「わたしが命のパンである」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; 詩編、第78編 23節-39節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第6章 22節-40節
・ 讃美歌 ; 166、56、276
・ 聖歌隊 ; 162
1 わたしが子供の頃、食事をする部屋の壁に、一枚の絵が飾ってありました。一人の白いひげをたくわえたおじいさんがパンとスープを前にして手を組んでお祈りをしている絵です。かたくて丸い一つのパンが載った皿と、わずかなスープの入ったお椀です。そしてそのそばには、聖書が置いてあるのです。そのすぐ隣りには、さっきまで聖書を読んでいたのでしょう。眼鏡が置いてあります。このおじいさんは、ひとしきり聖書を静かに読んで過ごした後、眼鏡を置いて、静かに食事の席に着いたのです。周りには誰もいません。もしかしたら、もう家族とは死に分かれて、一人残されて日々を送っているのかもしれません。食事も、つましい、ささやかな夕食です。本当に、その日生きるための最小限の食べ物です。けれども、この絵には不思議にも、寂しさは感じられません。正確に言えば、ある寂しさはあるかもしれないが、それが支配的ではないのです。一人残されて静かに生きている寂しさはあるかもしれないが、けれども、それを超える暖かさ、それをも包む優しさがこの絵には溢れているように思えます。それが、机の上に置かれた聖書、また目をつむり、皺のよった額に組んだ手をあてがって祈っているこのおじいさんの静かで深い表情から伝わってくるのです。そこに自ずと伝わってくるのは、このおじいさんの中に静かに、しかし溢れるようにみなぎっている感謝です。神への感謝です。 私は小さい頃からこの絵を見て育ちました。この前、妻を送りに、久しぶりに山形の実家に帰省した時も、変わらずその絵が飾ってあるのを見て、感慨深くその絵を眺めてきたことでした。この絵を見るたびに私が思わされたことは、私たち人間はただ生きるのに必要な食べ物を口に入れることができれば、それで事足りるというような存在ではない、ということです。どんなに豊かな食卓が整えられたとしても、私たちが失ってはならないものがある。それが失われてしまうなら、並べられた食物を食べることは食事ではなくなり、動物が餌を食べるのと大して変わらないようなものになってしまう、それくらい大事なことがこの食事の中には隠されている、ということです。それは、このおじいさんが祈りの中で神に心を向けていることです。神との関係の中で、今日必要な食卓を感謝して受け取り、御言葉という霊の糧をいただくことの中で、体を生かす肉の糧にも与かる、そういう生き方の幸いを知っている、深くて静かな喜びが、その絵を通して聞こえてくるような気がするのです。
2 6章の始めで、主イエスが五千人の人々に五つのパンと二匹の魚を分け与えて養われた時も、主が示そうとされたのはこのことだったのではないでしょうか。人はただパンを食べて生きればそれで事足りるような存在ではない。今日生きるのに必要な肉の糧をも与えてくださる主イエスとの結びつきの中で生きる。主イエスの命の御言葉に生かされ、それを通して神との生ける交わりに与かって生きる。そういう歩みを、主は私たちにも与えようとしておられるのです。 このことは言い換えれば、私たちがただ主イエスを捜し求めて、そのそばに集まってくれば、それで主イエスに出会ったことにはならない、ということを意味します。主イエスを捜し求めて、主イエスを見つければそれで即、主イエスと本当の意味で出会ったことにはならないのです。主イエスを捜し求めるということで言えば、あの主イエスに食べ物を与えられた群衆たちも、確かに主イエスを捜し求めて湖を渡り、はるばるカファルナウムまで後を追ってきたのです。そして25節にあるようにこう尋ねたのです、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」。一見、ありきたりの問いのように聞こえますが、この問いは深い意味を隠し持っています。群衆にとって、主イエスがいつ、どこにおられるか、ということは、彼らの心の中で、主イエスはどこにおられるか、彼らの心の中で、主イエスはどういう位置づけを持っておられるか、ということを暗に意味しています。主イエスが群衆たちにとってどういうお方か、という問題が、主イエスがどこにおられるのか、という場所の問題に置き換えられながら、暗に問われているのです。群衆たちがこのことを問わざるをえなかったのは、彼らにとって主イエスはどなたであるのかが、はっきりしなかったからにほかなりません。群衆たちにとって、主イエスがいつ、どこにおられるのか、つまりどういうお方であるのかがはっきりしていないのです。彼らの心の中にあっては、主イエスがいつか、どこかに行かれてしまっても、それがいつの時点だったのか、どこに行かれたのかもはっきりしない、それほど決定的に重大なことでもない、そんな位置づけしか持たなかったということになるのです。もっと言えば、この群衆たちの問いには、主イエスに対する非難の声さえ聞こえてくるような思いがいたします。自分たちに断りもしないで、自分たちの知らないところでいつの間にかいなくなってもらっちゃ困りますよ。あなたはまだ私たちの助けになる、私たちの役に立つことがいろいろできるのだから、もっと側にいて、私たちの言うことを聞いてもらいたいんですから、そういう心の奥底の魂胆が見え隠れしています。だからこそ、いつも主イエスがいつ、どこに行かれるのかが気になるのです。主イエスの動きをきちんと掌握し、自分の管理の下に置いておきたいわけです。 主イエスは、そういう群衆たちの魂胆を見抜いておられました。それゆえにこの問いに直接にはお答えにならず、代わって群衆たちにこうおっしゃったのです、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)。五千人もの人々が、主イエスによって満腹にさせられた奇跡は、一つのしるしであります。それは、そのこと自体に留まって、そこで満足していればすむ話ではない。そのことでもって指し示されている事柄、つまりこのようなことを成し遂げてくださるこのお方は、この私にとってどういうお方であるのか、そこにまで導かれていかなければならない、そういう出来事であります。けれども、群衆はそういうしるしとしてこの出来事を受け止めなかった。そうではなく、まさにパンを食べて満腹したところで終わってしまったのです。いい思いをさせてくれた、棚からぼた餅だった、よかったよかった、またこういうことがあればいいなあ、この人がいつも私たちのそばにいて、必要な時にはいつでも奇跡を起こして自分たちの役に立ってくれたらありがたいなあ、そういう思いです。あの五千人を食べさせた出来事の後、群衆が主イエスを自分たちの王に担ぎ上げようとし、連れて行こうとしたのも、このような思いから出たことだったのです。 私たちが神を求める時も、そこで何を求めているのかが、深いところで問われているのです。自分が苦しい時、つらい時、絶体絶命の時、不思議な奇跡が起こって助けていただいた。これからもぜひお願いしたい、またよろしくどうぞ、そういう思いだけで主イエスを捜し求めるとすれば、それは本当の意味の主イエスとの出会いには至らない、主はそのことを示そうとしておられるのです。ギリシア神話においては、お話のクライマックスで、主人公が絶体絶命の危機に陥った時、天から突然神様が現れ、主人公をその危機から救い出し、一気に物語がハッピー・エンディングを迎える、という筋書きがよく出てくるそうです。ある神学者は、こういう神様を「機械仕掛けの神」と呼びました。そこで期待されているのは、人間がピンチに陥った時にだけ、都合よく出てきて、人間を助け出してまた去っていく、登場と退場の場面があらかじめ人間によって期待され、定められてしまっている、機械仕掛けで動くような神様にほかならないからです。あなたがたの信じる神はそのようなお方ではない、主はそうお語りになられます。単に主のそばにやってくるだけでは不十分です。大事なことは、私たちが何をそこで捜し求めているかということなのです。自分の大変なときにだけ助けに出てくる便利屋のような存在ではない。私たちの悲しみも喜びも、悩みも楽しみも、生も死も、すべてを支配し、導いておられる神、私たちの思いを遙かに越えて御心を行われる生ける神と、私たちが本当の意味で出会うことを、主は望んでおられるのです。
3 主イエスはそこでおっしゃいます、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」(27節)。「働きなさい」と言われて、人々は早速問います、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(28節)。朽ちない食べ物、永遠の命に至る食べ物を手に入れるために、人々は早速自分たちが働いて神の気に入ってもらうような業を行い、ご褒美として永遠の命に至る食べ物をいただこうと思ったのです。こういう考え方は、さっきの主イエスを自分たちのこの世の王様に仕立て上げ、自分たちのいいように奉仕させようとする魂胆と基本的には同じです。主イエスを自分たちのそばに置いてコントロールしようとするのも、自分たちの業によって神に喜んでもらい、永遠の命に至る食べ物を手に入れようと思い図るのも、結局は、神と取り引きをして、自分たちに都合のよい利益を神から引き出し、神を利用しようとする思いから出てくることなのですから。 自分たちの業によって神を喜ばせ、神に言うことを聞かせることができる、そんな思いを内に抱いている者にとっては、主イエスのお言葉は至極物足りないように聞こえるかもしれません。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(29節)。「働きなさい」という言葉を聞いて、私たちはいろいろな業を行わなければならないと思い、焦ってしまう。こんなこともあんなこともしなければ、神様に喜ばれ、永遠の命を受けることはできないのではないか。そんな大変なものをいただくためには、相当なことをしなければならないのではないか、そう思ってしまう。けれども、主イエスはなすべきことはただ一つだとおっしゃる。それこそが、「神がお遣わしになった者」である主イエスを信じることなのです。私たちはいろいろな業を行ってなんとか神の顧みを得ようと努力を重ねる必要はないのです。そうではない。もう神ご自身が私たちに心を配られ、私たちを本当の意味で生かすために働いておられるのです。その極みとして、ご自身の独り子をさえ惜しまずこの世にお与えになり、今このユダヤの人々の前に送ってくださっている。それなのに、群衆はこのお方が神の子であることを認めることができないのです。心の目が開かれず、そのことが見えないのです。なぜでしょうか。 彼らは言います、「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか」(30節)。神がお遣わしになった者を信じることが神の業だと告げられた群衆は、それでは自分たちが信じることのできるようなすばらしい奇跡を見せてもらいたいと主イエスに迫ったのです。彼らは先ほど五千人もいたのに、主の祝福された糧によって養われたばかりです。同じ人たちが、もうそのことを忘れたかのように、ついてはどんなしるしを見せてくれるのか、と主イエスに迫っているのです。ということは、あの奇跡の本当の意味を、彼らは悟らなかったということです。あの出来事を通じて、主イエスが本当に人々に与えようとされていたことを、彼らは見ようとしなかったということです。
4 確かにユダヤの人たちも、先祖が神から与えられたマンナのことはよく知っていました。かつてイスラエルの民が荒れ野をさまよった時、神はマンナと呼ばれる天からのパンをもって彼らを養ってくださったのです。先ほどお読みいただいた詩編78編には、イスラエルの民が決して忘れないこの恵みの出来事について記されておりました。その23節以下にこうあります、「それでもなお、神は上から雲に命じ 天の扉を開き 彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり 人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた」。イスラエルの民を代表してモーセが願い求めた糧を、神は天からお与えくださいました。このことはイスラエルの民が決して忘れることのない神の恵みの記憶です。けれども彼らはあの出来事も、そして昨日自分たちが主イエスによって養っていただいた出来事も、せいぜい困ったところを助けてもらった、という程度でしか受け止めていなかったということになりはしないでしょうか。結局、自分に都合のいいことを目の前にいるこの方がしてくれるかどうか、それが群衆が主イエスを神の子と認めるかどうかの基準となっているのです。基準となっているのは自分の思い、自分の都合、自分の利益にかなうかどうか、ということです。「あなたが神であるのなら何によってそれを示すのか、見せてみろ、見てやろうじゃないか。私の基準に適うしるしを見せれば、信じてやろう、私に利益をもたらし、空腹を満たし、私の世渡りを助けてくれるなら、お前を神と認めてやろう」、それが彼らの心の声ではないでしょうか。だからこそ、主イエスが「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」とお語りになった時、彼らはこう叫んだのです、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(34節)。
5 このことはすべて、私たちへの問いかけとなって迫ってきます。私たちも本当の意味で主イエスと出会っているでしょうか。主イエスにおいて父なる神の御心を聴き、それに従う毎日を歩んでいるでしょうか。それとも私たちもまた、あの群衆たちと同じように、信仰をせいぜいこの世を渡っていく上での慰みであり助けとなるようなものとしてしか受け止めていないのでしょうか。「命を与えるパンがあるなら、それをください」とねだり、それがもらえたなら用はすんだと言って主のもとから去っていってしまう、そして依然として自分を生活の中心に据え、自分の思いどおりに生きていこうとする。もし困ったことが出てきたら、その時はご登場願って助けていただきたい。そんなふうに考えている私たちに、主はお語りになるのです、「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」(36節)。それは本当に神を信じているのではない、結局は自分を神としているだけなのではないのか、そういう問いかけです。 私たちの信じる神は、機械仕掛けの神ではありません。私たちは自分たちの利益となる奇跡を見せてもらうかどうか、それを条件として神を信じるのではありません。身のまわりに起こった不思議な出来事、危機に際して自分が助けられた出来事、それが神を知るきっかけとなることはあります。大切なことは、そのきっかけを通して、私たちが本当の意味で神と出会い、神を信じるようになることです。そのことを通して、神が私たちに伝えようとしておられることに耳を傾けることです。神が本当に私たちに与えようとしておられるものを見つめることなのです。神が語りかけ、私たちが応える、私たちが神に呼ばわり、神の御言葉を応えとして聴く、そういう親密な関係の中に入っていくことなのです。あの冒頭に出てきたおじいさんのように、心を天に向けて祈る歩み、神と心を通わせ、主イエスとの命の通い合いの中に入れていただくことなのです。 主イエスはこの神の御心を伝えるために、天から降ってこられました。父なる神の御心は、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」であり、主イエスが「その人を終わりの日に復活させること」だ、主イエスはお語りになります。主イエスが父なる神の御心に基づいて、私たちに与えようとしておられるのは、単に今日という一日を生き延びるために必要な食物にとどまるのではありません。そうではなく、死をも越えて約束される永遠の命なのです。死んでも決して失われない生ける神との命の通い合いなのです。恐れも痛みも苦しみもなく、とこしえに神を讃美し、神との命の交わりに生かされる神の平安が、この天からのパンを通して与えられるのです。 私たちが「そのパンをください」とねだる時、主はお答えになります。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)。主イエスと私たちとの関係は、私たちが主から命のパンを受け取って、ありがとうと言って立ち去って、そこで関係が切れてしまうような浅い関係ではありません。礼拝に行かず聖書を独りで読んでいて、必要な時に慰めや力を受けていればそれでよし、としている関係は、主イエスの望んでおられるような深い関係ではありません。それは永遠の命に至らない、その場しのぎの、この世を渡る慰みになる程度の、浅い関係です。機械仕掛けの神との関係で終わってしまいます。主の望んでおられる関係ではありません。すべては、神と人との間の、呼びかけ、応える、人格的交わりにかかっているのです。永遠の命は私たちが主イエスによってとらえらていただき、主イエスと結ばれることによって与えられるものです。主イエスから離れて、いのちのパンだけを受け取って自分の生活の世界に帰っていってしまう、あとはこのお方とはおさらば、そういう関係はあり得ないのです。 「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(37節)。主イエスの約束です。私たちが今日ここに集められているのは、父なる神が御心によって主イエスのもとに導いてきてくださったからです。ここに既に、私たちの思いを越えた神の御心が働いています。その、主イエスのもとに来る人を、「わたしは決して追い出さない」と主は約束してくださっているのです。主イエスのもとに来るということは、とりもなおさず主イエスを信じるということです。そして主イエスを信じるということは、私たちが神の前に自分の義しさを証明して見せようと、いろいろな業を行うことではなく、神が私たちにしてくださった大きな業を感謝して受け入れる、ということなのです。自分の人生の支配権、自分の主人は自分だという思いを捨て去り、神の御心を受け入れ、神が行ってくださる御業に自分を明け渡すのです。 何よりも神がまず大きな御業を行ってくださいました。ご自身の独り子である主イエス・キリストご自身を、天から降らせ、命のパンそのものとしてこの世にお与えになったのです。このお方が十字架におかかりになってくださいました。神に逆らって自分の人生を自分の好きにしたいとこだわる私たちを、本当に自由にするためです。私たちを命の滅びに向かう歩みから救い出すためです。そしてご自身が死の中から復活されたことによって、私たちもまた終わりの日に復活し、永遠の命に生きる者とされることを約束してくださっています。私たちは命のパンそのものである主イエスをいただくのです。そこで本当の命に生かされ、養われるのです。心を開いて、この神の恵みの御業を受け入れます。何よりも神が、私たちが受け入れることのできるように働きかけてくださりますから、その神の業に身を委ねるのです。 そこに、私たちにも新しい人生が始まります。あの食前に祈りを捧げるおじいさんのように、その日のパンを前にして、まず心を天に向けて、神に感謝の祈りを捧げることを知った歩みが始まります。今日の自分を生かす食べ物が目の前のパンだけではないことを知るのです。たとえこのパンに養われている地上の命がやがて終わりを迎えても、なおその向こうまで生き続ける、新しい、霊の体といのちがあることを知るのです。だからこそ、そこへと向かう途上にある、今日という一日をも感謝し、この日の糧も神の御手から喜んでいただくことができるのです。だからこそ、神に祈りを捧げ、礼拝を捧げる幸いを、私たちは知っているのです。
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、その場しのぎの関係ではない、もっと深い、あなたが望んでおられ、私たちと結ぼうとしておられる関係に、今私共の心の眼を開かせてください。天からのパンである、主イエスご自身によって養われる恵みに生かしてください。私たちが持っている自分の基準、自分の枠組みさえも打ち壊して、あなたが私たちの上に御業を行ってください。あなたの御心に聴き、主イエスに結ばれて、永遠の命を約束されて歩む人生の幸いを、今ここに、新たにさせてください。 命のパンである、御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。