主日礼拝

十字架のほかに誇るものはない

「十字架のほかに誇るものはない」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第125編1-5節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第6章11-18節
・ 讃美歌:

大きな字で
 本日でガラテヤの信徒への手紙を読み終えます。私が指路教会に着任してからもうすぐ二年になりますが、その間、基本的に月一回主日礼拝でこの手紙を読み進めてきました。この手紙においてパウロはガラテヤの諸教会の人たちに、彼らがキリストの福音に留まりつづけるよう、時には激しい言葉を用いて情熱を持って語ってきました。その情熱は手紙の終わりになっても衰えません。本日の箇所の冒頭11節に「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」とあります。古代においては、手紙は多くの場合口述筆記でしたが、終わりの部分だけは自分で書きました。手紙の内容が本当に発信者によるものであることを保証するためです。私たちがパソコンで手紙を書く場合に、最後に手書きのサインを入れるのと似ています。ガラテヤの信徒への手紙もパウロが語ったことをほかの人が書き記したものですが、6章11節以下の終わりの部分だけはパウロが自分で書きました。「自分の手であなたがたに書いています」とあるのはそのためです。さらに加えて「こんなに大きな字で」ともあります。先ほど申したように手紙は口述筆記でしたから、パウロの手紙が多いと言ってもパウロ自身はそれほど字を書かなかったのかもしれません。そのために字を書くことに慣れていなくて、整った字が書けず大きな字になってしまうことをパウロが弁解している、と推測する人もいます。しかし、むしろパウロは手紙の終わりで自分の手によってガラテヤの諸教会の人たちに熱を込めて書き記そうとしていたのではないでしょうか。熱が入れば入るほど字が大きくなるのは納得できることです。12節以下を読むとき、そのようなパウロの情熱がはっきりと見て取れるのです。そしてその情熱はガラテヤの諸教会の人たちにだけ向けられたものではありません。今を生きる私たちにも向けられているのです。私たちはこの手紙を読み終えるにあたり、パウロが大きな字で情熱を持って書き記したことを受けとめたいのです。

キリストの十字架のゆえに迫害されないために
 パウロはまず12節でこのように書いています。「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。」「肉において人からよく思われたがっている者たち」とは、パウロが去ってからガラテヤの諸教会にやって来た人たちのことであり、「肉において」というのは、ガラテヤの諸教会の人たちに割礼を受けさせることにおいてということです。「人からよく思われる」ために、彼らはガラテヤの諸教会の人たちに無理やり割礼を受けさせようとしていました。それは、「キリストの十字架のゆえに迫害されたくない」からです。おそらく彼らはユダヤ人からキリスト者になった人たちですが、そのような人たちはユダヤ人から迫害されることがありました。キリストの十字架によって実現した律法の行いによらない信仰のみによる救いは、律法の行いによっては救われることはない、ということをも意味します。パウロがこの手紙で信仰に行いをつけ加えることを徹底的に退けてきたのは、「信仰のみによる救い」と「信仰プラス行いによる救い」が決して両立しないからです。信仰のみによる救いを信じるとは、行いによっては決して救われないと認めることでもあるのです。しかしこのことは律法の行いによる救いを信じていたユダヤ人にとっては受け入れられないことであり、「つまずき」でした。キリストの十字架を宣べ伝えるとは、この「つまずき」を宣べ伝えることです。しかしガラテヤの諸教会にやって来た人たちは、この「つまずき」を宣べ伝えるのではなく、ユダヤ人によく思われ、その迫害を免れるために、ガラテヤの諸教会の人たちに割礼を受けさせようとしたのです。それは、キリストの十字架によって実現した信仰のみによる救いを否定し、キリストの十字架の死を無意味なものとすることにほかならないのです。

割礼を受けさせることについて誇る
 13節は12節を受けてこのように言われています。「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。」ここで「割礼を受けている者」とは、12節の「肉において人からよく思われたがっている者たち」のことであり、つまりガラテヤの諸教会にやって来た人たちのことです。ですから12節と13節で言われていることはほとんど同じで、要するに彼らがガラテヤの諸教会の人たちに割礼を求めていたことが語られています。13節で彼らが律法を守っていないと言われているのは、そのように割礼を求めることが律法を守ることへの熱心さによるのではなく、むしろ12節にあったように「キリストの十字架のゆえに迫害される」ことを免れるためであったからです。また13節では割礼を求める理由が「あなたがたの肉について誇りたいため」と言われています。「あなたがたの肉について」とは12節の「肉において」と同じように、ガラテヤの諸教会の人たちが割礼を受けることについて、という意味であり、彼らはそのことについて誇りたかったのです。そのために割礼を求め、自分がどれだけ割礼を受けさせることができたのか、その成果を、その功績を誇ろうとしたのです。

キリストの十字架を誇りとし信頼する
 けれどもパウロは「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と言います。パウロにとって、主イエス・キリストの十字架のほかに誇るものはないのです。13節と14節で使われている「誇る」という言葉には「信頼する」という意味が含まれます。自分が誇るものが、自分が信頼しているものであり、自分の人生を支えているものでもあるのです。ですからここでパウロは、自分は主イエス・キリストの十字架だけに信頼し、それだけが自分の人生の支えであり、その土台の上に自分の人生は築かれているのだ、と告白しているのです。
 それにもかかわらず私たちにとって、主イエス・キリストの十字架を誇りとすることは受け入れやすいことではありません。申命記21章23節には「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである」とありますが、キリストの十字架の死は神に呪われたものであり、弱さと恥の極みであり、頼りになるとはとても思えないものだからです。それどころかキリストの十字架のゆえに迫害されると言われているように、かえって自分に害をもたらすものですらあります。ですからキリストの十字架は、ユダヤ人にとってだけつまずきなのではありません。ほかならぬ私たちにとってもつまずきなのです。キリストの十字架を誇りとし信頼するよりも、ガラテヤの諸教会にやって来た人たちがそうであったように、私たちは自分がどれだけ成果を上げたか、どれだけ功績を上げたかを誇りとし、頼りとしているのではないでしょうか。十字架による救いを信じている。でも自分が成し遂げた成果や功績を誇ることを、それを自分の人生の支えとして生きることをなかなか捨て去ることができない。それが私たちの姿なのです。そのような私たちにパウロは「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と告げています。キリストの十字架を誇るけれどほかにも誇るものがある、ではありません。キリストの十字架を信頼するけれどほかにも信頼するものがある、ではないのです。私たちはただキリストの十字架だけを誇りとし頼りにするのです。

「わたし」と「世」
 14節後半でパウロは「わたしたちの主イエス・キリストの十字架」を私たちに起こった出来事としてではなく、自分自身に起こった出来事としてこのように語っています。「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」キリストの十字架によって、「わたし」と「世」の関係が断絶したということです。この断絶は、「わたし」が洗礼を受けてキリストと共に十字架にかけられることによって、「わたし」にとって現実となりました。ここで「世」とは、律法であり、4章3節の「世を支配する諸霊」です。行いによって救いを獲得しようと駆り立てる力とも言えます。「世はわたしに対し…はりつけにされている」とは、律法が、「世を支配する諸霊」が、行いへと駆り立てる力が、「わたし」に対して死んだということにほかなりません。キリストの十字架によって実現した律法の支配の終わりが、洗礼によってキリストと共に十字架にかけられ、キリストと共に死ぬことによって、「わたし」にとっての現実となったのです。「はりつけにされている」は、原文の文法的には完了形です。完了形は過去に起こった出来事が今も影響を与え続けていることを表します。ですから洗礼を受けたときだけでなく、洗礼を受けてからずっと「世」は「わたし」に対して死んでいる、と言われているのです。その一方で「わたしは世に対してはりつけにされている」とも言われています。それは、「わたし」が「世」に対して死んだということであり、洗礼を受けたときから、「わたし」は律法や「世を支配する諸霊」の力を、あるいは行いへと駆り立てる力を恐れることから、それに頼って生きることから解放されているということなのです。

ほかならぬ「わたしに」起こった
 パウロに起こったことは、すべての人に、私たち一人ひとりに起こったことです。ここでパウロが自分に起こったこととして語っているように、私たちも自分に起こったこととしてキリストの十字架を語らなくてはなりません。確かに主イエス・キリストの十字架は私たちのための救いの出来事です。だからパウロは14節で「わたしたちの主イエス・キリストの十字架」と言っているのです。しかし私たちは、その「わたしたちの主イエス・キリストの十字架」による救いが、洗礼においてほかならぬ「わたしに」起こったと証しするのです。「世」は「わたし」に対して死に、「わたし」は「世」に対して死にました。もはや自分の行いへと駆り立てる力は「わたし」を支配していません。もうほかの人と比べ合い競い合わなくてよいのです。ほかの人よりも成果を上げなくてはという思いに縛られなくてよいのです。

新しく創造される
 私たちは洗礼によってキリストと共に十字架につけられ、キリストと共に死にました。しかし洗礼において私たちに起こったのはそれだけではありません。そのことが15節で「大切なのは、新しく創造されることです」と言われています。同じくパウロの手紙であるコリントの信徒への手紙二5章17節には「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」とあります。ですから「新しく創造される」とは、洗礼においてキリストと結ばれキリストの復活の命に与りキリストと共に生きることにほかなりません。かつて預言者イザヤは、終わりの日の「新しい世界の創造」を語りました。苦しみの現実の中にあるイスラエルの民に対する喜ばしい約束として語ったのです(イザヤ書65章17節以下)。その新しい世界に私たちはキリストに結ばれることによってすでに入れられています。私たちの目には世界が新しくなっているようには見えません。特に今、私たちは世界中で悲しみと苦しみが溢れ、嘆きの声が満ちている現実を目の当たりにしています。この世界からすべての涙が拭われるのは終わりの日を待たなくてはなりません。それにもかかわらず、私たちはキリストと結ばれ、キリストと共に生きることによって、苦しみと悲しみが絶えない現実の中にあっても、その「新しい世界」をすでに味わっているのです。律法の支配の下では割礼があるかないかが問題でした。行いによって救いを獲得しようと駆り立てる力の支配の下では、私たちが成し遂げる成果や功績が問題でした。しかしキリストの十字架によって、そのような「古い世界」は過ぎ去りました。私たちは「古い世界」に対して死んでいます。今や大切なのは、私たちが新しく創造されたこと、キリストと共に生きていることであり、それだけなのです。

神のイスラエル
 16節では「このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように」と祝福が告げられています。18節の祝福が手紙全体を書き終えるにあたって告げられているのに対して、16節では11節以下で語られていることの結びとして祝福が告げられています。この祝福は「このような原理に従って生きていく人の上に」与えられます。「このような原理に従って生きていく」というのは、具体的には14、15節で語られていたこと、つまり洗礼によって「世」に対して死んだ者として、また新しく創造された者として生きていくことにほかなりません。さらにパウロはそのような人たちを「神のイスラエル」と言い換えています。「神のイスラエル」は見過ごしてしまいそうな何気ない表現です。しかしそれはキリストの十字架なしには決して語り得ないことなのです。本日共にお読みした詩編125編の最後に「イスラエルの上に平和がありますように」という祈りがあります。この「イスラエル」と、パウロが言う「神のイスラエル」は決定的に異なります。前者のイスラエルは肉におけるアブラハムの子孫のことであり、血のつながりによるものであるのに対し、後者の「神のイスラエル」は霊におけるアブラハムの子孫のことであり、キリストに結ばれることによるものです。この手紙の3章28節では「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」と言われていました。人種や身分や性別によるのではなく、キリスト・イエスに結ばれることにおいて一つとされた者たち、キリストと共に生きている者たち、新しく創造された者たちこそ、真のイスラエルであり「神のイスラエル」なのです。

励ましの言葉
 いよいよ手紙の終わりになりパウロは17節で「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい」と言っています。パウロの言い方は随分と冷たいように思えます。しかしこの言葉は、ガラテヤの諸教会の人たちに対する、そして私たちに対する励ましの言葉ではないかと思うのです。ガラテヤの諸教会の人たちがキリストの福音から離れてしまうことこそがパウロを煩わすことです。「煩わさないでほしい」とは、そのようなことが起こってはならないという願いの言葉でもあるのです。「イエスの焼き印を身に受けている」とは、パウロが使徒であることの証です。「イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」パウロが、惑わされることなくキリストの福音に堅く立ち続けなさいと励ましているのです。

神の家族へ
 パウロの手紙の多くは祝福で終わります。ガラテヤの信徒への手紙もその終わりで「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン」と祝福が告げられています。しかしこの手紙にはほかの手紙には見られないことがあります。それは「兄弟たち」という呼びかけがあることです。原文ではこの手紙は「兄弟たち、アーメン」で終わります。パウロはこの手紙を通して厳しく語り続けてきました。しかしその終わりの言葉は「兄弟たち」という呼びかけなのです。キリストに結ばれて神の家族とされた者たちへの呼びかけです。パウロがそのように呼びかけることができるのは、ガラテヤの諸教会の状況を楽観的に考えていたからではありません。そうではなく、キリストの十字架の確かさのゆえです。キリストの十字架によって打ち立てられた恵みの支配は決して揺らぐことがないからです。パウロが呼びかけている、と言うのでは十分ではありません。キリストの十字架によって救いを実現された神様が、キリストの福音に留まりなさい、と私たち一人ひとりに呼びかけているのです。私たちはその呼びかけに、キリストの十字架のほかに誇るものはありません、とお応えして、キリストと共に新しく創造された者として歩んでいくのです。

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