主日礼拝

主イエスの友

「主イエスの友」  副牧師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: イザヤ書 第41章8-16節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第15章11-17節
・ 讃美歌:12、493、448

主イエスの友
 主イエスは、私たちに、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とおっしゃいます。キリスト者とは、主イエスに友と呼ばれる者のことです。誰かに、親しみを込めて友と呼ばれることは嬉しいことです。自分のことを「この人は私の友です」と紹介されれば、誰でも嬉しいはずです。その人が、自分のことを、ある特別な関係にある者として見ているということだからです。そして、友と言って下さる方が主イエスであれば、尚更、嬉しいに違い在りません。しかし、一方で、この事実に、私たちは少なからず戸惑いを覚えるのではないでしょうか。果たして、主イエス・キリストと私たちの関係は、友情のようなものなのでしょうか。人間の友情を考えて見ますと、それは非常に曖昧なものです。少し前まで仲良しだったのに、些細なきっかけで仲違いをしてしまうということも生じます。それは、個人の利害や都合によって簡単に変化するのです。血縁関係で結ばれた兄弟等に比べると、友と言うのは、関係が希薄であるかのように感じます。主イエスは、御自身に従う者を兄弟とも呼んでおられます。今更、友と呼ぶ必要があるのかとの思いもいたします。私と主イエスとの関係は、友情よりももっと深いものであるに違いないとの思いになるかもしれません。又、私たちは友と聞くと、気心の知れた、自分と気の合う人との慣れ親しんだ関係を思い浮かべます。そのように考えると、主イエスという私たちが主とあがめるべき信仰の対象との関係が、友情にたとえられるというのはいかがなものかと思うかもしれません。しかし、これらの戸惑いが生じるのは、いずれも、私たちが、一般的な私たち人間の間の友情から、主イエスと信仰者との関係を想像しているからと言って良いでしょう。主イエスが信仰者を友と呼ぶ時、一般的にイメージするような友情を意味するのではありません。もっと深い、特別な関係が見つめられているのです。本日は、主イエスが友と呼んで下さることの意味を見つめつつ、そのことの恵みを示されて行きたいと思います。

愛の掟
 そもそも、主イエスはこの箇所で、愛についての掟をお語りになっています。自分の気の合う仲間との親しい交わりというような狭い意味での友情ではなく、あらゆる隣人との間で結ばれる愛の関係が問題にされているのです。15章の12節には、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」とあります。17節にも「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」とあります。そのような掟が語られた上で、13節では、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語られるのです。つまり、主イエスが友と言う時、そこでは、自分の命を捨てるような愛で愛する関係が見つめられているのです。これは、私たちがイメージする、友との関係とは異なるのではないでしょうか。私たちは、なかなか、友のために自分の命を捨てる等ということは考えることは出来ません。ここで命を捨てるとの言葉で、単に死ぬということだけが見つめられているのではありません。聖書は、人間の業の中に、愛なくして、即ち、自分の誇りのために自らの命を死に引き渡すということをも見つめています。ここで、命を捨てるとは、隣人のために、自らを犠牲にして、そこで、その人のために苦しみを担うことによって自らを捧げるということなのです。しかし、そのように考えてみましても、私たちは、隣人との関係の中で、自分自身を捧げて仕えるということが少ないのではないでしょうか。むしろ、自分の人生を豊かにするために友を利用することの方が多いと言わなければならないでしょう。私たちは、多かれ少なかれ、自分中心に人間関係を結び、自分のために、隣人を利用しながら歩んでいるという側面があるのです。そして、そのような関係は当然、曖昧で希薄なものになるのです。得に、現代社会においては、このような傾向が強いと言って良いかもしれません。現代社会は、地縁、血縁で密接に結びついて濃密な人間関係が持たれていた共同体と言うべきものが崩壊し、個人が孤立した上で、利害関係のみによって人々が結び合う、集合体のようなものになっていると言うことが出来ます。そのことの善し悪しは別として、そこでは、有用性によってのみ人と人の関係が持たれるようになります。又、自分にとって訳に立つかどうかという打算的な判断や、自分の欲求を満たしたいと言う理由だけで人々との関係が結ばれるようになるのです。友達との関係だけではありません。家族、兄弟も含め、あらゆる関係において、かつての社会よりも、人と人との結びつきが弱まっていると言われるのです。そのような中で、自らの欲望や願望に支配された人間の貪りが、様々な事件を引き起こすということもあります。社会倫理が崩壊し、傍若無人に振る舞う人々の身勝手な振る舞いが問題にされたりします。そこには、本当に自分を他者のために捧げて行くような関係が生まれることはないのです。そのような友情を結んでいる私たちに対して、主イエスは、ここで友について、主イエスが示す在り方、真の愛によって結ばれる関係を示しておられるのです。主イエスが、友と語る時、そこで友という言葉の重さと共に、そのような関係から遠く離れている、私たちが友という時の言葉の軽さを指摘され、あるべき交わりの姿を示されるのです。

わたしが愛したように
 ここで主イエスは、愛の掟を守って、友のために命を捨てるような愛に生きた者は、主イエスの友となる資格があるというようなことを語ろうとしているのではありません。確かに14節には、そのように受けとめられるような記述があります。そこには、「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」とあります。しかし、ここで忘れてはならないことは、主イエスは、単なる命令として、この言葉を語っているのではないということです。12節には、「わたしがあなたがたを愛したように」とあります。主イエスは、「互いに愛し合いなさい」という、一般的な命令や徳目を語っておられるのではありません。互いに愛し合うという掟は、主イエスでなくても語ることができます。主イエスが既に、私たちを愛しておられる。真っ先に私たちを愛して下さっているのです。実際、ここで、信仰者を友と呼んで下さる主イエスは、「友のために命を捨てる」愛に生きて下さった方です。主イエスの十字架とは、私たち人間を罪から救うために、御自身の全てを捧げて下さったという出来事です。神である方が、人間のために、全てを差し出して下さったということに、神の愛の本質が現されています。そして、この愛によって主イエスと結ばれた信仰者は、周囲の人々とも、愛のある交わりを生み出す者とされるのです。人々から多く愛された人ほど、人々を愛するようになる、逆に、愛されることが少ないと、愛することが出来なくなるというようなことを聞いたことがあります。愛されたことの無い人は、愛を知らないから、そもそも、人を愛することは出来ないのでしょう。信仰者は、主イエスを通して、神の愛で愛された者なのです。その神の愛によって、主イエスとのつながりを持つ者は、当然、神の愛に生かされて行くのです。隣人との間に真の愛による関係を結んでいく者とされるのです。「友のために命を捨てる」という言葉で現されるような、自分自身を捧げていく愛の関係は、私たちのからすれば驚くべきことであり、日常生活とはかけ離れたことであるように感じます。しかし、私たちではなく、主イエスの方が、先ずこの愛に生きて下さったのです。そして、その愛によって命を与えられている者は、ただ、それを受けるだけではなく、人々にその愛を示して行く者とされます。そのようにして、神の愛によって生かされている恵みに応えつつ、神の愛に生かされて行くことで、友と呼んで下さる主イエスに応えていく者とされるのです

主イエスの選び
 このことが16節でも記されています。「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。主イエスが信仰者を友と呼ぶ時に見つめられているのは、神様の選びです。友と兄弟の違いは、兄弟は自分で選ぶのではなく、既に与えられている関係であるのに対して、友は、自分で選ぶという積極的な関係であるということです。主イエスと私たちとの関係は、初めから結ばれているというようなものではなく、主イエスの方が積極的な愛をもって私たちを選んで下さったというものなのです。そして、それは、主イエスによって、主イエスの業に励むように任命されたということでもあるのです。主によって選ばれ、主に愛された者は、この世に出て行って、主の業に励むことを通して、真の実りを結んで行く者とされるのです。この御言葉が語られているヨハネによる福音書の第15章は、ぶどうの木のたとえで始まっています。15章の5節には、次のようにあります。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何も出来ないからである」。主イエスは御自身をぶどうの木に、信仰者をその枝にたとえておられるのです。本日の箇所は、このぶどうの木のたとえを受けて語られています。主イエスにつながっていることによって、より正確には、選びによって、主イエスにつなげられていることによって、愛の交わりという真の実りが実って行くのです。それ故、16節の後半で「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」と言われているのは、自分の願望が叶えられるというようなことではありません。隣人との間に愛の掟が生きられるという真の実りを実らせて行くために必要なことは何でも与えられるのだと言うことなのです。私たちは、主イエスが語る愛に生きることが出来るし、そのように生きる者とされているのです。

父から聞いたことをすべて知らせた
 それ故に、15節では次のように語られるのです。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」。ここでは、僕との対比の中で友ということが見つめられています。もちろん、信仰者にとって、主イエスは主人です。信仰者が主イエスの僕であるということは言うまでもありません。しかし、そのような主従関係を前提にした上で、友と呼ぶとおっしゃるのです。友の僕との違いは、主人が何をしているかを知っているということです。僕は、ただ、主人に隷属し、その言いつけを守るだけです。主人は、そのことによって何をしようとしているのかを僕は知る必要はありません。信仰者は、そのように、何も知らされないままに隷属する者ではないのです。主イエスが父から聞いたことを全て知らされているのです。それは、愛の掟を知らされているということに他なりません。ただ掟の文言が教えられてというだけでなく、事実、主イエスが友となって私たちのために十字架で命を捨てるという出来事を通して、神の愛が知らされているのです。そのような友とされているからこそ、私たちも、主イエスの業に励む者とされているのです。本日朗読された旧約聖書、イザヤ書第41章8節には、次のように語りかけられています。「わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ」。神の民に対する呼びかけです。神の民とは、僕であり、神が選んだものであり、愛する友なのです。それは、愛を知らされた者として愛に生きる者とされているということなのです。

主の愛の中で与えられる自己認識
 ヨハネによる福音書15章は、愛の掟を語ると共に、信仰者たちに明確な自己認識を与えていると言うことが出来ます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。主イエスは、信仰者に、木であるキリストにつながる枝であり、キリストの友であるという、明確な自己認識を与えておられるのです。そして、このように自分が誰であるのかということが明確に知らされているということは、交わりの中に置かれていることと切り離せません。なぜなら、私たちは、関係性の中で自らが何者であるのかを知るからです。例えば、私たちは、家族との関係の中で生きる時、その家族の一員として自分のことを認識します。学校や、会社でのつながりの中に置かれる時に、その団体の一員として自らを認識します。国家の中で生きる時に、その国の国民として自らを認識します。自分が何者なのかを知ることと、自分以外の人々との関係の中で生きることは一つなのです。ですから、関係性が薄れて行く時に、同時に、自分は誰であるのかということが分からなくなるのです。主イエスに愛され、主イエスとの関係が生まれる時、私たちは、自分が、神に愛され、神のものとされていることを知らされます。そして、この主イエスとの愛の交わり、関係の中で与えられる自己認識は、共に、同じように主イエスに愛された者との関係をも生み出して行くのです。主イエスに選ばれ、友とされているのは、「私」という個人ではありません。「私たち」という群れなのです。主イエスに友とされた者は、主イエスの愛によって結びつけられて、その愛に生きる交わりを形成する共同体の一員なのです。主イエスは、私たちを、御自身につながるものと認識させ、その愛によって互いに結び合う者として用いようとされているのです。

真の関係性の創設
 現代社会において、人々の関係が希薄になっていると申しました。人間が自分勝手に振る舞うようになり、公共心というものが失われてしまったと嘆く声を耳にします。かつては、ムラ社会と言われるような共同体における人々との関係の中で、自分の位置を見出すことが出来ましたし、又、国家という共同体の中で自分を見出すことも出来たのです。しかし、もろもろの共同体が崩壊して、人間が孤立する中で、必然的に、人々が「つながっている」ということを見つめることが出来なくなり、そこでは自分が誰であるのかも分からなくなってしまっているのです。愛によって結ばれる人間関係が薄れ、友という概念も曖昧なものになっているのです。そこには、真の関係性を見出せず、そのことの故に、自分が誰であるのかも見出せなくなってしまった人間の悲劇があるのではないでしょうか。私たちも又、この社会に生きています。主イエスは、私たちにはっきりと、自分が誰なのかということを教えてくれるのです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。あなたは、わたしにつながっている者、私の愛の内にある者だ。そして、それに続けて、「わたしはあなたを友と呼ぶ」とおっしゃるのです。愛を知らされ愛にいきる者とされているのです。わたしたちは、主イエスの枝であり、主イエスの友である。その自己認識が与えられる中で、私たちは、真の共同体を形成する道が示されているのです。私たちは世にあって、真の関係性が生み出されるのは、神の愛によって規定された人間の交わりの中であるということを深く知らされたいと思います。教会は、世にあって、神の愛によるつながりによって結び合わされた関係性に生きる共同体です。それは、利害関係によって結ばれる関係ではありません。又、義理人情や人間の親しさによる馴れ合い関係をもつことによって深められていく関係でもありません。そこでは、たとえ、人間的な親しさがなくても、その人のために、自分自身を捧げるような関係が生まれるのです。それは、気の合わない者、敵と思われるような者の間においても結ばれる関係です。神の愛によって愛され、その愛に生かされる中で、人間が常識的に考えた時の友ということとは根本的に異なる関係が結ばれるのです。皆が、神に選ばれ、神に愛された個人として立たされた上で、それぞれが、神の愛によって結ばれて行くのです。

主イエスの喜びに満たされて
 このような交わりに生きることは、苦しいことのようにも思います。自分の思いや、自分の利害だけで結ばれる関係の中で、即ち、人間が思いつく友情の中で生きる方がよっぽど幸いなことのようにも思われるのです。しかし、そうではありません。11節には、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」とあります。私たちが主イエスに結ばれて、その愛に生かされて行くことは、主イエスの喜びで、私たちが満たされることなのです。それは、神様の喜びであるが故に、真の喜びであると言って良いでしょう。自分自身の欲求が満たされ、自分の利益が促進することによる喜びはないかもしれません。しかし、神の業が勧められ、神の喜びが満たされることを喜ぶことが出来るのです。「満たされる」という言葉には完成されるという意味があります。この神の愛によって結ばれる共同体が形成されて行くことこそ、救いが完成へと向かって行くことに他なりません。私たちの間で、救いの御業が、完成して行くことを喜ぶのです。教会は、そのような喜びを共有しつつ歩んでいるのです。主イエスの友とされた者として、主の喜びで満たされながら互いに愛し合う交わりを形成して行くものでありたいと思います。

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