「神のもとから来た者」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第66編16-20節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第9章13-34節
・ 讃美歌:57、307、475
主イエスは登場しない
本日ご一緒に読む聖書の箇所は、ヨハネによる福音書第9章13節から34節です。けっこう長い箇所ですが、ここには主イエス・キリストは一度も登場しません。主イエスの語られたお言葉すらも出てきません。福音書において、これだけ長い箇所で主イエスが全く出て来ないのは珍しいことだと言えるでしょう。ここは、主イエスがなさった一つのみ業、奇跡をめぐって、人々が主イエスのことをああだこうだと語っており、その人々の間に意見の食い違い、対立が生じている、という場面です。主イエスのなさったみ業とは、生まれつき目の見えなかった人を癒し、見えるようにした、という奇跡でした。そのことが先週読んだ1-12節に語られていました。この癒しの奇跡は、弟子たちがこの人を見て主イエスに「この人が生まれつき目が見えないのは何故ですか」と問うたことから始まったようにも見えますが、実はそうではなくて、主イエスが、彼に対して救いのみ業を行なおうという恵みのみ心をもって彼を見たことから始まったのだ、ということを先週の説教において申しました。「イエスは通りがかりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」という1節からこの話が始まっていることがそのことを示しているのです。
主イエスのみ業の波紋
この癒しの奇跡は、人々の間に大きな波紋を与え、主イエスについての様々な思いを引き起こしました。そのことが本日の箇所に語られています。主イエスはこの癒しの奇跡を、地面に唾をして泥を作ってこの人の目に塗り、それを「シロアムの池」に言って洗うように命じる、という仕方でなさいました。彼が目に塗られた泥をシロアムの池で洗ったら、見えるようになったのです。珍しく手の込んだ癒しの業がなされたわけですが、それによってこういうことが起っています。癒されたこの人は、主イエスの目の前で見えるようになって主イエスのお姿を見たのではなかったのです。シロアムの池で見えるようになった彼が帰って来た時には、主イエスはもうそこにはおられませんでした。つまり彼は、自分を癒して下さった主イエスをまだ見ていないのです。11節を読むと、彼が、自分を癒してくれたのはイエスという方であると知っていたことが分かります。しかし12節にあるように、人々が「その人はどこにいるのか」と問うても、彼は「知りません」と答えるしかないのです。主イエスがどこへ行かれたのか、彼には分からないし、また主イエスの顔を見たこともないので、「この人です」と言うこともできないのです。つまり彼は、自分の目を見えるようにしてくれた主イエスとまだ本当には出会っていないのです。その出会いは、この後の35節以下で起ります。本日の箇所においては、癒された人自身も、主イエスとまだ出会っていない、そういう状況の中で、彼自身も含めていろいろな人が、主イエスについていろいろなことを言っているのです。あのような手の込んだ癒しの業によって、こういう状況が作り出されているのです。
ファリサイ派の人々の反応
人々は癒された人をファリサイ派の人々のところへ連れて行きました。ユダヤ人の宗教的指導者だったファリサイ派の人々に、この人に起った突然の癒しの出来事をどう捉えたらよいのかを教えてもらおうとしたのでしょう。そしてもう一つ、ファリサイ派の人々にこの出来事が報告された理由があります。それは、主イエスによるこの癒しのみ業が安息日になされた、ということです。神がイスラエルの民にお与えになった十戒には、安息日にはいかなる仕事もしてはならないとあります。その安息日にこのような癒しが行われたことをどう捉えたらよいのか、律法の専門家であり、律法に基づく生活を人々に教えていたファリサイ派の人々にそのことを確かめよう、ということです。
この癒しの出来事の顛末を聞いたファリサイ派の人々の間で、主イエスについての意見が分かれました。ある人は「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言いました。しかし別の人は「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言ったのです。いかなる仕事もしてはならないと神が命じている安息日に癒しをするなんて、神のみ心に適うことではない、だからその人は神ものとから来た者ではあり得ない、と言った人と、それに対して、神のみ心に適わない罪人にこのような癒しをすることなどできるだろうか、と思った人がいたのです。両者の違いは、「こうでなければならない」という原理原則から主イエスのことを判断する人と、現に主イエスがなさったことに基づいて判断する人の違いであると言えるでしょう。
お前はあの人をどう思うのか
そのように主イエスについての意見が分かれたファリサイ派の人々は、癒された人に、「いったい、お前はあの人をどう思うのか」と問いました。これが、主イエスが登場しない本日の箇所のテーマです。彼を癒した「あの人」、つまりイエスのことをどう思うか。イエスは神のもとから来た人、神に遣わされた人だと思うのか、それとも神の律法に逆らう罪人だと思うのか。癒されたこの人もそのことを問われているし、問うているファリサイ派の人々自身もそのことを問われているし、また私たち一人ひとりも、その問いの前に立たされているのです。
癒されたこの人はこの問いに対してはっきりと「あの方は預言者です」と答えました。預言者とは、神のみ言葉を授けられ、それを人々に伝えるために神によって遣わされた人です。ということは神のもとから来た人です。彼は、生まれつき目の見えなかった自分を見えるようにして下さったあの方は、神のもとから来た預言者です、と答えたのです。主イエスによる救いを自分自身のこととして体験した彼にとっては、それは当然のことなのです。
しかしファリサイ派の人々は、その出来事そのものをなかなか受け入れようとしません。18節にあるように、「この人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった」のです。「信じたくなかった」と言った方が正確でしょう。彼らは、安息日にそのような癒しの出来事が起って欲しくないのです。自分たちの語っている「こうでなければならない」という原理原則が否定されてしまうからです。そこで彼らは、この人の両親まで呼び出して、「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか」と尋ねました。彼らは両親から、例えば、「自分たちが繰り返し神殿で祈っていたら、ある日見えるようになっていました」というような、彼らに都合の良い答えを引き出したかったのです。しかし両親は、「これは確かに私どもの息子ですが、どうして目が見えるようになったのかは知りません。本人に聞いて下さい」と言いました。それは至極当然の答えです。彼が癒された時、両親はそこにいなかったのですから聞かれても分からない。もう大人なのだから本人に聞いて下さい。というわけです。
迫害の状況
この当たり前の答えにヨハネ福音書は22節でこういう理由付けをしています。「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」。主イエスの地上のご生涯の間に、ユダヤ人たちが、イエスをメシアつまり神から遣わされた救い主であると公に言い表す者を会堂から追放すると決めていた、ということはあり得ません。これは、ヨハネ福音書が書かれた紀元1世紀の終わり頃末のことです。主イエスの復活の後、イエスこそメシア、救い主であると信じるキリスト教会が起り、その信仰が広まっていく中で、ファリサイ派を中心とするユダヤ人たちは、そのような信仰を言い表す者は会堂から、つまりユダヤ人の共同体から追放する、と決めたのです。それによって当時のユダヤ人クリスチャンたちは、イエスは神のもとから来たメシア、救い主であるという信仰を表明すると、ユダヤ人の共同体から追放される、という迫害を受けることになったのです。「イエスのことをどう思うか」という問いは、当時の人々にとっては、単なる好奇心による問いではなくて、迫害を覚悟して信仰に生きるという決断がかかっている、大変厳しい問いだったのです。
ただ一つ知っていること
ですから24節においてユダヤ人たちが彼に語った、「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」という言葉は、当時のユダヤ人クリスチャンたちがユダヤ教の当局から受けていた尋問の言葉だと言うことができます。イエスは罪ある人間であり、神のもとから来た者、救い主などではない、そのことを認めるなら許してやる、しかしなおイエスを信じると言うならお前は追放だ、という脅しを彼らは受けていたのです。その脅しに対してこの人はこう答えました。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」。「わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」と決めつけているユダヤ人たちに対して彼は、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません」と言っています。主イエスのことを罪があるとかないとか、そんな判定をすることは自分にはできない、という彼の言葉はまことに正しいのです。そんなことのできる人は一人もいないのであって、イエスは罪人だと決めつけているユダヤ人たちはまことに傲慢なことをしているのです。その上で彼は、「しかし私にはただ一つ、はっきり知っていることがあります」と言っています。それは、主イエスによって、目の見えなかったわたしが、今は見える、という事実です。自分が体験したこの救いの出来事は紛れも無い事実であり、そのことを否定することはできない、自分は主イエスのこのみ業によって新しくされ、希望をもって生きることができる者となったのだ、と彼ははっきり語ったのです。彼の言葉は、主イエスは罪人などではなくて、神のもとから来た救い主である、ということを意味しています。彼はユダヤ人たちの脅し、迫害に負けることなく、主イエスを信じる信仰を告白したのです。それができたのは、彼が主イエスによる救いを事実として体験していたからです。私たちが迫害に打ち勝って信仰を守り抜くことができるとしたらそれは、自分の固い決意や信念、つまり自分の信仰の深さや強さによってではありません。迫害に打ち勝つ力となるのは、主イエスによる救いの体験です。「目の見えなかったわたしが、今は見える」、つまり自分が主イエスによって新しく生かされている、という体験です。私たちもそういう救いの体験を与えられます。この人が体験したような、見えなかった目が見えるようになったという具体的な癒しではないかもしれません。しかし例えば、愛されているという実感が持てず、それゆえに自分で自分のことを受け入れることができず、生きていることに喜びや希望を見出すことができない苦しみの中にあった自分が、主イエスによって、神に愛されていることを実感し、それによって自分が自分であることを受け入れ、喜ぶことができるようになった、つらい苦しい現実の中でも、絶望してしまうことなく、神による救いを信じて待ち望む希望に生きることができるようになった、そのように主イエスによって新しく生かされることを、私たちも体験するのです。そういう体験によってこそ私たちも、迫害に打ち勝って信仰を貫くことができるのです。
原則に基づいて主イエスを判断しているユダヤ人
ユダヤ人たちはなおもしつこく彼に、イエスは罪人だと認めさせようとします。言い争いになる中で彼らはこの人をののしって「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない」と言いました。我々はモーセの弟子だ。それは神がモーセに語り、与えた律法に従っているのだから、我々は神に従っているのだ、ということです。しかしあの者、つまりイエスは、神が与えた律法に従っていないから、神のもとから来た者ではない。つまりユダヤ人たちは、神がモーセにお語りになった律法の言葉である十戒の中の「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」という言葉から「こうでなければならない」という原則を導き出して、それを守っているかどうか、によって主イエスのことを判断し、彼は罪人であって神のもとから来た者ではない、と言っているのです。
み業によって主イエスを判断している人
彼らのこのののしりに応えてこの人が語った堂々たる言葉は、この箇所のクライマックスです。30節から33節。「あの方がどこから来られたのか、あなたがたご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」。ここでも彼は、先程の25節と同じように、「目の見えなかったわたしが、今は見える」という自分が体験した救いの事実に基づいて語っています。そのような救いのみ業は罪人にはできない、主イエスは神のもとから来た救い主であられるからこそ、このような救いのみ業をなさることができたのだ、という彼の言葉は極めて明解です。彼は、「こうでなければならない」という原則によって主イエスのことを判断するのではなくて、現に主イエスが自分にして下さった救いのみ業に基づいて語っているので、このようにはっきりと、主イエスは神のもとから来られた方だと告白することができたのです。
神のみ心
ヨハネ福音書がこのように、ファリサイ派のユダヤ人たちの、「お前はイエスをどう思うのか」という尋問に対して、癒されたこの人が自分の体験した救いの事実に基づいて堂々と、「主イエスは神から来られた救い主だ」と答えたことを語っているのは、紀元1世紀の終わりに、ユダヤ教による迫害にさらされていたキリスト信者たちを励ますためです。今私たちは、彼らが置かれていたのとは全く違う状況を生きています。しかし私たちもこのことから、信仰についての大事なことを教えられます。それはつまり、キリスト教会の信仰とは「こうでなければならない」という原則に従って生きることではない、ということです。聖書には勿論、神がモーセに語られた、十戒を始めとするご命令、戒めが記されています。しかし私たちはそれらのご命令、戒めの字面だけを表面的に捉えてしまってはならないのです。私たちがそこから「こうでなければならない」とか「こういう時はこうすべきだ」という原則を立てる時、それは多くの場合、それらのご命令や戒めをお語りになった神の根本的なみ心とは違うものとなっていきます。神のご命令や戒めの背後には、それをお与えになった神の深いみ心があるのです。そのみ心は、「こうでなければならない」という規則を与えて、それを守る者は救うが守れないなら滅ぼす、というものではありません。神のみ心は、罪人である人間を救って下さろうとしているみ心なのです。神はそのみ心によって、独り子イエス・キリストを遣わして、その十字架の死と復活によって、罪の赦しと永遠の命の約束を与えて下さったのです。そして神は私たちがその救いを信じて、神のもとに立ち帰り、神と隣人とを愛して生きる者となることを願っておられます。その神のみ心を一言で言い表しているのが、この福音書の3章16節の言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。これこそが神のみ心です。神がお与えになった様々な命令や戒めの全てはこのみ心に基づいているのです。だからそれらは、「こうでなければならない」という原則を語っているのではなくて、私たちが独り子イエス・キリストによる神の愛、救いを与えて下さるみ心を知って、神との良い関係を回復されて生きていくために与えられているのです。ですから教会の信仰とは、「こうでなければならない」という原則に生きることではなくて、主イエス・キリストによって実現した神の救いのみ業を受け、それによって新しく生かされていくことなのです。
主イエスのみ業を見つめる信仰
私たちは、「こうでなければならない」という教えが好きです。「こういう時にはこうしなさい」というマニュアルのような教えは分かりやすくて魅力的です。そういう教えが魅力的なのは、それによって、ここでファリサイ派のユダヤ人たちがしているように、この人は正しい人、この人は罪人、と簡単に判断し、決めつけて、裁くことができるからです。主イエス・キリストご自身が彼らによってそのように裁かれ、罪人として断罪されて十字架につけられたのです。私たちは、そのような、魅力的だが間違った教えから抜け出さなければなりません。そのためにはどうすればいいのか。そのことが、この癒された人の言葉に示されています。彼は、「こうでなければならない」という原則ではなく、主イエス・キリストが行って下さった救いのみ業、その出来事そのものを見つめているのです。その出来事、救いの事実から、主イエスとは誰なのかを判断しているのです。そうすることによって彼は、「こうでなければならない」というファリサイ派の教えとは違う、神の本当のみ心を見出すことができたのです。神の本当にみ心とは、主イエス・キリストによって救いのみ業を行って下さるみ心です。独り子をお与えになったほどに私たちを愛して下さっているみ心です。その神のみ心を見つめ、それに従って生きることこそが、私たちが求めていくべき正しい信仰なのです。
主イエスとの出会いを求めてどう歩むか
最初の方でも申しましたように、この癒された人はこの時点ではまだ主イエスと本当に出会ってはいません。主イエスを信じて、主イエスと共に生きる者になってはいないのです。しかし彼は、主イエスが自分にして下さった救いのみ業を体験し、それによって新しくされて歩み出しています。主イエスによる救いの出来事を見つめ、それに従って歩み始めているのです。その彼に、この後の35節で主イエスが出会って下さいました。その出会いによって彼は、本当に主イエスを信じて生きる者となったのです。本日の箇所は、彼が主イエスによる救いのみ業を体験してから、主イエスと本当に出会うまでの間に起ったことを語っています。だからここには主イエスは登場しないのです。でも、まだ主イエスと本当には出会っていないこの時を彼がどのように歩んだかが大事です。彼は、「こうでなければならない」という原則や分かりやすいマニュアルを求めるのではなくて、主イエスによって神が行って下さった救いのみ業を体験しつつ、そこに示されている神のみ心を見つめていったのです。そのような歩みの中で、主イエスご自身が彼と出会って下さったのです。皆さんの中には、自分は主イエスとの出会いをまだ体験していない、と感じている人もおられるでしょう。でも心配いりません。主イエス・キリストのご生涯と、とりわけ十字架の死による救いのみ業をしっかり見つめて歩むなら、その歩みの中で、主イエスご自身が私たちと出会って下さるのです。そこには、独り子の命をすら与えて下さった神の愛を受けて生きる新しい人生が開かれていくのです。