主日礼拝

日毎の糧と罪の赦し

「日毎の糧と罪の赦し」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 箴言 第30章5-9節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第11章1-4節
・ 讃美歌: 300、113、453

主イエスを信じる者の祈り
 「ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」という弟子たちの願いに応えて、主イエスが「祈るときには、こう言いなさい」と教えて下さったのが「主の祈り」です。洗礼者ヨハネの弟子たちは、ヨハネから教えられた祈りを祈っていました。主イエスの弟子たちは、主イエスが教えて下さった「主の祈り」を祈るのです。これはとても大事なことです。どのような言葉で祈っているかに、その人の信仰が現れます。その人が神様とどのような関係を持っているかが、祈りに現れるのです。ですから、祈っていないということには、信仰がないことが現れます。神様との関係を持っていないことが、祈らないことに現れるのです。そして私たちは、基本的に祈ることのできない者です。生まれつき神様に背を向け、背き逆らっている罪のゆえに、神様としっかり関係を持って生きることができない、それゆえに祈りの言葉を持っていないのです。その私たちに、主イエスが祈りの言葉を教えて下さいました。それが「主の祈り」です。先週も申しましたようにそれは、お祈りの言葉を一つ教えて下さったのではなくて、神様との新しい関係を与えて下さったのです。神様に「父よ」と呼びかけつつ神様の子供として生きる新しい関係を、主イエスが私たちと神様との間に打ち立てて下さったのです。それは言い換えれば、私たちに信仰を与えて下さったということです。信仰とは、何かの思想や信条を持つことではなくて、神様との交わり、対話に生きることです。つまり神様に語りかける祈りの言葉を持つことです。主イエスは私たちに、その祈りの言葉を与えて下さいました。それによって私たちに、神様との交わりに生きる信仰を与えて下さったのです。ですから、「主の祈り」を祈ることこそが、主イエスを信じる私たちの信仰なのです。

神と人間の秩序
 このように「主の祈り」には、主イエスが私たちに与えて下さった信仰が、私たちが神様とどのような関係を持って生きる者とされているのかが描き出されています。本日は、その後半部分、ルカによる福音書第11章3、4節をご一緒に読みたいと思います。「主の祈り」は前半と後半とに分けられます。ルカ福音書においては、前半の祈りは二つ、「御名が崇められますように」と「御国が来ますように」です。これらは神様のことを祈っています。後半は3、4節です。そこには三つの祈りがあり、それらはどれも「わたしたち」のことを祈っています。前半では神様のことを祈り、後半では私たちのことを祈る、その順序が先ず大事です。それは、10章27節に語られていた、律法の教えの要約とつながります。そこではある律法の専門家が「あなたは律法をどう読んでいるのか」という主イエスの問いに答えて、律法全体を二つのことにまとめました。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」です。主イエスもそれを聞いて「正しい答えだ」とおっしゃいました。この二つのことにはやはり順序があります。先ず神様を心から愛し、それから隣人を自分のように愛するのです。「主の祈り」にもそれと同じ順序があります。先ず神様のことを祈り、それから自分たち人間のことを祈るのです。この順序、秩序を私たちは大切にしなければなりません。これをひっくり返してしまうと、人間の事柄を第一とし、神様を人間の都合のために利用しようとする罪に陥ることになるのです。主の祈りを祈ることによって私たちはいつも、神様と人間との間のこの秩序を確認するのです。

生きるために必要なパン
 さてその後半、私たちのことについての祈りの最初は、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」です。「糧」という言葉は「パン」という意味です。この言葉は私たちが地上で肉体をもって生きていくために必要な全てのものを代表しています。4章4節の「人はパンだけで生きるものではない」という言葉における「パン」と同じ意味で使われています。あそこで言われていたのは、「主食のパンだけでは生きていけない。おかずも必要だし、住む所も着る物も必要だ」ということではありません。それらの全てを代表してパンと言っており、私たちはそのパンだけあれば生きることができるものではない、と言っているのです。しかしそこでも語られているように、パンは私たちが肉体をもって生きて行く上で絶対に必要なものです。そのパンを神様に祈り願うようにと主イエスは教えて下さいました。父なる神様が、生きるために必要なパンを与え、私たちを日々養って下さる、私たちがその恵みによって支えられて生きる者となるために、主イエスはこの祈りを教えて下さったのです。

日用の
 ところで私たちが祈っている「主の祈り」においてはこの祈りは「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」です。口語訳聖書でも「わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください」となっていました。このように「日用の糧、日ごとの糧」と訳されていた言葉が、新共同訳では「必要な糧」となっています。それは同じ言葉の解釈の違いです。ここの原文に用いられている言葉は、他の所ではあまり使われていないために、意味は推測するしかありません。一つの推測が、「日用の、日ごとの」という読み方です。そのように読むならば、その日の糧をその日に、ということに強調が置かれている、ということになります。一日一日を、神様が与えて下さる糧によって生きていく、それが主イエスを信じる信仰者の生活だ、ということです。このことに関しては、出エジプト記において、荒れ野を旅していくイスラエルの民のために神様が与えて下さった天からのパンであるマナを思い起こします。マナは毎日与えられ、その日の分だけを集めて食べるのです。明日や明後日の分まで集めて取っておいたものは、腐って食べることができませんでした。それはマナは日持ちが悪かったという話ではありません。何故なら金曜日には、翌日の安息日の分まで二日分を集めるように命じられており、金曜日に集めたものだけは翌日も食べることができたからです。このことは、神様の民は毎日、その日その日に神様から与えられる糧によって生きるのだ、ということをイスラエルの民に教えるための神様による教育でした。神の民となり、つまり信仰をもって生きるとは、その日暮らしをすることです。一日一日、その日の糧を神様から与えられて、それによって養われて生きるのです。明日や明後日の分まで蓄えておいて、それで安心することはできません。蓄えによって安心を得ようとするのは、自分が持っているもの、人間の力に頼り、それを拠り所としようとすることです。神様との関係、信仰においては、私たちは自分の持っているもの、自分の蓄えに頼ることはできません。毎日新たに神様から糧をいただいて、その日その日を生きるのです。それこそが、神様を信じて生きるということです。このことは、次の12章に語られている「愚かな金持ちのたとえ」とつながっていきます。倉に一杯になる穀物の蓄えを得て、これでもう何年も生きていける、と安心した金持ちに、神様が、あなたの命は今夜取り去られるのだと告げたという話です。人間の蓄えに頼り、神様からの糧を受けようとしないことの「愚かさ」をこのたとえは語っています。そしてこのたとえに続いて12章には、「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな」という教えが語られていきます。思い悩まなくてよいのは、神様が糧を与えて下さるからです。日々、神様が与えて下さる糧によって養われていくことによって、「何を食べようか、何を着ようか」という思い悩みから解放されるのです。これと同じことを語っているマタイ福音書の第6章の終わりには、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」という教えがあります。これは、「その日の糧を今日与えてください」という祈りと通じるものがあると言えるでしょう。

必要な糧
 それに対して新共同訳のようにこれを「必要な糧」と読むならば、今度は、私たちが生きていく上で本当に必要な糧とは何か、ということに焦点が当てられていきます。勿論、パンに代表される様々な糧が必要です。それを神様がその日ごとに与えて下さることを祈り求めるわけですが、しかし「人はパンだけで生きるものではない」のであって、私たちにとって本当に必要な糧はそれだけではないのです。このことを、毎週の礼拝前の求道者会で学んでいる「ハイデルベルク信仰問答」から考えてみたいと思います。これは来週の求道者会で読む所ですが、問125の「第四の願いは何ですか」という問いに対する答えにこうあります。「『われらの日用の糧をきょうもあたえたまえ』です。すなわち、わたしたちに肉体的に必要なすべてのものを備えてください、それによって、わたしたちが、あなたこそ良きものすべての唯一の源であられること、また、あなたの祝福なしには、わたしたちの心配りや労働、あなたの賜物でさえも、わたしたちの益にならないことを知り、そうしてわたしたちが、自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、ただあなたの上にのみ置くようにさせてください、ということです」。主イエスがこの祈りを教えて下さったのは、私たちが、父なる神様こそ「良きものすべての唯一の源であられる」と知るためであり、その神様の「祝福」なしには、私たちの労苦も、得るものも、神様の賜物でさえも無益であると知るためなのです。つまり神様の祝福こそが、私たちが生きるために本当に必要な糧なのです。神様の祝福、それは神様とのよい関係と言い換えることができます。神様が私たちを愛していて下さり、良きものを与えて下さる、そして私たちはその神様を信頼して生きる、そういう関係の中でこそ、神様が与えて下さる糧は本当に私たちを生かすものとなるのです。
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、箴言第30章の8、9節にこうありました。「むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません」。飽き足りれば、自分の力で生きているように錯覚し、主など何者かと言う、貧しければ盗みを働いてみ名を汚す、それが私たちの姿です。「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」という祈りは、私たちがそのどちらにも陥らずに、神様との良い関係を保ち、主が私たちのために定め、与えて下さる糧によって養われ、主に感謝しつつ、み名をほめたたえつつ生きていくために与えられているのです。

罪を赦してください
 後半の第二の祈りは、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」です。この訳が、原文の順序に忠実な訳です。この訳によって、これが自分の罪の赦しを神様に願い求める祈りであることがはっきり分かります。私たちがいつも祈っている言葉は「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」です。またここの口語訳も「わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください」となっていました。これらの訳では、私たちが自分に罪を犯している者を赦すことが先に来ていて、私たちの思いはそこに集中します。しかもルカはご丁寧に「皆」という言葉を加えています。それで私たちはこの祈りを祈る時、果して自分は自分に対して罪を犯す人を皆赦すことができているだろうか、ということにひっかかってしまうのではないでしょうか。しかしこの祈りは基本的に、「わたしたちの罪を赦してください」という祈りなのです。その前提には勿論、自分は神様の前で罪人だということがあります。私たちの罪は、神様との関係を破壊します。神様との交わり、対話に生きることを不可能にします。罪のゆえに私たちは、祈ることを失い、神様と共に生きることができなくなっているのです。しかもその罪は、自分の力で償ったり、何か善いことをすることによって帳消しにできるような生易しいものではありません。私たちは自分の罪をどうすることもできないのです。もう罪を犯さないようにしようといくら決心して努力しても、結局罪を重ねていくことしかできないのです。この罪は、神様によって赦していただくしかありません。神様による赦しなしには、私たちの罪の問題は解決しないのです。この祈りはその赦しを願い求めています。それはずうずうしいことです。さんざん罪を犯し、神様に背き逆らっておいて、今さら赦してくださいなどと言えた義理ではないのです。しかし主イエスは、私たちがこのように祈ることができるようになるために、人間となってこの世に来て下さり、十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架の上で死んで下さったことによって、私たちはこのずうずうしい祈りを祈ることができるのです。「主の祈り」と主イエスの十字架はこのように密接に結び合っています。私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスが「こう祈りなさい」と命じて下さったからこそ、私たちは安心して、「罪を赦してください」と祈ることができるのです。

人の罪を赦すことの中で
 しかしそこに、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」という言葉が付け加えられています。先ほど申しましたように私たちはこの言葉に目を奪われがちです。しかしこれはあくまでも、付け加えられている言葉です。つまり後半の二つ目の祈りの中心は、「わたしたちの罪を赦してください」という願いにあるのです。付け加えられているこの言葉は、神様が私たちの罪を赦して下さるために私たちが準備しなければならない前提条件ではありません。主イエスが教えて下さったこの祈りは、「条件付きの赦し」を語っているのではないのです。それではこの言葉は何のために付け加えられているのか。それは、私たちが、神様が与えて下さる罪の赦しの恵みを本当に受けて、その中で生きるためです。主イエスによって与えられている、神様との新しい関係に生きるため、と言い換えることもできます。神様による罪の赦しの恵みは、私たちが自分に対して罪を犯す人を赦すことの中でこそ体験されていくのです。人の罪を赦すことの中でこそ私たちは、神様が私たちの罪を赦して下さった、そのみ心を感じ取ることができるのです。自分に対して罪を犯している人のことが、「自分に負い目のある人」と言われています。人が自分に対して犯している罪は「負い目」「負債」つまり借金として描かれているのです。それを赦すとは、借金を帳消しにすることです。すると、貸した金が返って来ないわけですから、自分は損をするのです。人の罪を赦すとは、損害を、苦しみを引き受けることです。そういう具体的な体験を通してこそ、私たちは、私たちの罪を赦して下さる神様のみ心を知ることができるのです。私たちの罪を赦して下さるために、神様の独り子イエス・キリストが、十字架の苦しみと死を引き受けて下さいました。神様が私たちのためにそのような損害を、苦しみを引き受けて下さったことによって、私たちは罪の赦しの恵みをいただいたのです。「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という祈りは、主イエス・キリストがその十字架の苦しみと死とによって私たちのために打ち立て、与えて下さった神様と私たちの関係の中を生きていくために、即ち、神様が罪人である私たちを愛して下さり、罪を赦して下さり、子として迎え入れて下さり、その恵みの中で私たちが自分の罪の赦しを信じて、神様に「父よ」と呼びかけ、神様の愛と養いに信頼して生きていくために与えられているのです。

誘惑に遭わせないでください
 第三の祈りは、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」です。私たちが祈っている言葉では「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」です。ルカにおける「主の祈り」には、「悪より救い出したまえ」にあたる部分がなく、「誘惑に遭わせないでください」だけです。誘惑とは、私たちを神様のもとから引き離し、神様を信じ、従っていく道からそらせようとするあらゆる力、誘いです。要するに信仰を失わせようとする力であり、神様との交わりに生きることを妨げる力です。この世には、私たちの人生には、そういう誘惑が満ちています。それはいわゆる「罪への誘惑」という分かりやすいものから、一見それと分からないものまで様々です。私たちは先週と今週、「主の祈り」を味わうことによって、主イエスが打ち立てて下さった、神様と私たちとの新しい関係を見てきました。それは、神様の御名こそが聖なるものとされ、神様の御国、ご支配の到来をこそ待ち望むこと、また神様こそが私たちに必要な糧を日々与えて下さることを信じ、神様の祝福をこそ願い求めること、そして主イエスの十字架の死によって神様が自分の罪を赦して下さったことを信じ、その恵みの中で、自分に罪を犯す人を赦していくことです。私たちが神様との間にこのような関係を持って生きることを妨げるものは全て「誘惑」です。ですからそれは自分の名誉欲だったり、人を支配しようとする思いだったり、自分の力で糧を得て生きているかのように錯覚することだったり、神様の養い、育みを信じることなく自分でなんとかしようとする結果盗みを働いてしまうことだったり、神様が自分の罪を赦して下さることを信じることなく絶望してしまうことだったり、また神様の赦しをいただいていながら、人の罪を赦そうとしないことだったりするのです。それらの誘惑に遭わせないでください、と祈るように主イエスは教えて下さいました。これらの誘惑は私たちがこの世を生きる限り常につきまとっています。しかしその中で、これらの誘惑に負けてしまい、主イエスが十字架の死と復活によって与えて下さった神様との新しい関係を失ってしまうことがないように守って下さいと、私たちは神様に祈るのです。それもまた、ずうずうしい祈りだとも言えます。神様が私たちを誘惑に遭わせているわけではありませんし、誘惑に負けるのは私たちなのですから、それと戦うべきなのも私たちなのであって、神様にお願いするような筋合いではないのです。しかし主イエスは、このように祈りなさいと私たちに命じて下さいました。「主の祈り」を教えて下さることによって主イエスは、主イエスの父であり、私たちの父ともなって下さった神様が、これらの誘惑から私たちを守り、神様とのよい交わりの中を生き続けることができるようにして下さる、と約束して下さったのです。「主の祈り」にこそ、私たちに与えられている神様とのよい関係が描き出されており、「主の祈り」を祈りつつ生きることによってこそ、この関係の中に留まり続けることができるのです。「主の祈り」を日々祈りつつ生きることこそが、私たちの信仰なのです。

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