「起き上がりなさい」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第88編1-19節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第5章1-9a節
・ 讃美歌:327、158、532
エルサレムにおける主イエス
主イエス・キリストが、ユダヤ人の祭りのたびにエルサレムに上られたことをヨハネによる福音書は語っています。エルサレムに上ったのはご生涯の最後に一度だけだったと語っている他の三つの福音書とはそこが大きく違っています。どちらが正しいのか、ということが当然疑問になるわけで、従来は、他の三つの福音書、つまりいわゆる共観福音書の方が歴史的事実に即して語られていると思われてきました。ヨハネ福音書は独自の解釈に基づいて主イエスのご生涯を語っているので、歴史的な信憑性は薄いと考えられてきたのです。しかし近年は、ヨハネ福音書が案外歴史的事実を語っているところもあるかもしれない、とも考えられるようになっています。主イエスが何度もエルサレムに上られたというのも、ありそうなことです。どちらが事実か、と問うことにはあまり意味はありません。むしろ大事なのは、主イエスがユダヤ人の祭りのたびにエルサレムに上られたことを語ることによってヨハネ福音書が何を示そうとしているのかです。前回主イエスがエルサレムに上ったのは2章13節以下のところで、過越祭の時でした。その時主イエスは、エルサレムの神殿で、いわゆる「宮清め」をなさいました。神殿の境内で商売をしていた人々を力づくで追い出したのです。そんなことをすれば、神殿の祭司たちや、ユダヤ人の宗教的指導者たちの反感を買うのは目に見えています。エルサレムにおいて、主イエスとユダヤ人の指導者たちとの対立が深まったのです。本日から読んでいく第5章は、主イエスが二度目にエルサレムに来られた時のことですが、これもユダヤ人の祭りの時のことです。祭りのためにエルサレムに来ていた多くのユダヤ人たちの前で、主イエスのみ業がなされたのです。それは三十八年間病気で苦しんでいた人を癒した、という奇跡でした。苦しみの中にいた人を救って下さる恵みのみ業がなされたわけですが、このことによってやはりユダヤ人たちとの対立が深まりました。それは、本日の箇所の直後、頁をめくった9節後半に、「その日は安息日であった」とあることによってです。全ての仕事をやめて安息すべき日にこのような癒しの業をしたということで、ユダヤ人の指導者たちは主イエスを批判したのです。16節に「そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである」とあります。主イエスは祭りごとにエルサレムに来られたが、そのたびに、主イエスとユダヤ人たちの対立が深まっていった、ということをヨハネ福音書は語っているのです。
ベトザタの池
本日は、その対立の原因となった主イエスの癒しのみ業を見つめたいと思います。この癒しが安息日になされたことが語られる前の、9節前半までのところです。二度目にエルサレムに来られた主イエスが、このたび向かわれたのは神殿ではなくて、ベトザタと呼ばれる池でした。以前の口語訳聖書と、新しく出た聖書協会共同訳聖書の付録には「主イエスの時代のエルサレム」の地図があるのですが、新共同訳聖書には残念ながらそれがありません。その地図を見ていただくと分かりますが、ベトザタの池はエルサレム市街の北東の端のあたり、神殿の北側にありました。「そこには五つの回廊があった」と2節にあります。この池は、ほぼ正方形の二つの池が並んでいる人工的な池で、周囲の四辺と、二つの池の間の部分を含めて五つの回廊、つまり柱があって屋根がある部分があったようです。この時もユダヤ人の祭りが行われていましたから、エルサレムの街中は巡礼者でごった返していたでしょうし、神殿は丁度連休中の行楽地のように混雑していたでしょう。しかしこのベトザタの池は、そのような喧噪とは無縁の世界でした。なぜならその回廊には、「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」からです。病気や障がいのある人々がそこに集まっていたのです。世間が祭りの騒がしさの中にある中で、ここだけは、重苦しい静けさが支配していたのです。多くの病人や障がいのある人たちがここに集まっていた理由は、今は本文から外されて212頁に置かれている、3節後半と4節から分かります。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」。この説明は後から付け加えられたものと考えられるので、今は本文から外されていますが、この説明がないと彼らがここにいた理由が分かりません。つまり、時々天使がこの池で水浴びをする、その時に最初に水に入った者の病気は癒される、という言い伝えがあったのです。彼らは皆、水が動く時を待っており、その時真っ先に水に入るためにここにいるのです。天使がいつ降りて来るかは分かりませんから、四六時中ここで待っていなければなりません。彼らはこの回廊で日々暮らしながら、水の動く時を待っていたのです。
良くなりたいか
エルサレムに上られた主イエスはこのベトザタの池に行かれました。そしてそこにいた多くの病人たちの中の、「三十八年も病気で苦しんでいる人」に目を止められたのです。6節に「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って」とあります。この「見た」という言葉は、ちょっと目に入ったというのではなくて、じっと見つめて、相手の状態をしっかり理解した、という意味です。主イエスは彼をじっと見つめて、彼が三十八年もの間病気で苦しんできたこと、その間に彼が体験してきたであろう様々な苦しみ悲しみを理解したのです。そして彼に語りかけました。「良くなりたいか」。
人との関係が失われている
三十八年もの間病気で苦しんでいる人に向かって「良くなりたいか」と問うのは、余りにも無神経な言葉ではないか、と私たちは思います。良くなりたいに決まっているじゃないか。水が動いた時に池に入って癒されたいと願っているからこそここにいるのだから、そんな当たり前のことをわざわざ聞くのは、この人の心を傷つける言葉ではないか、と思うのです。だからこの人が「当たり前じゃないですか。なんでそんなことを聞くんですか」と怒り出しても不思議ではないと私たちは思います。しかし主イエスのこの問いかけは、私たちのそのような思いとは裏腹に、この人の抱えている根本的な問題、苦しみ悲しみ絶望の根本をえぐり出したのです。7節にこうあります。「病人は答えた。『主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです』」。この人は、「良くなりたいに決まっているじゃないですか」とは言いませんでした。彼が訴えたのはそれとは全く別のこと、「水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいない」ということだったのです。ここに、彼が今何を苦しんでいるのかが示されています。彼は病気のために、素早く動くことができないのです。だから、水が動いたとしても、自分で池に入ることができません。誰かが入れてくれなければ動けないのです。そういう補助者、今日的な言い方をすれば介護者ないし介助者が必要なのです。しかも、水はいつ動くか分からないのですから、その介護者にはいつもそこにいてもらわなければなりません。水が動いてから呼びに行ったのでは間に合わないのです。余程の大金持ちでもない限り、いつもここで彼と生活を共にし、水が動いたらすぐに彼を抱えて水に入れてくれる人に常駐してもらうことなどできるはずはありません。このことが今や、彼の苦しみ悲しみの中心となっていたのです。病気の苦しみやつらさよりも、自分のことを本当に思い、心配し、支え、助けてくれる人がいないこと、つまり自分を本当に愛してくれる人がいないことこそが彼の苦しみだったのです。「良くなりたいか」という主イエスの問いに彼が「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」と答えたことは、彼の苦しみがもはや病気のこと以上に、人との愛の関係が失われてしまっていることにこそあることを示しているのです。
私たちの苦しみ、孤独
この人の苦しみは、今日私たちがこの社会の中で抱えている苦しみと繋がります。今日の社会において私たちが抱えている苦しみは、人と人との繋がりが失われ、希薄になっていることです。医療や福祉のサービスは昔とは比べものにならないくらい充実し、進歩しています。あるいは、ソーシャル・ネットワーク・サービスによって、誰でも簡単に自分の思いや主張を発信できるようになり、それに同感した人によって拡散されてまたたく間にとても大勢の人がそれを読んでくれるようなことにもなっています。しかしそのような中で、人と人とが顔を合わせて語り合う本当の関係、また支え合う交わりが失われており、かえって孤独が深まっています。今の社会は無縁社会などと言われています。自分のことを本当に思ってくれ、心配してくれ、支え、助けてくれる人がいない、つまり自分を本当に愛してくれている人がいない、という苦しみが、その孤独が、この社会の最大の問題なのです。東日本大震災の後一時「絆」という言葉が盛んに語られました。私たちが生きていくためには、人と人との絆、繋がりが、愛の関係が必要だ、という思いがあの震災を期に高まったのです。それで結婚する人が増え、ルームシェアリングも増えたと言われています。助け合って共に生きていく相手がいないという苦しみを多くの人が感じるようになったということでしょう。それはまさにこの病人が感じていたのと同じ苦しみなのです。
迷信
しかし私たちはここでよく考えなければなりません。この人と同じような苦しみをかかえている私たちにとって本当に必要なのは、人と人との絆なのでしょうか。自分のことを本当に思ってくれる人、心配してくれる人、支え、助けてくれる人、つまり自分を本当に愛してくれる人がいることこそが、私たちの人生を支えるのでしょうか。つまりこの病人で言えば、「水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人」がいることこそがこの人のために必要なのでしょうか。そもそも、「主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」というのは迷信です。しかも非常にたちの悪い迷信です。それが迷信であるというのは、こんなことは科学的にあり得ないからではありません。この迷信によって、人と人との間に、まことに悲惨なことが起るからです。この池の周りには多くの病人たちがいて、水が動くのをみんなが待っています。そこで共に生活していくことの中で、お互いに、自分の病気のこと、家族のこと、これまで歩んできた生活のことなどを語り合うことも起るでしょう。「同病相哀れむ」ということもあって、そこにはある交わりが、連帯感が生じ、一つのコミュニティが生まれていったでしょう。しかし、一旦水が動くと、その連帯感、コミュニティは直ちに崩壊します。そしてこの池はすさまじい競争の修羅場と化すのです。誰もが最初に水に入ろうとして、人を押しのけ踏み付け足を引っ張り、ということが起るのです。そこにあるように見えた仲間意識、連帯感は一瞬にして崩壊し、お互いがお互いのライバルとなるのです。そのような悲惨な現実を生み出すこの言い伝えは、決して主なる神のみ心やみ業によるものではありません。それは人間の作り出した迷信です。迷信はこのように、人間の自己中心的な思いを焚き付け、それによって人を悲惨な目に遭わせ、人と人との絆、関係をむしろ破壊していくのです。元々の福音書の記述にこの言い伝えがなかったことの意味がそこにあります。これがなければ、病気の人々がここに集まっている理由が分からないので、後からこの説明が付け加えられたわけですが、元々の福音書は、説明においては不十分になっても、敢えてこのような迷信を語ろうとはしなかったのです。これは主のみ心に適ったことではない、という思いがあったのでしょう。
迷信の下での求め
「水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいない」というこの人の思いは、この迷信に、つまり自分中心の思いに基づいています。そこで彼が求めている絆、人との繋がり、愛の関係は、この迷信に基づく競争の修羅場で、自分を真っ先に水に入れてくれる人、他の病人たちが入ろうとするのを妨げ、その足を引っ張り、この熾烈な競争において自分が勝利するのを助けてくれる人です。彼自身はそうは思っていなくても、そういう人を求めていることになるのです。つまりこのような迷信の下では、人との絆、繋がり、愛の関係も、自己中心的な思いに捕われてしまって、他者との競争に勝つためのものになってしまうのです。たまたまそのように助けてくれる人が現れて、そのおかげでこの競争に勝つことができたとしても、それによって本当に祝福された人生が開かれていくことはありません。この病気という一つの苦しみは取り除かれたとしても、人生にはまた別の苦しみが、問題が生じて来るのです。そしてそこにおいてもまた新たな競争が始まります。競争に勝つことによって幸せを得ようとするなら、人生において繰り返し起ってくる人との競争の全てに勝利しなければなりません。競争に負けたらそこで終り、絶望なのです。水が動いた時に真っ先に池に入った者は癒される、という迷信の中で生きている限り、そこには平安のない、いつも戦々恐々としていなければならない人生しか得られないのです。そしてその人生は、「わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」という言葉に象徴される、他の人に対する妬みや恨み、不平不満に満ちたものとなるのです。
苦しみの根本に触れる言葉
「良くなりたいか」という主イエスの問いかけは、このような迷信に捕えられ、他者との競争に疲れ果て、妬みと不平不満でいっぱいになってしまっている彼に、彼の苦しみの根本は何だったのかをもう一度思い起こさせようとしているみ言葉です。彼自身があの迷信の中で忘れてしまっている、「良くなりたい」という願いを思い出させようとしているのです。良くなりたいのは当たり前ではないか、だからここにいるのだ、と私たちは思いますけれども、実は彼自身が「良くなりたい」という根本的な願いを忘れてしまっているのです。だから彼は主イエスのこの問いかけに、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」と答えたのです。主イエスはそのように答えた彼に、「それでは、水が動いた時に私があなたを池に入れてあげよう」とはおっしゃいませんでした。そうではなくて主イエスは、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」とおっしゃったのです。それは主イエスが、彼の苦しみの根本に届く救いを与えようとしておられるお言葉です。彼自身も忘れてしまっているが、彼が本当に必要としていることを、主イエスは与えようとしておられるのです。彼が本当に必要としていたのは、「人との絆」や「愛の関係」ではなくて、神の独り子である主イエスの「起き上がりなさい」という力ある命令だったのです。それこそが、彼の苦しみに根本的な救いを与えるものだったのです。
起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。
主イエスは彼に、「起き上がりなさい」と命令しました。すると彼は起き上がったのです。それは、この人の中に元々あった力を主イエスが引き出したということではありません。彼は三十八年の間、病気で起き上がることができなかったのです。彼の中には、自力で起き上がる力はもはやないのです。またたとえ彼のことを愛し、心配し、支えてくれる人がいたとしても、その人が彼を起き上がらせることもできません。人間にはその力はないのです。しかし主イエスが、独り子なる神としての力と権威によって「起き上がりなさい」と命じたことによって、彼は起き上がることができました。父なる神から遣わされた独り子なる神主イエスの恵みの力のみが、苦しみの中でうずくまっている人を起き上がらせることができるのです。主イエスはまた、「床を担いで歩きなさい」とお命じになりました。「床」は、彼が三十八年間かかえてきた苦しみの象徴だと言えます。彼はその床にずっと縛り付けられていました。彼自身もうそこから起き上がる希望を失っていたのです。しかし主イエスが、独り子なる神としての力と権威によって、「床を担いで歩きなさい」と命じたことによって、彼は、自分の苦しみを背負って自分の足で立ち上がり、歩く力を与えられたのです。彼に本当に必要だったのは、人との絆、自分を愛し、支えてくれる人との出会いや交わりではなくて、神としての力と権威をもって彼に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じて下さる主イエス・キリストとの出会いだったのです。
主イエスのみ言葉によって生かされる私たち
主イエス・キリストは、エルサレムに来られ、このベトザタの池に来られ、そしてこの人のもとに来られて、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」というみ言葉を与えて下さいました。この癒しの奇跡は、主イエスが彼のところに来て下さったことによって実現したのです。同じように主イエスは今、この礼拝において、様々な苦しみや悲しみ、困難の中にいる私たち一人ひとりのところに来て下さって、私たちと出会って下さり、そして一人ひとりに、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じて下さっています。その主のみ言葉を聞くことこそが、私たちにとって本当に必要なことであり、それによってこそ私たちは苦しみ悲しみ、困難から解放され、苦しみ悲しみを背負って歩いていくことができるのです。しかし私たちはしばしば、自分にとって本当に必要なものではない、もっと分かりやすい別のものを求めてしまいます。そういう私たちの思いにつけ込んで、様々な迷信や間違った教えが私たちを捕えようとしているのです。しかし迷信や間違った教えは私たちを根本的な苦しみ、問題から解放することはありません。むしろそれは私たちを、自分のことしか考えない利己的な者にしていくのです。お互いが自分のことしか考えていない世界、それはまことに悲惨な闇の世界です。ベトザタの池の水が動いた時にそこに起るであろう修羅場を想像してみれば、それがどんなに悲惨なことかが分かります。しかしそれは他人事ではありません。今の私たちの社会において、まさにそういうことが起っているのではないでしょうか。人と人との絆も、愛も、全てが失われ、利己的な欲望がぶつかり合っている、そういう闇の現実の中に私たちはいるのではないでしょうか。
闇の中にいる私たちのところに、まことの光であられる主イエス・キリストが来て下さいました。主イエスは私たちのことをじっと見つめ、私たちが抱えている苦しみ悲しみの全てを知って下さり、そして語りかけて下さるのです。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。礼拝において与えられる主イエスのこのみ言葉こそが私たちを、苦しみの中で立ち上がらせ、そして自分の負うべき重荷をしっかり背負って歩む力を与えるのです。私たちが主イエスのみ言葉によって立ち上がり、苦しみを背負って歩み出していく中でこそ、人と人との絆、愛の関係は私たちを本当に結び合わせるものとなります。主イエスによって起き上がり、自分の負うべき重荷を背負って歩んでいく者は、他者の重荷をも共に背負っていくことができるようになるのです。自分のためだけでなく他の人々のために生きる者となり、人との間に良い関係を、愛の交わりを築いていくことができるのです。