主日礼拝

証しと迫害

「証しと迫害」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第11章1-5節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第15章26-第16章4a節
・ 讃美歌:241、521

証しと迫害
 本日の説教の題を「証しと迫害」としました。本日ご一緒に読む聖書の箇所であるヨハネよる福音書第15章26節から16章4節前半には、「証しと迫害」という二つのことが語られています。15章26節と27節には、「証しをする」という言葉がそれぞれに出て来ており、それがここのテーマです。16章2節には、「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」とあって、これは迫害のことです。15章26、27節には「証し」のことが、16章1?4a節には「迫害」のことが語られているのです。しかし「迫害」については、先週読んだ15章18節以下にも語られていました。そこで主イエスは、「世があなたがたを憎むようになる、それは、わたしがあなたがたを世から選び出したので、あなたがたはもう世に属しておらず、世の身内ではなくなっているからだ」、とおっしゃいました。主イエス・キリストを信じて従っていく弟子たちは、主イエスに属しているために世に憎まれ、迫害を受けるのだということが前回の所に既に語られていたのです。新共同訳聖書の小見出しによる括りも、15章18節から16章4a節までが「迫害の予告」となっています。つまりこのあたりは「迫害」について語られており、その中に「証し」について語っている26、27節が挟まれているのです。

証しのゆえに迫害が起る
 「証し」と「迫害」は一見全く別のことのようにも思えますが、しかしこの二つは深く結び付いています。証しがなされるところに迫害が起るのです。証しがなされなければ迫害も起りません。証しとは、証言です。目撃証言という言葉があります。「私は確かにこういう出来事を見ました」とか「この人がこういうことをするのをこの目で見ました」というのが目撃証言です。それはとても有力な証拠となります。主イエスの弟子たちは、主イエスについて、まさにその目撃証言をしたのです。私たちは主イエスを見た、そのみ言葉を聞き、奇跡のみ業を目撃した、そして十字架につけられて殺されたけれども三日目に復活なさった主イエスをこの目で見た、この方こそ、神の独り子、神から遣わされた救い主だ、と弟子たちは証言したのです。そのために彼らは迫害を受けました。具体的にどのような迫害を受けたかが、先程読んだ16章2節です。彼らは会堂から追放されたのです。この会堂とはユダヤ人たちの会堂です。ユダヤ人たちの共同体の中心が会堂でした。そこから追放されるというのは、ユダヤ人の共同体から追放されること、神の民の仲間と認められず、異邦人と同様に見なされる、ということです。それは単に除け者にされるというだけではなく、「あなたがたを殺す者が」とあるように、殺されてしまうこともあったのです。しかも主イエスを信じる者を殺す人々が、自分は神に奉仕していると考える時が来る、つまり神への奉仕、信仰の業として、イエスを信じる者たちを迫害し、殺すようになる、と言われているのです。これはこの福音書が書かれた紀元1世紀末に起っていたことです。主イエスをキリストつまり救い主と信じる弟子たちの群れは、最初は、ユダヤ人たちの中の一つの教え、つまりユダヤ教の一派と見なされていましたが、次第にその違いがはっきりとしてきました。律法を守ることによってではなく、十字架につけられて死んだイエスを救い主と信じることによって救われると説く弟子たちの教えは、律法を与えられており、それを守ことをこそ神の民の印と信じていたユダヤ人たちの誇りを傷つける、許し難い異端として迫害されるようになったのです。あの使徒パウロも初めはそのように考え、教会を迫害し、最初の殉教者となったステファノを石で撃ち殺すことに賛成していたのでした。ヨハネ福音書は、そのようなユダヤ人たちからの迫害の中にある教会において書かれました。その事情があちこちに反映しています。この箇所もそうです。ここに語られている迫害は、弟子たちの教えを受け継いで主イエスを信じて歩んでいる教会に対してなされているのです。

迫害を受ける教会のための説教
 ヨハネ福音書のこのあたりは、主イエスが最後の晩餐において弟子たちにお語りになった説教です。しかしその説教は弟子たちだけにではなく、彼らの教えを聞いて主イエスを信じ、洗礼を受けて教会に連なって生きている者たちに対しても語られています。教会に連なる信仰者は、この世ではなくて主イエスに属する者となっているがゆえに世から憎まれ、様々な仕方で迫害を受けるのです。その私たちのために主イエスは語って下さっているのです。16章1節の「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」というみ言葉にそのみ心が現れています。世に憎まれ、迫害を受けることがあっても、私たちがつまずいて倒れてしまわないように、信仰の道を歩き続けることができなくなってしまわないようにと主イエスは配慮して下さっているのです。3、4節もそうです。「彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」。世があなたがたを憎み、迫害するのは、父なる神をも、その独り子である私をも知らないからだ、つまりこの福音書の3章16節に語られていた、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という神の愛を知らず、主イエスこそ神が与えて下さった独り子、救い主であられることを知らないので、世の人々は信仰者を憎み、迫害するのです。しかしあなたがたには、私がこれらのことを話した。あなたがたは父なる神の愛のみ心を知っている、そしてその愛をもたらした主イエスは、世に憎まれ、十字架につけられて殺されたけれども、父なる神がその主イエスを復活させ、永遠の命を与えて下さったことを知っている、つまり、神の愛が、人々の憎しみの思いと、その背後にある神に背き逆らう罪の全てに最終的に勝利して下さることをあなたがたは知らされているのだ。だから、その時が来たとき、つまり迫害を受けることになった時には、私が語り示したこのことを思い出しなさい、そして忍耐して信仰を守り抜きなさい、私というぶどうの木から離れずにつながっていなさい、それがこの3、4節の主イエスのお言葉に込められた思いです。14章から17章にかけての、主イエスの「告別説教」と呼ばれる部分には、私たちに対する主のこのようなみ心が一貫して語られているのです。

主イエスを証しする私たち
 そのように世に憎まれ、迫害を受けることになる私たちへの励ましのために語られているこの部分ですが、その中に15章26、27節の、「証しをする」ということが語られているのです。それは何のためなのでしょうか。先程申しましたように、主イエスのことを証しすることによって迫害は起るのです。証しをすることと、迫害を受けることは結び付いています。私たちが迫害を受けるのは、主イエスのことを証しするからです。その証しは、自分が主イエス・キリストを信じているキリスト者、クリスチャンだ、ということを明らかにすることから始まります。自分がクリスチャンだということを誰にも知られていなければ、迫害を受けることはありません。迫害は、先週の21節に「人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる」とあったように、主イエスを信じ、そのみ名を背負って生きているがゆえに起るのです。私たちが、自分はキリストを信じている者、クリスチャンだ、ということを明らかにすることは、それだけで既に主イエスを証しすることなのです。

使徒たちの証言を受け継ぐ教会
 しかし、証しとは証言である、とも先程申しました。証言とは、自分が見聞きしてはっきり知っていることを語ることです。弟子たちは主イエスをこの目で見て、主イエスと共に歩んだ目撃証人として、証しをしたのです。15章27節に「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」とあるのはそのことを語っています。初めから主イエスと一緒にいた弟子たちだから、主イエスのことを証しすることができるのです。でもだとしたらそれは、弟子たちには当てはまるけれども、私たちには当てはまりません。私たちは、主イエスのことをこの目で見たわけではないし、主イエスと共に歩んだわけでもありません。「初めからわたしと一緒にいた」者ではないのです。私たちが主イエスを信じているのは、主イエスによる救いの出来事の直接の目撃証人である弟子たち、彼らのことを「使徒」と言うわけですが、その使徒たちの証言を聞いたからです。使徒たちの証言は、教会において、二千年にわたって受け継がれ、語り継がれてきました。それが書き記され、まとめられたものが新約聖書です。さらに、主イエスがこの世に来られるより以前に、神の民イスラエルの歩みの中で書き記されたみ言葉が旧約聖書です。その両方を合わせて聖書です。教会の礼拝においてその聖書が読まれ、その説き明かしである説教が語られることによって、使徒たちの証言が受け継がれてきたのです。その証言に基づいて歩んでいる教会が、自分たちの信じていることをまとめたものが「使徒信条」などの信条です。使徒たちの証言、証しは、聖書と信条によって、教会の礼拝において、受け継がれ、語り伝えられてきたのです。私たちも礼拝において語られる使徒たちの証しを聞き、それを信じ受け入れて主イエスを信じる者となったのです。そして洗礼を受けて教会の一員となった私たちは、今度はその使徒たちの証しを他の人々に、次の世代に継承していくべき者とされているのです。

私たちの証しを妨げるもの
 そのように私たちも、使徒たちの証言を受け継ぎ、伝えていく者とされています。しかし使徒たちが証言したことを、私たちは直接体験し、目撃したわけではありません。私たちは主イエスの目撃証人ではないのであって、教会において継承されてきた使徒たちの証言を受け継ぎ、それを間接的に証言するのです。しかし先程も言ったように、証し、証言とは、自分が見聞きしてはっきり知っていることを語ることです。そうでなければ証しはできません。したとしても力のない、あやふやな証言にしかならないでしょう。確信をもって語ることができないからです。私たちが主イエスのことを証しすることに躊躇を感じる原因がそこにあります。自分がクリスチャンであることを明らかにすることから証しは始まると申しました。しかしそのことが私たちにはなかなかできません。それは、人から変な目で見られ、変人だと思われて仲間外れにされないか、という恐れによることもありますが、もっと根本的には、自分は主イエス・キリストを本当に信じていると言えるのだろうか、主イエスのことをこの目で見て、直接出会って共に生きている、つまり自分は確かに主イエスに属している、主イエスというぶどうの木の枝となっている、とはっきり確信することができない、ということがあるのではないでしょうか。だから、自分はクリスチャンだと堂々と言うことがなかなかできない、それが私たちの正直な思いなのではないでしょうか。

主イエスを見ることのできない中での信仰
 主イエスは、そのような思いをもって生きている私たちのことをはっきりと見つめつつ、この説教を語っておられます。くり返し申しているように、この説教は主イエスの逮捕と十字架の死の直前に語られています。だから告別説教、別れの説教であるわけですが、この「別れ」とは、まもなく主イエスは死んでしまうので今生の別れだ、というのではなくて、主イエスは十字架の死と復活を経て、この地上を去って父なる神のもとに行こうとしておられるのです。そのことによって、主イエスを信じて生きる者たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることができなくなるのです。主イエスを直接見ることができない中で、信じて生きていく、それが主イエスの十字架と復活の後の信仰者の歩みなのです。そのような中を歩む信仰者たち、教会の人々のために、この説教は語られているのです。主イエスを直接見ることができない、それは主イエスの直接の目撃証人とはなれない、ということです。主イエスこそ神の独り子であり救い主であられることを、私たちはこの目ではっきりと見て確認することはできないのです。使徒たちの証言を間接的に聞いて、信じるしかないのです。それが、主イエスが父なる神のもとに行かれた後の信仰者たちの歩みです。主イエスが父なる神のもとにいかれた後で誕生した教会において信仰を与えられて生きている者たちは皆、目撃証人としてではなく、使徒たちの証言を聞いて信じている者たちなのです。

聖霊が証しをなさる
 その私たちに対して主イエスはこの説教において、「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」と語りかけておられます。この説教における「あなたがた」は、主イエスと最後の晩餐を共にしている弟子たちであると同時に、後の教会に連なっている私たちでもあるのです。でもどうしてそんなことが言えるのでしょうか。初めから主イエスと一緒にいたのは、使徒となったあの弟子たちだけであって、私たちはそうではありません。それなのにどうして主イエスは私たちに、「あなたがたも証しをするのである」とおっしゃるのでしょうか。その秘密が、26節に語られているのです。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」。ここには、主イエスが弁護者を遣わそうとしておられること、その弁護者は真理の霊であることが語られています。同じことは既に14章26節に語られていました。そこには「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とありました。弁護者、真理の霊とはここに語られているように聖霊です。父なる神のもとに行こうとしておられる主イエスは、そこから聖霊を弟子たちに遣わそうとしておられるのです。主イエスは十字架の死と復活によって、弟子たちのもとから去って行こうとしておられます。彼らのもとを去って、父なる神のもとに行かれた主イエスは、聖霊を遣わして下さるのです。主イエスに代って聖霊が、弟子たちのもとに来て下さるのです。その聖霊、真理の霊が「わたしについて証しをなさるはずである」と語られています。それは先ほどの14章26節では、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と言われていたことです。聖霊が、主イエスのことを教え、主イエスがお語りになったことを思い起こさせて下さるのです。それは忘れていることを思い出させるというのではなくて、よく分からなかったことを本当に分からせて下さる、ということです。聖霊が降る時、弟子たちは、主イエスのことが本当に分かるようになるのです。父なる神が独り子を与えて下さったほどに愛して下さり、主イエスを信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることができるようにして下さったその救いが、本当に自分のこととして分かるようになるのです。このことによって弟子たちは、証しをすることができるようになったのです。主イエスが父なる神のもとから真理の霊、聖霊を遣わして下さり、その聖霊が証しをして下さったことによって、弟子たちも証しをすることができるようになったのです。それが、使徒言行録第2章に語られているペンテコステの出来事です。弟子たちに聖霊が降り、それによって彼らは力を受けて、主イエスのことを証しし、宣べ伝え始めたのです。そしてその証しを聞いて主イエスを信じた者たちが洗礼を受け、教会が誕生したのです。ヨハネ福音書がこの15章26、27節で語っているのは、このペンテコステの出来事です。そのことが主イエスの告別説教において予告されているのです。

聖霊によって証しをしていく私たち
 ここに大事なことが示されています。つまり弟子たちが主イエスのことを証しすることができたのは、彼らが初めから主イエスと一緒にいたから、主イエスのお姿を直接その目で見た目撃証人だったからでは、実はないのです。彼らは主イエスと共に歩んだけれども、主イエスのことが本当には分かっていませんでした。だから主イエスが捕えられた時にはみんな逃げ去ってしまったのです。ペトロは三度、主イエスを知らないと言ってしまったのです。その彼らが主イエスを証しすることができるようになったのは、主イエスが父なる神のもとから聖霊を送って下さったことによってでした。聖霊による証しを受けたことによって、彼らは主イエスを証しすることができたのです。そのことがあなたがたにも起る、と主イエスは私たちに語りかけておられます。私たちは、主イエスのことをこの目で見たことがないし、共に歩んだこともない、だから証言などできない、と思います。私たちの知識や体験からは確かにそうです。主イエスの証しなどとうていできません。しかし私たちも、礼拝に集い、聖書のみ言葉を聞き、使徒たちの証言を聞く時に、そこに真理の霊、聖霊が臨んで下さり、主イエスのことを証しして下さっているのです。主イエスこそ神の独り子、救い主であられ、十字架と復活による救いを与え、私たちにも永遠の命を与えて下さる方なのだということを、聖霊が、本当に分かるようにして下さるのです。聖霊が私たちを、初めから主イエスと一緒にいた者のように証しすることができる者として下さるのです。この聖霊のお働きによってこそ私たちは、自分が主イエスに属する者、クリスチャンであることを明らかにしていくことができるようになるのです。
 そのように主イエスを証しして歩む時、私たちは世に憎まれ、迫害を受けます。その時が来たときに、「私が語ったということをあなたがたに思い出させるために」主イエスは今語りかけて下さっています。それは、迫害を受けるその時に、聖霊が共にいて下さり、主イエスが告げて下さったこと、主イエスによって父なる神が与えて下さった救いを私たちに本当に分からせて下さるということです。私たち自身の強さや忍耐力によってではなくて、この聖霊のお働きによってこそ私たちは、迫害の中でもつまずくことなく主イエスを信じ続け、証しをしていくことができるのです。

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