「専門家の不幸」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:歴代誌下 第24章17-22節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第11章45-54節
・ 讃美歌:346、361、432
律法の専門家とファリサイ派
本日ご一緒に読む新約聖書の箇所はルカによる福音書第11章45節以下ですが、その冒頭の45節に「そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った」とあります。ここに、この話がその前の所と密接に結びついていることが示されています。これを語っているのは「律法の専門家の一人」ですが、彼が「わたしたちをも」と言っているのは、誰と並んで私たちをもなのでしょうか。そして主イエスが語った「そんなこと」とは何だったのでしょうか。先週読んだ37節以下には、主イエスがファリサイ派の人々に対して語られた厳しい批判の言葉が記されていました。「私たちをも」とは、このファリサイ派と共に私たちをも、ということです。主イエスがファリサイ派に対してお語りになった言葉は、自分たち律法の専門家をも侮辱するものだ、と彼は言っているのです。ファリサイ派と律法の専門家とは一心同体と言ってもよい関係にあります。先週申しましたようにファリサイ派は、律法を厳格に守ることで神の民としての清さを保ち、神様の救いにあずかるのに相応しい生活を確立しようとしていた人々であり、またそういう生活を人々にも教え広める運動をしていました。その主張の土台となっていたのは、以前の口語訳聖書では「律法学者」と訳されていた律法の専門家による律法解釈でした。つまりファリサイ派の運動に理論的な支えを与えていたのが律法の専門家たちであり、律法の専門家たちの中にはファリサイ派に属している人が多かったのです。それゆえにこの人は、ファリサイ派に対する主イエスの批判を、自分たち律法の専門家に対する批判として聞いたのです。
主イエスがファリサイ派の人々に対して語った「そのようなこと」とは、外側はきれいにするが内側は強欲と悪意に満ちている、収穫の十分の一を神に献げるという掟にはこだわるが正義の実行と神への愛はおろそかにしている、会堂での上席や広場で挨拶されること、つまり人に尊敬され、褒められることを求め、要するに人の目、人が自分をどう思っているかばかりを気にしている、などという批判でした。この批判が自分たち律法の専門家に対しても向けられている、と彼は感じたのです。それは、これらのことが確かに自分たちにも当てはまる、という自覚があったからです。彼がこのように反発したのは、「痛いところを突かれた」と思っている証拠だと言えるでしょう。
背負いきれない重荷
この人の言葉を受けて主イエスは、今度は律法の専門家たちに対して、先週の所と同じ「あなたたちは不幸だ」という言い方で批判を語っていかれました。それが46節から52節です。先ず46節には、「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ」とあります。ここに、律法の専門家に対する主イエスの批判、あるいは怒りと言ってもよい思いが示されています。主イエスが怒っておられるのは、「あなたがたのおかげで、律法は人々の重荷となってしまった」ということです。律法は、旧約聖書において神様がイスラエルの民にお与えになったみ言葉であって、その中心が「十戒」ですが、それはもともとは決して民の重荷となるようなものではなかったのです。なぜならば律法は、これを守り行う者は神様の救いを得ることができ、これを守らない者は救われずに滅びる、というような、救いを獲得する条件、あるいは救われる者と滅びる者とを区別する目印として与えられたのではなくて、主なる神様によってエジプトの奴隷状態から解放され、救われたイスラエルの民が、その恵みに感謝して、神様の民として生きていく、その恵みへの応答の生活の指針として与えられたものだったからです。つまり律法は重荷であるどころか、神様の恵みのみ言葉だったのです。ところが律法のその本来の意味はいつしか忘れられて、これを守ることによって救いを得ることができる、という条件のように受け取られるようになっていきました。律法の専門家の登場はそのことと連動しています。律法が救いのための条件となっていくと、自分はその条件を満たしているだろうか、律法をきちんと守れているだろうか、ということが問題となります。いっしょうけんめい守っているつもりでも、自分が知らない戒めがあって、知らずにそれを破ってしまうかもしれません。だから律法の隅々までよく知っていないと不安になるのです。けれども当時は、律法を記した聖書を自分で持つことができなかった時代です。自分で読んで律法の内容を確認することは出来なかった。それゆえに、「これは律法違反になるかならないか」「このことについて律法はどう教えているのか」を判断してくれる律法の専門家が必要となったのです。そのようにして律法の専門家が生まれ、彼らが人々の生活を律法に照らして「よい」とか「悪い」と判定し、また「律法に従うためにはこうしなければならない」と命令するようになったのです。その結果律法は、神様への感謝の生活を導く恵みのみ言葉から、破ってはならないといつもビクビクしていなければならない掟となっていきました。そのような掟はもはや重荷でしかありません。律法の専門家は、律法を重荷として人々に負わせる働きをしたのです。しかもそれは「背負いきれない重荷」だと主イエスは言っておられます。神様による救いに感謝して、その恵みに応えて生きる生活へと人々を励まし導くために与えられた律法が、守らなければ救いにあずかることができない掟、あるいは倫理道徳の教えとなってしまう時、それは「背負いきれない重荷」になるのです。そして律法の専門家たちは、「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」、つまり彼らの教えは人々に律法を重荷として負わせるだけで、その重荷を背負って生きるための力や励ましは与えない、人を裁き、批判し、気落ちさせるだけで、神様の民として生きることの喜びや慰めや励ましにはならないのです。52節に「知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきた」とあるのもそれと同じことを語っていると言えるでしょう。律法は、正しく受け止めるならば、神様の救いの恵みに感謝して生きるための信仰の知識を与えるものです。ところが彼らは、それを守らなければならない掟にしてしまうことによって、律法を重荷とし、律法が本当は与えるはずの信仰の知識を人々から取り上げ、人々がそれを得ることを妨げ、勿論自分自身もその知識を得ようとしないのです。
預言者を殺す
47節には「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ」とあります。彼ら律法の専門家たちの先祖が昔の預言者たちを殺したのだと主イエスは言われたのです。預言者とは、神様のみ言葉を預かってそれを人々に語り伝えた人々です。神様はこれまでに多くの預言者を立て、お遣わしになりました。しかしその多くはその時代の人々に受け入れられず、迫害されたり殺されたりしたのです。49節に引用されている、「わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する」という言葉はそのことを語っています。預言者たちを殺す、それは神様のみ言葉を拒み、それに聞き従わないということです。それをしたのはあなたがたの先祖だ、というのは、あなたがた律法の専門家たちが今していることは、昔預言者を殺した人々のしたことと同じだ、ということを意味しています。律法を人間の掟にしてしまい、恵みのみ言葉を人々の重荷にしてしまっているあなたがたは、自らも神様のみ言葉に聞き従わず、またそれを人々からも奪い取っている、それは預言者を受け入れずに殺した昔の人々のしたことと同じだ、と主イエスは言っておられるのです。
48節には「こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである」とあります。律法の専門家たちは、殺された預言者たちを記念しその業績を偲ぶ墓をあちこちに建てていたのでしょう。そのようにして自分たちが昔の預言者たちを尊敬していることを示していたのです。しかしそこには大きな欺瞞があります。預言者たちは、神様のみ言葉に聞き従うことを求めたのです。だから預言者たちを記念するなら、自分も神様のみ言葉にしっかりと聞き従わなければならないはずです。彼らはそれをせずに、感謝の生活へと人々を導き励ますみ言葉であるはずの律法を本来の意味からねじ曲げ、人々の心をみ言葉から引き離すようなことをしておきながら、預言者の記念碑を立てています。それは欺瞞であって、あなたがたはむしろ預言者たちを殺した者たちの業をこそ受け継いでいるのだ、と言っておられるのです。
アベルからゼカルヤまで
このように、律法の専門家たちに対する主イエスの批判は、ファリサイ派に対する批判よりも厳しく、激しいものとなっています。先週のところで、ファリサイ派に対しては、彼らが自分を清い者とすることによって神様の救いにあずかろうとしていることについて、外側ばかりを清めようとしているその努力の方向が間違っていると指摘し、批判しておられましたが、その努力そのものを否定しておられたわけではありません。しかし本日の箇所では、律法の専門家たちに対して、彼らが神様のみ言葉である律法を、神様のみ心とは全く違うものへと歪曲し、重荷としてしまうことによって人々をみ言葉から遠ざけていることに激しい怒りを示しておられるのです。その怒りのみ心は、50、51節のみ言葉にも示されています。「こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる」。殺された全ての預言者の血の責任が、今の時代の者たちに問われるのだと主イエスは言っておられます。その殺された預言者の代表として、アベルとゼカルヤが挙げられています。アベルとは、創世記第4章の、いわゆるカインとアベルの物語のアベルです。最初の人間アダムとエバの二人の息子がカインとアベルでした。その兄弟の間で、人類最初の殺人が、兄が弟を殺すという出来事が起ったのです。アベルはいわゆる預言者ではありません。しかしあの殺人は、アベルの献げ物が神様に顧みられたのに対して、カインの献げ物は顧みられなかったことによって起りました。つまりアベルは神様と良い関係を持っていたが、カインはそうではなかったのです。そのアベルがカインに殺されたことがここでは、神様に従う預言者が敵対する人々によって殺されたという出来事の最初に位置づけられているのです。もう一人の、「祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤ」のことは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所である歴代誌下第24章17節以下に語られています。このゼカルヤは、ユダ王国のヨアシュ王とその側近が主なる神様を捨てて異教の神々に仕えるようになった時に、神の霊を受けてそのことを諌め、そのために神殿の庭で殺された人です。まさにみ言葉を語ったために、それを受け入れない人々によって殺されたのです。彼は死に際して「主がこれを御覧になり、責任を追求してくださいますように」と言いました。アベルの血から始まり、このゼカルヤの血に至るまで、神様のみ言葉を語ったことによって殺された人々の血の責任が、「今の時代の者たち」に問われるのだと主イエスはおっしゃったのです。
今の時代の者たち
「今の時代の者たち」とはどういうことでしょうか。今の時代とは、主イエスが生きておられるこの時代です。その時代の者たちとは、主イエスというまことの預言者、預言者の中の預言者が来られたのに、主イエスを拒み、その語るみ言葉に聞き従おうとせず、主イエスに対して敵意を抱き、なんとかして殺してしまおうとさえ思っている者たちです。その中心にいるのが、ファリサイ派であり、律法の専門家たちなのです。53、54節には、「イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた」とあります。つまり彼らこそ、かつて預言者を殺した者たちの子孫であり、今また主イエスに対して同じことをしようとしているのです。「今の時代の者たち」とは彼らのことです。彼らこそが、預言者たちを殺した者たちの代表として責任を問われるのだ、と主イエスは言われたのです。
主イエスの怒り
このように本日の箇所には、神様のみ言葉を、み心とは全く違うものへとねじ曲げ、恵みのみ言葉を人々の重荷に変えてしまうことに対する主イエスの怒りが語られています。そのようなことは、神様から遣わされた預言者を殺してしまうのと同じことなのです。その怒りは直接にはファリサイ派の人々と律法の専門家たちに向けられていますが、私たちはこの主イエスの怒りを他人事として眺めていることはできないでしょう。私たちもまた、神様のみ言葉を、み心とは全く違うものへとねじ曲げ、恵みのみ言葉を重荷としてしまっているのではないでしょうか。私たちが聖書のみ言葉を、それを守り行なうことによって救いを得るための条件であるかのように捉え、神様の恵みのみ言葉としてでなく倫理道徳の教えとして受け止めてしまうならば、私たちも彼らと同じことをしているのです。そのようにみ言葉を道徳の教えとして捉えるようになると、ファリサイ派や律法の専門家たちのように、自分が頑張ってそれを守っていることに自分の正しさを見出し、それを自分の拠り所、誇りとして生きるようにもなります。しかしそこに必ずついてまわるのは、自分と他の人とをいつも見比べ、自分の方が上だと思えば安心し、逆の場合には不安を覚える、という歩みです。またそこには他の人のあら探しをし、道徳の教えをたてに人を裁き、人を慰め励ますのではなくて落胆させることしかしないような生き方が生まれます。み言葉がそのような働きをしてしまうのは、それがその人にとっても実は重荷となってしまっていることを示しているのです。私たちはそのようにしばしば、神様の恵みのみ言葉をねじ曲げ、自分にとっても隣人にとっても重荷としてしまうようなことを繰り返しているのではないでしょうか。主イエスの怒りはそのようなことに対して向けられているのであって、私たちにとってそれは決して他人事ではないのです。
十字架の恵みの中で
このことを受け止めた上で、本日の箇所における主イエスのお言葉を、そのご生涯全体の中に位置づけていきたいと思います。「天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる」と主イエスはおっしゃいました。そのようにおっしゃった主イエスは、この後どうなさったのでしょうか。主イエスは、律法学者やファリサイ派の人々の激しい敵意によって、捕えられ、十字架につけられて殺されたのです。主イエスもまた、殺された預言者の一人に加えられたのです。主イエスを捕え、殺した人々が、そのことの責任を問われて神様の裁きを受けたとは、この福音書も、他の箇所にも語られていません。「今の時代の者たちが責任を問われることになる」というみ言葉はいったいどうなってしまったのでしょうか。その責任は誰に問われたのでしょうか。驚くべきことに、主イエスご自身がそれを引き受けて下さったのです。神様のみ言葉を拒み、ねじ曲げ、預言者を殺す私たちの罪の責任を、主イエス・キリストご自身が引き受け、背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。そのことによって、私たちには、罪の赦しと、新しい命が与えられたのです。主イエスのご生涯の全体から、私たちはこのことを見つめることを許されています。本日の箇所の、主イエスのお怒りの言葉、私たち自身も襟を正して聞かなければならない厳しいお言葉を、私たちはこの主イエスの十字架による罪の赦しの恵みの中で聞いているのです。
恵みのみ言葉として
私たちは、神様の恵みのみ言葉を倫理道徳の教えへとねじ曲げてしまい、自分にとっても隣人にとっても重荷としてしまうようなことを繰り返しています。人に背負いきれない重荷を負わせ、自分では指一本もその重荷に触れようとしないのが私たちの姿です。しかし主イエスは、私たちが自分でも背負い込み、お互いどうしの間でも負わせ合っている重荷に、指を触れるどころか、それを私たちから取り上げて、代って背負って下さったのです。そしてその重荷に押しつぶされるように、十字架の上で苦しみ、死んで下さったのです。この主イエスの十字架の死によって、私たちは、神様のみ言葉を、律法を、重荷としてしまうような間違った信仰から解放されるのです。この主イエス・キリストを信じる信仰は、負いきれない重荷を背負わされてあえぎながら生きるような喜びのない歩みではありません。またみ言葉を守るべき掟と勘違いして、自分がそれをどれだけ守っているかに一喜一憂し、他の人と自分をいつも見比べながら歩むような、つまり人間ばかりを見つめて生きるものでもありません。私たちは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストをこそ見つめて生きるのです。そのことによってこそ、聖書に記されている神様のみ言葉を恵みのみ言葉として読み、聞くことができます。そして、神様の恵みのみ言葉を倫理道徳の教えへとねじ曲げ、自分にとっても隣人にとっても重荷でしかないものへと変質させようとする、私たちの誰もがかなり根深く持っている間違ったとらえ方から解き放たれていくのです。そのようにして私たちは、主イエス・キリストによって与えられた救いの恵みに感謝し、喜びをもってそれに応答していく信仰の生活を送っていくのです。本日の午後、教会全体研修会を行います。その主題は「福音の喜びに生きるために」です。私たちは福音を、つまり神様による救いを告げる喜びの知らせを信じて生きるのです。その喜びに生きるためには、神様のみ言葉をねじ曲げることなく正しく受け止めなければなりません。そのための大切な導きが、本日の箇所においても与えられているのです。