「わたしをお遣わしになった方」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書 第61章1-4節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第7章25-36節
・ 讃美歌:22、135、280
イエスはメシアか?
ヨハネによる福音書第7章には、ユダヤ人の大きな祭の一つである仮庵祭の時に、主イエスがエルサレムに上り、神殿の境内で人々に教えを語ったことが記されています。神による救いの到来を告げ、病人を癒すなどの奇跡を行っていた主イエスのことは人々に次第に知られるようになっていました。この人こそ、預言者たちがその到来を告げていた救い主、メシアなのではないか、という期待を抱いている人たちもいました。しかし他方で、主イエスは当時のユダヤ人の宗教的指導者だったファリサイ派の権威に従わず、安息日にも癒しを行っていましたし、神をご自分の父と呼んで、つまり自分は神の子であると言っていました。ファリサイ派にとって、人間が自分を神の子だと言うのは神を冒涜することに他なりません。ですから彼らは、イエスは神に背く教えを語って人々を惑わしているから生かしておけない、と思ったのです。そのように主イエスについての様々なうわさや憶測が飛び交っている中、エルサレムに来たイエスが神殿で何を語るのかは大いに注目されていたのです。
本日の箇所である25節以下の始めのところに、エルサレムの人々の中には主イエスについてこのように言っている人たちがいたと語られています。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか」。この人たちは、ユダヤ人たち、特にファリサイ派の人々が主イエスを殺そうとねらっていることを知っていました。それは今も申しましたように、主イエスが安息日の掟を破り、さらには神を父と呼んだからです。神を冒涜しているこの男は生かしてはおけない、とファリサイ派の人々は言っていたのです。しかし他方に、主イエスを救い主だと思い、期待している人々もいます。また主イエスが大きな奇跡を行ったことは知れ渡っていましたから、ファリサイ派も簡単に手を出せずにいたのです。そのために、ファリサイ派が「生かしてはおけない」と言っているイエスが公然と神殿の境内で語っているのに誰も捕えようとしない、ということになっている。これはひょっとしてお偉いさん方もイエスがメシア、救い主だと思い始めたということかもしれない、と彼らは憶測したのです。
イエスはメシアではあり得ない
しかしその人々は続けてこうも言っています。「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ」。ひょっとして議員たちもイエスはメシアだと認めたのかもしれない、と思った彼らは直ちに、「いやいやそんなことはあり得ない」と自分の思いを打ち消したのです。やはりイエスがメシアであるはずはない。なぜならば、救い主メシアが本当に来たのなら、そのメシアは、どこから来たのかを誰も知らないような存在であるはずだから、と彼らは思ったのです。ここに、彼らが救い主メシアについて抱いているイメージ、あるいは期待している姿が示されています。メシアは、「どこから来られるのか、だれも知らない」、つまりどこそこの町の出身であるような普通の人間とは違う、もっと神秘的な存在であってほしい、ということです。出身地がはっきりしていると、これは政治家など皆そうですが、そこが地盤となり、その地のことを優先的に考え、その地の人々のために何かをするようになる、しかしメシア、神からの救い主はそうであってほしくない、出身地などない方が、ユダヤ人全体のための救い主としての期待が持てる、という思いがそこにはあるのだと思います。「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている」。主イエスはガリラヤの町ナザレの出身である、ということが既に知れ渡っていました。イエスの出身地をみんなが知っている、それは彼らが思い描いているメシアの姿とは違ったのです。しかもガリラヤは、当時のユダヤの人たち、特にエルサレムの人たちからしたら、サマリアをはさんで向こうにある飛び地であり、僻地です。ナザレはその中でもさらに無名な村です。この福音書の1章46節には「ナザレから何か良いものが出るだろうか」という言葉があります。ガリラヤの、しかもナザレなどという村から、メシア、救い主が現れるはずはないという、田舎に対する差別意識のようなものも彼らにはあるのです。このような複合的な理由から、やはりイエスがメシアではあり得ないと彼らは思ったのです。
メシアの出身地は?
メシアに出身地があることは相応しくない、という彼らの思いは、旧約聖書に語られているメシアについての預言と矛盾しています。この後の41節にこう語られています。「『この人はメシアだ』と言う者がいたが、このように言う者もいた。『メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか』」。ここに語られているように、旧約聖書には、神からの救い主メシアは、ダビデの出身地であるベツレヘムから出ると語られているのです。それはメシアはダビデ王の子孫として生まれる、ということです。つまりメシアの出身地はベツレヘムだと聖書は語っているのです。ですから、「メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ」というこの人たちの思いは間違いだと言えます。しかし先程申したことからすれば、そこには矛盾はありません。つまり、メシアに特定の出身地があることは相応しくないという彼らの思いは、メシアはある地域の人たちのための救い主ではなくて、ユダヤ人全体の救い主であってほしい、という願いから来ているのです。イスラエルの民全体を治めた最も偉大な王であるダビデの子孫としてメシアが生まれることは、彼らのその願いにかなっています。ダビデの村ベツレヘムの出身であることは、ユダヤ人全体の救い主であることを意味しているのです。そういう意味ではベツレヘムは唯一、メシアの出身地として彼らが認めることのできる地だと言えるのです。というわけで彼らは、ガリラヤのナザレから出たイエスがメシア、救い主ではあり得ない、という結論に至ったのです。
自分の願いや期待に基づく救い主を求める
ここに示されているのは、人々が、神からの救い主メシアを、自分の思いや感覚によってイメージし、また自分の願い、期待に基づいて、こういう存在であるに違いないと考えているということです。つまり救い主メシアはこうであってほしいという願いが元々自分たちの中にあり、それが、メシアはこうであるはずだという強い思いとなっているのです。その人たちは主イエスと出会った時に、ひょっとしてこの方がメシアかもしれないと一旦は思うけれども、いやいやメシアはこうであるはずなのにイエスは違う、だからイエスはメシアではない、という結論に達するのです。自分の思いや願いにフィットしない救い主は受け入れない、自分の願いが叶えられること以外は救いとは思わない、という人間の頑なな姿がここに描き出されています。それはそのまま私たちの姿です。私たちも、「救い主というからにはこういう人でなきゃいかんでしょ。イエス・キリストはちょっと違うよね」と思うのです。自分の思いや願い、期待に添わない救い主は受け入れようとしないのは私たちも同じなのです。
主イエスのことを知っている?
「すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた」と28節にあります。ヨハネ福音書における主イエスは何度も「大声で」語っておられます。この後の37節にもそれが語られています。他にもありますので捜してみてください。自分の思いや願い、期待にフィットする救い主を求めている私たちに、主イエスは大声でこうお告げになるのです。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方ももとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている」。それは、知っていると思っている、ということです。イエスのことは、その出身地から、どんなことをしており、何を語っているかを一通り知っている、と彼らは思っています。その自分たちの知っていることに基づいて、イエスのことを判断し、救い主はこうであるはずだという自分たちの基準によってメシアだとかそうではないと言っているのです。しかし主イエスは、「そのように私のことを知っていると思っているあなたがたは、実は私のことがまるで分かっていない」と言っておられるのです。それでは主イエスのことを知る、分かるとはどういうことなのでしょうか。それは、「わたしをお遣わしになった方」を知ることだ、と主イエスは言っておられるのです。人々は、我々はイエスの出身地を知っていると言っています。しかし主イエスの本当の出身地、つまり主イエスがどこから来たのかを彼らは知らないのです。主イエスは、父なる神のもとから、神によって遣わされてこの世に来られました。父なる神が独り子である主イエスをお遣わしになったのです。そのことを知ることこそが、主イエスのことを知ること、主イエスのことが分かることなのです。それはこの福音書の3章16節に語られていた父なる神のみ心を知るということです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。父なる神がこの恵みのみ心によって独り子主イエスを遣わして下さったことを知り、信じることによってこそ、私たちは主イエスのことを正しく知ることができるのです。つまり、主イエスが神からのメシア、救い主であられることが分かるのです。主イエスが救い主であられることは、自分が救い主について思っていることや願っていること、期待していることによって主イエスのことを判断しているうちは分かりません。父なる神が独り子主イエスを遣わし、与えて下さったほどに私たちを愛して下さり、私たちに永遠の命を与えて下さった、その父なる神の愛と主イエスによる救いを信じて受け入れることによってこそ、主イエスが救い主であられることが分かるのです。
イエスの時
30節には、「人々はイエスを捕えようとしたが、手をかける者はいなかった」とあります。自分は父なる神のもとから遣わされて来たと語ることによって、主イエスはご自分と父なる神とが一つであることをお示しになりました。それはユダヤ人たち、特にファリサイ派にとっては許し難いことで、イエスを捕えたいと思ったのです。しかし手をかける者はいなかった。それは、人々がイエスを支持していたのでできなかったということではありません。その本当の理由が30節後半に示されています。「イエスの時はまだ来ていなかったからである」。「イエスの時」がまだ来ていなかったから、イエスが捕えられることはなかったのです。「イエスの時が来る」とはどういうことなのでしょうか。本日の箇所の後半はそのことをめぐる話となっているのです。
31節にあるように、群衆の中にはイエスを信じる者たちが大勢出てきていました。その人々は「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言っていました。イエスがメシアなのかどうか、はっきりとは分からないが、しかしイエスがしているしるし、つまり奇跡は素晴しい、本物のメシアでもこれ以上の奇跡はできないのではないか、と言っているこの人たちは、主イエスのことを本当に信じているわけではありません。主イエスのなさったしるし、奇跡に驚き、心を動かされているだけです。しかしそれでも、イエスこそメシアかもという思いがこのように人々の中に広がっていることに、ファリサイ派の人々や祭司長たちは危機感を抱きました。それで32節にあるように、イエスを捕えるために下役たちを遣わしたのです。しかし彼らも、神殿の境内にいる主イエスを捕えることができませんでした。イエスの時がまだ来ていなかったからです。
今しばらくしたら
ご自分を捕えようとしているユダヤ人たちに対して語られた33節以下の主イエスのお言葉は、イエスの時がまだ来ていないことを語っています。主イエスはこうおっしゃいました。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」。これは謎のようなお言葉です。何を言っているのかよく分からない、と思います。これを聞いたユダヤ人たちもそう思ったのです。それでユダヤ人たちは「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか」と互いに言いました。イエスが、今しばらくしたら自分はどこか遠いところへ行く、とおっしゃったことだけは彼らにも分かったのです。どこへ行くつもりなのだろう。ユダヤ人は当時世界のあちこちに離散して暮らしていましたから、そういう同胞を頼りに世界のあちこちへ行って、ギリシア人にも教えを宣べ伝えようというのだろうか。これは全くとんちんかんなことです。しかしこれは、主イエスの復活の後、聖霊が降って教会が生まれ、信仰者たちが全世界に福音を宣べ伝えていったことの先取りであるとも言えます。ヨハネ福音書は教会によってこのような伝道がなされていることを意識しつつこのように語っているのでしょう。しかし勿論、ここで主イエスが、今しばらくはあなたたちと共にいるが、その後去っていくと言っておられるのは、ギリシア人のところに行くということではありません。主イエスは、「自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」とおっしゃったのです。つまり、父なる神のもとから遣わされて来た主イエスが、父なる神のもとへと帰られるのです。そのことが「今しばらく」したら起るのです。それは、主イエスの十字架の死と、復活と、昇天において起ることです。それが「イエスの時」です。イエスの時が来るとは、主イエスが捕えられ、十字架につけられて殺され、三日目に復活し、そして父なる神のみもとである天に帰る、その時が来るということなのです。それは今この時ではありません。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる」のです。主イエスはなおしばらくの間、人々の間で教えを語り、奇跡を行い、父なる神から遣わされた使命を果していかれるのです。そして父なる神が定めておられるイエスの時が来たなら、十字架の死へと向かわれるのです。その時が来るまでは、ファリサイ派や祭司長たちがどんなに腹を立ててイエスを捕えようとしても、そのことは実現しないのです。主イエスの十字架の死は、ファリサイ派や祭司長たちの思いによって起るのではなくて、父なる神のご計画によって実現するのです。つまり、主イエスがこの世に来られたのも、父なる神が独り子主イエスをお遣わしになったからなのであり、その主イエスが父なる神のもとに帰るのも、父なる神のみ心によることなのです。この父なる神のみ心を知り、信じることなしには、主イエスのことは全く分かりません。主イエスがどこから、何のために来られたのかも分からないし、どこへ行かれるのかも分からないのです。「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と言われているように、主イエスを捜しても見つけることができないし、主イエスのもとに来ることができないのです。つまり私たちが主イエス・キリストのことを見つけ、主イエスのもとに来て、信じてその救いあずかるためには、主イエスをお遣わしになった父なる神のみ心を知り、信じることが不可欠なのです。
父なる神のみ心を知り、主イエスを知る
主イエスをお遣わしになった父なる神のみ心を私たちは何によって知ることができるのでしょうか。人々は、主イエスがどこの出身か、何を語り、どんなことをしているのかを知っていました。主イエスの歩みについての一通りの知識を持っていたのです。また彼らは主イエスがなさったしるし、奇跡を見て感嘆し、もしかしたらこの方が救い主かも、とすら思っていました。しかし彼らは主イエスをお遣わしになった父なる神とそのみ心を知ることができませんでした。それゆえに主イエスのことを正しく知ることができませんでした。「イエスの時」がまだ来ていなかったのです。主イエスをお遣わしになった父なる神のみ心は、「イエスの時」が来ることによて示されたのです。つまり、主イエスが捕えられ、十字架につけられて殺され、三日目に復活して、ご自分をお遣わしになった父なる神のもとにお帰りになった、その出来事によってこそ、主イエスをお遣わしになった父なる神のみ心ははっきりと示されたのです。私たちが神のみ心を知ることができるのも、主イエスの十字架と復活と昇天とを見つめることによってです。それを見つめることによってこそ、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という父なる神のみ心を、つまり私たちへの愛を知ることができるのです。そしてそのみ心、愛を知ることによってこそ私たちは、主イエスが私たちの救い主、メシアであられることを本当に知ることができるのです。
イエスの時、聖餐
主イエスについて、そのご生涯や教えやみ業について、どんなに深い知識を得ても、それで主イエスのことが本当に分かることはありません。その主イエスが、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、そして復活して天に昇ったこと、つまり父なる神が独り子主イエスをこの世に遣わして下さり、主イエスが私たちのための救いのみ業を成し遂げて下さり、そして私たちの先駆けとして復活して父なる神のもとに帰られたことを信じる時に、私たちは主イエスのことを本当に知り、信じることができるのです。本日はこれから聖餐にあずかります。主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって肉を裂き、血を流して死んで下さったことによって私たちの罪を赦して下さったこと、復活によって私たちにも主イエスと共に永遠の命を生きる新しい体を与えて下さると約束して下さっていることを、聖餐のパンと杯にあずかることによって私たちは体で味わい知るのです。聖餐において私たちは「イエスの時」を体験します。独り子を与えて下さるほどに神が私たちを愛して下さっていることを、私たちに永遠の命を与えようとして下さっていることを、その神の愛のみ心を知り、主イエスの十字架と復活による救いを信じて歩む者とされるのです。