主日礼拝

神のなさる証し

「神のなさる証し」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 申命記、第18章 15節-22節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第5章 31節-47節
・ 讃美歌 ; 134、313、378
・ 奉唱  ; 46、314

 
1 安息日に一人の病人を癒したことで、主イエスはユダヤ人たちに取り囲まれてしまいます。べテスダの池での出来事でした。何の権威によってこのようなことを行うのか、証明してみろと攻め寄られたのです。何を根拠にして、このようなことを平然と行うのか。安息日に人を癒すような仕事を行うのは許されていないではないか、とユダヤ人たちは主イエスに詰め寄ったのです。事件が起きた神殿の片隅は、即席の裁判の場に変わりました。神の掟を平気でないがしろにするこの男を裁いてやろうと憎しみに燃えている人々が、主イエスを囲み責めているのです。主イエスはご自分のなさっている業が理由のある、正当なものであることを証明してみせるよう迫られました。
 そのことに答える主の言葉はこうです、「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」(31節)。つまり主イエスがこのようなみ業を行われる理由は主イエスご自身の内にあるわけではない、とおっしゃっておられるのです。そうではなくて、「わたしについて証しをなさる方は別におられる」とおっしゃいます。しかも「その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている」(32節)とおっしるのです。このお方は、後の37節で、父なる神であることがはっきりいたします。「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」。
 旧約聖書の中には、裁判の中で、ある証言がどのようにして確かなものとされるのかについて、きちんとした規定があります。例えば、人を殺害した人が裁判にかけられる時、こういうことが言われています。「人を殺した者については、必ず複数の証人の証言を得たうえで、その殺害者を処刑しなければならない。しかし、一人の証人の証言のみで人を死に至らせてはならない」(申命記35:30)。きちんとした裁判の場では、人が有罪かどうかを決めるに当たって、本人のなす証しだけでは信頼に値しないと見なされたのです。今主イエスのなさっておられることが正しいことかどうかを決めることができるのは、主イエスご自身以外のお方でなければなりません。主イエスはその時、「わたしの父が、わたしについて証しをしてくださる」とおっしゃったのです。
 主イエスはこのように、ご自身でなす証しにより頼むことはありませんでした。それだけでなく、「人間による証しは受けない」ともおっしゃいました(34節)。そういえば、主イエスはかつて、過越祭の時にご自分のなされたしるしを見て、多くの人々が主イエスの名を信じた時にも、その人々の信仰にご自身をお任せにはなりませんでした。2章の23節から25節でこう言われています、「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」。主イエスは、人間が、このお方は神だ、と証しをしてくれなければ、ご自身を神としてお示しになることができないような、弱々しいお方ではありません。ご自身が神であることを示すために、人間の証しを頼りにしているようなお方ではありません。それどころか今は主の名を信じている人々が、いとも簡単に「殺せ、殺せ、十字架につけろ」(19:15)と叫ぶようになってしまう現実をよくご存知でした。人間の証しを頼りにするどころか、人間の証しに潜む弱さ、人間の証しの頼りなさをよくご存知だったのです。
 主イエスが頼りにされたのは、父なる神が、主イエスにお与えになった「業」です。36節で主はこうおっしゃいます、「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」。主イエスの業、主イエスが行っておられることそのものが、主が父なる神から遣わされたものであることを証明しているというのです。主イエスがなさっていることを見れば、このお方がどなたであるか、何の権威によってこうしたことを行っておられるかは自ずと明らかなのです。その業の内容について、今日の箇所の少し前、20節以下に次のようにあります、「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」。主イエスのみ業は復活の命を与えることを目指しているみ業です。弟子たちを集め、病人を癒し、罪人に赦しを与えることは皆、私たちを永遠の命へと与からせるためのみ業なのです。そのために人々に苦しめられ、十字架にかけられ、甦られ、天へと昇られるという御業に、主イエスのご生涯は集中しています。この御業そのものが、主イエスが父なる神のもとから来られ、神の権威に基づいてすべての御業を行っている、そのことを証ししているのです。

2 そのことはまた、主イエスをお遣わしになった父なる神が、主イエスについて証しをしてくださっているということです。37節で主は、「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」とおっしゃいます。先ほど主イエスは、「わたしについて証しをするのはわたしが行っている業そのものだ」とおっしゃいました。それは言い換えるなら、その業をなすようにとお命じになった神が、その御業を通じて働いておられるということです。父なる神ご自身が、主の御業を通じて、主イエスについて証しをしておられるのです。ですから主イエスは独りぼっちで、孤独に裁判を闘っておられるのではありません。父なる神が主イエスの御業を通じて働いておられ、証人として主イエスと共にいてくださるのです。主イエスが神であられることは、神ご自身が保証しておられるのです。
  長い間、ヨーロッパでは神の存在を証明しようとする試みがなされてきました。世界にある原因と結果の鎖をたどって行くと、それ以上にはたどれない第一の原因に行き着くはずだ、それが神だと言われたりしました。世界は目的があってできているように見えるから、その目的を置かれたお方が神だ、と言われたりもしました。けれどもどれ一つとして、本当に納得できる証明はできませんでした。ヘーゲルという哲学者は、日曜日に教会の礼拝に行かないので、「なぜあなたは日曜日に教会に行かないのか」と、妻に尋ねられたそうです。すると彼はこう答えたそうです、「私にとっては神について考えることが神を礼拝することだ」と。これではいつまでたっても本当に神と出会うことはできません。人間が自分の頭の中で、神をとらえ、神を説明し尽くそうとする時、その試みはすべて失敗に終わるのです。
 この福音書の第4章にはサマリアの女性が出てきて、主イエスについて証しをする場面が出てきます、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」(4:29)。けれども、信じた町の人々が最後に言った言葉はこうでした、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」(4:42)。神が神であることを示すのは、決して人間などではなく、神ご自身なのです。神の存在証明は、神ご自身がなされるのです。今年度の教会の年間主題は「伝道―証しの生活」でありますが、私たちは自分たちの証しがないと神のご栄光が現されない、などと考える必要はありません。私たちの証しの生活に先立って、神の証しがあるのです。神がご自身を現し、求める者に出会ってくださるのです。信仰を与えてくださるのです。神が神であることは、私たち人間の世界で考えを突き詰めていった中から出てくることなのではなく、向こう側から、神の方からのみ、知らされることなのです。

3 それではその他の証し、たとえば洗礼者ヨハネの証しとは何だったのでしょうか。あるいは聖書のなす証しには意味があるのでしょうか。さらには、神がご自身で証しをしておられるのなら、私たちのなす証しにいったいなにがしかの意味があるのでしょうか、そんな疑問も生まれてまいります。「わたしは、人間による証しは受けない」とおっしゃる主は、果たして「人間の証しなんかいらないよ」と人間を軽く御覧になって、その証しをつっぱねておられるのでしょうか。そうではありません。
 洗礼者ヨハネは「燃えて輝くともし火であった」、主はそうおっしゃいます。この箇所をある人は言葉を加えつつ、次のように訳しました、「ヨハネは光ではないが、まことの光に導く燃えて輝く明りであった。しかしあなた達は彼の言葉に従おうとせずに、しばし彼の光にうち興じただけであった」(塚本虎二訳)。ヨハネは光そのものではありません。けれども光を指し示すための小さな明りの役割を果たすように、神からその務めを託されているのです。ちょうど暗い屋敷の中で、奥の明るい居間へと客を導くのには、小さな行灯(あんどん)のともし火が必要なのと同じように、暗闇の中でさまよう人をまことの光へと導くためには、小さな明りが必要なのです。
 その意味では聖書も同じです。神は聖書の中におられるのではありません。永遠の命が聖書の中にあるのではありません。聖書の中に入り込んでいってその中にある永遠の命を掴み取ってくるのではありません。神はこの一冊の書物の中に閉じ込められてはいないのです。神はそんなちっぽけなお方ではありません。この世界を造られ、治め、導かれ、歴史の中で働いておられます。私どもはこの生ける神に、聖書を通して、聖書を通っていったその先で、出会うのです。この聖書を通じて指し示された、今ここに臨んでおられる神と出会うのです。そのことが分からない時、すぐ傍らに、神の独り子が来て立ってくださっているのに、このお方の語りかけに耳も傾けずに、まだ命が見つからないと言って、ひたすら聖書を研究している、滑稽というよりは悲劇的な状況が生まれるのです。神御自身がなさる証しがすべてに先立ってあり、聖書はこの神の証しを指し示しているのです。またヨハネも、この聖書によって指し示されている神の証しを人々に紹介するのです。

4 私たち一人一人の信仰生活、また教会の証しの歩みはどうでしょうか。主イエスはユダヤ人に向かってはっきりとこう言われました、「あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている」(41節)。さらに44節ではこうおっしゃいます、「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか」。これはショッキングなお言葉です。ユダヤ人といえば、神に近づこうと熱心に祈り、禁欲をし、宗教的な儀式を重んじ、真剣に道を尋ね求めていた人たちです。それこそ一生懸命に聖書を研究していた人々です。神を愛する思いでいっぱいの人たちだったはずです。その人たちに向かって「あなたたちの内には神への愛がない」というお言葉が言い渡されるのです。「どうしてあなたたちは信じることができようか」と切り返されるのです。自分たちが裁判をしていると思っていたユダヤ人が、逆に主イエスの裁きの下に立たされているのです。心から神を信じて歩んでいたと思っていたのに、すべては御心から外れた歩みだったことが明らかとなるのです。これは恐ろしいことです。彼らは神がモーセに語られたことに基づき、自らを「モーセの弟子」と呼び、モーセが自分たちの信仰の確かさを保証してくれていると信じていました。ところが、彼らの中には本当の信仰がないということを、ほかでもない、モーセ自身が証しすることになるだろう、というのです。これは悲劇です。世界に見捨てられても、最後に助けてもらえると信じていたその預言者からも見放されるのです。どうしてこんな恐ろしいことが起こるのでしょうか。
 ここで語られている「誉れ」という言葉はまた、「栄光」という意味を持っています。そうすると44節はこう言い換えられます。「互いに相手からの栄光は受けるのに、唯一の神からの栄光は求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか」。熱心に神を愛するということは、神の栄光が現されるのを求めるということです。ところが、そうしているつもりでいながら、私たちは実にしばしば、結局は自分の栄光を求めてしまっているのです。自分に都合の良い言葉しか受け入れていない、ということも起こるのです。モーセを信頼しているように見えながら、結局は自分の栄光を求めているのです。そのために、モーセによって神に訴えられるという悲劇が起きるのです。申命記にはモーセが神の言葉を取り次いで、神によって新たな預言者が立てられるという預言を語っている場面が出てまいります。ところがその預言が、主イエスにおいて、目の前で実現していることがなかなか見えません。自分の栄光を見つめる目が、神の出来事を見えなくしているのです。

5 志賀直哉という小説家は『正義派』という作品を著しました。ある日の夕方に、少女が電車にはねられる事故がおきます。それをたまたま三人の線路工夫が目撃します。警察署で電車の運転手が取り調べを受ける時、この三人の工夫は事件の目撃証人として証言することを買って出ます。駆けつけた鉄道会社の監督が運転手を上手に誘導して事件をごまかし丸く収めようとする魂胆でいることを知り、また気の弱そうな運転手の煮え切らない態度を見て、三人の中に正義の憤りがこみ上げてきます。会社の監督の偽善に満ちた言葉を三人は攻撃し、明らかに運転手に過失のあったことを強く主張したのです。証言が終わって夜の町に出た三人は愉快な興奮を心の中に感じ、道行く人に「俺たちを知らねぇか!」と言ってやりたいような気持ちに駆られます。自分たちは正しいことをしたんだから、その手柄を認められ、賞賛されることが当然だ、という思いでいっぱいになっていたのです。ところが世の中はいつもと同じように動いている。誰も自分たちの話に熱心に耳を傾けてくれさえもしない。挙げ句の果てには、通りすがる車から「危ねぇじゃねぇか!」と叱責を浴びる。そんな中で、彼らの興奮は次第に冷めていき、なぜ自分たちの正義の行いにふさわしい評価が与えられないのか、いらだちと悲しみ、寂しさが彼らの心を覆っていくのです。
 私たちの信仰の歩みの中にも、神からの栄光を求めているつもりでいて、実際には人からの栄光、賞賛や評価の方が気になっていることが意外と多いものです。自分の思いを正当化するために、「神の栄光のためなのだ」と理由付けをすることも起こります。自分はあの人に比べればまだ謙遜だ、まだましだ、隣人を横目で見やりながらそんなことを考えていたりします。あの線路工夫のように、神の正義よりも、人からの賞賛を求めているために、満たされない思いがいつも残り、どこかでいらいらしているのです。

6 主イエスが私たちのもとに来られたのは、自らの栄光に捕らわれ続けている私たちが、本当の意味で神の栄光を知り、その光の中に歩む喜びへと、私たちを招き入れるためでした。本当の意味では神を愛することなど決してできない、自分の栄光をさしおいてまで神の栄光を求めることなどできもしない、むしろ自分勝手な思いの正当化のために主の御名をみだりに引き合いに出してしまうほどの密かな傲慢さを内に秘めているのが私たちです。けれども主イエスは、その傲慢さ、神の御名を隠れ蓑にしつつ自分の栄光を求め、隣人を裁いている思い上がった心を、十字架の苦しみの中で打ち砕いてくださったのです。この十字架を見上げる時、そして甦られた主が高く上げられるのを見上げる時、私たちは自らの罪を知らされます。けれども同時に、その罪が赦され、ぬぐい去られていることをも知らされます。主の名を呼ぶふりをしながら、知らず知らずのうちに、群衆と一緒になって「十字架につけろ」と叫んでいる、そんな私たちの罪を主はあの十字架の上で担ってくださったのです。
 このヨハネによる福音書は主イエスのご生涯を目の当たりにした第一世代の人々が世を去り、教会の証しの中で歩んでいたキリスト者たちが、ユダヤ人たちに問い詰められる状況の中で書かれました。「あなたがたは何を根拠にして、イエスを救い主と信じるのか」、と問われたのです。その時、教会はこう答えたのです、「ご自身の独り子をお遣わしになることによって、神が証しをしてくださったから、私たちはこの証しに基づいて、イエスをキリスト、救い主と信じるのです」、と。私たちも同じです。神が御子についてなさった証し、神の証しがあり、今も聖霊によって神がこの証しをしてくださるゆえに、私たちもあの弟子たち、第一世代と同じ証し人となることができるのです。神の出来事の目撃証人となることができるのです。あの弟子たちと同じように主イエスと出会えるのです。この偉大な神の証しに仕える限り、人の証しはたとえささやかであっても、主によって豊かに用いていただける、光栄ある奉仕となるのです。出会ってくださる主のもとへと人を導き、主イエスをご紹介する証しを託されるのです。主イエスの十字架によって叛きの罪を赦された時、私たち人間の証しも、本当に神の栄光を求め、神の証しに仕える証しとして主に喜ばれ、用いていただけるのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、主の御苦しみを思うこの時、主の御名を呼ばわりつつ、実際には自らの栄光を求めることに心を傾けてしまう私たちの姿を思います。あなたの栄光よりも、自らの栄光にしがみつきたい思いを隠し持っている自らを思います。どうかこの頑なさ、この傲慢さ、信仰の名を借りた思い上がりを、砕いてください。このしぶとい刃を砕く力は、あなたさまにしかありません。どうか何よりも、十字架と甦りの主において、あなたがなしてくださった証しを信じる者とさせてください。そして願わくは私たち人間の証しが、あなたが御子においてなしてくださった証しを曇らせるのではなく、むしろあなたの証しに支えられつつ、あなたの証しに仕え、真にあなたの栄光を現す証しとして用いられますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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