主日礼拝

愛によって互いに仕える

愛によって互いに仕える」 伝道師 川島章弘

・ 旧約聖書:レビ記 19章13-18節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第5章13-26節
・ 讃美歌:

自由へと召し出された
 前回からガラテヤの信徒への手紙第5章に入りました。本日は第5章の後半をご一緒に読み進めていきます。5章の冒頭1節には「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」とありました。そして本日の箇所の冒頭13節では「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」と言われています。どちらもキリストの十字架によって実現した「自由」が見つめられていますが、5章1節ではキリストが主語で「キリストが私たちを自由にした」と語られているのに対して、13節では「あなたがた」、つまりガラテヤの諸教会の人たちが主語で「あなたがたは自由へと召し出された」と語られているのです。「召し出された」とは、洗礼によって決定的に神さまに召し出されたということです。1節ではキリストが私たちを律法の支配から自由にしてくださったことに焦点が当てられていました。それに対して13節では、洗礼において私たちがその自由へと神さまによって召し出されたことに焦点が当てられているのです。

キリストによる自由とは?
 もともと私たちはこの自由を持っていたわけではありません。神さまが召し出してくださったことによって初めてこの自由を生きることができるようになったのです。このことは裏返して言えば、キリストの十字架によって救われる前は私たちには自由がなかったということです。しかし私たちはそのような実感を持っているでしょうか。洗礼を受ける前にも自由はあったし、洗礼を受けた後でも自由でないことはたくさんある、というのが実感ではないかと思います。そのように感じるのは、私たちが思い描く自由とパウロが告げているキリストによる自由とが異なるからです。私たちが生きている社会において自由とは、一つには人間の権利として保障されている自由でしょう。例えば、信教の自由や表現の自由、学問の自由や職業選択の自由などです。これらは人類がその歴史の中で勝ち取ってきた自由であり失ってはなりませんが、洗礼を受けることによって与えられるわけではありません。もう一つには、私たちの社会において自由とは、何にも束縛されないことであり、自分のしたいようにすることであり、自分の好きなように生きることだと考えられています。しかしそのように自分中心に生きることが自由であると、パウロは言っているのではありません。そうではなく、むしろ自己中心的な生き方から解放されることこそ、パウロが告げているキリストによる自由です。それは、多くの人が思い描く自由とはまったく異なります。何にも束縛されず自分のしたいようにし好きなように生きることは、キリストによる救いに与り、洗礼によって自分中心に生きていた「古い自分」から自由にされた私たちの生き方ではないのです。

キリストによる自由を見失う
 5章1節では「奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」と言われていました。キリストによる自由を手放してはならないと命じられていたのです。それに対して13節で「あなたがたは自由を得るために召し出された」と語ったパウロは、続けてこのように言っています。「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」肉とは、自分中心に生きていた「古い自分」であり、その「古い自分」に罪を犯す機会を与えるために、キリストによる自由を用いてはならない、と言われているのです。「肉に罪を犯させる機会とせず」と訳されていますが、直訳すれば「肉にとっての機会とせず」となります。それは、「古い自分」の自己中心的な欲望を追い求める機会としないということにほかなりません。
 ガラテヤの人たちはキリストによる自由を手放そうとしていました。その一方でその自由を誤って用いようとしていたのです。このことに私たちは戸惑いを感じるのではないでしょうか。自由を手放すことと、たとえ誤った仕方であったとしても自由を用いることとは両立しないように思えます。しかしどちらもキリストによる自由を見失っているという点では同じです。どちらにおいてもキリストによる自由が分からなくなっているのです。これまで繰り返し語られてきたことですが、ガラテヤの人たちは信仰のみによって救われるのではなく、信仰に行いをつけ加えることによって救われる、と考え始めていました。キリストの十字架によって律法の支配から自由になったのに、その自由を手放して律法の支配の下に逆戻りしようとしていたのです。信仰に行いをつけ加えることは、キリストによる自由が、神さまの一方的な恵みによって与えられたことを見失っていることなのです。その一方でガラテヤの人たちは、その自由を自己中心的な欲望を追い求める機会としました。そのことによってガラテヤの諸教会には対立や争いが起こっていたことが、15節で「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」と言われ、26節でも「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」と言われていることから分かります。15節の「かむ」や「食う」という言葉は、もともとは「蛇がかむ」や「野獣が食う」というように用いられる言葉です。蛇がかみ合い、野獣が共食いしている姿を思い浮かべるならば、ガラテヤの諸教会では、互いに自分の正しさを一方的に主張し、相手の語ることに耳を傾けず、批判し合い傷つけ合い裁き合っていたのではないでしょうか。自己中心的な欲望を追い求めるとは、平たく言えば「もっともっと欲しい」ということです。その根底には満たされることのない虚しさがあります。その虚しさをごまかすために「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、妬み合ったりする」のです。自己中心的な欲望を追い求めるのは、本当の自由を生きることではありません。そこではキリストによる自由が見失われているのです。

愛によって互いに仕える
 キリストの十字架による救いによって自由を与えられた私たちはその自由をどのように生きたら良いのでしょうか。パウロは「愛によって互いに仕えなさい」と言っています。また14節では、共に読まれたレビ記19章18節を引用しつつ「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」とも語っています。キリストによる救いに与り、洗礼によって自由へと召し出された私たちの生き方は「愛によって互いに仕え合う」生き方です。この「仕える」という言葉は「僕となる」という言葉であり、「奴隷となる」と訳すこともできる言葉です。ですからパウロは、あなたがたは自由にされたのだから愛によって互いに相手の奴隷となりなさい、と言っているのです。これは驚くべきことではないでしょうか。神さまは律法と罪の奴隷であったガラテヤの人たちを、そして私たちを、その束縛から解放しキリストによる自由へと招いてくださいました。だからパウロは1節で「奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」と命じていたのです。その自由へと招かれた私たちが「愛によって互いに奴隷として仕え合いなさい」と命じられているのです。ここでも私たちは、自由であることと奴隷として仕えることは両立しないように思います。しかしパウロにとって、キリストによる自由を生きることは、愛によって互いに僕として仕え合うことにほかならないのです。なぜならキリストの十字架による律法の奴隷からの解放は、行いによって救いを得ることから自由とされることであり、自己中心に生きる人間の生まれながらの生き方からの解放だからです。それは同時に隣人との真実な関わり合いを可能とする解放であり、「愛によって互いに仕える」ことを可能とする解放にほかなりません。行いによって救いを得ようとするとき、神さまは視野に入らなくなります。神さまの役割は、単に自分の行いを機械的にチェックするだけになってしまうからです。そこには神さまの愛にお応えして生きるという神さまとの生きた人格的な交わりはありません。また行いによって救いを得ようとするとき、隣人も視野に入らなくなります。自分自身のことにしか目が向かないからです。たとえ視野に入ったとしても、せいぜい自分の功績のための手段としてだけであり、隣人を利用することはあっても、隣人に真実に仕えることはありません。ですから行いによって救いを得ようと生きることは、自分中心に生きることにほかならないのです。そのような生き方にがんじがらめに縛られていた私たちを自由にするためにキリストは十字架で死なれました。その十字架において極まる神さまの愛によって救われ、自分中心に生きることから自由とされた私たちは、神さまから愛されている者として、互いに愛し合い仕え合って生きます。キリストによって与えられた自由がまさに本当の自由であるからこそ、私たちは自分の利益のためでも渋々我慢してでもなく、愛によって互いに仕え合うのです。キリストこそが本当の自由を生き、愛によって私たちに仕えてくださいました。そのキリストの自由に私たちは与り、愛によって互いに仕え合っていくのです。それは決して律法と対立することではありません。本来、律法とは、救われるために守るべき戒めが集まったものではなく、神さまの意志、神さまの御心を告げているからです。14節の「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」とは、愛によって互いに仕え合うことによって神さまの意志としての律法を全うすることができるということなのです。

聖霊の導きに従って
 キリストによる自由を生きることは、愛によって互いに仕え合って生きることです。しかし私たちは自分の頑張りや努力によって「愛によって互いに仕える」ことができるようになるのではありません。私たちは愛によって互いに仕えたいと願うし、そうであったら理想的だとも思います。しかしそれは絵空事で、他人事で、自分の現実として日々のこととして受けとめられないのです。パウロが「愛によって互いに仕えなさい」と言うとき、人間は自分の力で隣人を愛することができる、と言っているのではありません。パウロは16節でこのように言っています。「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」「肉の欲望」とは、自己中心的な生き方の追求であり、19節以下で語られている「肉の業」を生み出します。しかし聖霊の導きに従って歩むのであれば、「肉の欲望」に支配されることはなく、自己中心的な生き方を追い求めることがないと言われているのです。22節で「霊の結ぶ実は愛」と言われているように、「霊の導きに従って歩む」ことによって初めて愛によって互いに仕える生き方がもたらされるのです。17節では「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」と言われています。要するに、肉に支配されて生きることと聖霊の導きに従って生きることは決して両立しないということです。自己中心的な生き方と、愛によって互いに仕え合う生き方は両立しないのです。けれどもこのことは、私たちが聖霊の支配の下に生きるか、それとも肉の支配の下に生きるか選ばなくてはならないということではありません。洗礼によってキリストによる自由へと神さまに召し出された私たちは、すでに肉の支配の下にいるのではなく、聖霊の支配の下に入れられているのです。肉に支配された「古い自分」に死に、聖霊に支配された「新しい自分」に生きているからです。24節では「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」と言われています。私たちは洗礼によって「キリスト・イエスのもの」とされ、「古い自分」を十字架につけたのです。ですから聖霊の支配の恵みは現実としてすでに私たちに与えられています。霊の導きに従って歩むとは、すでに実現し現実として与えられている聖霊による支配を受け入れることにほかならないのです。

「肉の業」と「霊の結ぶ実」
 19節以下には「肉の業」のリストがあり、十五の「肉の業」が記されています。しかしその一つ一つを取り上げチェックリストとして用いるのは間違っています。例えば自分は「姦淫」には当てはまらないけれど、「怒り」には時々当てはまる、というように自分の行いをチェックするためのリストとして用いるのではないのです。あるいは隣人の行いをこのリストによってチェックして批判したり裁いたりするのでもありません。そうするならば、キリストによる自由を生きるのではなく、自分も他人も行いに縛ってしまうことになります。これらは私たちの行いのチェックリストなのではなく、自己中心的な生き方が「愛の喪失」をもたらすことを見つめています。十五のうち「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」の八つは、特に人と人との関係において愛が失われることによって生じます。そのような愛の喪失、愛の欠如は、実に様々な形で私たちの現実に溢れています。この十五の「肉の業」がすべてではありません。それは、リストの終わりに「その他このたぐいのものです」とあることにも示されています。リストは完結していません。自己中心的な生き方がもたらす愛の喪失、愛の欠如に終わりはないのです。
 それに対して、霊の結ぶ実が22節以下で語られています。「霊の結ぶ実」とは、聖霊の働きによって私たちの歩みにおいて実っていくものです。それは、私たちの力によるのではなく聖霊の働きによるのです。「肉の業」に対して「霊の業」とは言わずに「霊の結ぶ実」と言われていますが、「業」が複数形であるのに対して「実」は単数形です。このことは、「肉の業」と「霊の結ぶ実」が同じように並べ上げられていても、「霊の結ぶ実」は、人間の業のように数え上げることはできないということを示しているのではないでしょうか。「霊の結ぶ実」は人間の行いによって与えられるものではないのです。またこのことは霊の結ぶ実として、愛、喜び、平和が挙げられていることからも明らかです。私たちが愛や喜びや平和を生み出すことなどできません。愛も喜びも平和も神さまがキリストの十字架によって私たちに与えてくださったものです。聖霊の導きに従って生きるというのは、神さまが私たちに与えてくださったものが、聖霊の働きによって私たちの歩みにおいて起こっていくことを信じて生きることなのです。

キリストによる自由を輝かせて
 それでもなお私たちは、どこでキリストによる自由を実感するのだろうか、どこで目の当たりにするのだろうか、と思います。むしろ私たちは自分が自由でないと感じてばかりではないでしょうか。特に今、新型ウイルスによって多くの自由が失われています。気楽に食事に行ったり遊びに行ったりすることができなくなりました。いつも人との物理的な距離を気にしなくてはなりません。開かれていたはずの未来が閉じられてしまったと感じている方もあるでしょう。新型ウイルスだけに限られたことではありません。私たちは誰もが年を重ねていくことによって自由を失っていきます。病を得ることによってもそうです。今まで自由に出来ていたことが出来なくなるからです。学校においても仕事においても家庭においても不自由さに直面することは少なくありません。そのような私たちの免れようのない現実の中で、キリストによる自由をどこで実感するのでしょうか。それは、愛によって互いに仕え合うことによってです。キリストによる自由を生きるとは、愛によって互いに仕えることです。しかしその自由を実感することができたから互いに仕え合うのではありません。そうではなく、愛によって互いに仕え合うところにこそキリストによる自由が現れるのです。互いに愛し合い仕え合うことによって、私たちはすでに実現したキリストによる自由をこの地上の歩みにおいて輝かせます。どれほど自由が失われているように感じられる現実の中でも、決して失われることのないキリストによる自由を確かに輝かせるのです。自分の不自由さに目を向けてばかりいることをやめて、神さまを見上げ、隣人に目を向けることによってです。なにより聖霊の働きを祈り求めることによってです。25節でパウロは「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」と言っています。「前進する」とは、もともとは軍隊用語で「隊列に並ぶ」という意味だそうです。私たちは一人ひとりばらばらに前進していくのではありません。神の民の列に加わり一つになって愛によって互いに仕え合いながら前進していきます。肉の支配に逆戻りすることなく聖霊の支配に堅くとどまって前進していくのです。終わりの日に神の国を受け継ぐそのときまで神の民の前進は止まりません。その日々前進する歩みにおいて、聖霊の働きによって愛が喜びが平和が実を結ぶことを確かに信じて良いのです。聖霊の働きによって、私たちが愛によって互いに仕え合う者とされていくことを、キリストによる自由を輝かせる者とされていくことを、喜びを持って信じて良いのです。

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