「良い羊飼いに導かれて」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; エゼキエル書 第34章11―16節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第10章1-21節
・ 讃美歌 ; 3、313、459
羊と羊飼いの譬え
本日お読みした箇所の1~6節において、主イエスは羊飼いと羊の譬えを語られます。羊というのは弱い動物です。狼などに襲われたら、自分で自分を守ることが出来ません。又、他の動物に比べて力が弱いというだけでなく、自ら生きていく術を知らないために、羊飼いの導きなしには生きていけません。主イエスは、主により頼んで歩む信仰者を羊に、そして、救い主であるご自身を羊飼いに譬えられたのです。
この譬えは、二つのことを語ります。一つは、「門」についてです。1節には次のようにあります。「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は盗人であり、強盗である」。夜の間、羊たちは囲いの中で休みます。日中は、羊飼いによって囲いから出されて、牧草地に行くのです。囲いには当然門があり、羊や羊飼いが出入りする時はそこを通ります。もし門を通らないで囲いに入ってくる者がいるとするならば、それは盗人であり、強盗であると言うのです。次に、語られるのは、「羊飼い」についてです。門の前には門番がいて、羊飼いだけに門を開きます。そして、羊飼いが自分の羊の名を呼ぶと、羊はその声を聞き分けます。羊たちは飼い主の声を知っていて、ついて行くのです。羊は多くの群れをなして移動しますが、犬を散歩させるように、一頭一頭紐でつないでいるわけではありません。しかし、羊たちははぐれることはありません。それは、羊のことを気にかけて、先頭に立って導く羊飼いが発する声を聞くからです。この羊飼いが羊一頭一頭の名を知っているのと同じように、羊の方も自分の飼い主の声を知っていて、その声について行くのです。当然、羊飼い以外の人や、飼い主以外の羊飼いの声には反応しません。このようにして、羊飼いは羊を牧草地に導いて行くのです。ここには、真の救い主の声によって集められ導かれるキリスト者の群れの姿が示されているのです。
ファリサイ派の人々の無理解
ここで描かれている羊飼いと羊の姿は当時の人々にとっては、ありふれた光景です。現代の私たちと異なり、羊飼いという職業は当時の社会においては一般的でした。ですから、主イエスがこの譬えを語るのを聞いた人々は、この情景を鮮明に思い浮かべることが出来たはずです。しかし、続く6節を見ますと次のようにあります。「イエスはこのたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話しが何のことか分からなかった」。本日の箇所は、主イエスとファリサイ派の人々との議論が続いている箇所です。直前の9章には、主イエスが盲人の目を開かれたということを巡って、主イエスとファリサイ派の人々との間でなされた議論が記されていました。ファリサイ派の人々は当時の宗教的指導者たちで、自分たちこそ神様の救いが見えていると思っていました。律法を守ることによって救いが得られると信じ、律法の教師として人々を教え、指導していたのです。まさに、民の羊飼いとして振る舞っていたのです。しかし、この人々は、自分たちが律法を厳格に守っていることを誇り、律法を守ることが出来ない隣人を裁くことに熱心でした。主イエスは、ファリサイ派の人々の偽善を指摘したことによって、彼らから憎まれ、対立するようになって行きます。さらに、この時、群衆の中には主イエスを信じる者が大勢出てきていました。丁度、羊が羊飼いの声を聞き分けるように、大勢の人が主イエスを信じ、主イエスのもとに集まっていたのです。そのこともファリサイ派の人々は許せなかったのです。ファリサイ派の人々は、度々主イエスを陥れようとして議論をしかけていたのです。そのような中で、主イエスはこの譬えを語られたのです。しかし、ファリサイ派の人々は、この譬えによって何が話されているのかを理解することは出来ませんでした。続く7節には、「イエスはまた言われた」とありますが、主イエスは7節以降で、譬えで語られた「門」と「羊飼い」ということについて詳しく説明されるのです。
わたしは羊の門である
主イエスは先ず、「はっきり言っておく。わたしは羊の門である」と語ります。主イエスは、ご自身こそ門であると言うのです。ここで語られているのは、9節に「わたしは門である、わたしを通って入る者は救われる」とあるように、救いにいたる門のことです。羊たちは、この門を通って出入りすることによって牧草を得ることが出来るのです。主イエス・キリストを通らなければ真の救いに至ることは出来ないというのです。8節では、「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」と言われます。ここで、「盗人」、「強盗」とされている、「主イエスより前に来た者」というのは、主イエスより時間的に前にいた人々、旧約聖書の預言者たちのことではありません。「前に来た者」とは、1節において「門を通らないで他のところを乗り越えて来る者」と言われていた人のことです。主イエス・キリストという門を通らない者のことです。教会の中や、信仰者のもとにやってきて、主イエス・キリスト以外に救いの道があることを示そうとする者のことです。ここでは、まさに主イエスと対立して律法による救いを主張していた、ファリサイ派の人々が見つめられているのです。そして、主イエスは、そのような者に従っても救いに与ることにはならないと言われているのです。10節に記されているように、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」からです。たとえ、彼らが表面的には、羊たちを養っているように見えても、実際は自分自身を養うことにしか関心がないのです。律法による救いを説いていましたが、それは本当に人々の救いを願って教えていたのではありません。むしろ、自分たちが人々から一目置かれ、尊敬されることに気を配っていたのです。そのために、自分たちが守っている律法によって人々は救われるのだと主張していたのです。彼らの態度は、結局、自分たちにとって都合の良い偽りの救いを教えることによって、羊たちを「盗み、屠り、滅ぼそう」とすることに他ならないのです。
現代における「盗人、強盗」
私たちの周りには、当時と同じような仕方で、旧約聖書の律法によって救いが得られると主張するファリサイ派と呼ばれる人々はいません。しかし、いつの時代も、主イエス・キリストという門を通らないで救いを得ようとする者の声に満ちています。様々な形で人々に魂の救いを説く人がいます。又、人生を豊かに生きるための、ライフスタイルや、人生観に従った生き方があります。それらは、私たちに、キリストを信じて歩むことよりもはるかに、自分を自分らしく生かしてくれるものだと思わせます。それらは、私たちに、「何も神を信じなくても、楽しく、充実した人生を歩むことが出来る。信仰に生きる等ということは、堅苦しくめんどくさいことだ」と思わせるのです。そして、お金や、地位、自分の歩みに対する誇り等、様々なものが救いの根拠であるかのように思わせ、そのようなものこそ本当に求めるべきものであると感じさせるのです。そのように、キリストから、私たちを遠ざけようと誘うものは、すべて、ここで言われている「盗人、強盗」なのです。そのような「盗人、強盗」の声は知らず知らずの内に、私たちの中、又教会の中に入り込んで来るのです。
又、時には、様々な主義や、「盗人、強盗」としてやってくることもあります。この聖書の箇所を読むと思い起こすのは、ドイツ教会闘争の中で採択された「バルメン宣言」という宣言です。ヒトラーが政権を掌握して以後、ナチ政府は教会を帝国監督の下に統一し、全体主義化しようとします。教会の自律性の排除、ユダヤ人の排斥、聖書や讃美歌のドイツ的改変等に乗り出すのです。このことは、民族の優等性を主張し、キリスト教のドイツ民族化を唱えるドイツ的キリスト者というグループによって進められます。このような状況の中、ドイツ的キリスト者に対抗した告白教会によって、6箇条からなる宣言が出されるのです。その第一条は次のような宣言です。「聖書において証言されているイエス・キリストは、われわれがそれを聞き、生と死においてそれに信頼し、従わなければならない唯一のことばである。教会がその宣教の根源として、神の唯一のことばのほかにこれと並んで他の事件や権力、現象や真理をも神の啓示として認めることは出来ない」。そして、この第一条を根拠づける聖書箇所として掲げられているのが、本日お読みした、ヨハネによる福音書第10章の1節と9節なのです。教会の中に、民族主義というイエス・キリストと並ぶ他の救いの根拠が入り込んで来た時、「わたしは門である。わたしを通って入るものは救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける」との御言葉、「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり強盗である」という御言葉をもって戦ったのです。私たちは、いつでも、どこにいても、この「羊の門」である主イエスだけを見つめていなくてはならないのです。
私たちの中の「盗人、強盗」
私たちは、ここで「盗人、強盗」と言われているのを聞いて、それを、国家や教会の外で活動する団体や特定の個人のことだけが言われていると思うのであれば、それは誤解です。主イエス・キリストへの信仰が与えられ、教会に連なる私たち自身が、キリストとは別に、自分の救いのよりどころとなるものに生きているということがあるのです。自分がなしている教会生活や信仰の歩みが救いを確かめるものであるかのように思ってしまう。そのような中で、自分の業によって救いを得ようとすることも起こります。又、信仰の中に、自分自身の思いや願望が知らず知らずの内に入り込んでしまうことがあります。そのような時、羊の群れは、真の羊飼いであるキリストの声を聞かなくなってしまっているのです。皆が一人の羊飼いの声に聞くのではなく、それぞれに様々な声を聞きはじめる。一つの教会として立っているように見えても、中には、一人の羊飼いではなく複数の盗人や強盗によって支配されているということがあるのです。私たちが、忘れてはならないのが、この地上に建てられたキリスト教会、キリスト教という宗教が、門である主イエス・キリストと並ぶ救いの根拠となってしまうこともあるということです。主イエス・キリストが門であるという時、このキリストの前で、キリスト教という宗教も絶対的なものではありません。この世に存在する宗教としてのキリスト教が、自分こそ真理であり、救いにいたる門なのだから、ここから入れと主張して、教会に属していない人を裁くことは出来ないのです。又、教会に属し、キリスト者とされた者が、恵によって選ばれていることを、何か自らの特権であるかのように考えることも出来ません。もし、そのようなことが起こるのであれば、キリスト教という宗教によって生きる者達が、自分を養うために、「盗人、強盗」となってキリストの救いを「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたり」してしまっているのです。キリストという門を通らないで牧草を得ようとしてしまう所に人間の罪があり、その力から誰も自由ではないのです。信仰に生きている者、教会に属する者こそ、真剣に真の門を見出し、一人一人の名を呼んで下さる羊飼いの声にいつも耳を傾けていなくてはならないのです。私たちこそ、キリストにしか救いがないことを知らされ続けなければならないということです。それは、私たちが御言葉によって絶えず改革されるということに他なりません。
わたしは良い羊飼いである
主イエスは、様々な強盗や泥棒に捕らわれてしまう者に向かって、「盗人、強盗」とご自身を明確に区別し、「わたしが来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」と言われます。その理由が続く11節で示されます。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。主イエスはご自身が門であると共に、「良い羊飼い」でもあると語られたのです。私たちは、ただ、キリストという救いに至る門を示されるだけでなく、良い羊飼いによって導き出されなくてはならないのです。門を通って入って来て、門から出入りするように導く羊飼いがいて初めて救われるのです。 ここでは、主イエス・キリストが「良い羊飼い」に、又、キリスト以外の救いに生きる者が、「雇い人」に譬えられています。「雇い人」というのは、お金をもらって、他人の羊の世話をしている人のことです。雇い人は、雇われているのですから、その報酬に見合うだけの労働はします。しかし、「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」と言われているように、いざという時には、助けてくれません。自分の命が惜しいからです。「彼は雇い人で羊のことを心にかけていないからである」とあります。普段どんなに熱心に世話をしていても、羊のことを心にかけていない雇い人は、本当の危機が迫る時には逃げ出してしまうのです。本当の危機が迫った時、何の助けにもならないのです。この「雇い人」と「良い羊飼い」の違いは、「羊のために命を捨てる」かどうかということによって決まります。 私たちを襲う危機で最大のもの、私たちにとっての狼とは罪と死の力です。罪とは、真の羊の門である主イエス・キリスト以外の救いを見出そうとし、それに頼って生きてしまうということです。そして、その罪のために、私たちは滅び死ぬことになるのです。ですから、罪と死の力が襲う時にも、私たちを見捨てない羊飼いこそ、本当に良い羊飼いであり、私たちの救い主なのです。普段どれだけ、喜びや、楽しみを提供し人生を豊かにしてくれるかということではなく、罪と死に直面する時に、体を張ってその危機と立ち向かう、羊の身代わりとなる羊飼いでなければならないのです。そして、主イエスは、事実、羊の身代わりとなって命を捨てられる方なのです。
十字架で命を捨て、再び得られる主イエス
主イエスが、ご自身のことを、このような良い羊飼いであると言うのは、主イエスが十字架において自らの命を投げ出されることで、羊たちを襲う狼と戦われた方だからです。しかし、ただ、身代わりとなって死なれただけではありません。17節に、「わたしは命を再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」と言われるように、主が十字架で命を捨てられたのは、それを再び受けるためであったからです。ただ十字架で死なれたのではなく、そこから再び命を受けられて復活されたことによって、死の力に勝利しておられるのです。この主イエスの十字架は、羊飼いが羊を守るために必死に戦ったら、その結果、運が悪く死んでしまったというようなものではありません。主イエスは、羊を危機に陥れるものがどのようなものであるかを知っておられるのです。私たちは、自分自身を襲う危機を本当には知りません。だから、門を通らないで入ってくる者の声に翻弄されるのです。罪と死の力に直面した時に、何の救いにもならないものを追い求めることもあるのです。しかし、主イエスの方が、羊たちを本当に危機に陥れるものが何か、それに対してどう立ち向かわなければならないかを知っていて下さるのです。その危機が、御自身が命を捨てることによってしか打ち勝つことが出来ないものであることを知っているのです。そのために自ら命を捨てられるのです。18節には「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることも出来る」と言われています。主イエスは、父なる神の御心を求めて歩む中で、自らの意志でこの十字架へと歩まれたのです。自らの命を助けるために、羊を犠牲にする雇い人は、自分の利益に従って歩むのに対して、良い羊飼いは神の御心に従って歩むのです。ここに羊の命を助けずにはいられない良い羊飼いの愛が示されているのです。
14、15節には以下のようにあります。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」。ここで「知る」と言うのは、私たちが何か物事を認識する時の「知る」ということよりも深い意味があります。それは、父なる神と子なるキリストが深い愛の交わりの中にあるように、互いに結び合っていることです。主イエスが、私たち一人一人の名を呼んで集めて、私たちがその声を聞く時、主イエスと私たちは、父なる神と主イエスとの関係と同じような関係にあるのだと言っておられるのです。父なる神と主イエスとの間にある愛の交わりが、主イエスと私たちの間にも生まれるのです。そのことによって、主なる神が主イエスに再び命を与えられたように、私たちにもその命が与えられるのです。良い羊飼いとは、このように父なる神と一体であるものでなくてはなりません。父なる神との愛の交わりの中にある羊飼いに導かれる時に、羊飼いによって命の恵を豊かに受けることになるのです。
教会の群れ
16節には、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」とあります。 ここで、はっきりしていることは、主イエスは、キリストに養われる群れに属していない人にも気にかけておられるということです。門であるご自身を示して、ここから入るようにと、救いに至る道を示し続けておられるのです。私たちは、主イエスのこの思いを共有していかなくてはなりません。私たち自身が自らの心の周りに張り巡らす囲いが、主イエスという門を示すことを阻んでしまっているとするならば、その時、教会は誠の羊飼いとは異なるものの声に従っているのかもしれません。主イエスの十字架による救いの業は、キリストの群れの交わりの中にいない者のためにもなされたものであり、主イエスは、そのような人々を気にかけておられるのです。そして、様々なものにより頼んで歩んでいる者が、主イエスの声を聞き分けるようになり、遂に一つの群れになるということが見つめられているのです。これは、終わりの時に実現することです。真の羊飼いの声を聞く人々が、一人の羊飼いの前で悔い改めて救いに与りつつ、一つの群れとなるのです。私たちは、その時が来るまで、主イエスの声を聞き分けて、この方に導かれつつ歩むのです。