夕礼拝

主イエスに仕える

「主イエスに仕える」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第31編10-17節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第8章1-3節
・ 讃美歌:

すぐその後
 主イエスがファリサイ派のシモンに招かれ、彼の家で食卓を囲んでいたとき、一人の罪深い女が主イエスに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、主イエスの足に接吻して香油を塗りました。この彼女の振る舞いをご覧になった主イエスは彼女に「あなたの罪は赦された」と言われ、さらに「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました。この出来事に続いて記されているのが本日の箇所であり、その冒頭には「すぐその後」とあります。つまり「すぐその後」とは、この罪深い女が赦された出来事の「すぐ後」ということです。本日の箇所を読んでみると、一見、直前の箇所との結びつきはないように思えます。しかし冒頭の「すぐその後」という言葉は、その結びつきに目を向けるよう私たちに促しているのです。
 どのような結びつきなのでしょうか。本日の箇所はたった3節の短い箇所ですが、2-3節では主イエスの宣教に同行した女性たちについて語られています。その点に注目すれば、直前の箇所と本日の箇所の結びつきは女性が出てくることにあります。より具体的な結びつきが考えられることもあります。主イエスに罪を赦された「罪深い女」が、2節に名前が記されている「マグダラの女と呼ばれるマリア」と同一人物であるという通説があるのです。聖書にはなにも書かれていませんが、そのように考えるのは必ずしも的外れとはいえません。マグダラのマリアは「七つの悪霊を追い出していただいた」と言われています。彼女のように悪霊の力から解放されることと、罪深い女のように罪の力から解放されることは、どちらも主イエスによって新しい人間へ造り変えられるという点で同じだからです。

どこへ行ったのか?
 とはいえ直前の箇所と本日の箇所の両方に女性が出てくるだけでは両者の結びつきは弱いように思えます。また罪の力からの解放と悪霊からの解放もまったく同じではありません。罪深い女とマグダラのマリアが同一人物であるというのは少し無理があるのです。別の結びつきも考えられます。直前の物語は主イエスの「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」という女性への言葉で終えられています。私たちはこの後この女性がどうなったかほとんど考えないと思います。しかし「安心して行きなさい」と言われた彼女はどこへ向かったのでしょうか。主イエスによって罪を赦され平安と慰めを与えられて、元の生活へと戻って行ったのかもしれません。生活そのものはなに一つ変わらなかったとしても、罪を赦され新しくされた者として感謝と喜びをもって日々を歩んだのです。そうかもしれないと思います。しかしその一方で、少なくとも私たちはそのようには歩めないとも思うのです。

主イエスを信じる者たちの群れに戻ってくる
 私たちは主の日ごとの礼拝で、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを告げ知らされ、罪を赦され新しい一週間へと遣わされます。その救いの恵みにお応えして感謝と喜びをもって歩んでいきたいと願います。しかし私たちの日々の歩みには苦しみが溢れているのです。病や歳を重ねることの苦しみがあり、若さ故の苦しみもあります。学校や仕事や家庭での苦しみがあり、日々の糧を得る苦しみ、人間関係の破れによる苦しみがあります。人とのつながりが断たれて孤立する苦しみがあり、未来に希望を持てない苦しみがあります。そのような苦しみに満ちた日々の中で、感謝と喜びをもって生きられなくなるのです。礼拝が終わり会堂から出ていくときは感謝と喜びに満ちていたはずなのに、日々を歩んでいく中で、私たちは救いの恵みを見失い、苦しみに覆われてしまうのです。
また私たちは罪を赦され、新しい一週間へと遣わされているにもかかわらず、神さまのみ心に従わず、自分を中心として生きてしまいます。神さまと隣人を愛するどころか、神さまに背き隣人を傷つけてばかりいるのです。私たちは罪を赦されても、なお罪を犯し続けます。だからこそ私たちは毎週の礼拝で神さまに立ち帰り、罪の赦しを与えられ新しくされる必要があるのです。礼拝で「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と告げられることによって、再び私たちは新しい一週間へと歩み出すことができます。私たちの信仰生活はこの繰り返しです。一度、主イエスのところに身を寄せ、罪を赦され、平安と慰めを与えられたからもう大丈夫ということではないのです。この世にあって私たちはなお多くの苦しみに直面し、神さまから引き離そうとする罪の力に襲われます。私たちは世に遣わされたままなのではなく、主イエスのところに戻ってくるのです。主イエスを信じる者たちの群れに、つまり教会に戻ってくるのです。
そうであるならば、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と主イエスから言われた女性は、主イエスに従う者たちの群れへ向かったのだと思います。8章2-3節では主イエスに従った女性たちについて語られていますが、三人の女性の名前が挙げられた後、「そのほか多くの婦人たちも一緒であった」と言われています。罪を赦された女性はマグダラのマリアと同一人物なのではなく、「そのほか多くの婦人たち」の一人なのではないでしょうか。罪を赦された者が行くところは、主イエスを信じ、主イエスに従う者たちの群れに違いないからです。罪を赦され世に遣わされても、繰り返し戻ってくる居場所が必要です。その居場所こそ主イエスを信じる者たちの群れであり教会にほかならないのです。あの女性はこの群れに加えられ、教会のメンバーに加えられたのです。もちろん教会の誕生はキリストの十字架の死と復活、そしてペンテコステの出来事を待たなくてはなりません。しかしたった3節であるにもかかわらず、本日の箇所は教会とその働きをあらかじめ指し示しているのです。

町々村々を巡って
 ここでまず語られているのは主イエスの宣教の働きです。1節にこのようにあります。「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」。この主イエスの宣教の旅は9章51節以下で語られている旅とは様子が異なります。51節には「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあり、これ以降、主イエスはエルサレムを目的地として旅をします。しかし8章1節で言われている旅は、そのような決まった目的地に向かう旅ではなく、町や村をあちこち巡り歩く旅でした。もちろん物見遊山の旅ではありません。訪れた先々で、神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせたのです。あの町にもこの村にも、あの人のもとにもこの人のもとにも神の国の福音を届けるために、主イエスは町々村々を巡り歩いたのです。

主イエスの宣教の働き
 主イエスは「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせ」ました。神の国を宣べ伝えるとは、神の国の知識のあれこれを伝えることではなく、神の国の到来を宣言することです。将来のこととしてではありません。今ここに神の国が到来し、神のご支配が始まっていると宣言するのです。それは、4章18節以下で主イエスが言われたように、「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる」ことであり、そのことが「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言することにほかならないのです。主イエスはあちらこちらを巡り歩きながら、悪霊に支配されている人を解放し、病を患っている人を癒し、罪に支配されている人を赦されました。その主イエスのみ業は、今ここに神のご支配が始まっていることを示すしるしにほかなりません。「その福音を告げ知らせながら」は、直訳すれば「神の国を福音として知らせながら」となります。「福音」とは「良い知らせ」のことです。つまり主イエスは、町々村々を巡りながら、今ここに神の国が到来し、神のご支配が始まっていることを「良い知らせ」として告げ知らせたのです。もはや悪霊や病や罪の力による支配が決定的でないことこそ福音であり、良い知らせなのです。

教会の宣教の働き
 この主イエスの働きは教会のなすべき働きでもあります。教会の使命は、なによりも神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせることにあるからです。主の日ごとの礼拝において、教会はすでにこの地上に神の国が到来し、神のご支配が始まっていると宣言します。そのことを福音として、「良い知らせ」として告げ知らせるのです。そのことによって、不条理な苦しみの現実や人間の罪によって引き起こされる悲惨な現実の中にあっても、私たちは目に見える現実ばかりに心を奪われるのではなく、目に見えない神のご支配を信じることへと導かれるのです。また私たちはこの世の様々な力や価値観に捕らえられ、不安や恐れに駆られたり、息苦しさを感じたりしています。しかしすでに神の国が到来し、神のご支配が始まっていることによって、私たちはそのような不安や恐れや息苦しさから解放され、自由にされるのです。なぜならこの世のあらゆる力や価値観はもはや私たちを決定的に束縛することはできないからです。私たちはすでに神の国へと入れられ、神の恵みによるご支配のもとに入れられています。なおこの世の力や価値観に脅かされることがあったとしても、神の恵みのご支配こそが私たちにとって決定的なことなのです。主の日ごとの礼拝で神の国が宣べ伝えられ、福音が告げ知らされることによって、そのような不安や恐れや息苦しさからの解放が起こされていきます。

主イエスの旅に同行した人たち
 神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせる主イエスの旅は一人旅ではありませんでした。主イエスの旅に同行した人たちがいたのです。このことが1節の終りから3節で語られていますが、色々な説明が加えられているため複雑な文章になっています。その骨格だけを並べるならば「十二人も一緒だった。何人かの婦人たちも(一緒だった)。そのほか多くの婦人たちも一緒であった」となります。つまりここでは、主イエスに同行した人たちとして、「十二人」と「何人かの婦人たち」と「そのほか多くの婦人たち」が挙げられているのです。「何人かの婦人たち」とは名前が記されている三人の女性のことであり、「そのほか多くの婦人たち」とは、三人の女性を除く多くの女性たちのことです。その女性たちの中に、直前の物語において罪を赦されたあの女性がいたかもしれないのです。

教会の礎となった十二人
 すぐ分かるようにここでは女性の働きに焦点が当てられています。しかし「十二人も一緒だった」とあることも見逃すことはできません。「十二人」とは十二人の弟子たちのことです。6章13節で主イエスが弟子たちの中から「十二人を選んで使徒と名付けられた」と語られていました。ペンテコステにこの十二人の上に(イスカリオテのユダの代わりにマティアが加わりましたが)聖霊が降り、彼らは主イエス・キリストの十字架と復活による救いを宣べ伝え始めました。彼ら十二人こそ教会の礎となった人たちなのです。その十二人が主イエスの宣教の旅に同行したことは、神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせるのが主イエスの働きであるだけでなく教会の働きであることを示しています。教会の礎となった十二人がそうであったように、教会は主イエスの宣教の働きを担っていくのです。

主イエスが共にいてくださる
 6章12節以下では十二人が選ばれたことだけが語られていました。彼らの派遣については9章1節以下で「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わす」とあります。十二人が選ばれるのと、その十二人が遣わされるのとの間に本日の箇所があるのです。それは選ばれた十二人が主イエスと一緒にいることで、遣わされるための準備と訓練のときを過ごしたということでしょう。しかしそれだけでなく、主イエスが神の国を宣べ伝えたとき十二人が一緒にいたことは、十二人が遣わされて神の国を宣べ伝えるとき、そこにも主イエスが共にいてくださることを指し示しているのではないでしょうか。遣わされた先に一緒について行くのではありません。しかし彼らが神の国を宣べ伝えるとき、確かに主イエスは共にいてくださり、彼らを導き、支えてくださるのです。準備と訓練は一緒にしたけれど、遣わされた後は自分の力でなんとかしなさいではないのです。主イエスの宣教に教会の礎となる十二人が一緒だったことは、教会が神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせるとき、いつも主イエスが共にいてくださるということです。それぞれの地に主イエスによって建てられた教会があります。私たちの教会もその一つであり、神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせる使命を与えられています。その使命に仕えていくことには困難が伴い忍耐を必要とするに違いありません。しかしそこに主イエスが共にいてくださるのです。また私たち一人ひとりも主イエスによってこの世へと遣わされ、主イエスによる救いを証しする使命を与えられています。その使命に仕えていくことは簡単なことではありません。しかしそのような私たち一人ひとりと主イエスが共にいてくださるのです。

マグダラのマリア-病の支配からの解放
 主イエスと同行していたのは「十二人」だけでなく、「何人かの婦人たち」と「そのほか多くの婦人たち」がいました。「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち」と言われていて、三人の女性の名前が記されています。一人は「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」です。「七つの悪霊」の「七つ」とは悪霊の数ではなく、悪霊が強い力を持っていることを表しています。当時、病は悪霊によると考えられていましたから、彼女がとても重い病であったことが「七つの悪霊」による、強い力の悪霊によると言われているのです。彼女の病が具体的にどのようなものであったかは分かりません。しかし「七つの悪霊」に取り憑かれていると周りの人から思われるほどに深刻な病、治る見込みのない病だったのではないでしょうか。ただ死を待つだけだったのかもしれません。共同体(コミュニティ)に加わることができず、孤立し、絶望の中で日々を過ごしていたのです。共に読まれた旧約聖書詩編31編10節以下にこのようにあります。「わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも 苦悩のゆえに衰えていきます。命は嘆きのうちに 年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ 骨は衰えていきます。わたしの敵は皆、わたしを嘲り 隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き 外で会えば避けて通ります…」。これはマグダラのマリアの嘆きであり呻きであり叫びでもあるのです。そのマリアが主イエスと出会います。主イエスと出会い、主イエスによって悪霊の力から解放され、病を癒され、主イエスを信じ主イエスに従って生きる者とされたのです。もしかすると医学的に見れば病は治らなかったのかもしれません。しかしたとえなお病の中にあったとしても、もはや病は彼女を決定的に支配することはできません。なぜなら彼女は神の恵みのご支配のもとに入れられたからです。そのようにして病の支配から解放されたマリアは主イエスの宣教の旅に加わりました。救いの恵みに感謝して主イエスに従い、主イエスに仕えたのです。医学的に病が治ったかどうかよりも、ただ死を待つだけであった彼女が主イエスに仕えて生きるようになり、孤立していた彼女が主イエスを信じる群れの中で生き始めたことこそが見つめられているのです。

ヨハナ-世の価値観からの解放
 もう一人は「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」です。ヨハナの夫クザは領主ヘロデの家令であり、彼に仕えていた人でした。おそらく重要な地位にいたと思います。ヘロデは洗礼者ヨハネを投獄し、処刑した人物であり、主イエスに対しても快く思っていなかったでしょう。そのヘロデに仕えていた人の妻が主イエスと共に旅をしていたのです。詳しい事情は分かりません。夫も主イエスを信じ、彼に送り出されてヨハナは主イエスのもとに来たのかもしれません。あるいは夫を捨てて彼女は主イエスに従ったのかもしれません。いずれにしてもこの女性は社会的な地位が高く、経済的にも豊かであったと思います。かつてはそのような社会的な地位の高さや経済的な豊かさが、彼女にとって最も価値あることであったかもしれません。しかし彼女は主イエスに出会い、主イエスによって悪霊から解放されただけでなく、そのような世の力や価値観からも解放され、自由にされたのではないでしょうか。
 最後のスサンナについては名前しか記されていません。しかし初代の教会において主イエスと共に旅をし、主イエスに仕えた女性として名前が記憶されていたに違いありません。

主イエスに仕え、教会に仕える
 マグダラのマリアとヨハナは、主イエスに出会うまでの人生も、社会的な身分も経済的な豊かさもまったく異なります。マグダラのマリアは重い病を患い、嘆きと呻きと叫びに満ちた人生を送ってきました。コミュニティに入ることができず、社会的な身分も低く、経済的にも貧しかったのです。一方でヨハナは、夫がヘロデの下で重要な地位にあったので、比較的優遇された人生を歩み、社会的な地位も高く、経済的にも豊かであったのです。そのようになにもかもが正反対の二人が主イエスと出会い、主イエスによって新しくされ、神の恵みのご支配のもとに入れられて共に旅をするようになりました。二人とも主イエスを信じ、主イエスに従う者たちの群れに加えられたのです。その中には、罪を赦されたあの女性もいたかもしれないのです。
 十二人がいる。あの罪を赦された女性がいる。病の支配から解放されたマグダラのマリアがいる。社会的な地位から自由にされたヨハナがいる。実に様々な人たちがいる。これが主イエスを信じる者たちの群れであり、これこそが教会です。そこではどのような人生を送ってきたかも、病や地位も関係ありません。主イエスと出会い、主イエスによって新しくされた者たちが、共に主イエスに従い、共に主イエスに仕えているのです。3節の終りに「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」とあります。「自分の持ち物を出し合って」とは、物やお金を出し合うことだけでなく、それぞれの技術や才能や経験を活かすことをも意味します。マグダラのマリアもヨハナもスサンナも、あの罪を赦された女性も、それぞれの賜物を活かして主イエスに仕え、主イエスを信じる群れに仕えたのです。私たちも同じです。私たちもそれぞれに異なった人生を歩んできました。健康な方も病の中にある方もいます。若い方も歳を重ねた方もいます。社会的な地位が高く経済的に豊かな方もいればそうでない方もいます。それぞれに違いがあるにもかかわらず、私たちはそれぞれの賜物を活かして主イエスに仕え、教会に仕えていくのです。主イエス・キリストによる救いの恵みにお応えして、私たちは自分の賜物を献げ、自分の賜物を活かし、神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせるために仕えていくのです。

関連記事

TOP