夕礼拝

愛する息子を送ってみよう

2024年7月21日
説教題「愛する息子を送ってみよう」 副牧師 川嶋章弘

詩編 第118編22~25節
ルカによる福音書 第20章9~19節

十字架の死を指し示すたとえ
 ルカによる福音書20章を読み進めていますが、本日は9~19節を読みます。繰り返しお話ししているように、18章28節以下で主イエスがエルサレムへ入られたことが語られていました。主イエスは日曜日にエルサレムへ入られ、その週の金曜日に十字架に架けられて死なれます。今、主イエスは十字架の死に至る最後の一週間、いわゆる「受難週」を歩んでおられるのです。その受難週の歩みの中で、20章で語られている出来事がいつ起こったのか、ルカ福音書ははっきりと記していません。20章1節には「ある日」とあるだけです。しかしマルコによる福音書やマタイによる福音書によれば、週の前半に起こっています。前回お読みした20章1節から8節では、主イエスとユダヤ教の宗教指導者との間で繰り広げられた、主イエスの権威についての問答が語られていました。本日の箇所では主イエスのたとえが語られています。受難週前半の主イエスの歩みは、苦しみを受けられた歩みというより、問答し、教えやたとえを語られた歩みなのです。しかしそれは、主イエスの十字架の苦しみと死が見つめられていない、ということではありません。本日の箇所でも、主イエスは間近に迫ったご自分の十字架の死を見据えつつ、たとえを語っておられます。このたとえを通して主イエスはご自分の十字架の死を指し示しておられるのです。

神から預かっている
 さて主イエスが語られたたとえを読み進めていきますが、大切なことは、主イエスのこのたとえを自分とは関係ないこととしてではなく、自分のこととして受けとめることです。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」。このたとえはこのように始まります。「ある人」とは、ぶどう園の主人であり、神様を指しています。そして私たちは農夫です。私たちは農夫の姿に自分たちの姿を重ねるのです。主人が農夫たちにぶどう園を預けたように、神様は私たちに色々なものを預けてくださっています。私たちは自分が色々なものを持っているように思っていますが、本当は、私たちの持っているものはすべて神様から預けられたものです。
 神様は私たちに家族を預けてくださっています。父と母、兄弟、夫や妻、子どもを預けてくださっています。しかし私たちは家族を神様から預けられたものとして受けとめ、大切にしているでしょうか。私たちは自分の調子が良いときには、あるいは自分が嫌な思いをしない限りは、家族を大切にすることができるかもしれません。しかし自分の調子が悪いときには、あるいは自分が嫌な思いをするときには、家族を大切にすることがなかなかできないのです。神様から預かっていることを忘れて、家族が自分の思い通りにならないことに腹を立ててしまうのです。
 友人も同じです。神様は私たちに友人を預けてくださっています。しかし私たちにはその意識は弱いかもしれません。私たちは、自分がこの友人のことを好きだから大切にしよう、とは思います。しかしそれだけなら、友人のことを嫌いになったら、友人を大切にしなくなるのではないでしょうか。この友人は、神様から自分に預けられているという意識がないからです。その意識があれば、たとえ嫌いになったとしても、これまでとは同じ関係でいられなくなったとしても、神様から預かっている友人として大切にするはずなのです。しかし私たちはなかなかそのようにできません。好きな友人であったからこそ、嫌いになってしまったら、大切にするどころか憎んでしまうことがあるのです。
 また神様は私たちに体を預けてくださっています。しかし私たちは自分の体を神様から預けられたものとして大切にしているでしょうか。自分の体を大切にするとは、健康に気をつけることであり、病気にならないように気をつけることです。もちろん気をつけても避けられない病気もあります。しかし避けられる病気もあります。暴飲暴食を控えたり、適度な運動をすることによって避けられる病気があるのです。しかし私たちは時間がないからとか、余裕がないからとかなにかと理由をつけて、健康に気をつけることを疎かにしてしまいます。神様から体を預かっていることを忘れ、大切にすることができないのです。

預かっているものを自分のものにする
 主人からぶどう園を預けられた農夫たちは、初めはそのぶどう園を大切に管理しようと努めたに違いありません。レビ記によれば、ぶどう園は作ってから五年目になって実を収穫することができる、と決められていました(レビ記19:23-25)。だから農夫たちは少なくとも五年間は、地道にぶどう園の手入れをしてきたのです。主人が自分たちにぶどう園を預けてくれたことに感謝して、ぶどう園を大切に管理してきたのです。ところが五年目になり、ぶどうの実を収穫できるようになると、農夫たちは自信をつけて、主人からぶどう園を預かっているという意識が弱くなり、ぶどう園は自分のものという意識が強くなっていきます。主人から預かったものとして大切に管理するのではなく、自分の思い通りにしたいと思うようになったのです。だから農夫たちは、主人が「ぶどう園の収穫を納めさせるために」農夫たちのところへ送った僕を、「袋だたきにして、何も持たせないで追い返した」のです。主人は、ぶどう園の収穫から得た利益のすべてを納めさせようとしたのではないと思います。本来、収穫のすべては主人のものですが、主人が求めたのは、売上から経費を引いた利益の一部であったはずです。ですから農夫たちがそれを納めるのは当然のことであり、また大切な意味を持っていました。利益の一部を主人に納めることは、主人から預かったぶどう園で収穫したものが、本来すべて主人のものであることのしるしでもあったからです。そうであれば、主人が送った僕を「袋だたきにして、何も持たせないで追い返」すことは、ぶどう園で収穫したものが本来すべて主人のものであることを否定し、主人から預かっているぶどう園を自分のものにしてしまうことにほかならないのです。
 私たちも神様から命を預けられ、体を預けられ、家族や友人を預けられ、日々の働きを預けられています。最初は私たちも神様が預けてくださったものを大切にしようと思っていました。しかしいつの間にか、神様から預かっているものを自分のものとしてしまい、自分の思い通りにしようとしてしまっているのです。自分の命や体は自分のものだと思い、命や体を大切にしないで生きています。家族や友人を自分のものとしてしまい、自分の思い通りにならないと憤り、ときには関係を絶ってしまいます。日々の働きにおいても、神様のみ心を問うのではなく自分勝手にしようとするのです。神様はまことに多くのものを私たちに預けてくださっています。それなのに私たちはそれらを神様のみ心に従って大切にするのではなく、自分のものとし、自分の思い通りにしてしまうのです。

大きな自由
 それにしてもこのぶどう園の主人は、放任主義です。農夫たちにぶどう園を預けただけでなく、農夫たちの運営について一切口を出していません。唯一したことは、利益の一部を納めさせるために僕を送ったことです。主人は、最初の僕が袋だたきにされ、何も持たされずに追い返されると、ほかの僕を送りました。その僕が侮辱され、何も持たされずに追い返されると、三人目の僕を送りました。立て続けに僕を送ったように思えますが、そうではないでしょう。僕たちがぶどう園まで行き来する旅の時間も必要ですから、年に一回僕を送ったと考える人もいます。主人は最初の五年間は一切口を出さず、その後も、年に一回僕を送るだけだったのです。それは、主人がぶどう園の運営を完全に農夫たちに任せていたということであり、そこには主人の農夫たちへの信頼があります。この主人は農夫たちに信頼して最大の自由を与えていたのです。主人は農夫たちを監視して、報告を求め、あれこれ指示を出して彼らの自由を制限することもできたはずです。しかしそうしないで、あたかも自分がいないかのように、農夫たちに大きな自由を与えたのです。そこには当然大きなリスクが伴います。報告を求められたり、絶えず指示が与えられたりすれば、農夫たちは主人の存在を意識せざるを得ません。主人からぶどう園を預かっていることも意識したはずです。しかしそのようなことをまったくしないなら、農夫たちが主人などいないかのように、主人を気にかける必要がないかのように勘違いするリスクがあったのです。しかし主人はそのリスクを負ってでも、農夫たちに大きな自由を与えたのです。
 私たちが信じている神様はそのようなお方です。神様は私たちに多くのものを預けてくださっているだけでなく、まことに大きな自由をも与えてくださっているのです。神様は私たちに預けたものを私たちがどのように管理し、どのように用いるかについて、あれこれ指示されるわけではありません。自分の命と体をどのように用いるか、家族と友人にどのように接するか、働きとどのように向き合うか、それらすべてを私たちに委ね、任せてくださっています。それは、神様が私たちを信頼してくださり、私たちに期待してくださっているからです。神様は私たちがその信頼にお応えして、神様から与えられた自由をみ心に従って用いることを期待してくださっているのです。もちろん神様は私たちの自由を制限することもできました。私たちを神様の操り人形にして、ご自分のみ心の通りに生きるようにすることもできたはずです。しかしそうはなさらなかった。私たちに大きな自由を与えてくださり、その自由の中で、私たちがみ心に従って生きることを願われたのです。旧約聖書の創世記2章で、神様は人間を造られ、その人間をエデンの園に住まわせ、一方で「園のすべての木から取って食べ」て良いというまことに大きな自由を与え、その一方で「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という一つの命令を与えられました。神様は人間が大きな自由の中で、神様から与えられた一つの命令を守って、つまり神様のみ心に従って生きるよう願われたのです。私たち一人ひとりはそのような存在として生かされているのです。

自由の乱用
 しかし私たちは神様から与えられた大きな自由を適切に用いるのではなく、乱用してしまいます。農夫たちが主人などいないかのように、主人を気にかける必要がないかのように勘違いしたように、私たちは指示を出されることのない神様をいないものと思い、そのような神様は気にかける必要がないと勘違いしてしまうのです。主人が送った三人の僕を袋だたきにし、侮辱し、傷を負わせて、何も持たせずに追い返した農夫たちの姿は、神様から与えられた自由を乱用し、神様から預かったものを自分のものとし、好き勝手にしてしまう私たちの姿です。神様は私たちを信頼し、私たちに期待してくださいました。しかし私たちはその信頼を踏みにじり、その期待を裏切ったのです。

愛する息子を送ってみよう
 ぶどう園の主人は、忍耐強く三人の僕を送りました。農夫たちが三人目の僕に傷を負わせてほうり出しても、主人はなお諦めませんでした。13節にこのようにあります。「そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう』」。そして主人は、愛する息子を農夫たちのもとへ送ったのです。ここに神様が私たちのためにご自分の愛する子、イエス・キリストを送ってくださったことが見つめられています。神様は、神様の信頼を踏みにじり、その期待を裏切って、神様から預かっているものを自分のものとして生きてしまう私たちを見捨てることなく、ご自分の独り子を送ってくださったのです。「この子なるたぶん敬ってくれるだろう」というのは、主人が農夫たちのことを楽観視していた、つまり神様が私たちのことを楽観視していた、ということなのでしょうか。私は、むしろ神様が最後まで私たちを信頼し、私たちに期待していたことの表れではないかと思います。自分の愛する息子の言うことなら、ご自分の独り子イエス・キリストの言うことなら聞いてくれるかもしれない、と期待しておられたのではないでしょうか。
 主人が三人の僕を送り、最後に愛する息子を送ったことに、神様とイスラエルの歴史が示されています。神様は忍耐強く、繰り返しイスラエルの民に預言者を遣わしましたが、民は預言者の言葉を聞こうとしませんでした。そこで神様はご自分の独り子を遣わされたのです。神様は忍耐強く、ご自分に背き続けるイスラエルの民に関わり続けてくださり、最後には、「わたしの愛する息子を送ってみよう」と決断されたのです。私たちはここに神様とイスラエルの歴史だけでなく、神様と自分の関わりを見る必要があります。神様は、神様から預けられたものを自分のものにし、神様がいないかのように自分の思い通りに生きている私たちに忍耐強く関わり続けてくださり、そのような私たちのためにも、「わたしの愛する息子を送ってみよう」と決断してくださり、独り子イエス・キリストをこの世へと遣わしてくださったのです。神様はその愛する独り子を私たちのために遣わしてくださるほどに、私たちを愛してくださったのです。

主イエスの十字架の死
 しかし主人が送った息子を見て、農夫たちは互いに論じ合いました。「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」。常識的に考えれば、農夫たちが考えたようにはならないはずです。自分の愛する息子を殺された主人が、殺した人たちに財産を相続するはずがないからです。それでも農夫たちが常識的にはあり得ないことを考えたのは、彼らが主人をいないものとして無視していたからに違いありません。主人なんていないも同然だから、跡取り息子を殺しさえすれば、自分たちが財産を相続できると短絡的に考えたのです。なによりこの息子がいる限りは、いずれこの息子が父親の後を継いでぶどう園の主人となります。そうなれば農夫たちは自分たちの好き勝手にできなくなるかもしれません。農夫たちにとって、この息子は自分たちが思い通りに生きるためには邪魔な存在だったのです。だから「息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」のです。
 このたとえを話しておられる神様の独り子イエス・キリストは、数日後に十字架に架けられて殺されます。人々にとって自分が思い通りに生きるためには、主イエスは邪魔な存在であったからです。そのような私たち人間の自己中心的な生き方が、自己中心的な思いが主イエスを十字架へと追いやったのです。神様はご自分に背き続ける私たちを見捨てず、忍耐強く関わってくださり、ついに独り子イエス・キリストを遣わしてくださいました。しかし私たちは神様が遣わしてくださった、神様の愛する子、イエス・キリストを十字架の死に追いやるのです。主イエスの十字架の死は、私たちによって神様の愛する子が殺される出来事です。神様から多くのものを預かり、大きな自由を与えられている私たちが、神様から預かっているものを自分のものとし、与えられている自由を乱用して、神様がいないかのように生きることによって、ついには神様の愛する子を十字架の死に追いやったのです。主イエスはこのたとえを通して、このことを指し示しているのです。

復活して「隅の親石」となる
 主イエスはこのたとえをこのように締めくくりました。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」。当然のことのように思えます。愛する息子を殺された主人が、農夫たちにぶどう園を相続するはずがありません。それどころか息子を殺した農夫たちは殺されても仕方がないのです。主イエスのたとえを聞いていた民衆は、「『そんなことがあってはなりません』と言った」と16節にあります。「そんなこと」とは、ぶどう園の主人が「農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与える」ことではありません。民衆にとっても、それは当然のことのように思えたはずです。「そんなこと」とは、このたとえ全体が語っていることです。つまり主人からぶどう園を預かっていた農夫たちが、主人の送った僕を追い返し、主人に納めるべき利益を納めず、主人の送った愛する息子をも殺してしまうことです。このことに対して、そんなことがあってはならない、と民衆は言っているのです。そのように言う民衆を見つめて、主イエスはこのように言われました。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』」。主イエスは、共に読まれた旧約聖書詩編118編22節を引用して、聖書に「こう書いてある」と言われました。「あなたがたはそんなことがあってはならないと言うけれど、そんなことが起こると聖書に書いてある」と言われたのです。家を建てる者が、役に立たないと判断して捨てた石が隅の親石となった、と言われています。「隅の親石」というのは、建物の土台に据えられる石ではなく、アーチ状に石を積み重ねていく際に、その一番上の真ん中に据えられる石のことのようです。この石をしっかりはめることによって、堅固な天井、堅固な建物を造ることができるのです。家を建てる者が役に立たないと判断して捨てたこの石こそ、主イエス・キリストにほかなりません。自分の思い通りに生きようとする人たちが、つまり私たちが役に立たない、邪魔だと判断して主イエスを捨てて十字架に架けて殺しました。しかし神様はその主イエスを十字架で死なれたままにはしておかず、死者の中から復活させてくださったのです。主イエスは捨てられ死なれたけれど、復活させられて「隅の親石」となったのです。この「隅の親石」がなければ、天井が崩れ、建物が崩れてしまいます。この石は、建物を造るためには欠かすことのできない石なのです。キリストは十字架で死なれ、復活されることによって、私たちにとっての「隅の親石」となりました。私たちは「隅の親石」であるこのお方によってのみ救われるのです。

神から預かっているものを大切にして
 主イエスのたとえでは、ぶどう園の主人が「農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」と言われていました。それが当然のように思えます。つまり神様の愛する子、イエス・キリストを十字架に架けた私たちは神様から見捨てられ、裁かれて当然なのです。しかし神様は、このたとえとは違って、私たちを見捨てて裁くどころかキリストによって新しく生かしてくださり、もう一度、ぶどう園を私たちに預けてくださるのです。私たちは、独り子を十字架に架けたにもかかわらず、「隅の親石」となられたキリストに結ばれて神様の子どもとされ、神様の恵みを受け継ぐ「跡取り」とされているのです。「跡取り」になれるはずがない私たちを、神様は一方的な恵みによって、キリストによって「跡取り」としてくださったのです。神様から預かっているものを自分のものにしてしまい、神様がいないかのように自分勝手に生きていた私たちを、神様はキリストの十字架と復活によって赦してくださり、再び私たちに多くのものを預け、大きな自由をも与えてくださっています。だからキリストによって赦され、キリストに結ばれて生きている私たちは、今度こそ、神様から預かっているものを大切にして生きていきたいのです。神様から預かっているものとして、家族や友人を大切にし、自分の体を大切にし、日々の務めを大切にしていくのです。神様が与えてくださっている大きな自由を神様のみ心に従って用い、神様が委ね、託してくださっている使命を担っていくのです。私たちがそのように生きるために、神様は「愛する息子を送ってみよう」と決断してくださり、その独り子を十字架に架けてくださり、復活させてくださいました。この神様の計り知れない愛に生かされて、私たちは神様から預けられているものを大切にして生きていくのです。

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