてしまい、その中だけで主イエスを理解しようとしてしまいます。そうであれば私たちもまた、理想化した救い主を主イエスに押しつけ、自分の固定観念にとらわれて、主イエスに対してレッテルを貼っているのではないでしょうか。そして主イエスが自分の願いや期待に応えてくださらないとき、私たちは主イエスが救い主であることを疑ったり、もう主イエスを信じないと思ったりするのです。ほかならぬ私たち自身が、自分の思い通りになるメシア(救い主)を求めているのです。しかしそれは、私たちとメシア(救い主)との正しい関係、主イエスとの正しい関係なのでしょうか。私たちが主イエスとそのみ業を評価して、救い主なのかどうかを判断するのが、私たちと主イエスとの正しい関係なのでしょうか。そうではないことを、ここで主イエスは示そうとされているのです。

メシアはダビデの主
 そのために主イエスは詩編を引用しています。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで』と」。これは共に読まれた旧約聖書詩編110編1節のみ言葉です。そこを見ると、1節の初めに「ダビデの詩。賛歌」とあります。これは詩編の標題と言われるものですが、しばしば標題の意味ははっきりしません。それでもはっきりしているのは、ユダヤ人がこの詩編をダビデが詠んだ詩として、ダビデが祈った祈りの言葉として受けとめてきた、ということです。そして主イエスご自身も、「ダビデ自身が詩編の中で言っている」と言われているように、ダビデの言葉としてこの詩編を受けとめているのです。主イエスは、ダビデが「主は、わたしの主にお告げになった」と言っていることに注目しています。「主」という言葉が二回出てきますが、それぞれ意味していることは違います。最初の「主」は、主なる神様のことであり、次の「わたしの主」は、来たるべきメシア(救い主)のことです。ダビデは来たるべきメシアを「わたしの主」と呼んでいるのです。だから主イエスは詩編を引用した後、44節で、「このようにダビデがメシアを主と呼んでいる」と言っているのです。確かにメシアはダビデの子孫です。その意味で「メシアはダビデの子」であるに違いありません。しかしダビデとメシアの関係は、ダビデ自身が詩編で告げているように、ダビデがメシアに対して「わたしの主」と呼びかける関係です。その意味で「メシアはダビデの主」にほかなりません。来たるべきメシア(救い主)こそがダビデの主人であり、ダビデはその僕なのです。

主イエスを自分の主人として生きる
 このダビデとメシア(救い主)の関係に、私たちと救い主の関係、私たちと主イエスの関係が示されています。私たちと主イエスの関係も、主イエスが私たちの主人であり、私たちが主イエスの僕であるという関係です。私たちは自分自身を自分の主人とするのではなく、主イエスをこそ自分の主人とするのです。ダビデとメシアの関係がそうであったように、私たちと主イエスの関係も、私たちが主イエスに対して「わたしたちの主」と呼びかける関係なのです。そのように自分自身ではなく、主イエスを自分の主人として生きることは、私たちが自分の理想の救い主を主イエスに押しつけないということです。自分の固定観念にとらわれて、主イエスにレッテルを貼らないということです。自分の願いや期待に応えてくれる主イエスを求めるのではなく、主イエスが成してくださるみ業に期待します。自分たちの知識や経験の中に主イエスを閉じ込めるのではなく、自分たちの知識や経験を超えて主イエスが働いてくださることを信じるのです。私たちの固定観念を打ち破って、主イエスが新しいことを行ってくださることに望みを置くのです。

主イエス・キリストにおいて実現した
 主なる神様がダビデの主であるメシアに告げた言葉が、「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで」でした。この言葉は、主イエス・キリストにおいて実現しました。主イエス・キリストが十字架に架けられて死なれ、復活され、そして天に昇られることによって実現したのです。「わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで」とあります。来たるべきメシアの敵、主イエスの敵とは罪と死による支配にほかなりません。主イエスの十字架と復活と昇天によって、罪と死の支配に対する決定的な勝利が実現し、私たちは罪と死の支配から救われたのです。そして天に昇られた主イエスは神様の右の座に着かれ、この世界と私たちを恵みによって支配してくださっているのです。この勝利と救いは、イスラエルの人たちが期待していたのとはまったく異なった仕方で実現しました。彼らは「ダビデのような」軍事的、政治的な勝利と救いを期待していました。しかし主イエスは、そのような思いや考え、願いや期待を超えて、「ダビデのような」という固定観念を、レッテル貼りを打ち破って、誰もが想像できなかった仕方で、つまり十字架で死なれることによって、罪と死の支配に対する勝利と救いを実現してくださったのです。

主イエスの新しいみ業に期待して
 この勝利と救いにあずかって生きている私たちキリスト者は、これまでもこれからも、自分たちの思いや考え、願いや期待を主イエスに押しつけて生きるのではありません。そうではなく十字架で死なれ、復活され、天に昇られた主イエスが、今も生きて働いておられ、私たちの思っても考えてもいなかったみ業を、私たちの願いや期待をはるかに超えるみ業を行ってくださることに期待して生きるのです。自分の知識や経験にとらわれ、固定観念にとらわれて、主イエスが行ってくださる新しいみ業を拒むのではなく、私たちのために十字架で死んで、罪と死の支配からの救いを実現してくださった主イエスが、これからも私たちの人生に行ってくださる新しいみ業に期待し、望みを置いて歩んでいくのです。そしてそのように歩んでいくのは、私たち一人ひとりだけのことではありません。教会の歩みも同じです。これまでの150年間の指路教会の歩みがそうであったように、これからの教会の歩みも、私たちが思ってもいないような主イエスのみ業を待ち望んでいく歩みです。今も生きて働かれる主イエスが、私たちの教会のために行ってくださる新しいみ業に期待する歩みなのです。150年の歴史の中で幾多の困難があったように、これからも多くの困難があるに違いありません。私たちの知識や経験ではどうにもならない困難に直面することもあるのです。しかしそのような困難の中にあって、私たちは自分たちの力に望みを置くのではなく、主イエスが私たちのために行ってくださる新しいみ業にこそ望みを置くのです。
 主イエスの問いかけを聞いていたのは、宗教指導者たちと民衆だけではありませんでした。そこには主イエスの弟子たちもいたのです。そして彼らも数日後には、主イエスの十字架を前にして、主イエスを見捨てて逃げ出しました。しかしルカ福音書の続きである使徒言行録2章36節では、その弟子たちがこのように語っています。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」と言っていますが、弟子たちは「私たちが十字架につけて殺したイエス」と受けとめていたはずです。主イエスを見捨てて逃げ出した自分たちこそが主イエスを十字架につけた、と深く受けとめていたに違いないのです。そしてそのように主イエスを十字架につけたにもかかわらず、自分たちが主イエスの十字架と復活によって赦され、救われた、と弟子たちは気づかされたのです。その救いの恵みの中で、神様の計り知れない愛の中で、弟子たちは、「私たちが十字架につけて殺したイエスを、神様は私たちの主としてくださり、またメシア、救い主としてくださった」と告白しているのです。私たちの教会も主イエス・キリストの十字架と復活による救いの恵みの中で、神様の計り知れない愛の中でこのことを告白しつつ、イエスを主と信じ、イエスをメシア、救い主と信じて歩んでいきます。私たちの教会はこのことを告白しつつ、主イエスが私たちの教会のために新しいみ業を行ってくださることに期待して、希望を置いて、これからの歩みを、151周年に向かう歩みを歩み始めたいのです。

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