主日礼拝

神の約束

「神の約束」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:創世記 第17章1-8節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第3章15-22節
・ 讃美歌:326、471

 愛する皆さん。それぞれ離れたところにあって、音声を聴きながら、あるいは説教原稿を読みながら、神の家族として共にみ言葉に聴き、祈りを合わせている皆さんお一人お一人の上に神さまの豊かな恵みがありますようお祈りいたします。

愛の書
 本日の箇所の冒頭でパウロは、ガラテヤ教会の人たちに「兄弟たち、分かりやすく説明しましょう」と語りかけています。何気ない言葉に思えますが、ここでなおパウロがガラテヤの人たちに「兄弟たち」と呼びかけていることを見過ごすことはできません。この手紙でパウロは、かつて彼が告げ知らせた福音から離れていこうとしているガラテヤの人たちに、キリストの福音に留まるようにと語ってきました。その中心は、救いは信仰のみによるのであって、信仰と行いによるのではないということです。この真理をガラテヤの人たちに伝えるために、また彼らがこの真理に踏みとどまるために、パウロは厳しい言葉で語ってきました。1章6節では「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と言っていたし、3章1節では「ああ、物分りの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか」と言っていました。そのような厳しい言葉を語ってきたにも関わらず、本日の箇所の冒頭で、パウロはガラテヤの人たちに「兄弟たち」と呼びかけているのです。「兄弟たち」という呼びかけは神の家族に対する呼びかけです。パウロは、ガラテヤの人たちにあきれ果て、物分りの悪い人たちだ、と思っていたでしょう。それでも彼らに向かって、神の家族として語りかけているのです。ガラテヤの信徒への手紙は「戦いの書」と呼ばれることがあります。手紙全体にパウロの攻撃的な言葉が見られるからです。しかしパウロが「兄弟たち」と呼びかけているのを読むとき、この手紙は「愛の書」でもあると私は思います。なんとかしてガラテヤの人たちがキリストの福音から、神の愛から離れていかないようにと、パウロはあの手この手を使って粘り強く語り続けているからです。彼らを見捨ててしまうことの方が簡単だったかもしれません。しかしパウロは決して見捨てなかったしあきらめませんでした。それは、単にパウロの意志であるというよりも、神の御心であるというべきです。神こそが、ご自分から離れていこうとする人たちを決して見捨てることなく、ご自分の下へと戻ってくるようにと働きかけ続けてくださるのです。

神の約束
 これまでパウロは、過去を振り返り、ガラテヤの人たちの経験に訴え、旧約聖書のみ言葉を引用して語ってきましたが、本日の箇所では「分かりやすく説明しましょう」と言って、一つの例を用いています。15節でパウロが持ち出している例は「遺言」です。ここでパウロは「遺言」についての細かい議論をしているのではありません。そうではなく当時の社会において、「遺言」が、「法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはでき」ないこと、つまり「遺言」が、後から変更されないということに注目しているのです。
 「人間の作成した遺言」の例を持ち出すことによって、パウロはガラテヤの人たちに「神の約束」について伝えようとしました。その「約束」とは、16節にあるように「アブラハムとその子孫に対して」神が告げた約束です。創世記によれば、神はアブラハムとその子孫に対して「子孫の繁栄」と「土地の取得」の約束を告げました。共に読まれた創世記第17章4節から6節で、神はアブラハムに「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう」と言われました。また7節から8節で「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる」とも言われました。アブラハムが多くの国民の父となることと、約束の地カナンが彼とその子孫に与えられることが語られていたのです。創世記17章では、繰り返し「契約」という言葉が使われていますが、パウロは、神がアブラハムと結んだこの契約を、神が与えた約束として語っています。実際17節でパウロは「神によってあらかじめ有効なものと定められた契約」を「約束」と言い換えているのです。「契約」という言葉には、神の側からの約束と、神の命令に対する人間の側からの忠誠とが含まれているといえます。創世記17章の神とアブラハムの契約においても、1節から8節で神の約束が語られた後で、9節から14節でその約束に応えて人間が守るべきことが語られています。しかしパウロがここで目を向けているのは、神が与えてくださった約束なのです。さらにパウロは、創世記で語られている「アブラハムの子孫」とはキリストのことであると言います。その理由として、アブラハムとその子孫に対して告げられた約束において、「多くの人を指して『子孫たちとに』とは言われず、一人の人を指して『あなたの子孫とに』と言われている」からだ、とパウロは述べています。その一人の人こそ、ほかならぬキリストなのです。ユダヤ人は、自分たちこそがこの「子孫」であると思っていました。しかしアブラハムに対して告げられた約束は、ほかならぬキリストにおいて成就したのです。創世記でアブラハムに告げられた「子孫の繁栄」は、神の祝福を意味します。その祝福は、キリストの十字架の死と復活によって成就し、それがユダヤ人だけでなく異邦人に及び、また私たち一人ひとりに及びました。このことはすでに14節で「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶため」と語られていました。またキリストが成就した「土地取得」の約束は、イスラエルの民がカナンの土地を取得することを越えて、私たちが神の国を受け継ぐことに及んでいったのです。

律法によって破棄されない
 「神の約束」についてパウロは17節でこのように言っています。「わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。」ここで「契約」という言葉が出てきますが、この言葉は15節の「遺言」と同じ言葉です。「人間が作成した遺言」と「神が定めた契約」が言葉でも内容でも対応して語られているのです。つまり人間が作成した遺言でさえ、法律的に有効となったら後から変更できないのだから、まして神が前もって有効と定めた契約が、後から無効にされることはない、ということです。神は、創世記17章で語られていたようにアブラハムと契約を結びましたが、430年後に出来た律法がその契約を無効にできないし、その約束を反故にすることもできないと言っているのです。パウロは、アブラハムに対して神の約束が告げられてから430年後に、モーセの手を経て律法ができたと述べていますが、ここで大切なのは年数そのものよりも、律法より先に、神の約束が与えられていたということです。また「反故にする」と訳された言葉は、「破棄する」ことを意味します。つまり神が律法より先に与えた約束は、律法によって破棄されることはないのです。パウロがガラテヤの人たちに伝えようとしたのは、神の約束は変わることがないということにほかなりません。

神の国を受け継ぐ
 キリストにおいて成就した「神の約束」は、神の国を受け継ぐことであり、神の国の相続です。18節でパウロは、「相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません」と言っています。神の国の相続が律法に由来するならば、神の国を受け継ぐために律法を守らなければなりません。行いが神の国を受け継ぐための条件となるのです。しかしパウロによれば、神の国の相続は「神の約束」に由来するのです。「神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになった」と彼は言っています。律法によって変更されたり、破棄されたりすることのない神の約束によって、神の国を受け継ぐのです。アブラハムに神の祝福の約束が与えられたのは、彼が神を信じたからです。「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と6節にありました。私たちもまた、主イエス・キリストの十字架の死と復活による救いを信じることによって、キリストにおいて成就した「神の約束」を受け取り、神の国を受け継ぐのです。神の国の相続に、律法の行いが入り込む余地はありません。私たちの行いや功績、つまり「なにを行ったか」や「なにを成し遂げたのか」が、神の国を受け継ぐための条件ではありません。神の約束を信仰において受け取ることによって、私たちは神の国を受け継ぐのです。このことは私たちにとって大きな恵みに違いありません。しかしそれにもかかわらず、私たちは神の約束に完全に自分を委ねることができません。どこかで私たちは、自分がなにかできるのではないかと思っているのです。私たちの行いや功績が神の国を受け継ぐための条件ではないことに、実はがっかりしているのです。私たちは、「なにかしなくてはならない」という社会の雰囲気にどっぷり浸かっています。裏返せば「なにもできない」のは望ましいことではないと思っているのです。社会において、ある立場を受け継ぐために実績を積み重ねる必要があるでしょう。あるいは、ある資格を得るためには試験で条件を満たさなければなりません。これらは否定すべきことではありません。社会を成り立たせるために必要なことであり、私たちは多かれ少なかれこのような社会の仕組みにある程度順応していかなくてはなりません。しかしこのことは、私たちが生きていく上で決して「すべて」ではないのです。「なにかできること」がすべてであるならば、「なにもできないこと」は絶望でしかありません。けれども神の国の相続において、「なにかできたかできないか」はまったく関係ありません。私たちはこのことを繰り返しこの手紙を通して告げられてきました。今、私たちは、コロナウイルスの世界規模の感染拡大の中で、どれほど自分たちが「なにかできる」ということに頼っていたかに気づかされています。そして「できること」がどんどんと失われ、ついにはほとんどなにもできず家に閉じこもるしかない中で、大きな喪失感を味わっています。「なにもできない」自分に生きている意味があるのだろうかという思いすら頭をよぎります。それは、個人の問題に留まりません。社会においても大きな制約があり、今まで行っていた営みを止めなくてはならないことが多くあります。至るところで「できていたこと」が失われていっているのです。そのために社会に不安や混乱が起こり、人と人との関係の破れがあちらこちらで見られます。だからこそ私たちは、パウロが繰り返し告げていることに耳を傾けなくてはならないのです。神の国の相続の条件が、私たちの行いや功績ではないということは、私たちが「なにかできたかできないか」はどうでも良いということではありません。しかし神の国の相続は、つまりキリストによる救いは、私たちが「なにかできたかできないか」ではなくて、ただ主イエス・キリストへの信仰によって与えられるのです。私たちができたりできなかったりすることによって、神の約束が変わることはないのです。今、私たちは、予想していなかった形で、多くのものを失っています。尊い生命を失っています。経済活動を失っています。そのことによって仕事を失い、生きる糧を失っています。今までの「当たり前」を失っています。けれども、それらのことに圧倒され、もう駄目かもしれない、どうしたら良いか分からないと思うとき、神の国の相続が、キリストによる救いが私たちに与えられていることにこそ目を向けたいのです。パウロは、神の国の相続は行いによるのではなく「神の約束」によるのだと訴えました。人間の行いによって変わることのない「神の約束」が、主イエス・キリストの十字架において成就したのです。だから私たちは、決して変わることのない「神の約束」に委ねることができます。ここに、危機と混乱と不安の中にあって、私たちがただ一つ頼ることができる約束と救いがあり、死に対する勝利と希望があるのです。

罪の支配下に閉じ込める
 19節、20節で、パウロは律法とは何か、について語っています。彼はこのように言っています。「律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。」「約束を与えられたあの子孫」とはキリストにほかなりません。「神の約束」はアブラハムに告げられ、キリストによって成就しましたが、律法は、それが与えられてからキリストが来るまでの間、人間の「違反を明らかにする」ものであった、と言うのです。「違反を明らかにする」とは「罪を明らかにする」ことです。律法は「天使たちを通し、仲介者の手を経て制定された」と言われていますが、続く20節にはこうあります。「仲介者というものは、一人で事を行う場合にはいりません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。」分かりにくい文ですが、律法の制定は仲介者であるモーセの手を経たが、「神の約束」は神ただお一人でなされたことであり、それゆえに神の約束は律法に優るものであると言っているのです。
 私たちは、律法が人間の罪を明らかにするならば、なぜ神は律法を与えたのか疑問に思います。信仰によって救われるという神の約束だけで良いのではないか。律法は、その神の約束に反するものではないかと思うのです。しかしパウロは21節で「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか」と自ら問い、「決してそうではない」と答えています。それは「万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされた」からです。しかし現実には、律法は人を生かすことができないのです。人は律法によって義とされる、つまり救われることはありません。救いは律法によっては与えられないのです。だから律法は、神の約束に反するものではない、というのがパウロの議論の筋道です。しかしこれによって、なぜ神は律法を与えたのか、という疑問が解消するわけではありません。むしろはぐらかされた気すらします。さらに22節では「しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです」とも言われています。「聖書は」とありますが、「神は」と言い換えて良いでしょう。神はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めた、と言うのです。ここでも私たちは、なぜ?と思います。ここでのパウロの語り方に私たちはなかなかなじめないのです。しかしそれは、パウロが立っているところ、どこから語っているかに気づけていないからです。彼が立っているのは、律法が人を生かさないという現実であり、すべてのものが罪の支配下に閉じ込められているという現実です。そしてそれは、私たちの現実にほかなりません。私たちは律法の行いが人を生かさないことを経験しています。良い行いによって救いを得ようとするとき、自分と隣人を裁くことが起こります。自分が良い行いをできなくなるとき、こんな自分は駄目だと自分を裁きます。あるいは隣人の行いを自分と比べ、批判したり裁いたりするのです。律法によって生かし合うのではなく、裁き合ってしまうのが私たちの現実です。さらに私たちは、この世界が罪の力に支配されている、罪の支配の下に閉じ込められていると感じているのではないでしょうか。この世界には理不尽が溢れています。苦しみや悲しみや絶望があります。パウロは、世界が罪の支配の下に閉じ込められている現実をはっきり見据えていました。だからこそパウロは、その現実を打ち破り、世界を罪の支配の下から解放した主イエス・キリストの十字架を告げ知らせたのです。この福音に立つからこそ、パウロは「神はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めた」と語ることができます。彼にとって、世界が罪の支配の下に閉じ込められていることすら、神の恵みの御心の下にあるのです。その御心は、罪の支配の下で苦しんでいる世界を見捨てることではありません。「神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるため」に、御子をこの世へと遣わしてくださったのです。

救いのリアリティ
 今、私たちの目の前にある現実は、世界が罪の支配の下に閉じ込められ、理不尽と絶望に溢れているように思えます。けれどもどれほどその現実が私たちを脅かしたとしても、主イエス・キリストの十字架と復活は、すでに世界を罪の支配から解き放ち、私たち一人ひとりを罪の力から自由にしたのです。確かにその完成はキリストが再び来られる終わりの日を待たなくてはなりません。地上の歩みにおいては、これからも苦しみや悲しみが消えることはないのです。しかし「いまだ」完成していないとしても、キリストの十字架と復活による救いは「すでに」実現しています。その救いのリアリティは、終わりの日が来るまで分からないということではありません。主イエス・キリストを信じる人たちは、その救いのリアリティの中をすでに生きています。神の祝福の約束が成就した世界をすでに生き始めているのです。私たちは目に映るものにしばしば圧倒されます。今、自分や隣人に起こっていること、社会や世界で起こっていることがすべてであるかのように思えます。けれども私たちにとって最も確かなことは、なによりもリアリティを持っていることは、主イエス・キリストの十字架と復活によって私たちの救いが実現したことであり、キリストが罪と死に勝利したことによって、私たちとこの世界が罪と死の力から解き放たれたことにほかなりません。それは、今、私たちが直面している現実から目を逸らすことでも、そのリスクを過小評価することでもありません。そうではなく私たちは、十字架と復活によって実現した救いのリアリティが与える希望によって、先が見えない中で、苦しみと悲しみが深まり広がっていく中で、この現実に絶望することなく踏みとどまるのです。

復活の生命を与えられ
 パウロは、律法は「人を生かす」ことができないと語りました。「人を生かす」とは、なにかを成し遂げ、充実した人生を送り、長生きをするというようなことではありません。「人を生かす」とは、復活の生命を与えることです。その生命は律法によって与えられるのではなく、キリストの十字架と復活によって与えられるのです。私たちの行いによってではなく、ただ神の恵みによって与えられるのです。私たちは洗礼においてキリストと結ばれることによってこの生命に与ります。神の国の相続は、終わりの日に復活と永遠の命に与ることによって完成します。しかしすでに、私たちはこの地上の歩みにおいて、信仰によってキリストと結ばれ復活の生命に与り、その新しい生命を生き始めているのです。終わりの日に与えられる復活と永遠の命の約束と希望をただ待ち望むのではなく、部分的であったとしてもすでに復活の生命を生き始めているのです。不安と混乱の中に、光が見えない闇の中に、「神の約束」が決して変わることなく私たちに与えられています。私たちがどれほどぐらついても、世界がどれほど揺らいでも、「神の約束」とキリストの十字架は微塵も揺らぎません。私たちはこの約束にすべてを委ね、復活の生命を与えられ生き始めた者として、それぞれに遣わされたところで、たとえ今、家の中で多くの時間を過ごさなくてはならないとしても、神を愛し隣人を愛する者として歩んでいくのです。

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