「混沌を支配する主」 牧師 藤掛 順一
・ 旧約聖書; 創世記、第1章 6節-10節
・ 新約聖書; マタイによる福音書、第8章 23節-27節
天地創造第一日
夕礼拝において創世記の講解説教を始めて、本日が三回目となります。本日ご一緒に読む6節から10節は、六日間かけてなされたと語られている神様の天地創造のみ業の、第二日と第三日の途中までです。これまでに読んだ5節までが第一日ということになるわけですが、そこには、混沌であり、闇に覆われ、暴風が吹きすさんでいる世界、-これは前回、11月の時に申しましたように、2節の「神の霊が水の面を動いていた」という言葉ですが、これはむしろ「暴風が吹き荒れていた」と訳すべきではないかと考えられるのです、-そういう荒涼たる世界に、神様の「光あれ」というみ言葉が響き渡る、すると光があった、闇に支配された世界に光が輝き、闇はもはやこの世界を支配するものではなくなったという、天地創造の第一のみ業が語られていました。神様は光と闇を分け、光を「昼」と呼び、闇を「夜」と呼ばれたと、4節から5節の前半に語られています。このことによって、昼と夜が交互に訪れるという秩序がこの世界にもたらされたのです。そしてそれを受けて、5節の後半に、「夕べがあり、朝があった。第一の日である」と言われています。夜があり、昼があって初めて「一日」という区切りが生じたのです。つまり、5節までが第一日だと申しましたけれども、実は第一日そのものも神様によって創られ、定められたものなのであって、もともと第一日があったわけではないのです。ですから「神様は第一日に光を創造された」というのは実は正確ではないのであって、正確に言うならば、「神様は光を創造し、昼と夜とをお定めになることによって第一日をお始めになった」と言うべきなのです。
時間も神の創られたもの
このことをさらに考えていくと非常に深い真理が見えてきます。それは、時間、時の流れというのも、神様がお創りになった、あるいはお始めになったものだということです。私たちは時間をもともとあるものと感じています。時間がない世界などあり得ないように思うのです。そういう感覚を前提として考えると、「神様は天地創造の第一日に光を創造された」ということになるし、そこには、それではその前はどうだったのだろうか、神様はそれまで何をしておられたのだろうか、という疑問が生まれてくるのです。この疑問に対しては、「そんなつまらない質問をする奴のための地獄を用意しておられたのだ」という答え方もあるのですが、真面目に答えるならば、「その前」はないのです。時間もまた天地創造のみ業によって生まれたのです。この世界の、時の流れの第一日がまさに神様によって始められたのです。神様は、闇の中に光を輝かせると共に、昼と夜というリズムを持った一日という時の区切りを定めて下さったのです。
混沌から秩序へ
これらのことは全て、神様がこの世界に、秩序を与えて下さったというみ業です。混沌であった世界、その「混沌」は「混乱と空虚」という二つの言葉がセットになった熟語だと前回申しました、そしてさらに闇に覆われており、暴風吹きすさぶ荒涼とした世界に、神様が、秩序を与えていかれる、混沌を制御し、闇の支配を終わらせ、次第に生き物が、そして最終的には人間が生きることのできる世界を整えていって下さる、創世記第一章は天地創造のみ業をそのようなこととして描き出しているのです。そしてそれは、この世界はどうやって出来たのか、世の始めに世界はどのような所だったのか、という興味や関心への答えとして語られたことではない、ということを前回申しました。創世記第一章が書かれたのは、紀元前6世紀の、バビロン捕囚の時代です。ユダ王国がバビロニアによって攻め滅ぼされ、多くの者が故郷から敵の地バビロンへと連れ去られ、この先どうなってしまうのかわからない、もはやこの民族は滅びるしかないのではないかとすら思われる、そのような苦しみと嘆きの中にあるイスラエルの民に向かってこの天地創造の物語は語られているのです。それは、大昔の世界はどうだったか、というような呑気な話ではありません。今現在、大きな苦しみの中にあるこの民に向かって語られている神様のみ言葉としてこれは書かれているのです。混乱と空虚の中にあり、闇に閉ざされ、暴風に吹きまくられているという2節の描写は、バビロン捕囚の苦しみの中にあるイスラエルの民の現在の姿です。しかしそのような苦しみに満ちたこの世界が、主なる神様によって創られたものであり、つまり根本的には主なる神様が支配しておられる世界であり、神様はその混沌の中にみ言葉によって秩序を与え、民が生きることのできるようにこの世界を整えていって下さる、創世記第一章が語る天地創造の物語は、そういう神様の恵みを語っているのであり、それによる慰めと励ましをイスラエルの民に与えようとしているのです。
水を分ける
本日の6~10節に語られていることも、そのような流れの中にあります。6~8節は、第二の日におけるみ業ですが、それは、神様が、水の中に「大空」を造り、大空の上の水と下の水とを分けられたということです。これはいったいどういうことなのか、私たちには分かりにくいですが、それは、ここに古代のユダヤ人たちにおける世界像が示されているからです。昔のユダヤ人たちは、この世界は水と水との間にあると考えていました。地上にも水がある、それは海です。そして空の上にも水がある、海が青いのと同じように空も青い、そして時々そこから雨が降ってくる、それは空の上にも水があるからだと考えたのです。この世界は上にも下にも水がある。そしてその水と水とを分けて、その間に空間を作っているのが「大空」です。大空のことを日本語でも「丸天井」と呼ぶことがありますが、その丸天井が上の水を支えて落ちてこないようにしている、それによってその下に、人間や動物植物が生きることができる空間が確保されている、そして時々その丸天井の窓が開くと雨が降ってくる、それが古代のユダヤ人たちの抱く世界像だったのです。
混沌からの守り
そのように考えればここに語られていることの外面的な内容は分かるわけですが、それだけなら、「昔の人は面白いことを考えていたのだなあ」ということでおしまいになります。それでは、ここに語られていることを本当に理解したことにはなりません。神様が水の中に大空を造り、水と水とを分けて空間をお造りになったということには、もっと深い意味が込められています。そもそも、2節で神様がお造りになったこの世界の様子が語られたときに、そこには水しかなかったのです。そのことを指して、「地は混沌であって」と語られています。この世界が混沌であった、それは先程申しましたように、「混乱と空虚」に支配されていたということですが、それは具体的には水に覆われていたということなのです。聖書において、水は、混沌のしるし、象徴です。勿論水は一方では、「命の水」でもあります。水がなければ人は生きられません。荒れ野で水がなくなり、渇きに苦しんだ民に、神様が岩から水を出して飲ませて下さったという恵みが語られている所もあります。鹿が谷川の水を慕い求めるように神様を慕い求める、という表現もあります。水の有り難さ、大切さをイスラエルの民は誰よりもよく知っていたと言えるでしょう。けれども水は他方で、全てのものを押し流し、滅ぼす恐ろしい力である、ということも、彼らが体験し、実感していたことです。恵みの雨も度を超せば洪水を引き起こし、家も畑も全てを押し流して、人間が何年もかけて築きあげてきた生活を滅ぼしてしまうのです。私のおりました富山県も、川の氾濫、洪水に苦しみ、治水を大きな課題としてきた県です。三千メートル級の山から一気に流れ下る急流が何本も流れており、それらがしばしば洪水を起こしたのです。「暴れ川」という言葉があります。しばしば洪水を起こし、そのたびに流れが変わる、そういう暴れ川との戦いの歴史があるのです。そういう経験の中では、水は、全てを押し流し無に帰してしまう混沌の象徴でもあります。2節における水はまさにその混沌の象徴であり、イスラエルの民を今捕え、苦しめ、滅ぼそうとしている捕囚の苦しみのしるしです。その水の中に、神様が大空を造り、水と水とを分けて、空間を造って下さった、それは、神様が世界を覆っている混沌の力に打ち勝ち、その中に、人々が生きることのできる世界を築いて下さったという大いなる恵みのみ業なのです。大空という言葉は、先程は丸天井と申しましたが、非常に固い、しっかりとした、天蓋のようなものを言い表しているようです。その天蓋が、上の水が落ちて来ないようにしっかりと支えているのです。「大空を造った」というのは、「美しく広い空を造って下さった」というような美的な話ではなくて、混沌の力が私たちに襲いかかり、押し流し、滅ぼしてしまわないように、神様がしっかりと守って下さっているという、神様の力強い恵みを語っているのです。私たちがここから読み取るべきことは、古代の人々の世界観ではありません。私たちが生きているこの世界は、混沌の力に取り囲まれ、脅かされている、しかし主なる神様が、その混沌の力を支配し、私たちが生きることのできる世界を造り、守り、支えていて下さる、その神様の恵みを読み取ってこそ、天地創造の物語が本当に分かったことになるのです。
陸と海
この神様の恵みのみ業は、9節10節の、第三の日の前半にまで続いています。そこには、天の下の水が一つ所に集められて海となり、乾いた所、つまり陸地が現れたということが語られています。大空によって水が上と下に分けられたわけですが、そのようにして出来た空間の下はやはり水で覆われているわけです。その水を集めて陸地を生み出す、そのみ業を詩編第104編は次のように言い表しています。詩編104編の6~9節です。「深淵は衣となって地を覆い、水は山々の上にとどまっていたが、あなたが叱咤されると散って行き、とどろく御声に驚いて逃げ去った。水は山々を上り、谷を下り、あなたが彼らのために設けられた所に向かった。あなたは境を置き、水に越えることを禁じ、再び地を覆うことを禁じられた」。この最後の9節に語られているように、これは、神様が、混沌の象徴である水に境を設け、ここを越えてはならないとお命じになったということです。混沌の力を押しのけ、押し止める神様の力あるみ言葉によって、乾いた地、陸地が現れたのです。その陸地こそ、植物や動物そして人間が生きることのできる場所です。つまりこのみ業も、水の中に大空を造ることと同じく、主なる神様が、全てを押し流し滅ぼそうとする混沌の力を抑えて、人間が生きることのできる秩序ある世界を築いて下さったという恵みのみ業なのです。
良しとされた
10節の終わりには、「神はこれを見て、良しとされた」とあります。4節には、神様がお創りになった光を見て、良しとされたと語られていました。闇に覆われた世界に光が輝き、闇を押しのけ、喜びと希望と暖かさを与える、そのことを神は良しとされた、喜ばれた、つまりそれこそが神様のみ心だと宣言して下さったのです。それと同じく、混沌の力、全てを滅ぼし押し流そうとする水を押し止め、ここを越えてはならないという境を設け、秩序ある世界を整え、この世界を、私たちが生きることのできる所として支え、守って下さる、そのことをも、良しとされた、それが神様の喜ばれるみ心であると宣言して下さったのです。この「良しとされた」が8節にではなく、10節にあることからも、大空を造ることと、水を集めて乾いた地を造ることとがひと続きのみ業であることが分かります。「神はこれを見て、良しとされた」という言葉は、天地創造のみ業の節目節目に語られているのです。それによって、私たちの生きるこの世界が、また私たちの人生、命、生活が、神様が良しとしていて下さる、喜び、肯定していて下さるよいものなのだということが確認されているのです。その節目は、大空によって上の水と下の水が分けられ、さらに下の水が一つ所に集められて海と陸が創られたという所に置かれているのです。
波に翻弄される小舟
この世界は、そして私たちの人生は、水に取り囲まれています。天の上にも下にも水があるし、地上の水も境を越えて私たちを押し流そうと狙っているのです。この世界と私たちの人生は、混沌の力に囲まれ、常に脅かされている、それもまた、ここに描かれ、語られている現実です。それが、バビロン捕囚の苦しみの中にあるイスラエルの民の置かれた現実であり、形は違っても私たちの人生とこの社会にも当てはまる現実です。私たちはこの混沌の水に常に脅かされながら、人生という船旅を漕ぎ進めているのです。そこには時として激しい嵐が起こり、私たちの小舟は波に飲まれそうになります。混沌の水がどんどん押し寄せてきて、沈みそうになってしまうのです。先程読まれた新約聖書の個所、マタイによる福音書第8章23節以下はそういう有り様を描いています。舟が沈みそうになってあわてふためき、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と叫ぶ弟子たちの姿は、混沌の水に押し流されそうになる私たちの姿です。しかしこの舟には、主イエス・キリストが乗っておられる。主イエスは、起き上がって風と湖とをお叱りになるのです。するとすっかり凪になった。混沌の力の象徴である水が、主イエスのみ言葉によって押し止められ、境を越えて私たちを押し流してしまわないように制御されるのです。主イエスは、混沌を支配し私たちを守り支えて下さる主です。天地創造において与えられた恵みが、共にいて下さる主イエス・キリストによって今、私たち一人一人にも与えられているのです。
乗り込んでおられる主イエス
混沌の水のただ中を歩む私たちの人生の小舟には、主イエス・キリストが共に乗り込んでおられます。主イエスは途中から乗り込んで来られたのではありません。23節には、「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」とあります。主イエスは最初からこの舟に乗っておられるのです。いやむしろ、主イエスが先ずこの舟に乗り込み、そして私たちに、一緒に乗り込めと招いておられるのです。私たちは主イエスに従ってこの船旅を始めたのです。それは主イエスを信じて生きる私たちの信仰の歩みを象徴していると言うことができます。しかしそれだけではないでしょう。私たちは自分の人生を、よしこれから舟に乗り込んで漕ぎ出すぞと思って始めるわけではありません。私たちの命は、人生は、与えられたものです。気が付いてみたら海のまん中へと漕ぎ出していたようなものです。それは、私たちが気づいていようといまいと、神様が、主イエス・キリストが、私たちを招いて、あるいは無理矢理に連れ出して、舟に載せ、沖へと漕ぎ出されたということではないでしょうか。私たちは、自分の人生という舟に、主イエス・キリストが乗り込んでおられることになかなか気づきません。「イエスは眠っておられた」ということがそれを象徴的に表しています。弟子たちは、自分たちだけで、いっしょうけんめい舟を漕ぎ進めようとしているのです。しかし嵐によって波に飲まれそうになってしまう。「眠っておられる」主イエスは、弟子たちにとって、何の手助けにもならない、何もしてくれない、いないのと同じだということです。自分たちだけで嵐の中を漕ぎ進もうとしているこの弟子たちの姿は、主イエスに出会う前の、信仰を持つ前の私たちの姿だと言えるでしょう。しかしこの舟には、もともと、主イエス・キリストが乗っておられるのです。そしてその主イエスが、起き上がって風と湖とを叱り、混沌の力を支配して、私たちを守り支えて下さるのです。この、既に私たちの人生の舟に乗り込んでおられる主イエスに気づくことこそが、信仰なのです。
神による名付け
私たちの人生の小舟は、混沌の大波に翻弄され、飲み込まれそうになります。そのような苦しみの中で私たちは、人生を本当に支え、依り頼むことのできる土台が欲しいと思い、それを様々なものの中に探し求めていきます。天の大空にこそその支えがあるのではないか、と思うこともあります。地、大地こそ全ての土台だと思うこともあります。光こそ全ての根源であり支えだと感じることもあります。海こそ全ての生命を育む母体だとして、そこに支えを見出そうとすることもあります。そのように人間はいろいろなものの中に、命の、人生の土台、支えを求めていくのです。そして、それらのものが神として崇められ、祭られていきます。自然の中に神を感じ、それを崇め、あるいはそれと一体となることによって命の、人生の土台を、支えを得ようとしていくのです。イスラエルを滅ぼし捕囚の苦しみを与えたバビロニアの人々も、そのような自然を神とする信仰に生きていました。自然を神として崇める信仰が支配的な社会の中に、イスラエルの民は置かれていたのです。そのような中でこの天地創造の物語が語られました。ここには、天も地も、光も、大空も、海も陸も、その全てが、神様によって造られたもの、被造物であることが語られているのです。繰り返し語られていく言葉に、「神は呼ばれた」というのがあります。神は光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。神は大空を天と呼ばれた。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。この「呼ばれた」は、「そのように名付けた」ということです。名付けるというのは、親が子に名前をつけることに最もよく現れているように、上位に立ち、支配する、思いどおりにするということを意味しています。親が子供を思いどおりにすることができるのは、この名前をつける時ぐらいのものかなとも思います。それはともかく、神様がこれらの全てのものに名前をつけたという天地創造の物語は、これらのものがどれも神ではなく、神に造られたもの、神のご支配の下にあるものだ、ということを語っているのです。それらのものの中には、私たちを翻弄し、脅かしている混沌の力に打ち勝つ力はありません。そこには、命の、人生の本当の支え、土台はないのです。私たちが本当に依り頼むべき、また依り頼むに足る支え、土台は、天地の全てをお創りになってそれらに名前をつけ、混沌の力をも支配して、この世界を私たちが生きることのできる場として整え、守り、支えて下さっている生けるまことの主なる神様のみにあります。天地創造の物語は、この主なる神様こそがこの世界を、そして私たちの人生を、真実に支え、混沌の力から守っていて下さる方だと告げているのです。そして私たちは、この主なる神様の恵みを、主イエス・キリストによって与えられています。神様が遣わして下さった独り子主イエス・キリストが、既に私たちの人生の小舟に乗り込んでいて下さって、私たちを混沌の大波から守り、支えていて下さるのです。