「死を味わうことがない」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; 創世記 第12章1-4節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第8章48-59節
・ 讃美歌 ; 17、351、503
仮庵祭での論争
今日お読みした箇所は、ヨハネによる福音書の7章から続いている、「仮庵祭」という祭りでの、イエスとユダヤ人達の論争の出来事の最後の部分です。この「仮庵祭」というのは、かつてイスラエルが荒野を旅していた時に、主なる神がイスラエルの民を力強く導かれたことを記念して祝われる祭りでした。この祭りにおいて人々は、自分達の祖先が、荒野で生活していた時と同じように仮小屋を立てて、主なる神が御力を示して、導いてくださったことを祝ったのでした。主なる神が自分達に臨んでいるということを祝うのがこの祭りなのです。主イエスは、この仮庵祭の神殿の境内で、人々に向かって自分こそ神の子であるということを示されたのでした。神殿においてご自身を示し、自分こそ神の子であると語る「ナザレのイエス」。ユダヤの人々は、「この男がいったい何者なのか」ということを巡って論争をします。そして、その論争が終わる最後の部分、59節には次のように記されています。「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行った」。この神殿での論争は、ユダヤ人たちが、イエスに石を投げつけようとし、イエスが神殿の境内から避難するようにして出て行くということで終わるのです。ここで人々は主イエスを殺そうとしたのです。旧約聖書のレビ記には、神を冒涜するものが全会衆によって石打に処せられるべきことが記されています。ユダヤ人達にとって、主イエスの言葉が神を冒涜するものであるかに聞こえたのです。
「石を投げようとする原因」
それにしても、何が原因で、人々に石を投げつけようというほどまでの殺意を抱かせたのでしょうか。確かに、今までの論争の中で、主イエスに対する憤りが、徐々に膨らんできていまいした。しかし、人々が手に石を取り、投げつけようとする、直接の原因となったのは主イエスが最後に語った58節の御言葉です。「はっきり言っておく、アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」。「わたしはある」というのは、主なる神が、かつてモーセにご自身を表された時に語られた言葉です。神が人々にご自身を示される時、神が、この世界に臨まれる時に語られた表現です。主イエスがこの言葉を語ったということは、主イエスにおいて神が人間に臨んでおられる、主イエスご自身が神であることを示しているのです。
このことが人々には赦せなかったのです。神がこの地に臨んで下さったことを記念する仮庵祭の神殿で、「ナザレのイエス」と呼ばれている一人の人が境内にやってきて、自分こそ神であると語ったのです。わたし達も、もし自分の周りで、自分こそは神である等と語りだすものがいたら、おそらくまともに相手にしないでしょう。主イエスは、ただ、「わたしはある」と語ったのではありません。「アブラハムが生まれる前から」と言われています。ユダヤ人たちは、アブラハムを自分達の父と呼び、自分達こそアブラハムの子孫であり、神様の祝福を継ぐべきものであることを自負していました。アブラハムという神の祝福を受けた、信仰の父と血縁関係にあることに、自分達の救いの根拠を見出していたのです。しかし、主イエスは、自分はアブラハム以前のものであると語っているのです。アブラハムではなく、ご自身こそ神の救いを示すものであることをはっきりと述べているのです。ユダヤ人たちにとってどう見ても人間でしかない一人の男が、「わたしはある」と語り、自分達が父としているアブラハムよりも前からのものであると語ることは神の冒涜であり、赦せないことであったのです。
悪霊に取り付かれている
本日のお読みした最初の部分では、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言っています。主イエスは、この箇所の直前の議論の中で、ユダヤ人たち向かって「あなた達の父は悪魔である」と語られました。ユダヤ人たちは、アブラハムを自分達の父と呼び、自分達こそアブラハムの子孫であり、神様の祝福を継ぐべきものであることを自負していました。しかし、主イエスは、そのユダヤ人たちが、実際は、アブラハムと同じ信仰に生きていないことを取り上げて、彼らの父が神ではなく、悪魔であり、それ故にユダヤ人たちは悪魔から出たものであると指摘したのでした。そのように非難されたユダヤ人たちは、今度は腹を立てて、主イエスに向かって、「あなたはサマリア人で悪霊に取り付かれている」と言ったのです。サマリア人というのは、もともとユダヤ人ですが、ユダヤ人と他の民族の混血によって生まれた人々です。ユダヤ人たちはサマリア人達を、純粋でないものとして軽蔑していて、共に食事をすることもありませんでした。サマリア人というのは、ユダヤ人達が血縁によってアブラハムの子孫であることを主張していたのに対し、モーセ五書を特に大切にし、神の民として歩んでいる実質を強調していた人たちでした。ユダヤ人たちは、主イエスに、アブラハムの業を行わずに、形式的に子孫であることのみを主張することを非難されたと感じ、お前こそ、サマリア人で悪霊に取り付かれている」と罵ったのです。悪霊とは、神に対抗する力です。人々は、神の下から来られた主イエスに対して、神に対抗するものだと罵ったのです。
イエスを受け入れないで神を知る
ユダヤ人たちは神を信じていました。ユダヤ人たちは、自分たちの父は神であると語っていたのです。しかし、一方で、神の独り子である主イエスは受け入れることが出来ませんでした。ユダヤ人たちにとって、ヨセフとマリアの間に生まれた一人の人間において神が臨んでいるということは理解できなかったのです。彼らにとって神が臨んでおられることを確かなものとするのは、自分たちがアブラハムの子孫であること、そして、かつて、主なる神がイスラエルの上に臨んで下さったように、この神殿に主なる神が臨んでおられるとことでした。それらのものこそ神を知り得るより確かなものであったのです。ユダヤ人たちの態度は、この地上の様々なものによって、神が自分達に臨んでいるということを、人間の内に所有しようとする態度であると言ってもいいでしょう。神が臨在するとされる神殿で、神が住まわれる仮庵を建てて祭りをすること。アブラハムとの血縁関係によって自分達の父は神であると主張すること。それらは、神を語りながら、神がこの世に臨む場所を自分自身で定め、そこに救いを見出そうとすることなのです。自分達の建てた神殿や民族の歴史の中に神を捉えようとすることなのです。それは、主なる神を自分達の歴史に従属させることによって、神を所有しようとしているに過ぎないのです。そのような思いでいる中に真の神の子である主イエスがこられても、神を冒涜するものにしか思えないのです。
このような人々の思いの背後にあるのは、自分自身に栄光を帰そうとする思いです。人々は、神が臨まれる場所をこの世のものに見出そうとすることによって、神ではなく人間に栄光を帰そうとしているのです。そのことによって、自分が神であるかのように振舞おうとするのです。ここに人々の神を求める時の姿があります。実は、救いを確かめることによって自分に栄光を帰そうとするのです。
神を所有する
主イエスは、「あなたは自分を何者だと思っているのか」と問うユダヤ人たちに対して、54節において「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている」。あなた達は、「我々の神だ」といっているが、本当には、あなたたちはその方のことを知らないというのです。父なる神を知っているのは主イエスだけなのです。それは、この方が、自分自身の栄光を求めるのではなくて、御自身において父なる神の栄光を示された方だからです。ユダヤ人たちはその、主イエスを見ることをしないで、父なる神を「我々の神」と呼ぶのは、結局神を自分自身のものとし、自分に栄光を帰することにしかならないというのです。しかし、そのような態度は、真の神を知ることではなく、神を世の歴史の中に閉じ込め、捉えようとすることに他なりません。そして、自分自身が主となって、真の神の子である主イエスをも、自らの思いで判断し、悪霊呼ばわりし、神を冒涜したと言って裁いてしまうのです。これは、人間が、『我々の神』を主張する時に、起こることです。そのような時、神については語られていながら、地上を歩まれた神の子のことは受け入れないのです。何故、人々は主イエスに石を投げようとしたのか、そして、最終的に十字架につけて殺したのでしょうか。それは、人々が、「我々の神」というものを語ることによって、自分自身に栄光を帰そうとしていたからです。ですから、真の神の栄光を示す主イエスが来られた時に、それを亡き者にしようとするのです。これは、生きる時代も場所も違いますが、私達にも起こり得ることです。この世のどこか特定の場所に神が臨んでおられる場所を自ら作りだそうとしてしまうということが起こるのです。キリスト教という宗教の中かもしれません。教会の歴史や伝統の中かもしれません。自分自身が送ってきたキリスト教的生活の中、又、かつて、自分に与えられた救いの体験の中かもしれません。自らの思いによって神がここにおられるという場所を作り出してしまうことがあるのです。もちろん、これらの、宗教的に見える事柄においてのみ、このような態度があるのではありません。この世で、生きていく中で、我々が頼り信頼し絶対化するものの中にも、『我々の神』を主張する態度が含まれているのです。神が臨んでおられ場所を定めて自ら所有しようとする。そのことによって、真の神ではなく、自分自身に栄光を帰そうとするのです。時間を生きる人間が主となってしまうのです。
死を見ることはない
しかし、主イエスの言葉に聞くことなく自ら神を知ろうとする歩みは、結局本当の意味でわたし達を自由にするものではありません。そこにあるのは、やはり死の現実です。ユダヤ人たちは、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。」と言います。彼らが父と呼んでいるアブラハムは、この世で肉体的な死を経験し今はいないのです。死というのは、時間の中を生きるものの最後です。アブラハムもそのような者の一人なのです。主イエスが語る、死からの解放ということも理解しないのです。悪霊に取り付かれたものの言葉としてしか聞けない程までに、死の力に支配されているのです。人間の、救いを確かめ、神を時間の中で所有しようとする営みは、結局のところ死に支配されているのです。
主イエスは51節において「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない。」と語っています。この箇所は、口語訳聖書では「その人はいつまでも死を見ることがない。」と訳されていましたが、この方が原文に忠実な訳です。死を見ないというのはどういうことでしょうか。それは肉体的な死を経験しないということではありません。ここでの「見る」という言葉は注意深く観察する時に使う言葉です。ですから、死に注目して、そのことに気を奪われることがなくなるということを意味しています。それは、「死を味わうことがない」と言われているように、その苦しみを経験しなくなるということなのです。 又、「わたしの言葉を守るなら」というところで守ると言われている言葉にも、見るというニュアンスがあり、「わたしの言葉を見守るなら」といった意味があります。主イエスはここで「わたしの言葉を見守るならば、あなたがたは死を見ることがない」と言っておられるのです。主イエスの言葉を守るということは、ただ口から語られた言葉を聞き、それを守るというだけでなく、肉を取られ人となられた、主イエスがどういう方で何をなさった方なのかを見るということなのです。そうすることによって、死を味わうことがないというのです。
イエスを見つつ歩む
ヨハネによる福音書の、主イエスが登場する場面、1章29節で、イエスが歩いて来るのを見たヨハネが、次のように語っています。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」。そして、主イエスが死刑の判決を受け、いよいよこの世を去ろうという場面で、総督ピラトが「見よ、この男だ」と語ります。この福音書は私達にイエスを見るようにと語ります。それだけが、本当の意味で私たちが神を知ることになるからです。主イエスを見ることによって死を見なくなると語っているのです。
わたし達は、この「ナザレのイエス」の言葉と業によって、何を見るのでしょうか。それは、この方が、わたし達が自らに栄光を帰し、真の神の子を殺そうとしている只中に赴かれたということです。石を投げようとする人々の主イエスに向けられた殺意は、主イエスを十字架へと向かわせます。神の独り子は、十字架の上で死ぬことになるのです。神の下から来られた主イエスが、神を理解せず、神に栄光を帰さないわたし達の歩みの中に入って来て下さり、わたし達が貼り付けた十字架において、わたし達の罪を贖ってくださっているということです。そして、神は、その罪と死の力に主イエスの復活を通して勝利されているということです。このナザレのイエスの姿を見る時に、ここに神が臨んでくださるということをはっきりと示されるのです。この方において「わたしはある」ということを知るのです。そして、この方に留まる時に、わたし達は、死の支配から自由にされたものとして歩むことが出来るのです。
わたしの日を見る
主イエスは、「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」と言われます。アブラハムは、父なる神への信仰に生きた人です。神の言葉に従って旅立ち、決して神の救いを自ら所有することなく、神が臨んでくださるのを待つ歩みをした人でした。ここで「わたしの日」というのは、主イエスによって、神がこの世に臨む日のことです。アブラハムは、確かに主イエスを見ることはありませんでした。しかし、確かに、神が臨まれることを望み見て歩んだ人でした。そのことがここで語られているのです。ヘブライ人への手紙11章13節には、アブラハムやイサク、ヤコブのことを語った後に、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいのものであることを公に言い表したのです」とあります。アブラハムは、主なる神の救いがなされる日を、信仰において見ていたというのです。そして、それを見たものは、地上の歩みが仮住まいのものであることをはっきりと知らされていたのです。そして、神を自分の内に所有しようとするのではなく、常に、神が新たに臨んで下さることを待ち望んで歩んだのです。そこに信仰に生きる姿勢があるのです。
おわりに
主イエスは御言葉によって、今も、この教会の礼拝の場に臨んで下さいます。ここで、わたし達は、主イエスの言葉を聞きます。主イエスの業を見ます。そこで示される、主イエスの十字架と復活によって、わたし達を贖って下さることによって「わたしはある」ということを語って下さっているのです。そして、この方を見ることにおいてのみ、私達が、「死を味わうことがない」と言えるのです。ヨハネによる福音書は最初に、「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と記します。主イエスにおいてにおいて栄光が示されています。神の下から世にこられる主イエスの栄光を見続けながら、将来の主の栄光が完全に示される日を望み見つつ歩みたいと思います。わたし達は、そのような歩みの中で、神に栄光を帰するものとされるのです。