「わたしは復活であり、命である」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:ヨブ記 第19章25-27節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第11章17-27節
・ 讃美歌:325、531、67
特別なイースター
本日はイースター、主イエス・キリストの復活を喜び祝う日です。しかし今年はイースターにすら、共に集まって礼拝を守ることができません。本日も教会では牧師、伝道師と長老数名が、教会員の皆さんの代表として集い、礼拝を守ります。皆さんにはこの礼拝の音声を聞くことによって、あるいは説教原稿を読むことによって、それぞれの所で分散して礼拝を守っていただいています。場所や時間は異なっていても、私たちは一つの礼拝に共にあずかっています。この礼拝に連なっているすべての方々に、主イエス・キリストの復活の恵みと喜びがありますように!
ラザロの死
先週から、ヨハネによる福音書の第11章に入りました。この11章には、ヨハネ福音書において主イエスがなさった最大のしるし、奇跡である「ラザロの復活」が語られています。先週読んだ16節までのところには、ラザロの死が語られていました。ラザロはベタニアに住んでいました。18節にあるように、ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどの所にありました。それは3キロ弱ほどの距離です。そのベタニアに、ラザロは二人の姉妹マルタとマリアと共に暮らしていたのです。この三人は、主イエスを信じており、愛しており、また主イエスから愛されていた人々だったことが先週のところに語られていました。そのラザロが病気になり、死にそうになったので、姉妹たちは主イエスに遣いをやって「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせました。イエスさま、一刻も早く来て癒してやって下さい、という願いがそこには込められています。しかし主イエスはそれを聞いてもなお二日間行動を起しませんでした。その間にラザロは死にました。それで本日の箇所の冒頭の17節にあるように、主イエスがベタニアに来てみると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていたのです。当時は人が死ぬと直ちに墓に葬られましたので、葬られて四日ということは死んでから四日ということです。愛する兄弟を失ったことを深く悲しんでいたマルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が慰めに来ていました。しかし、私たちの誰もが体験することですが、愛する者の死の悲しみの中にある人を本当に慰めることができる言葉など、私たちは持ち合わせていないのです。
主イエスが来られたことによって
愛する者の死による深い悲しみ嘆きの中にいるこの姉妹のところに、主イエス・キリストが来られました。そこから「ラザロの復活」の出来事が始まったのです。イースターの日に起ったのもそれと同じことでした。主イエスの十字架の死を嘆き悲しみ、ユダヤ人たちを恐れて部屋に閉じこもっていた弟子たちのもとに、復活して生きておられる主イエスが来られたのです。そのことによって弟子たちは変えられました。閉じこもっていた部屋の扉を開いて人々のもとに出かけ、主イエスによる救いを宣べ伝え始めたのです。つまり主イエスが来て下さったことによって弟子たちは、復活して新しく生き始めたのです。ラザロの復活は、そのイースターの出来事の先取りです。主イエスが来られたことによってラザロは復活し、愛する者の死を悲しみ嘆いていたマルタとマリアは喜びをもって新しく生き始めたのです。
本日のイースターにもそれと同じことが起ることを私たちは切に願っています。今私たちは、新型コロナウイルスの感染が日々拡大していく中で不安な日々を過しています。緊急事態が宣言され、外出自粛が強く求められていて、共に集ってイースターを祝う礼拝を守ることもできず、それぞれが家に閉じこもって縮こまっているような日々です。その不安や恐れの中にいる私たちのところに、復活して生きておられる主イエスが来て下さって、喜びをもって新しく生きる者へと私たちを変えて下さることを今私たちは心から願っているのです。そのことを願い求めつつ、本日の箇所を読んでいきたいと思います。
マルタとマリア
20節に「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた」とあります。ここにこの二人の姉妹の違いが語られています。ルカによる福音書第10章のマルタとマリアの話においては、主イエスをもてなすために忙しく立ち働いているマルタと、主の足もとに座ってみ言葉に聞き入っているマリアの姿が対照的に描かれていますが、ヨハネ福音書は、悲しみの中で気丈に立ち上がり、主イエスを迎えて自分の思いを訴えていくマルタと、悲しみにうちひしがれて立ち上がることもできずにいるマリアの姿を描いています。しかしこの二人は主イエスに全く同じことを言いました。先ずマルタが21節で、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。同じことをマリアも32節で言ったのです。主イエスがここにいて下さったなら、ラザロの病気は癒され、死ぬことはなかった、それが彼女らに共通している思いです。マルタもマリアも、主イエスが癒しの力を持った救い主であられることを信じているのです。だからこそ彼女らは主イエスのもとに使いをやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせたのです。その信頼はラザロが死んでしまった今も変わってはいません。しかしそれゆえに、二人の言葉には、「なぜもっと早く、間に合うように来て下さらなかったのですか」という恨みの思いも感じられます。主イエスによる救いを信じて願ったのに主イエスは来て下さらなかった、救いのみ業を行って下さらなかった、そのために今自分たちは大きな悲しみ、苦しみの中にいる、マルタとマリアはそのように感じていたのです。
主がみ業を行ってくださっていたなら
私たちも今それと同じことを感じているのではないでしょうか。新型コロナウイルスの感染が拡がっていく中で私たちは祈ってきました。これ以上このウイルスが拡散しませんように、感染した人たちが癒されますように、医療従事者たちが守られますように、主よ救いのみ業を行って下さいと祈り願ってきたのです。また教会が礼拝を守り続けられるようにとも祈ってきました。しかし感染拡大は止まらず、教会もついに共に集まって礼拝をすることができなくなりました。「主よ、もしここにいてみ業を行って下さっていたなら、このようなことにはならなかったでしょうに」という思いが私たちにもあるのです。
主イエスに期待している私たち
しかしマルタはさらに22節を語っています。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。「今でも」、それはラザロが死んでしまった今でも、です。その悲しみの現実の中でも彼女は、主イエスが願ったことは父なる神が必ずかなえて下さることを信じているのです。つまり、主イエスが神に願ってくださるなら救いが実現する、主イエスこそ、苦しみや悲しみの中にある私たちに救いを与えて下さる方であられると信じて、主イエスによる救いになお期待しているのです。私たちも、マルタと共にこの期待を抱いているのではないでしょうか。私たちは、主イエスが救いのみ業を行って下さらなかったのでこんな苦しみ悲しみに陥っている、という思いを一方で抱きながら、同時に、主イエスがなお救いを与えて下さることを期待して、みもとに集っているのです。そうでなければ私たちはもう主イエスと係わりを持とうとはしなかったでしょう。私たちが今、それぞれの家で説教の音声を聞いたり、原稿を読んで礼拝をしようとしているのは、主イエスによる救いに期待しているからです。私たちもマルタと同じように、一方で主イエスが救いのみ業を行って下さっていたらこんな事態にはならなかったのに、と思いながら、なお、主イエスが神に願ってくださるならその救いが実現すると信じ、期待しているのです。
終りの日の復活
そのマルタに主イエスは「あなたの兄弟は復活する」と宣言なさいました。兄弟の死を悲しみ嘆いているマルタに、あなたの兄弟を捕え、あなたを悲しませている死は滅ぼされる、あなたの兄弟には新しい命が与えられ、あなたは悲しみを取り去られる、という救いを宣言して下さったのです。それは私たちに対しても告げられていることです。あなたが抱いている深い嘆き悲しみは取り除かれ、救いが与えられる、と主イエスは私たちにも宣言して下さっているのです。
このみ言葉を聞いたマルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いました。「終わりの日」、それは神によってこの世が終わる日、終末の日です。神による天地創造で始まったこの世界は、いつか神による終わりの日を迎えるのです。その終わりの日には、神の民の救いが完成する、と聖書は語っています。この世の終わりは、恐ろしい破局、崩壊の時ではなくて、神による救いの完成の時なのです。その救いの完成において、死は滅ぼされ、もはや死に支配されることのない新しい命、永遠の命を生きる新しい体が与えられる、それが「終わりの日の復活」です。私たちは肉体においていつか必ず死ぬ者ですが、終わりの日の救いの完成においては、復活して永遠の命を生きる者とされる、聖書はそういう救いを語っています。先ほど共に読んだ旧約聖書の箇所、ヨブ記19章25節以下もその信仰を語っている箇所とされてきました。マルタは、「あなたの兄弟は復活する」という主イエスのお言葉を、この「終わりの日の復活」のこととして受け止めたのです。つまり主イエスが告げて下さった救いは、将来、この世の終わりに約束されているものだと思ったのです。
私たちも、主イエスによる救いをそのように受け止めています。神の独り子である主イエスが、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、神が私たちの罪を赦して下さり、復活と永遠の命を約束して下さった、その救いは、将来、この世の終わりに実現する。主イエスによる救いは約束として、希望として与えられているのであって、今のこの世の人生において実現するのではない。この世の人生には、なお苦しみがあり悲しみがあり、愛する者の死があり、自分自身も必ず死んでいく。しかしその私たちに、終わりの日、主イエス・キリストがもう一度来て全ての者をお裁きになるその日に、復活して永遠の命を生きる者とされるという約束が、その希望が神によって与えられている。その約束を信じて、苦しみ悲しみの多いこの人生を、希望を失うことなく、絶望することなく生きていく、それが、聖書を通して私たちに示されている信仰であり救いです。代々の教会はそういう信仰を告白してきたのです。聖書を読み、代々の教会の教えを学ぶことによって私たちもマルタと共に、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」という信仰を告白する者となるのです。
わたしは復活であり、命である
しかし本日の箇所の中心はその後のところにあります。主イエスは、このまことに正しい信仰を告白したマルタに、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」とおっしゃったのです。ヨハネ福音書において、主イエスは繰り返し「わたしは○○である」と語ってこられました。「わたしは命のパンである、世の光である、羊の門である、良い羊飼いである」、またこの後の15章には「わたしはまことのぶどうの木である」とも言われています。これらの言葉は全て、主イエスによって与えられる救いを語っています。それらの「わたしは○○である」という一連のお言葉の頂点がこの「わたしは復活であり、命である」であると言えるでしょう。そして大事なのはこれが、他の一連の言葉と同じように、将来のことではなく現在のこととして語られているということです。「わたしは復活であり、命である」は、将来、終わりの日に実現する救いではなくて、今既に主イエスによって実現している救いを語っているのです。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」というお言葉にそれがはっきりと示されています。わたしは復活であり命である。だからわたしを信じる者は、死んでも生きるのだし決して死ぬことはない、という救いを今既に与えられているのだ、と主イエスは告げておられるのです。「あなたの兄弟は復活する」という23節のお言葉はこの25、26節と共に語られているのです。主イエスは、愛する者の死の悲しみにうちひしがれている彼女らのところに来て下さり、「わたしは復活であり、命である」と告げて下さり、わたしを信じるなら、今ここで、死の力に勝利するわたしの救いがあなたに実現する。あなたの兄弟は復活し、あなたは終わりの日の復活を、今この人生の中ではっきりと体験するのだ、と宣言して下さったのです。
イースターを祝っている私たちに
主イエスは今日私たちにも同じことを宣言して下さっています。主イエスの復活を記念するイースターを共に祝っている私たち一人ひとりのところに、復活して生きておられる主イエスが来て下さって、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるなら、今ここで、死の力に勝利するわたしの救いが実現する。終わりの日に約束されている復活を、あなたは今この人生の中で確かに体験するのだ」と告げて下さっているのです。イースターを喜び祝うとは、この主イエスの宣言を聞くことです。主イエスは十字架の死と復活によって私たちに、終わりの日の復活と永遠の命を約束して下さいました。しかしそれだけでなく、生きておられる主イエスが今私たちに出会って下さり、語りかけて下さり、終わりの日に約束されている復活と永遠の命を、この人生において、確かに体験させて下さるのです。
このことを信じるか
しかしそこには、「このことを信じるか」という問いかけがあります。復活であり命である主イエスを信じる者は今この人生において、終わりの日に与えられる復活と永遠の命に確かにあずかる、その恵みの体験は、主イエスを信じることの中でこそ起るのです。マルタは主イエスの問いに、直ちに「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えました。マルタは、ラザロの復活を体験したのでこのように信じたのではありません。この時点ではまだラザロは復活していません。死んで墓に葬られたままです。目に見える現実を支配しているのは依然として死の力であって、悲しみと嘆きの状況は少しも変わっていないのです。しかしその中で、主イエスが来て下さり、「わたしは復活であり、命である」と宣言して下さり、「あなたはこのことを信じるか」と問いかけておられるのです。その問いに「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えて歩んでいく中で彼女は、「あなたの兄弟は復活する」という主のみ言葉が実現することを見たのです。死の力を打ち破り、嘆き悲しみから解き放ち、新しく喜びをもって生かして下さる主イエスの救いのみ業を体験したのです。
主イエスの復活を信じているのだから
私たちは今、新型コロナウイルスの感染拡大の中で、イースターの礼拝をすら共に守ることができずにいます。不安と恐れ、苦しみ悲しみが私たちを支配しています。この事態の中で私たちは、自分をも人をも慰める言葉を持ち合わせていません。しかし神の独り子主イエス・キリストは、既に私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったのです。復活して永遠の命を生きておられる主イエスが、今私たちに出会い、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と語りかけて下さっています。そして「このことを信じるか」と問い掛けておられます。この主イエスを信じて、主イエスと共に歩んでいく中で、私たちも、死の力に勝利する神の救いの恵みを目の当たりにすることができるのです。終わりの日の救いの完成を信じて、この世においては忍耐して待ち望んでいくというだけではなくて、今私たちを新しく生かし、苦しみや悲しみから解き放って下さる神の救いの恵みを体験していくことができるのです。それがどのようなことであるのかは今私たちには分かりません。しかし私たちは今日主イエスの復活を共に喜び祝っています。その主イエスが、人間の与える慰めや支えをはるかに超えた救いのみ業を見せて下さることを私たちは信じて歩むことができるのです。