「大きな喜びを告げる」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: イザヤ書 第40章9-11節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第2章9-20節
・ 讃美歌:2、251、459、72
羊飼いたちへのお告げ
主イエス・キリストがユダヤのベツレヘムでお生まれになった晩、その地方で野宿をしながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が現れ、救い主の誕生を告げました。それに合わせて天使たちの大軍が現れて賛美を歌いました。羊飼いたちはベツレヘムへ行き、飼い葉桶に寝かされている幼子イエスに会い、神様を賛美しながら帰って行きました。クリスマスに、教会学校の子供たちによって演じられる聖誕劇、ページェントの重要な一シーンであり、クリスマス物語の中心と言ってもよい場面です。本日はこの場面を語るルカによる福音書第2章8節以下をご一緒に読みます。教会学校ではもうクリスマスの準備が始まっておりまして、皆で歌うハレルヤコーラスの練習も先週から始まりました。しかし10月の始めというこの時期は、まだクリスマスには早いと言わなければなりません。前にも申しましたが、このようなクリスマスとは関係ない時期にこの箇所を読むことによって、かえって、クリスマスの祝いを離れてじっくりとこのみ言葉に耳を傾けることができます。すると、クリスマスに読むのとはまた違った調べが、この箇所から聞こえてくるのです。その調べに耳を傾けていきたいと思います。
神様の独り子であられる救い主イエス・キリストが、私たちと同じ一人の人間として、母マリアの出産によってこの世にお生まれになったことをルカによる福音書第2章は語っています。それはユダヤのベツレヘムにおいてであり、生まれた主イエスは布にくるまれ、飼い葉桶の中に寝かされた、ということが7節までに語られています。8節以下は、この出来事が、神様によって最初に羊飼いたちに伝えられたことを語っています。主イエスの誕生は、この世の片隅において起った出来事でした。人々はその誕生を喜び祝うどころか、そのようなことが起ったことを誰も知らなかったのです。王宮の一室で、国民の期待の中で王子様が生まれ、お祝いの花火が上がる、なとどいうのとは違って、誰からも顧みられない中で主イエスは生まれたのです。飼い葉桶に寝かされたということがそれを示しています。赤ちゃんの誕生に備える最低限の準備もない所で、主イエスはお生まれになったのです。そのままだったら、主イエスの誕生は、母であるマリアと夫ヨセフ以外の誰も知らない出来事となったはずでした。しかし神様は、何人かの人々をお選びになって、この出来事とその意味をお知らせになりました。その選ばれた人々としてルカによる福音書に登場するのが羊飼いたちです。神様が、ご自分の独り子をこの世に一人の人間としてお遣わしになった、その重大な出来事を伝える相手としてお選びになったのは、羊飼いたちだったのです。
なぜ羊飼いなのか
なぜ羊飼いなのか、ということについてはいろいろな捉え方ができます。羊飼いは、当時の社会において、差別され蔑まれていた人々だった、とも言われます。それは果してどこまでそうだったのか、疑問もあります。旧約聖書において、本日共に読まれたイザヤ書の箇所もそうですが、羊飼い、牧者というのは、基本的に良いイメージで描かれています。主なる神様が私たちの羊飼いであると歌う有名な詩編23編はその代表です。神様のお姿が羊飼いに重ね合わされているのです。ですから、羊飼いをことさらに差別され、抑圧されていた人々と捉える必要はないでしょう。しかし羊飼いが当時の社会において、決して豊かな、また尊敬されていた人々ではなかったことも確かです。政治的にも経済的にも、決して影響力のある、指導者たちではありません。いわゆる上流階級の人間ではない、一般の庶民です。ですから私たちは羊飼いを、当時の社会において、比較的貧しい部類の普通の人、と理解するのがよいでしょう。当時は圧倒的に多くの人々がその部類に属していたわけで、多くの人々が「自分たちと同じような者たち」として意識する、そういうごく普通の人々を神様はお選びになり、救い主の誕生を告げて下さったのです。
もう一つのポイントは、彼らが野宿しながら羊の群れの番をしていたこと、つまり、彼らは自分の仕事に忙しく励んでいたということです。多くの人々が寝静まっている夜中に、彼らは一生懸命働いていた。そうしなければおまんまの食い上げだから、呑気なことは言っていられない、そのようなこの世の働きのまっただ中にある人々を神様は選んで、救い主の誕生をお告げになったのです。つまり私たちはこの羊飼いたちを特別な人々としてではなくて、基本的には自分と同じような人々として理解することが大事だと思うのです。
恐れ、戸惑い
「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」とあります。神様のみ使いが目の前に現れると人は恐れを感じるというのは、1章以来繰り返し語られてきたことです。それは、生きておられる神様のみ前に立つことは、罪ある人間にとっては基本的に恐れ満ちたことであり、神様が「恐れるな」と言って下さることによってこそ、神様との対話、関係が始まるということを示しています。このことを別の角度から見つめるなら、神様が誰かをお選びになり、この場合には救い主の誕生をお告げになる、そのように神様の語りかけの相手として選ばれた人間は、そのことに恐れと戸惑いを覚える、と言うことができるでしょう。羊飼いたちは、神様との出会いを求めていたわけではありません。当時のユダヤの人々一般と同じように、主なる神様を信じており、自分たちはその神様の民のはしくれだとは思っていたでしょうが、それ以上特に信仰が深かったわけではないでしょう。安息日ごとに礼拝に通っていたとも思えません。安息日だって羊の群れの世話は必要です。そういう日々の忙しい仕事の中で、神様のことなど深く考えることも求めることもなく過ごしていたのだと思うのです。そのような者たちがある日突然神様によって選ばれて、語りかけられる、それは驚きであり、戸惑いであり、さらに言えば迷惑な話でもあったでしょう。自分や家族が生きていくだけで精一杯で、他のことにかまけている余裕などないのに、その自分の歩みに神様が介入して来るのです。放っておいてくれればいいのに、無視できない仕方で語りかけて来られるのです。罪ある人間が神様の前に出ることは恐れに満ちたことであるというのは、そういうことでもあるのです。神様に選ばれ、語りかけられる時、私たちは誰もがこの恐れを覚えるのです。
羊飼いたちに天使は、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と語りかけました。恐れを感じている羊飼いたちに、大きな喜びが告げられるのです。神様に選ばれ、語りかけられる時に私たちに起るのはこういうことです。驚き、戸惑い、迷惑に感じる私たちに、神様は、大きな喜びをお告げになるのです。その喜びとは、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」ということです。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という喜びを天使は告げたのです。
キリスト、主
その「救い主」のことが、「この方こそ主メシアである」と言われています。「主メシア」という訳文には文句をつけざるを得ません。「メシア」と訳されているのは「クリストス」という言葉、つまり「キリスト」です。日本として既に定着しているキリストをわざわざメシアと訳したのです。メシアとは、旧約聖書のヘブライ語における「油注がれた者」という言葉です。その言葉をギリシャ語に置き換えたのが「クリストス」、キリストという言葉です。ですからクリストスをメシアと訳すのは、元のヘブライ語の言葉に置き換えたということです。しかし日本語への翻訳においては、既に一般化している「キリスト」を用いるべきです。ですから、「このかたこそ主なるキリストである」という口語訳のほうが訳としてはるかに良いのです。また原文の語順は「キリスト、主」となっています。つまり、今日お生まれになった救い主はキリストである、旧約聖書において約束されていた、油注がれた者即ち救い主である、この方の誕生によって神様の救いの約束が実現したのだ、ということが先ず語られ、さらに、このキリストは主である、つまり、まことの神として私たちが信じ、礼拝すべきお方なのだ、ということが語られているのです。この、キリストであり主であるあなたがたのための救い主の誕生が、大きな喜びとして告げられたのです。
あなたがたのために
しかしこのことはそれだけでは羊飼いたちにとって本当に大きな喜びにはなりません。「世界の救い主が生まれましたよ」という知らせは、それだけでは、「ああそうですか、よかったですね」という他人事にしかならないのです。これが「大きな喜び」となるための鍵は、「あなたがたのために」という言葉にあります。天使は、これは「あなたがたのため」の救いの出来事だと告げたのです。世界人類のためとか、特別な苦しみや困難の中にいる誰かのためではなくて、あなたのために、神様は救い主を遣わされた、神様が今あなたに、「あなた」という二人称で語りかけ、「私とあなた」という関係を結び、救いの恵みを与えようとしておられる、それが天使の告げた「大きな喜び」なのです。神様に選ばれ語りかけられるというのは、この「大きな喜び」を告げられることです。人類全体への救いという一般論ではなくて、この私のための救いを告げられる、そこに神様の選びがあります。その神様の選びこそ「大きな喜び」なのです。
これがあなたがたへのしるしである
天使は、救い主の誕生があなたがたに与えられている喜びであることのしるしを羊飼いたちに示します。それが12節です。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。この12節は簡単に読み過ごしてしまいがちですが、ここに語られていることを正しく理解することはけっこう難しいことであり、また大事なことであると思います。簡単に読み過ごしてしまう時に私たちはおそらくこのように理解しているのではないでしょうか。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子こそが今日生まれた救い主のしるしだ、そのしるしを頼りに、あなたがたは救い主を見つけることができる」。つまりこの「しるし」は救い主である乳飲み子を見分けるためのしるしだ、という読み方です。しかし、よく読めば分かるように、ここは、「乳飲み子がしるしである」とは言っていません。「これがあなたがたへのしるしである」という「これ」が指しているのは、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」という文章全体です。あなたがたはこれこれの乳飲み子を見つける、そのことがあなたがたへのしるしだと言っているのです。そのしるしは何を指し示しているのでしょうか。それは、この日誕生した救い主が、「あなたがたのため」の救い主であること、神様が「あなたがた」を選んで、「大きな喜び」を告げておられる、ということです。つまりこの「しるし」は、救い主である赤ん坊を他の赤ん坊と区別して見分けるために与えられているのではなくて、神様の救いの恵みが他ならぬこの自分に与えられていることを彼らが確信するために与えられているのです。それゆえに羊飼いたちは、天使が去っていくとすぐに「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と語り合い、ベツレヘムへと急いで行ったのです。そして、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける」というしるしがこうして現実となったのです。
主イエスの誕生の物語を語っているもう一つの福音書であるマタイによる福音書には、救い主の誕生を示され、幼子主イエスのところにやって来た人々として、東の国の博士たちのことが語られています。彼らは、幼子イエスのところに来て、ひれ伏して拝んだ、つまり主イエスを礼拝したのです。しかしルカによる福音書は、羊飼いたちが乳飲み子主イエスを拝んだとは書いていません。羊飼いたちは、主イエスを「見た」のです。そして20節にあるように、「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」のです。つまり羊飼いたちは、主イエスを拝みに来たのではありません。彼らは、乳飲み子主イエスを見ることによって、この日生まれた救い主が自分たちのための救い主であることを確かめたのです。天使の告げた「大きな喜び」を、自分たちの大きな喜びとして受け止めたのです。彼らはそのために来たのです。そして彼らは確かに、これが自分たちの大きな喜びであることを確認して帰りました。「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」というのは、彼らがこの「大きな喜び」を確かに受け止めたことを表しています。「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので」というのは、彼らが天使から聞いたしるしを実際に見たことによって自分たちのための救い主の誕生という大きな喜びを確認した、ということです。天使の告げた大きな喜びは、彼らがみ言葉によって示されたしるしを確かめるためにベツレヘムに行き、飼い葉桶に寝ている乳飲み子主イエスを見た時に、本当に彼らの喜びとなったのです。
主の日の礼拝において
私たちが神様によって選ばれ、語りかけられ、大きな喜びを告げられ、それが本当に私たちの喜びとなっていくことにおいて、これと同じことが起っています。私たちはある日突然、あるいは時間をかけてじわじわと、様々な仕方で神様からの語りかけを受けます。神様が私たちを選び、私たちの人生に介入して来られるのです。そのことによって私たちは恐れ、戸惑い、放っておいてくれればいいのに、とも思います。しかし神様は私たちに、「民全体に与えられる大きな喜び」つまり福音をお告げになるのです。私たちはそれを直ちに喜びと感じるわけではありません。それは最初は自分とは関係のない他人事のように感じられるかもしれません。しかし「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」という思いによってベツレヘムへと出かけていく中で、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける」ということが起るのです。聖書が語っている喜びが、この私に与えられている喜びなのだということのしるしを神様が見せて下さるのです。そのことが起るのが、この礼拝です。私たちが、主が知らせて下さった出来事を見るために出かけていくベツレヘムとは、この主の日の礼拝なのです。そこで私たちは、「今日ダビデの町で、あなたがたのための救い主がお生まれになった」という救いの宣言を聞き、その救い主イエス・キリストがこの自分のための救い主であられることのしるしを見るのです。それはクリスマスにおいてのみのことではありません。毎週の主の日の礼拝において私たちは、このしるしを見るのです。そして、「神をあがめ、賛美しながら」それぞれの生活へと帰って行くのです。
賛美の歌
羊飼いたちはどのような言葉で神様をあがめ、賛美していったのでしょうか。それを示しているのが、14節の、天の大軍による賛美の歌です。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。自分のための救い主が与えられたという恵みをしるしによって示された羊飼いたちは、この天の大軍の賛美の歌に声を合わせていったのです。天においては神に栄光、地においては人々に平和と歌うこの賛美は、主イエス・キリストによって実現する神様の救いをほめたたえています。神様の独り子イエス・キリストによって、神様の栄光が、そのご支配が示され、実現するのです。神様の栄光が現れる時、羊飼いたちがそうであったように、罪人である人間は恐れずにはおれません。神様の栄光とご支配は、罪人の裁き、滅びを意味するのです。しかし神様は、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちの罪を全て赦し、滅びではなく永遠の命の約束を与えて下さったのです。神様が私たちとの間に、罪の赦しという平和を打ち立てて下さったのです。この平和が「御心に適う人にあれ」と言われているのは、御心に適わない罪人には平和が与えられない、だから御心に適う人にならなければならない、ということではありません。罪人である私たちは誰も、「御心に適う人」ではないのです。その私たちを神様は、主イエスの十字架と復活によって赦し、「あなたは私の心に適う」と宣言して下さったのです。私たちがどういう人間であるかによってではなく、独り子の命を与えて下さった神様の愛によって、私たちは「御心に適う人」とされ、神様との間に平和を与えられているのです。神様との間に与えられたこの平和によって私たちは、人間どうしの間にも平和を築いていくための努力していくことができます。地の平和がそこに与えられていくのです。主イエス・キリストの十字架と復活こそ、天における神の栄光と、地における人々の平和を結びつけ、実現していく救いの恵みなのです。この救いが自分のために与えられていることを示された私たちは、天においては神に栄光、地においては人々に平和と賛美を歌いつつこの世を歩んでいくのです。
心に納め、思い巡らす
もう一つのことに注目したいと思います。17節に、「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」とあります。この「人々に知らせた」とはどういうことでしょうか。広く友人や知人たちに救い主の誕生を知らせた、ということならば、ここではなくて20節の「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」の後に語られる方が自然でしょう。ここは、マリアとヨセフ、そして飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てたということに続くところです。そこで「人々に知らせた」とあるのですから、その人々とは、乳飲み子主イエスが寝かされている飼い葉桶の周囲にいる人々と取った方が自然です。羊飼いたちは、マリアとヨセフに、また主イエスの誕生に立ち会った少数の人々に、天使のお告げと賛美のことを語ったのです。そして18節には、「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」とあります。「不思議に思った」は「驚いた」という言葉です。飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を見るという、今彼らが共に体験していることが、あなたがたのための救い主の誕生のしるしであると天使が告げたことを聞いた人々は驚き、そのしるしをどう受け止めたらよいのかと戸惑っているのです。それは、今この礼拝に集い、救い主イエス・キリストを証しする言葉を聞いている私たちの間で起っていることであると言えるでしょう。羊飼いたちのように、このことを大きな喜びとして受け止め、神様を賛美している人々もいるけれども、それが直ちに喜びや賛美にはならず、驚き戸惑っている人もいるのです。その中で、19節の母マリアの姿は印象深いものです。「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」。マリアはこの日、自分のお腹を痛めて主イエスを産んだのです。主イエスの誕生という出来事を、誰よりも身近に、まさに自分のこととして受け止めているのがマリアです。そのマリアは、この出来事を体験し、そして羊飼いたちの語る天使の言葉を聞いて、それらの全てを心に納め、思い巡らしていったのです。そのようなマリアの姿は、2章の終わり、主イエスが12歳になった時の出来事を語っている51節にも出てきます。マリアはそのように、自分が産んだ子である主イエスのことを、その主イエスによって神様が行って下さる救いのみ業を、またそこで与えられるみ言葉を思い巡らしつつ歩んだのです。マリアのこの「心に納め、思い巡らしていく」姿も、あの羊飼いたちの「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」姿も、どちらも、イエス・キリストによる神様の救いの恵みが自分に与えられていることを知らされた信仰者の姿を表しています。本日はこれから聖餐にあずかります。聖餐は、私たちが、主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられた救いの恵み、主イエスによって神様との間に与えられた平和を、私たちが体をもって味わい、それをしっかりと心に納め、思い巡らしつつ歩むために備えられている食卓だと言うことができます。聖餐にあずかることによって、主イエスによる救いの恵みを心に納めて思い巡らしつつ、あの天使の賛美に声を合わせて、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と歌いながら、この週も、この新しい月も、歩んでいきたいのです。