主日礼拝

安息日の主

「安息日の主」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 申命記 第5章12-15節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第6章1-11節
・ 讃美歌: 309、127、455

ファリサイ派の批判
 ルカによる福音書の5章から6章にかけて、ファリサイ派の人々が繰り返し登場します。この人々が、主イエスや弟子たちに対して、いろいろなことで批判をしているのです。主イエスが中風を患っている人に「あなたの罪は赦された」と言うと彼らは、「神お一人の他に罪を赦すことのできる者はいない、イエスは神を冒涜している」と思ったと5章21節にあります。また主イエスと弟子たちが徴税人レビの家で、徴税人や罪人たちと宴会の席に着いていると、彼らが、「あんな罪人たちと同席するなんて」と批判したと30節にあります。本日の箇所、6章の1節以下にも、ファリサイ派のある人々が主イエスと弟子たちを批判したことが語られています。このたびの批判の理由は、ある安息日に、主イエスと弟子たちが麦畑を通っておられた時に、弟子たちが麦の穂を積んで手でもんで食べたことでした。それを見たファリサイ派の人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言ったのです。

安息日の掟
 彼らが批判していることは何かを先ず知っておく必要があります。人の麦畑で勝手に穂を積んで食べたのがいけないと言っているのではありません。それは神様から与えられた掟である律法において許されていました。空腹である者は、人の畑の作物を取って食べてもよいのです。しかし、自分が食べる以上に採ってそれを売ったりすることは許されていません。自分の飢えをしのぐことのみが許されているのです。畑の所有者はそれを許すことによって貧しい人、飢えている人を助けるべきことを神様は命じておられるのです。ファリサイ派の人々が批判したのは、弟子たちがこれをしたのが安息日だったからです。安息日には、一切の仕事をやめて休むことが律法に定められています。しかし麦の穂を摘むことは刈り入れという仕事に当り、手でそれをもんだのは脱穀という仕事に当る、それゆえにこれは安息日にしてはならないことだ、とファリサイ派の人々は言っているのです。私たちにとってはこれは滑稽な話に思われます。しかしユダヤ人たちは、安息日の掟を非常に大切に守っていました。それをしっかり守るために、安息日にしてもよいこと、つまり仕事には当らないことは何か、してはならないこと、つまり仕事に当ることは何か、のリストが作られていったのです。例えば、ルカ福音書の続きに当たる使徒言行録の1章12節を読むと、安息日に歩いてもよい距離が定められていたことが分かります。その他にも様々な細かいことが規定されていました。安息日には煮炊きをしないために、前の日に作っておいたものを食べるとかです。今もそうなのかどうかは知りませんが、しばらく前までは、エルサレムに行くと、安息日の間は、ホテルのエレベーターが各階止まりになるのです。それは、目的の階のボタンを押す、という「仕事」をしないですむためです。ユダヤ人にとって安息日は今でもこのように徹底して守るべきものなのです。紀元前の時代には、敵に攻められた町の人々が、安息日だったので一切抵抗をせずに全滅した、という悲劇的事実すらあります。ユダヤ人はまさに命がけで安息日を守ってきたのです。彼らはそのことによって自分たちが神様の民であることを確認しているのでしょう。難しい言い方をすれば、民族のアイデンティティーをそこで確認しているのです。安息日を守ることは、世界中どこにいてもできるし、またそれは具体的な生活に現れますから、それによって周囲の人々との違いをはっきりさせることができます。安息日によって、自分たちはユダヤ人だということを明確にすることができるのです。ですから、何曜日に営業を休んでいるかによって、その人ないし家族の宗教が、そしてユダヤ人の場合にはほぼユダヤ教徒=ユダヤ人ですから、民族が分かります。ユダヤ教における安息日は週の七日目の土曜日です。ですから土曜日に休んでいれば、その人はユダヤ教徒です。キリスト教は安息日を主イエスの復活の日である日曜日に移しましたから、日曜日に休むのは基本的にキリスト教の世界の人です。イスラム教の安息日は金曜日ですから、金曜日に休んでいればムスリム、イスラム教徒であると分かります。そして、全然休まずに営業している店があったら、あれは日本人だ、ということになるとかならないとか…。このように、安息日の掟は、ユダヤ人にとって、自分たちがユダヤ人であることのしるしとなるような大事なものなのです。

ファリサイ派
 ファリサイ派の人々というのは、神様の律法を厳格に守り、そのことによって神の民としてしっかりと生きようとしていた人々であり、また世俗化していきがちなユダヤ人たちに律法を守る神の民としての生き方を教え導こうとしていた人々です。つまりこのファリサイ派は、世俗の人々から離れて自分たちだけで修道院のような所に籠って聖なる民として生きようとしていたのではなくて、積極的に人々の間に出て行って教えを説き、律法に従って生きることを勧め、その生活を指導しようとしていたのです。それゆえに彼らは、主イエスとその弟子たちが、彼らの基準では律法に反する生活をしながら、神の教えを説いていることに我慢がならないのです。彼らがいろいろなことで文句を言い、批判しているのはそのためです。そしてこのたびは、安息日をどう守るかという重大な点における批判がなされたのです。

供えのパンを食べたダビデ
 主イエスはこの批判を正面から受け止め、それに答えていかれました。「ほんのちょっと穂を摘んで食べただけなんだから、そんなに目くじら立てるようなことではないだろう」などとごまかしたりはなさらないのです。主イエスは3、4節でこうおっしゃいました。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか」これは旧約聖書サムエル記上21章にあるダビデの話です。ダビデはこの時既に神様のみ心によってサムエルから油を注がれてイスラエルの新たな王として立てられていましたが、実際にイスラエルを支配しているのは現在の王であるサウルです。ダビデはそのサウルの妬みによって命を狙われ、逃亡の身でした。そのダビデが、ある聖所において祭司にパンを求めたのです。しかしそこにはあいにく、律法において祭司しか食べてはならないと定められている供えのパン、つまり神様に捧げるものとして取り分けられていた聖別されたパンしかありませんでした。サムエル記の話では、祭司アヒメレクがそのパンをダビデに与えたとなっています。ルカはそれを、ダビデ自身が取って食べ、供の者たちにも与えたとしています。つまりルカはダビデが自らの判断で、祭司にしか許されていないパンを食べ、供の者たちにも与えたということを強調しているのです。そしてそれを受けて5節で「人の子は安息日の主である」とおっしゃいました。「人の子」というのは主イエスがご自分のことをおっしゃる時に使われた言い方です。主イエスはここで、神様によって王として立てられていたダビデが自分の判断で、律法では食べてはならないとされていたパンを食べ、供の者たちにも与えたように、主イエスも、安息日の主として、弟子たちの空腹を満たしてやるために、安息日にはしてはならないとされていることでも行なうことができるのだ、と言っておられるのです。

神のみ心を行う
 ダビデの事例を持ち出すことで主イエスが何を語ろうとしておられるのかを私たちは正確につかまなければなりません。これは、ダビデは王様としての権威を与えられていたのだから、必要とあれば律法を超えて、それに反することだってすることができた、だから自分もまことの主として、安息日の律法に反することをすることができるのだ、ということではありません。王様なら律法を破ってもよい、などということは聖書のどこにも語られてはいません。むしろ王様こそ、人々の先頭に立って誰よりもきちんと律法に従って、つまり神様のみ心に従って歩むべきだ、というのが聖書の教えです。ダビデがしたことは、律法を無視して勝手に行動した、ということではないのです。そうではなくて、彼がしたことは、神様のみ心に適うこと、神様が望んでおられることだったのです。神様はダビデをイスラエルの王として選び、立て、王位を与えようとしておられます。しかし今、サウルによって命を狙われ、逃亡の身です。そのダビデが空腹によって弱り、逃亡を続けることができなくなり、サウルに捕えられてしまうことは、神様のみ心ではないのです。それゆえに、ダビデが供えのパンを食べて力づけられ、命を救われることは、神様のみ心に適うことです。そのパンがそのように用いられることを、神様は願い、また喜んでおられるのです。つまりこのことは、表面的には律法に反することであるように見えるけれども、その律法をお与えになった神様のみ心には決して反していないのです。別の言い方をすれば、律法の目的には反していないのです。神様がイスラエルの民に律法、掟をお与えになったのは、民が神様の民として、その祝福の内に歩み、神様の守りと導きを受け、また神様をしっかりと拝み、仕えて歩むためです。その目的のためにこそ律法はあるのであって、表面的な字づらを守ることが目的ではないのです。そういう意味で、ダビデと供の者たちがここで供えのパンを食べることは、律法の目的に叶うことなのです。つまり律法は、神様の掟は、それが何を目指しているのか、神様がその掟においてどのようなことを求め、願っておられるのかをわきまえつつ受け止めなければなりません。それこそが、律法を正しく守ることなのです。

律法を正しく守るとは
 主イエスがそのことを明らかにするためになさったことが6節以下に語られています。ここは6節にあるように、ほかの安息日に、会堂で教えておられた時のことです。そこには右手の萎えた人がいました。主イエスは以前、4章31節以下のところで、やはり安息日に会堂で教えておられた時に、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出し、お癒しになりました。それで、7節にあるように、律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、つまり主イエスが安息日の律法を破っていると訴える材料を得ようとして、安息日に病気をいやされるかどうか、注目していたのです。8節に「イエスは彼らの考えを見抜いて」とあります。この人々が自分を訴える口実を見つけるためにここに来ていることをはっきり知った上で、主イエスは手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」とおっしゃいました。そのようにした上で主イエスは彼ら律法学者やファリサイ派の人々に、「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」と問われたのです。これは主イエスの彼らに対する挑戦です。主イエスはここで、先ほどのこと、つまり律法を正しく守るとはどういうことなのか、それは、その掟をお与えになった神様の意図、目的をこそ見つめて、それに従うことではないのか、という問いを突き付けておられるのです。

安息日の目的
 「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。これは、安息日の律法が何のために与えられているのか、という問いです。それは善を行い命を救うことなのか、それとも悪を行い命を滅ぼすことなのか。ここで主イエスが「どちらか」と問うておられることは二つとも、何かを「する」ことです。ファリサイ派の人々は、安息日は何かを「しない」日だと思っています。人間の営み、仕事を「してはならない」日が安息日であり、そのしてはならないこととは何かのリストを作り、弟子たちのしたことはそのリストに違反する、と言っているのです。しかし主イエスは、その「してはならない」という戒めによって神様が私たちに求めておられるのは、み心に従って善を行い、命を救うことだと言っておられるのです。
 このことは、この安息日の掟が十戒の第四の戒めとして与えられたことを語る聖書の言葉によってしっかりと裏付けられます。十戒が与えられたことは旧約聖書の中に二か所語られています。第一は出エジプト記の20章です。その8~11節が安息日に関する戒めです。そこにはこうあります。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。これは一見、「いかなる仕事もしてはならない」というだけの命令であるように見えます。しかしそこに、「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」とあることが大事です。つまり自分が仕事を休むだけでなく、自分の家族や、自分の保護の下にいる人々、いや人々だけでなく家畜にまで、神様が七日目にお休みになった、その安息を与え、それにあずからせなければならない、と命じられているのです。つまり彼らに休みを与えよということです。そのためにこそ、一家の主人であるあなたが仕事を休み、日々の営みを停止するのです。そうしなければ、彼らに安らぎが与えられないからです。このことは、十戒が与えられたことを語るもう一つの箇所、本日共に読まれた申命記の第5章を読むとよりはっきりと語られています。その12~15節をもう一度読みます。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」。14節の終わりに、「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」とあることに注目しなければなりません。あなたの下にいる奴隷たちに休みを与えること、これが安息日の律法の大切な目的の一つなのです。そしてその根拠として15節には、あなた自身がかつてエジプトで奴隷であったが、主なる神様がそこから導き出し、奴隷の身分から解放して下さった、ということがあげられています。出エジプト記の20章においては、神様が天地創造のみ業において七日目に休まれたことが安息日の根拠とされていますが、申命記では、エジプトの奴隷状態からの解放の恵みが安息日の根拠なのです。それは、あなたの下にいる奴隷たちにも休みを与えるためです。奴隷の苦しみに喘いでいる人々に、神様の解放の恵みを味わわせ、希望を与える、そのために安息日が定められているのです。
 それゆえに安息日は、何もしないでいるための日ではなくて、神様が求めておられる善を行い、苦しみの中にある人の命を救うための日です。それこそが、この掟をお与えになった神様のみ心に適うことなのです。逆に、そのような善を行わず、人の命を救うことを何もしないでいることは、悪を行い、命を滅ぼすことになる、善を行い、命を救うことの反対は、善を行わず、命を救わないことではなくて、悪を行い、命を滅ぼすことなのだ、と主イエスは言っておられるのです。
 このように問いかけた後、主イエスは一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われました。するとその人の萎えた手が元どおりになったのです。癒されたのです。病の奴隷とされて苦しんでいたその人に、主イエスによる解放の恵みが与えられたのです。それこそが、安息日の目的、安息日をお与えになった神様のみ心の実現なのです。

安息日の主
 ここから、先ほどの5節で主イエスが言われた「人の子は安息日の主である」というお言葉の意味が見えてきます。先ほど申しましたようにこれは、ダビデは王だから律法に違反することだってできた、自分も安息日の律法に反することができる主なのだ、ということではありません。ダビデは律法をお与えになった神様のみ心に適うことを行なった、それと同じように自分も、安息日の掟の目的、それをお与えになった父なる神様のみ心を行うのだ、私こそ、安息日の目的であるまことの安息、奴隷状態からの解放の恵みを実現する安息日の主である。主イエスはこう言っておられるのです。

主イエスへの殺意
 主イエスはこのようにファリサイ派の人々に真っ向から挑戦する問いを投げかけた上で、手の萎えた人を癒されました。それを見た彼らは、11節にあるように、「怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」のです。「何とかしよう」とは、殺してしまおうということです。安息日の掟をめぐるこの対決によって、ファリサイ派の人々の中に、主イエスに対する殺意が生まれたのです。主イエスがご自分を安息日の主であると宣言された、そのことが、十字架の死へとつながっていったのです。これはまことに意味深いことです。なぜならば、主イエスの十字架の死によってこそ、私たちのまことの安息が、罪の奴隷状態からの解放が実現したからです。主イエス・キリストは、神様をも隣人をも愛するのではなく憎んでしまう罪に支配されている私たちが赦され、解放されて、神様の恵みの中で自由に、のびのびと、神様と隣人を愛して生きる者となるために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。十字架にかかって死んで下さり、そして復活された主イエスこそ、私たちを本当に解放し、まことの安息を与えて下さる安息日の主なのです。

善を行い、命を救う
 安息日の主であるイエス・キリストが与えて下さるまことの安息に生きることは、積極的に善を行い、命を救うことです。主イエスの救いにあずかる私たちは、十戒に代表される神様の掟、戒めの本当の目的、神様が何のためにそれを与えて下さっているのかを知って、そのみ心を積極的に行っていくことができるはずなのです。しかし私たちはともすれば主イエスの教えを、ファリサイ派の人々と同じような思いで受け止めてしまうことがあります。つまり、してはいけないことのリストを積み上げて、それを守ることが信仰であると勘違いをしてしまうのです。そこには、自分は何かしてはいけないことをしてしまっていないだろうか、といつもびくびくしているような、また、こんなことをしてはいけない、と人から批判されることを恐れてばかりいるような、喜びのない、消極的な信仰生活しか生まれません。あるいは、他者の信仰のあり方について、あんなことはすべきでない、あれは信仰者として問題だ、と批判し、裁いてばかりいるような歪んだ信仰に陥るのです。そのような間違いに陥るのは、不真面目な、いいかげんな信仰者ではありません。真面目な、一生懸命な信仰者が、しかしそういう人間の真面目さに常につきまとう、自分の業を拠り所とし、人と自分とを見比べて誇ろうとする思いによって、ファリサイ派的な信仰のあり方に陥るのです。ファリサイ派の人々も、とても真面目な、信仰に熱心な人々でした。自分が熱心なだけでなく、人々をも導こうという熱意に溢れていました。ということは、今日の日本の社会において、彼らに最も似ているのは私たちキリスト信者だと言えるのです。それゆえに私たちは、自分たちが世間の誰よりもファリサイ派的な信仰に陥りやすい者だということをわきまえて、常に気をつけていなければなりません。主イエスの福音は、ファリサイ的な信仰とは全く違うものです。それは、「あれをしてはいけない、これは相応しくない」という消極的な教えではなくて、神様と隣人を愛して、善を行い、命を救うことに積極的に喜んで生きることを生む教えなのです。私たちの安息日、主イエスの復活を記念するこの主の日の礼拝によって、私たちはそのような積極的に喜んで生きる歩みへと押し出されていくのです。

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