「天から来られる方」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:ヨエル書 第3章1-5節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第3章31-36節
・ 讃美歌:51、157、476
難しくてよく分からない箇所
今私たちが礼拝において読み進めているヨハネによる福音書には、神さまによる救いの恵みをはっきりと、分かりやすく語ってくれているすばらしい言葉がいくつも出てきます。主イエスのお言葉としては、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」であるとか、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とか、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とか、さらには「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」であるとか、あるいは「真理はあなたたちを自由にする」というお言葉もあります。これなどは、国立国会図書館のカウンンターのところに彫り込まれている言葉です。このようにこの福音書には、神さまによる救いの恵みをはっきりと、分かりやすく、印象深く語ってくれている言葉が沢山あるのです。そういう言葉の代表が3章16節であると言えるでしょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この文章は「小福音書」とも呼ばれています。キリストによる福音、救いの知らせがこの1節に凝縮されており、しかもそれがとても分かりやすく、直接的に語られている、聖書全体の中で最も愛されている文章であると言えるでしょう。ヨハネによる福音書にはこのような分かりやすく素晴らしい言葉が沢山語られているのです。しかし他方でこの福音書は、他の三つの福音書と比べてとても難しい、何を言っているのかよく分からないところも多々あるように感じられます。本日ご一緒に読む3章31節以下もそのような所の一つです。この箇所を読んですんなりふんふんと分かる、という人はいないのではないでしょうか。何だか難しいことが語られていてよく分からないと感じるという箇所もヨハネ福音書には多い。本日の箇所もその一つだと思います。
3章16節の余韻
本日の箇所は、先程の3章16節の少し後に語られています。具体的に言えば、前の頁に3章16節があったのです。本日の箇所には、この3章16節の余韻が響いています。16節を意識しながらここは語られているのです。それがはっきり分かるのは35、36節です。「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」。父なる神さまが、その御子、つまり独り子である主イエス・キリストを愛して、その手に全てを委ねられたと語られています。主イエス・キリストは、父なる神さまから全てを委ねられてこの世に来られたのです。その全てというのは、私たち人間の救いのための全てです。私たち人間は、神さまを神として認め、崇めようとせず、従おうとせず、むしろ神さまに敵対している罪人です。その私たちを神さまがなお愛して下さり、救って下さる、そのためのみ業が全て、独り子主イエスに委ねられたのです。「御父は御子を愛して」とあります。父なる神さまは独り子である主イエスを心から愛しておられるのです。でもそれは、御父が御子主イエスだけを愛しているということではありません。主イエスを愛しておられる父なる神は、その愛する独り子を私たちの救いのためにこの世に遣わして下さることによって、私たち人間をも愛して下さっていることを示して下さったのです。つまり独り子への愛を罪人である私たちにまで拡げて下さって、私たちをもご自分の愛する子として下さるのです。その私たちは、今も言ったように、神さまの言うことを聞こうとせず、神さまではなくて自分を中心として、自分の思い通りに生きようとしています。自分中心で生きているから、他の人との関係もうまくいかない、人を愛することができないのです。こんなことではダメだ、神さまのみ言葉に従って、神を愛し、隣人を愛して生きよう、と思うことが私たちにも時々あります。でも結局、神さまよりも自分の都合、自分の欲望、自分の思いの方を優先にしてしまう、そして隣人のことよりも結局自分のことばかりを考えて生きている、それが私たちの姿でしょう。神をも隣人をも愛することができずにむしろ憎み、傷つけてしまっている罪人である私たちの中には、神さまに愛されるのに相応しい清さや正しさなどは全くないのです。だから神さまから、お前たち人間のことを愛することはもうやめた、勝手にしろ、と言われてしまっても当然なのです。ところが神は、独り子への愛を私たちにまで拡げて下さいました。罪人である私たちの救いを委ねて、愛する独り子主イエスをこの世に遣わして下さったのです。ですから「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた」という35節は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という16節と同じことを語っているのです。
御子を信じる人と御子に従わない人
そして36節には「御子を信じる人は永遠の命を得ているが」とあります。これは勿論16節の、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」に基づいています。神が愛によって独り子主イエス・キリストを遣わして下さったのは、独り子イエス・キリストを信じる者が永遠の命を得るためです。この神の愛によって、「御子を信じる人は永遠の命を得ている」のです。そして36節の後半には、「御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」と語られています。何だかとても厳しい、恐ろしいことを言っているように感じるかもしれませんが、これも16節と同じことです。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という16節は、独り子を信じなければ永遠の命を得ることができずに滅びてしまう、と言っていたのです。先程見たように、私たちは本来は、神に愛され、救われ、永遠の命を与えられることなどあり得ない罪人です。神を神として崇め、従っていない私たちに対して、神がお怒りになり、「もうお前たちのことは愛さない、勝手にしろ」とおっしゃったら、私たちは永遠の命にあずかるどころか、神の怒りによって滅びるしかないのです。でもその私たちを神は愛して下さって、独り子イエス・キリストを与えて下さいました。神の御子であられる主イエス・キリストが、私たちと同じ人間としてこの世を生きて下さり、そして私たちの罪を全て引き受け、背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。それは、本来私たちが受けなければならない神の怒りによる滅びを、御子イエス・キリストが代って引き受けて下さったということです。この御子の十字架の死によって罪を赦していただいたことによってこそ、私たちは神の怒りによる滅びから救われるのです。そして神はさらに、十字架にかかって死んだ御子主イエスを、三日目に復活させて下さいました。主イエスの復活は、一旦復活して暫く生きたけれどもそのうちまた死んでしまった、ということではなくて、神が死の力に勝利して下さって、主イエスをもはや死ぬことのない、永遠の命を生きる者にして下さったという救いの出来事です。主イエスの復活によってこそ、永遠の命が与えられたのです。このように神は御子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちが罪を赦されて神の子とされるための、そして御子と一緒に永遠の命を得るための道を開いて下さったのです。私たちは御子イエス・キリストを信じることによってこそ、その道を歩むことができます。御子を信じる者は、御子の十字架によって神が罪人である自分を赦して下さったことを、そして御子の復活によって神が自分にも、肉体の死によって滅ぼされない永遠の命を与えて下さることを信じて生きることができるのです。「御子に従わない者」とは、この御子による救いを信じない者です。それを信じないということは、御子による救いを否定し、それを受け入れないということですから、神による罪の赦しの恵みにも、永遠の命にも、あずかることができない、と言うよりもあずかろうとしないのです。
小福音書の語り直し
このように永遠の命に至る救いは「御子を信じる者」に与えられます。それは「御子を信じることだけで」この救いにあずかることができる、ということでもあります。私たちが清く正しい人間になるとか、善い行いを積むことによってではなくて、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった御子イエス・キリストを信じるだけで、永遠の命の約束が与えられるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という16節はこのように、御子を信じる信仰によってのみ救いが与えられることを語っていたのです。そしてそれは同時に、「御子に従わない者(つまり御子を救い主と信じない者)は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」ということでもあるのです。ですから本日の箇所の35、36節は、3章16節の「小福音書」をもう一度語り直していると言うことができるのです。
上から来られる方と地から出る者
さて本日の箇所の冒頭の31節には「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる」とあります。このような言い方がヨハネ福音書の難しさの原因となっているわけですが、「上から来られる方」とか「天から来られる方」というのは、神が私たちを愛してご自分のもとから遣わして下さった御子イエス・キリストのことを指していることはすぐに分かります。神の独り子主イエスは、上から、つまり天から来られた方であり、独り子なる神が肉となって、人間としてこの世を生きて下さった救い主なのです。それではここに「地から出る者は地に属し、地に属する者として語る」と言われているのは誰のことなのでしょうか。この問いは、これを語っているのは誰か、ということと関係してきます。ヨハネによる福音書を日本語訳で読む時には、鍵括弧がどのように付けられているかに注目することが大事です。それによっていろいろ発見があります。31節の冒頭に鍵括弧があります。そして36節の終りに括弧閉じがあります。つまり本日の箇所全体が一つの括弧に入れられている、ということは、誰かが語った言葉として訳されているわけです。ではそれを語ったのは誰でしょう。本日の箇所の前の30節の終りにも括弧閉じがあり、その括弧の始まりは27節です。そこには「ヨハネは答えて言った」とありますから、30節まではヨハネの言葉です。30節に「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」とある「あの方」とは主イエス、「わたし」とはヨハネです。そこで一旦括弧が閉じられ、31節から新たな括弧が始まっていますが、別の誰かが登場しているわけではありませんから、31節以下もヨハネの発言だということになるでしょう。つまり本日の箇所も洗礼者ヨハネの言葉の続きとして訳されているのです。以前の口語訳聖書ではそれがもっと明確に示されていました。口語訳では、30節の終りに括弧閉じはなくて、36節の終りにあります。つまり口語訳は、27節からのヨハネの言葉が36節まで続いている、ということをはっきりと示していたのです。このように、本日の箇所を洗礼者ヨハネの言葉として読むなら、31節で「上から(あるいは天から)来られる方」と「地から出る者」という対比がなされているのは、主イエスとヨハネのことだということになります。30節までのところと同じようにここでも、ヨハネが、救い主メシアご自身であられる主イエスと、そのメシアが現れる前に遣わされ、その道備えをする者、29節の言葉で言えば花婿ではなくて花婿の介添え人である自分との違いを語っているのです。自分は地から出た者であり、地に属している者として語っている、つまり自分が語っているのは人間の言葉に過ぎない、しかし主イエスは、上から、天から来られた方であり、すべてのものの上におられる方として語っておられるのです。
主イエスの証し
それを受けて32節には「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが」とあります。天から来られた神の御子である主イエスは、ご自身が天において見聞きしたことを語っておられるのです。主イエスが天で見聞きしたこと、それは父である神が主イエスを愛し、その愛を罪人である人間にまで拡げて下さるために、人間の救いのための全てのことを主イエスの手にお委ねになった、その父なる神の愛のみ心です。そのみ心を証しし、人々に伝えるために主イエスはこの世に来られたのです。しかし32節後半には「だれもその証しを受け入れない」とあります。御子イエス・キリストが世に来られ、神の言葉を語り、神の愛を告げ知らせても、人々はそれを信じない、受け入れない、そのことは既に1章の10、11節に語られていました。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。神の独り子主イエスが来て、神の言葉を語り、神の愛を告げ知らせても、人々はそれを受け入れず、信じない、そこに、神の愛に応えようとしない人間の罪の現実が見つめられています。しかしそのようなこの世の現実の中で、主イエスの証しを受け入れる者も現れているのです。33節「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる」。これは先程の1章11節の続きの12、13節と対応しています。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってではなく、神によって生まれたのである」。主イエスの証しを聞いても受け入れない人々が多い中で、それを信じ、受け入れ、神が独り子をお与え下さるほどに真実に自分を愛しておられることを確認し、御子イエス・キリストを救い主と信じて、滅びから救われ、永遠の命を得る者たちが今確かに興されつつあるのです。それは人間の力によることではなくて、今読んだ1章13節にあったように、神ご自身がその人々を生み出して下さっているのです。ヨハネは、天から来られた方である主イエスの語っておられる証しによってこのように主イエスを信じて救いにあずかる人が興されていることを見つめて、それを喜んでいるのです。そして、地から出た者に過ぎない自分は衰えていき、天から来られた方である主イエスの栄光こそが現れていくことを願っている、そのようにこの箇所を読むことができるのです。
私たちの言葉として読む
しかし、それだけでは終わらないところに、ヨハネによる福音書の奥深さがあり、魅力があります。本日の箇所をヨハネの言葉として読むなら、今申しましたように主イエスとヨハネの対比としてここを理解することができるわけですが、それとは違う読み方もできるのです。新しく出た「聖書協会共同訳」は、新共同訳と同じように30節の終りに括弧閉じを置いていますが、31節の冒頭には括弧がありません。つまりこの新しい翻訳は本日の箇所を、ヨハネの言葉ではなくて、この福音書を書いた人の言葉として訳しているのです。前にも申しましたように聖書の原文には括弧はないので、そのように読むこともできるのです。そのように読むならば、この箇所は、洗礼者ヨハネが主イエスと自分との関係をどのように捉えていたかを語っているのではなくて、この福音書を書いた人の思いを語っていることになります。それはこの福音書が書かれ、読まれた教会の思いです。本日の箇所の全体は教会の言葉として読むことができるし、むしろそのように読まれるべきだと思うのです。なぜならそのように読むことによってこの箇所は私たちの言葉にもなるからです。教会の言葉、私たちの言葉としてここを読むとしたら、そこに何が見えて来るのでしょうか。
私たちの証し
「地から出る者は地に属し、地に属する者として語る」。それは私たちのこと、教会のことです。私たちは地上を生きており、人間の言葉を語っています。私たちは天から来られた方である主イエスではない、地上を生きる人間ですから、神の言葉を語ることなどできないのです。しかし主イエスが天から来て下さり、人間となってこの世を生きて下さり、父なる神さまの私たちへの愛を、み言葉と、そして十字架の死と復活というみ業によって証しし、示して下さいました。その証しを受け入れたのが私たち教会です。教会に連なっている私たちは、主イエスの証しを信じて、神が真実であることを確認したのです。つまり神が独り子を与えて下さるほどの真実な愛を私たちに注いで下さっていることを信じる信仰を告白し、洗礼を受けて主イエスの救いにあずかり、御子を信じる者として生きているのです。それによって私たちは永遠の命を得ています。肉体の死によって失われることのない永遠の命をこの世において既に生き始めており、世の終わりにそれが完成するという約束を与えられているのです。でもその救いは、私たちがそれを喜ぶためにのみ与えられているのではありません。神が私たちを愛して、この救いを与えて下さったのは、私たちが、自分の受けたこの神の愛を、その愛による救いを、他の人にも証ししていくためです。「御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」という歩みをしている世の人々に、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という福音を証しし、伝えていく使命を、神は私たちに、教会に与え、私たちを、教会を、世へとお遣わしになっているのです。だから私たちは、私たちが見たこと、聞いたことを、私たちに与えられている主イエスによる神の愛、救いの恵みを、証ししていくのです。私たちは地に属する者ですから、人間のつたない言葉しか語れません。だから、だれもその証しを受け入れないという現実に直面することもあります。私たちが人を説得して神を信じさせることなどはできないのです。しかし、神が私たちのつたない証しを用いて下さる時に、その証しを受け入れ、神の真実な愛を確認して御子を信じる人が興されていくのです。そこにおいて鍵となるのが34節です。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が〝霊〟を限りなくお与えになるからである」。これは主イエスのことであると同時に、私たちのこと、教会のことです。むしろ教会のことを第一に念頭に置いて語られていると言うべきでしょう。神はご自身の霊である聖霊を私たちに、教会に、限りなく与えて下さるのです。その聖霊によって私たちは、教会は、神によってこの世へと遣わされ、神の言葉を語っていくのです。聖霊のお働きによって私たちも、主イエスご自身が証しして下さった神の愛を証ししていくことができるのです。神が私たちにも聖霊を限りなく与えて下さって、そのように用いて下さることを、私たちは信じて、祈り求めていきたいのです。
教会総会に向けて
本日はこの礼拝の後、2月定期教会総会を行います。そこで2019年度の教会活動計画を定めます。新年度の年間主題として長老会が提案しているのは「聖霊を信じて祈り求めつつ証しする教会」という主題です。神が聖霊を限りなく与えて下さることによって、私たちも、ヨハネの教会と同じように、主イエス・キリストによって示された神の愛を証ししていく群れとなるのです。本日の箇所はヨハネの教会のそのような姿を語っています。ヨハネによる福音書からみ言葉に聞きつつ2019年度を歩んでいく私たちも彼らと同じように、聖霊を信じて祈り求めつつ証しをしていきたいのです。