「今も働かれる主」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; 創世記、第2章 1節-3節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第5章 1節-18節
・ 讃美歌 ; 441、366、206
1 クリスマスの主日を先週守り、今日私たちは今年最後の礼拝を守っています。毎年クリスマスが過ぎると、すぐに年末がやってきて、大変慌しい中で時間が過ぎていきます。そのうち年越しになり、新年になると同時に思いを巡らすクリスマスも遠くへ行ってしまったような思いになりがちかもしれません。けれどもクリスマスは伝統的な教会の暦では公現日、幼な子主イエスが公に現れた日として数えられている1月の6日まで続いています。いや、そもそも神の御子が私たちと同じ肉を取り上げて、私たちの救いのために降ってこられたことを覚える主の日の礼拝は、いつも小さなクリスマスを祝っていると言ってもよいでしょう。先日いただいたあるクリスマスカードには、「クリスマスの不思議さを思いながらこの時を過ごしています」、と書いてありました。まさに、神の御子がこの世に降られ、人となった、この出来事の不思議さに思いを巡らしつつ、この礼拝を守りたいと願います。
2 前回は特に、このヨハネによる福音書5章の1節から9節からの語りかけに聞きました。ベトザタの池で癒される望みも失っていた病人が、主イエスの「起き上がりなさい」という宣言によって、癒され、床を担いで歩き出したのです。今日は特にその後に起こった安息日を巡る論争が告げている、主イエスが私たちにとってどなたであるかを示す言葉に深く聞きたいと願っています。
この癒された人は、今やいつ動くかも分からない、ひょっとしたら迷信にすぎないかもしれない、この池の水のさざ波で癒される可能性に、かすかな希望をつなぐ必要はもはやなくなりました。このお方の言葉の下に立ち上がることができたのです。今や過去の自分を縛り付けていた床を軽々と担ぎ上げて、新しい人生を歩んでいくことができるのです。ここで立ち上がり、床を担いで歩き出したこの人に備えられた道は、主イエスの言葉の下に立ち続け、歩み続けていく道であるでしょう。自分を立ち上がらせた力が、何というお方のどのような力であるかを正しくわきまえ、その恵みの中に留まって歩み続けることであったはずです。けれどもこの人は、その道に踏みとどまることができなかったのでした。ほかのマタイやマルコが証言するいやしの奇跡では、癒された人が新しくされ、神との交わりの中を歩む幸いに与っていく様子が描かれますが、ヨハネが語るこの癒しの奇跡では、出来事はもっと複雑になっています。つまり癒された人がそのまま恵みの中を歩み続けるとは限らないのです。この人は、病からの癒しに与りながら、ここに現れた神の恵みの中に留まり続けることを拒んだのです。
そのきっかけとなったのは、安息日に床を取り上げて歩いているところをユダヤ人たちに見咎められた出来事でした。おそらく癒やされたこの人は喜びのあまり小躍りしながら今まさに行われている祭りの中に飛び込んでいったのではないでしょうか。羊の門の方から床を担いで祭りの中へ満面の笑みを浮かべてやってくるこの人を見て、ユダヤ人たちがまず気づいたこと、それはこの人が律法と呼ばれる、神の掟を破っていることだったのです。この人が癒され、38年間の苦しみから解き放たれたこと、そのことを一緒になって喜ぶことができた人は誰もいなかったのです。そうではなく、安息日の決まりを守っていないことが、神の前に礼拝をする者としてふさわしくない、と言って、この人を責め立てたのです。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」。
3 先ほど旧約聖書の創世記2章1節から3節が朗読されました。そこには主なる神が、六日の間天地をお造りになる業をされた後、何をされたかが書き記されています。「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」。安息日の戒めが、人間に与えられている、その第一の根拠はここにあります。神ご自身がこの日、休息を取られたがゆえに、この日は人間も何の仕事もせず、休まなければならないのです。当時、ユダヤ教では、神がモーセを通じてイスラエルの民に与えた十の戒め、十戒をもとにして、実に613もの細かな規定が作られ、その中で安息日には何をしてもいいか、何をしてはいけないかが、細かく定められていました。この日には何歩歩いてはいけない、一度使った炭の火はまた起こしてもよいが、新しい炭で火を起こしてはいけない、とか、そういった類の規定です。病気を癒やされていた人が床を担いで歩き回っていたのは、この細かな規定に違反していたのです。
神の恵みの中で立たされたこの人は、ここで立派な証を立てるだろう、私たちはそう思います。けれども、この人は言うのです、「わたしを癒してくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」。自分は言われた通りのことをしただけであって、自分が責められるべき謂われはない、と言っているのです。責任を主イエスになすりつけています。救いとは、現実から逃げることでもなく、現実と折り合いをつけたり、現実との取り組みをあきらめたりすることでもありません。また現実の中に安住し、卑屈な心のままで居直っていることでもありません。自分の担うべき課題、重荷に押しつぶされることなく、死人を起きあがらせる神の力に与って、人生の荷物をしょって立ち上がることです。試練にも持ちこたえながら、神との交わりに支えられて歩んでいく道が与えられていくことです。そのことを、実はこの癒されたはずの人は知らないままでいたのです。
4 事柄はさらに深刻です。「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」というさらなる問いに対して、なんと癒していただいた人は、自分を癒してくださった方がどなたであるかを知らなかった、というのです。考えられないことです。人生でこれ以上の恵みを受けた時はないはずなのに、その癒しを行ってくださった方に名前さえ聞こうとしていないのです。大変な恩知らずと言わなければなりません。厚かましくてずうずうしい話です。この人は、結局は自分が癒され救われればそれで良かったのではないでしょうか。そういえばあの池のまわりに今も取り残されている他の病人たちに、この人が何かをしたり、声をかけたりしたわけでもないようです。誰が救ってくださったか、その方と自分は今どういう関係の中に招かれているのか、そういうことはこの人にとっては問題ではなかったのです。
その後に、神殿の境内で主イエスがこの人に出会った時、主はもう罪を犯してはいけない、もっと悪いことが起こるといけないから、と語りかけられています。素直に読むと、この人が病気を患ったのは、かつて罪を犯したからだ、ということになります。前に悪いことをしたから、その罰としてこの人は病気になったかのように読めるのです。けれども、こういう因果応報的な考え方を、ヨハネはしていません。この後9章で、生まれつき目の見えない人を癒される時も、それはこの人が罪を犯したためではなく、神の業がこの人に現れるためだ、とおっしゃいました。むしろここでヨハネが問題にしている罪とは、主イエスに癒されたにも関わらず、主イエスを自らの救い主として受け入れようとしないことです。主イエスを拒むことです。この方を知らない、と言いきって、知ろうとも思わないことです。キリストのおかげで今があることを否定する恩知らずな行為です。「しまった!癒された喜びのあまり、自分を癒やしてくださった方が、どなたであるか聞くのを忘れてしまった!」と、慌てることさえしようとしない、開き直った態度です。このことが、神の前に罪を犯すことなのであり、その時私たちは、自らを主イエスから切り離すことによって、主イエスを自らの裁き主としてしまっているのです。「もっと悪いこと」とは、救い主イエスを拒むことによって、地獄に自分で自分を追いやることだというのです。
5 この世の闇はさらに深まります。主イエスにこうした忠告まで受けながら、この癒された人は、わざわざ、あのユダヤ人、おそらくは宗教的指導者たちに、告げ口をしに行っているのです。おそらくこの癒された人は主イエスと神殿の境内で再会した時に、主イエスの名を聞き出したのではないでしょうか。「イエス」という名は「主こそわが救い」という意味を持っています。この人はそこで「主こそわが救い」と言い表して歩み出すことをせず、むしろこの名を、ユダヤの宗教指導者たちに売り渡してしまっているのです。恩を仇で返しているのです。私はこの人の姿が、主イエスの弟子とされながら、主を裏切り、ローマの権力に主イエスを売り渡したあのユダの姿と重なってなりません。この人の密告によって、ユダヤ人たちは主イエスを迫害し始めるのです。そればかりではありません。彼らははっきりと、イエスを殺そうとねらうようになった、というのです。はっきりとした殺意が生まれているのです。その理由は、主イエスが安息日の規定を破ってこの人に床を担がせただけではなく、御自分を神と等しい者としたからだ、と言われています。今や彼らの目には、主イエスが安息日の戒めを破っているだけではなくて、十戒の一番初めの戒め、最も大事な戒めといってもよい戒め、「あなたはわたしのほかに、何物をも神としてはならない」という戒めを犯していると映ったのです。自分が神だと偽って名乗ること、これより神を冒涜していることはありません。その意味ではユダヤ人たちが殺意を持っていきり立ったのは無理もないことだったでしょう。この時、ユダヤ人たちは主イエスを殺すことによって自分たちこそ神をまことに神としている、と思っていたのです。けれども、ここでこの人たちは本当に、神をまことに神としていたと言えるでしょうか。
ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』には、16世紀のスペインのセビリヤという町に、突然主イエスが再び現れて無言のまま人々の間を歩いて数々の奇跡を行う話が出てきます。その時、当時の教会の権力者である大審問官が主イエスを呼び出し、こともあろうに主イエスを異端者として尋問する場面を描いています。そこで大審問官は主イエスに問い詰めるのです、「お前がイエスか?なぜ我々の事業の邪魔をしに来た?我々はお前の名によって15世紀かけてようやく偉大な事業を完成したばかりだ」と。このユダヤ人の宗教指導者たちも、自分たちは神をまことに神としていると思いながら、実際のところはあの大審問官のように、自分を神としていたのではないでしょうか。いやこの宗教指導者たちばかりではありません。私たちも神を礼拝していながら、日々の歩みの中では自分の思いを神としてしまってはいないでしょうか。そして自分の思いに基づいて人を判断し、裁いてしまってはいないでしょうか。
私はまだ神学校に行く前の学生時代に、神学生の方々と食堂で一緒になったことがありました。その時、初めてお会いしたある神学生の方が、私が山形の教会の出身であることを聞いて、「ちゃんと今も教会に行っている?」といかにも行っていないのではないかと疑うような調子で聞いてこられました。この神学生の方は決して悪気があってこういうことを聞かれたのではないと思います。けれども、まだ私がどういう人間であるかを知るよりも先に、ちゃんと教会に行っているかどうかということをもって私という人間を判断し、評価しようとしている雰囲気が、その語調から感じられました。そういう私も、電車に乗っている人たちのマナーについてぼそぼそ文句を言っている時、あなたは人を裁きがちになっている、と妻に指摘されたことがあります。私たちはともすると、主イエスの十字架によって罪を赦されなければならない罪人のかしらであることを忘れ、自分はそこそこの信仰生活を歩んでいる、日曜日という安息日を守っている、きちんとした社会生活を営んでいるといった思いに陥って、知らず知らずのうちに人を裁いたり、勝手な評価を下してしまったりしてはいないでしょうか。
先日、北陸地方で長い間牧会をしておられる牧師が書かれた本を読んでいましたら、日本の教会のこうした厳しさと堅苦しさが伝道の妨げになっているのではないか、という指摘がありました。恵みに生かされることよりも、どれだけきちんとした信仰生活を営んでいるかが問題とされ、その点についてきちんとした指導をしようとする雰囲気があるというのです。「神様の前に出るのだからいいかげんな服装ではだめだ」、「礼拝には遅れてはいけない」、「礼拝をする以外の不純な動機で教会に来てはいけない」、等々、いろいろなことが言われます。これらはどれも一応はその通りかもしれません。けれども、こうしたことが、恵みに生かされて歩む長い間の信仰生活の実りとして生まれてくることを無視して、ただこれらが守らなければならない掟として、私たちの上にのしかかってくれば、私たちは息苦しくなってしまいます。その間口の狭さにとてもついて行けない、ということも起こります。信仰の勤務評定をつけようとする癖が、自分を苦しめ、人をも裁く道具になるのです。その時、「安息日に床を担ぐことは律法で許されていない」、と咎めるあのユダヤの宗教指導者と同じ、新しい律法主義が、私たちの心にも入り込み始めているのではないでしょうか。主イエス・キリストのおかげで今の自分がある、そのことを忘れ、自分が今置かれている恵みを恵みとも思わず当たり前に過ごしていることが、私たちの歩みの中でもいかに多いことでしょうか。
6 あのユダヤの宗教指導者たちも、この癒された人も、基本的にはどちらも、自分を中心として生きている点では同じだったのではないでしょうか。ユダヤ人は神の子を迫害し、自分を神としながら、それでいて自分たちは神に奉仕している敬虔な信仰者だと思っていました。またあの癒された人も、結局は自分が癒され、自由になることだけが目当てであって、自分を癒してくださった方と本当の意味で出会い、この方との新しい関係の中に入れられて歩むことを拒みました。この方を知らないと言ったのです。
あのクリスマスの夜、主イエスが私たちの下へと降ってきてくださったのは、私たちがこうした自分を神とする思いから救われて、神の安息の恵みに、真実に与って生きることができるようになるためだったのです。神は造られたすべてのものをご覧になり、それらを極めて良いものと認められました。そこで安息の日を定め、造られたものを祝福のうちに置かれたのです。ところが私たちの罪によってこの神の安息が妨げられることがしばしばあります。祭りの中で神礼拝が行われる一方で、あのベトザタの池ではうち捨てられた人々が、神を仰ぐ心も失い、自分さえ助かればという思いで池の水が動くのを待っています。ユダヤ人たちは、神の恵みの出来事を目の当たりにしても、それを自分たちの宗教的指導の権威を脅かす違反行為としてしか見なせませんでした。癒された人までも、「イエス」という名前は、ユダヤ人に密告するべき名前としてしか受け止められませんでした。けれども、この安息がいったいどこにあるのかと思われるような絶望的な闇の中で、主イエスはその働きをおやめにならないのです。安息日が本当の安息の日として祝われるためにこそ、主自らがこの安息日に働いておられるのです。第七の日に神が造られたものをすべて祝福し、聖別された、その祝福が取り戻されるために、今日も主は働かれるのです。安息日の戒めが隣人を裁く道具に貶められる時、主はまことの安息を取り戻すために戦ってくださるのです。神は決してこの世をお見捨てになりません。私たちの人生を放っておかれはしません。あの時に祝福された世界に、責任を持って関わり続けておられるのです。あの神殿の境内で主イエスが、御自分の癒された人に出会ってくださり、「あなたは良くなったのだ。もう私を否んではいけない」とおっしゃられたように、礼拝において私たちと出会ってくださいます。そしていつも、「あなたはよくなったのだ。癒されたのだ。罪を赦されているのだ。礼拝に生きる者、キリストのおかげで生きている者、ただ神の恵みのみによって赦され生かされている者なのだ」、そう魂の奥底に繰り返し繰り返し語りかけ、新しく目覚めさせてくださるのです。「起きなさい!」、この声の中で立ち上がった時のことを思い起こさせ、主イエスの復活の光の中に留まるようにと、今日も御言葉をくださいます。それゆえにクリスマスも決して年中行事ではなく、毎年毎年、その恵みの味わい深さが深まっていくものとなるのです。
宗教改革を指導したカルヴァンは言いました、「安息日を守ることは、神の業の流れを中断したり妨げたりすることであるどころか、かえって神の業にだけ場所をゆずりわたすことである」。すべての人間の業を止めて、ただ神がそこで働いて御業を行ってくださる時、その働きに私たちが自らをあけわたす時、そこにまことに神を神とする礼拝が起こっています。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」。まことの神の安息を取り戻すため十字架にかかり、死の中から甦ってくださった主イエスが、この安息に与りなさいと、今日も私たちを招いておられるのです。
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、キリストのおかげで今あるはずの自分を忘れ、知らず知らずのうちに自分の思いを神とする過ちを繰り返し犯している自らであることを覚えます。どうか憐れんでください。ただあなたが御子イエス・キリストにおいて今日も働いていてくださることに望みを置きます。主イエスが働き、今日も招いてくださるがゆえに、この礼拝に与ることができます。どうか繰り返し自らの思いを持って立ち上がろうとする私たちの頑なさを、あなたの十字架の愛によって挫き、あなたが備えてくださっている本当の安息に与らせてください。この年の瀬に、私たちが罪のしがらみを水に流そうとするような誘惑にとらえられることなく、私たちの罪を割り引きすることなく、すべて引き受け担われた御子イエス・キリストを思わせてください。私たちの身も心も、今も働いておられるあなたの業のご支配の下に置いてください。そしていつもまことの安息に招いてくださるあなたの恵みの中に留まらせてください。「起き上がりなさい」と告げる、復活の光の中に留まらせてください。
安息日の主なる、イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。