主日礼拝

この人を見よ

「この人を見よ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第99編1-3節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第19章1-16a節
・ 讃美歌:

鞭打たれた主イエス
 ヨハネによる福音書の第19章に入ります。本日の箇所には、ローマ帝国ユダヤ総督であるピラトのもとで主イエスが裁かれ、十字架の死刑の判決を受けたことが語られています。正式な裁判は、13節の「ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち、『敷石』という場所で、裁判の席に着かせた」というところから始まります。それ以前のところは、裁判の前のやりとりです。ユダヤ人たちが連れて来て引き渡し、裁判を求めた主イエスを、ピラトが尋問したことが先週読んだ18章28節以下に語られていました。ピラトはイエスと言葉を交わした結果、死刑にしなければならないような罪は認められないと思いました。それでユダヤ人たちに、過越祭に一人の囚人を釈放する慣例があるから、それによってイエスを釈放することを持ちかけました。しかしユダヤ人たちは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返し、強盗だったバラバの釈放を求めたのです。
 そこから先が19章、本日の箇所です。1節に、「そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた」とあります。2、3節には、ピラトの部下である兵士たちが主イエスに茨の冠をかぶせ、紫の服をまとわせて、「ユダヤ人の王、万歳」と言って平手で打ち、なぶりものにしたとあります。「紫」は王様の服の色でした。ここでは勿論それに似た色のボロ布をまとわせたということです。兵士たちは主イエスをユダヤ人の王に見立てて、嘲笑い、侮辱したのです。他の福音書では、主イエスがこのような侮辱を受けたのは、十字架の死刑の判決が下された後とされています。しかしヨハネはそれを裁判の始まる前に、ピラトの命令によって行われたこととしています。それはピラトの思惑によることでした。彼は鞭で打たれ、侮辱を受けてボロボロになったイエスをユダヤ人たちの前に引き出してその姿を見せることで、ユダヤ人たちに「もう十分だ」という思いを持たせ、イエスを釈放しようとしたのです。そのことは4節でピラトが「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう」と言っていることから分かります。判決が下る前に鞭で打ったり侮辱するのはひどい、とも言えますが、ピラトはそれによってイエスを助けようとしたのです。

この人を見よ
 そのようにして、茨の冠をかぶり、紫の服を着せられた主イエスはユダヤ人たちの前に引き出されました。ピラトは主イエスを彼らに示して、「見よ、この男だ」と言いました。このピラトの言葉は、直訳すれば「見よ、人間だ」となります。これをもう少しきれいに訳すと「この人を見よ」となります。ピラトはユダヤ人たちに主イエスを示して「この人を見よ」と言ったのです。それは、このみすぼらしい、鞭打たれて侮辱を受けた風采の上がらない男を見ろ、こんな男を死刑にしても仕方がないではないか、という思いからです。しかし祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだのです。ピラトは「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない」と言いました。彼が「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言ったのは18章38節に続いて二度目です。ピラトは、私は何の罪もないイエスを十字架につけるのは嫌だ、そうしたいならお前たちが勝手にやれ、と開き直ったのです。

お前はどこから来たのか
 するとユダヤ人たちは、この男は神の子と自称した、それは我々の律法によれば死に当たる罪だ、と言いました。それを聞いたピラトは「ますます恐れ」たと8節にあります。主イエスが自分は神の子だと言ったと聞いて彼は恐れたのです。彼は官邸の中に引っ込んでもう一度主イエスに問います。「お前はどこから来たのか」。前回のところではピラトは「お前はユダヤ人の王なのか」と問いました。それはイエスがローマ帝国の支配を否定して自分がユダヤ人の王だと主張しているのかどうかということで、ローマ帝国ユダヤ総督としての職務上の問いです。しかしこのたびの「お前はどこから来たのか」という問いは、ピラト自身の恐れから来る問いです。自分を死刑にすることもできる総督を少しも恐れていない主イエスのお姿が彼には理解できず、そこに人間を超えたものを感じ、ある恐れを抱いていたのです。「この男は神の子と自称した」と聞かされてその恐れはますます深まりました。「お前はどこから来たのか」とは、「お前の正体は何だ」ということです。「お前は本当に神から遣わされた神の子なのか」とピラトは問うたのです。

主イエスとは誰か
 このことこそ、ヨハネ福音書の主題です。この福音書は、あの3章16節に語られていた、「神は、その独り子をお与えになったよどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という神の愛による救いを証ししています。主イエスこそ、神がこの世に遣わして下さった独り子なる神であり、私たちに永遠の命を与えて下さる救い主なのだ、ということをこの福音書は語っているのです。主イエスの正体は何かというピラトの問いはこの福音書の中心主題に迫っているのです。しかしこの問いに主イエスは答えようとされなかった、とあります。なぜでしょうか。それは、主イエスとは誰か、というこの問いは、私たち一人ひとりが主イエスから問われていることだからでしょう。「あなたは私を誰であると思うのか。私が父なる神から遣わされた独り子なる神であると信じるのか。そして私に従うのか」と主イエスは私たちに問いかけておられるのです。その問いに答えなければならないのは、私たちなのです。

この世の権力の本質
 主イエスが答えようとしないのでピラトは苛立って、「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と言いました。この世の権力を握っている自分を全く恐れない主イエスに彼は苛立ち、ますますその権力を振りかざして恐れさせようとしたのです。すると主イエスはお答えになりました。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」。この主イエスのお言葉は、この世の権力の本質を明らかにしています。それは、あなたが今持っているこの世の権力は、あなたに元々備わっているものではなくて、与えられたものだ、ということです。ピラトが主イエスを裁く権力を持っているのは、ローマ帝国ユダヤ総督の地位にあるからです。つまりその権力は、ローマ皇帝から与えられたものなのです。与えられた権力は奪われることもあります。ピラトも、皇帝から総督の地位を取り上げられれば、たちまちその権力を失うのです。さらに主イエスは、その権力をあなたに与えたのは最終的には神だと言っておられます。直接にはローマ皇帝から与えられた地位であり権力ですが、神がそのことをお許しになったから、彼はその地位と権力に留まることができているのです。つまりこの世の権力も、最終的には神のご支配の下にあるのだということを主イエスは指摘しておられるのです。

権力に縛られているピラト
 「だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」とはどういうことでしょうか。ピラトが今主イエスを裁いているのは、ユダヤ人たちが主イエスを彼に引き渡したからです。総督の地位と権力を与えられている彼は、自分に引き渡された主イエスを裁いて、釈放するか十字架につけるかを決めなければなりません。主イエスはそのことでピラトに同情していると言えます。権力を与えられているばっかりに、あなたは私を裁かなければならない、それは難儀なことだなあ、ということです。つまり、権力を与えられたピラトは、その権力に縛られているのです。彼は個人的には、イエスには何の罪も見いだせないから釈放したいと思っていますが、権力を与えられているためにその思いを貫くことができないのです。彼は「わたしはお前を釈放することも十字架につけることも自由にできる権力を持っている」と言っていますが、実はその権力に縛られて自由に行動できなくなっているのです。そのことがこの後はっきりと描き出されています。12節には、「ピラトはイエスを釈放しようと努めた」とあります。しかしユダヤ人たちはこう叫んだのです。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」。ユダヤ人たちは、自分を王だと自称しているイエスを無罪放免にしたら、あなた自身が皇帝の支配を否定してイエスを王と認めることになるぞ、と脅したのです。これはピラトの弱点を突いたまことに有効な脅しであり、まさにそこに、皇帝から与えられた権力に縛られているピラトの姿が描き出されているのです。そのように自分に与えられている権力に縛られて不本意ながら主イエスに十字架の死刑の判決を下さざるを得なくなっているピラトよりも、主イエスをピラトに引き渡し、彼を利用して十字架につけて殺そうとしている人々の罪はより重い、それが「だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」という言葉の意味なのです。

判決
 このようなやりとりを経て、いよいよ主イエスの裁判が始まりました。14節によれば、「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった」とあります。「過越祭の準備の日」とは、過越の小羊を屠り、過越の食事の準備をする日です。ヨハネ福音書は、過越の小羊が屠られるその日の正午に主イエスの裁判が行われ、その午後に十字架につけられたと語っているのです。それはまさに、過越の小羊が屠られる時間です。過越の小羊が殺されることを通してイスラエルの民のエジプトでの奴隷の苦しみからの解放、救いが実現したように、主イエスが過越の小羊として十字架にかかって死なれたことによって、私たちの救いも実現したのだ、とヨハネは語っているのです。
 ピラトは主イエスを裁判の場に引き出して、ユダヤ人たちに「見よ、あなたたちの王だ」と言いました。それはピラトの精一杯の皮肉であり、イエスを十字架につけることを要求するユダヤ人たちへの抵抗だったのでしょう。しかしユダヤ人たちは「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と叫びました。ピラトが力なく「あなたたちを王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えました。これがまさにとどめの言葉となりました。ユダヤ人たちが「わたしたちには皇帝のほかに王はない」と断言し、「ユダヤ人の王」と自称したイエスを処刑してほしいと言っているのに、そのイエスをピラトがかばったら、それはピラトが皇帝の支配を否定してイエスをユダヤ人の王と認めたということになってしまいます。こうなったらもうピラトは、イエスを十字架につける判決を下すしかないのです。

皇帝のほかに王はない
 祭司長たちのこの言葉は、主イエスの十字架の死を決定づけるとどめの言葉となったわけですが、それは同時に、自分たちにとどめを刺す言葉でもありました。ユダヤ人たちはこれまで、自分たちは主なる神の民であり、自分たちの王は主なる神だ、という信仰に生きてきたのです。だから彼らは、ユダヤ人でない異邦人が自分たちを支配することに激しく抵抗し、神の民としての誇りを守ろうとしてきたのです。それなのに、エルサレムの神殿で主なる神への礼拝を司る者である祭司の長たちが、あろうことか、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と言ったのです。神が自分たちの王であられることを否定し、自分たちが神の民であることを否定してしまったのです。その結果どうなったでしょうか。この福音書が書かれた紀元1世紀の終わり頃には、エルサレムの神殿はローマ帝国によって、つまり皇帝によって、既に徹底的に破壊され、祭司による祭儀はもはや行われなくなっていました。ユダヤ人たちの国そのものが、皇帝によって滅ぼされてしまったのです。祭司長たちが、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と言った、その皇帝によって彼らの国は滅ぼされたのです。神こそが王であることを否定して、人間を王としてしまうと、その人間の王によってとんでもない目に遭わされる、ヨハネ福音書はこの皮肉な現実を見つめつつこの場面を語っているのです。

ピラトとユダヤ人たちの罪
 こうして、ローマ帝国ユダヤ総督であるピラトによって主イエスの十字架の死刑の判決が下されました。ピラトは心の中では主イエスを恐れ、死刑にしたくないと思っていましたが、ユダヤ人たちから、イエスを釈放したら皇帝に逆らうことになるぞと脅されて、それに従わざるを得なかったのです。自分の思い通りに主イエスを裁くことができる権力を持っているはずの彼が、実はその権力に縛られていて少しも自由でない、そういう権力者の哀れな姿がこには描かれています。しかし彼の権力は、根本的には神から与えられたものでした。主イエスは、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」とおっしゃって、彼にそのことを教えておられます。彼はこの主イエスの言葉を真剣に聞くべきだったのです。自分の権力は、根本的には神から与えられたものだ、ということを見つめることができていたならば、彼はその神の前で、自分の信念に基づく判決を下すことができたはずです。しかし彼は、自分の権力を、皇帝から与えられたものとしてしか捉えることができませんでした。その結果、その権力に縛られ、自分の思いとは違う不本意な判決を下すしかなくなったのです。つまり、この世の権力は、それを人間から与えられたものとしてのみ捉えるなら、それを与え、また奪うことができる人間への恐れを生むのです。そしてその権力を与えられた者を縛りつけ、自由を奪うのです。ピラトの姿はそういうことを私たちに教えています。しかしその権力は根本的には神が与えて下さったものであることを覚えて、その神を恐れて生きるなら、そこでこそ私たちは、人間を恐れることから解放されて、与えられている地位や立場、権力を本当に自由に、信念に基づいて行使することができるようになるのです。
 自分の権力に縛られているピラトを利用して、主イエスを十字架につけようとしたユダヤ人たちの罪はより重いわけですが、その罪は、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」という祭司長たちの言葉において極まっています。自分たちのまことの王であるはずの主なる神を彼らは否定し、人間に過ぎない皇帝を自分たちの唯一の王としてしまったのです。その結果は先ほど申しましたように、その皇帝による国の滅亡、神殿の破壊でした。主イエスを十字架につけて殺そうとした彼らの憎しみが、彼ら自身の滅亡を招いたのだということをヨハネ福音書は見つめているのです。

人となりたる活ける神
 主イエスに十字架の死刑の判決が下された裁判はこのように行われました。そこにはピラトの、またユダヤ人たちの弱さと罪が渦巻いています。そしてそのために彼らが陥っている恐れと悲惨さが描き出されています。その弱さも罪も、恐れも悲惨さも、私たち自身の現実です。主イエスの十字架の死は、ピラトとユダヤ人たちの姿に描き出されている私たち自身の弱さと罪、恐れと悲惨とがもたらしたものなのです。しかしこの主イエスの十字架の死によって、私たちの救いもまた実現したのです。主イエスは、私たちのための過越の小羊として、十字架にかかって死んで下さいました。主イエスの十字架の死においてこそ、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という神の愛による救いが実現したのです。神の独り子である主イエスが、人間となってこの世を生きて下さり、ピラトの、ユダヤ人たちの、そして私たち全ての者の罪を、ご自分の身に背負って下さって、十字架の死へと歩んで下さったことによって、神は私たちの罪を赦して下さり、神と共に生きる新しい命を与えて下さったのです。ヨハネ福音書は私たちに、この十字架の主イエス・キリストを証ししています。主イエスにこそ、私たちの罪と弱さとそれによる恐れと悲惨さの全てを背負って赦しを与え、救って下さり、新しく生かして下さる神の愛があるのです。だから、十字架の主イエスをこそ見つめなさい、と語っているのが「この人を見よ」という言葉です。それはピラトがユダヤ人たちに、鞭打たれてボロボロになった主イエスのお姿を指し示した言葉でしたが、ヨハネ福音書はその言葉によって私たちにも、十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエスをこそ見つめよ、と語りかけているのです。この後歌詞を朗読する讃美歌280番「馬槽のなかに」は、この言葉から生まれた讃美歌です。その3節と4節を読みます。「すべてのものを与えしすえ、死のほか何も報いられで、十字架のうえに上げられつつ、敵をゆるしし、この人を見よ。この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は表れたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる活ける神なれ」。「この人を見よ」という言葉は直訳すると「見よ、人間だ」となると申しました。神の独り子であり、まことの神であられる主イエスが、まことの人間となってこの世を生きて下さり、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。この主イエスこそ「人となりたる活ける神」です。「この人を見よ」と聖書は私たちに語りかけています。自分の弱さと罪に縛られ、恐れと悲惨さに捕えられている私たちですが、「この人」、主イエスを見つめることによって、独り子をすら与えて下さった神の愛の下へと招かれているのです。

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