【2026年2月奨励】「私は天と地の一切の権能を授かっている。」

今月の奨励

2026年2月奨励「私は天と地の一切の権能を授かっている。」 牧師 藤掛順一
(マタイによる福音書第28章18節、聖書協会共同訳)


「宣教基本方針」の改訂を覚えて
2月末には定期教会総会が行われます。通常そこでは、4月からの新年度の計画と予算が
審議され、長老・執事の選挙が行われますが、本年の2月総会にはこれらに加えて「宣教基
本方針ー横浜指路教会の教会形成と伝道」の改訂が議案となります。当教会の「宣教基本方
針」は元々は1996年に制定されました。つまり30年前です。その後何回かのマイナー
チェンジを経て、現在のものになったのは2010年です。今回はその大幅な改訂が提案さ
れます。と言っても、内容が全く変わるわけではありません。横浜指路教会の教会形成と伝
道の基本的な考え方は一貫して変わっておらず、牧師が交代してもそれは受け継がれてきま
した。今回の改訂はその内容をより分かりやすく、明確にするためのものです。また、特に
コロナ禍以降教会の営みもいろいろ変わった点があるので、それらを盛り込むという意味も
あります。この「基本方針改訂」を覚えて、2月の聖句を選びました。

私は天と地の一切の権能を授かっている
この箇所は、復活した主イエスが弟子たちを伝道へと遣わされた場面であり、18節に続
く19、20節の「だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父
と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさ
い」は主イエスによる「大宣教命令」と言われています。先日の教会全体修養会における
「伝道Ⅱ 人々を教会に迎えるために」の講演においても、この主イエスの宣教命令から語り
始めました。その講演でも申しましたが、「大宣教命令」の根拠、土台となっているのが、
18節の「私は天と地の一切の権能を授かっている」というみ言葉です。ここに、教会の伝
道の根拠と土台があります。伝道と教会の形成は一つですから、「教会形成と伝道」の根拠
と土台もここにあるのです。この根拠と土台をしっかり確認することが、「宣教基本方針」
改訂が議される教会総会への良い備えとなると考えました。

救い主としての権威と力
私たちの主イエス・キリストは、今や「天と地の一切の権能」を授かっておられます。
「権能」とは、何かを行う権威と力です。主イエスは天と地の一切を支配する権威と力を授
けられているのです。それを授けたのは天地を創造し、今も支配しておられる父なる神で
す。父なる神が、世界を支配しておられるご自身の権威と力を、独り子主イエスにお与えに
なったのです。28章にそのことが語られていることから分かるように、それは主イエスの
十字架の死と復活の後のことでした。神の独り子である主イエスは、父なる神のみ心に従っ
て人となってこの世を歩み、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいまし
た。それによって私たちの罪の贖い、赦しを実現して下さったのです。主イエスが十字架に
かかって死んで下さったことによって、私たちは罪を赦され、神との良い関係を回復され、
神の子とされて生きています。そして父なる神は十字架にかかって死んだ主イエスを復活さ
せ、永遠の命を生きる者として下さいました。主イエスの復活は神の力が死に勝利したこと
を示しています。主イエスの十字架の死によって罪を赦して下さった神は、主イエスの復活
によって、罪の支払う報酬である死(ローマ6・23)を滅ぼして、私たちにも、復活と永
遠の命の約束を与えて下さったのです。主イエスの十字架の死と復活によってこの救いのみ
業が実現しました。つまり主イエスが私たちの救い主であられることが実現したのです。父
なる神はその主イエスに、「天と地の一切の権能」、つまりこの世界を支配する権威と力をお
授けになりました。今この世界の一切は、救い主であられる主イエスが、権威と力をもって
支配しておられるのです。そのことこそ私たちの救いであり希望です。この世界に何が起こ
ろうとも、また私たちの人生にどんなにつらく悲しいことがあろうとも、私たちは主イエス
の権能に救いと希望を見出すことができるのです。「私は天と地の一切の権能を授かってい
る。」というみ言葉は私たちの、そして教会の拠り所であり、喜びと希望の源なのです。

主イエスの権能が行使されるところに教会が生まれる
救い主としての権能(権威と力)を授かっている主イエスが、弟子たちを世界中に派遣し
て、救いのみ業を行わせ下さいます。それが、「だから、あなたがたは行って、すべての民
を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたこと
をすべて守るように教えなさい」という「大宣教命令」です。この命令を受けた弟子たち
は、世界中に行って、人々を主イエスの弟子にしました。具体的には、父と子と聖霊の名に
よって洗礼を授けたのです。洗礼を受けた者は主イエスの弟子となります。そして彼らは、
主イエスがお命じになったことを守って歩みました。そのようにしてこの世に教会が生まれ
ました。教会が生まれたのは勿論聖霊のお働きによることですが、聖霊は、主イエスがご自
分の権能によって弟子たちを派遣して、み業を行わせて下さったところに働いたのです。
主イエスに遣わされた弟子たちは、主イエスによる救いの福音を宣べ伝えました。その伝
道は、弟子たちの思い、計画、力によってなされたのではありません。もしそうであれば、
少しの迫害でたちまち萎んでしまったでしょう。弟子たちが様々な迫害に耐えて伝道を続け
ることができたのは、主イエスの権能を託されて遣わされたからです。また彼らが父と子と
聖霊の名によって洗礼を授けたのも、彼ら自身が考えたことではありません。洗礼は、人間
が考え出した入信の儀式ではなくて、主イエスご自身が弟子たちに「こうしなさい」とおっ
しゃったことです。主イエスはご自身の権能を弟子たちに託して、三位一体の神の名によっ
て洗礼を授けさせ、人々を主イエスによる救いに入れる業を行わせて下さったのです。そし
て彼らは洗礼を受けた人々に、主イエスに命じられたことをすべて教えました。それができ
たのも主イエスが彼らに「あなたがたに命じたことをすべて守るように教え」る権能を託し
て下さったからです。このように主イエスの権能を託されて遣わされた人々が、その権能を
行使することによって、教会が築かれていったのです。

教会形成と伝道の土台は主イエス・キリストの権能
そのことは今日まで連綿と続いています。主イエスが授けられた「天と地の一切の権能」
こそが教会の存在の根拠であり、その権能を託されて遣わされた人々がそれを行使すること
によって、教会は今も築かれ、歩み続けているのです。「父と子と聖霊の名による洗礼」が
今も授けられていることにそのことが最もはっきりと表れています。ある人が洗礼を受けて
キリストによる救いにあずかり、キリストの体である教会に加えられることは、教会の頭
(かしら)である主イエス・キリストの権能によることです。その権能を行使するために、
長老会と牧師が主によって立てられ、派遣されているのです。そうでなければ、人間の集ま
りである長老会が、誰かに洗礼を授けることを決定することなどできないし、一人の人間で
ある牧師が、洗礼を授けて人をキリストによる救いにあずからせることなどできません。つ
まり洗礼を授けることを中心とする教会の営み(教会形成と伝道)は全て、主イエス・キリ
ストの救い主としての権能(権威と力)によってなされているのです。その権能を託されて
派遣され、それを行使する者たちによって教会は築かれていくのです。

主イエスの権能を信じることが信仰
主イエスの「天と地の一切の権能」は、誰の目にもはっきり見える仕方で授けられている
のではありません。17節に「しかし、疑う者もいた」と語られていることにそれが示され
ています。疑う者もいた中で、主イエスは「私は天と地の一切の権能を授かっている」とお
っしゃったのです。つまりこのみ言葉は、主イエスが救い主としての権能を授けられている
ことの宣言であると共に、「私の権能を信じなさい」という弟子たちへの、そして私たちへ
の語りかけ、信仰の勧めでもあるのです。この勧めに応えて、主イエスの権能を信じること
が信仰であり、その信仰に生きる者たちの群れが教会です。そしてその信仰に生きる者たち
に主イエスはあの「大宣教命令」をお与えになりました。つまり主イエスの権能の宣言を信
じて教会に連なっている者は皆、その権能を行使するために立てられ、遣わされているので
す。

全信徒祭司
プロテスタント教会のいわゆる「万人祭司」(全信徒祭司)の原理はそのことを示してい
ます。信徒は皆、主イエスから「祭司」としての権能を託され、それを行使するのです。祭
司は、神と人との間に立って執り成しをする者です。私たちは、お互いのことを神に執り成
し祈り合うことによって、主イエスの救い主としての権能の一部を託されて行使するので
す。「万人祭司」は、教会では皆平等だ、という権利の主張でもなければ、お互いに人のた
めにとりなし祈る隣人愛を持ちましょう、という教えでもなくて、信仰者は皆、主イエス・
キリストの祭司としての権能を託され、行使する者だ、ということなのです。

伝道も主イエスの権能の行使
主イエス・キリストによる救いを証しし、宣べ伝える伝道も、主イエスが私たちに託して
下さった権能の行使です。主が私たちを教会へと導き、信仰を与え、洗礼にあずからせて下
さったのは、私たちに救いを与えて下さるためだけではなくて、主ご自身がその権能によっ
て行っておられる伝道の業に私たちを参加させ、用いて下さるためです。私たちは自分の力
や才覚で伝道することはできないし、そのためのスキルがあるわけでもありません。しかし
主イエスがご自身の権能によってさらに新たな人々を救いへと導こうとしておられる、その
み業に私たちを用いて下さるのです。先日の修養会で申しましたように、私たちはその主イ
エスのみ業の中で、そのほんの一端を担わせていただくのです。私たちを用いようとして選
び、召し集めて下さった主のみ心に従い、そのみ業に仕えていこうとする時に、私たちもそ
こで何がしかの働きを与えられます。主イエスご自身の権能のほんの一端が私たちに託され
て、それを行使する者とされるのです。

長老会議による主イエスの権能行使
お互いのための祭司として執り成し祈ることと、主イエスによる救いの福音を宣べ伝える
伝道は、全ての信徒に主イエスがその権能を託して行わせて下さることです。しかし主は教
会の中でさらにある人々を選び、召し出して、牧師、長老、執事という務めを与えておられ
ます。それぞれの務めを行うために、主イエスの権能がそれらの者たちに託されているので
す。牧師は、礼拝を司り、み言葉を語り、聖礼典を行うために、主イエスの権能の一部を託
されています。牧師はその務めを果たすために教育を受け、備えをして立てられますが、し
かしその務めは根本的には、自分の能力や学んだ知識によってではなくて、主イエスの権能
を託されることによってのみ果たすことができるのです。また長老は、教会員の中から選挙
によって選ばれ、牧師と共に長老会を構成する者として立てられます。長老会に、教会にお
ける主イエス・キリストの権能が託されている、というのが、私たちが受け継いでいる長老
教会の教会理解です。それゆえに「長老会はこの教会において、洗礼・信仰告白志願者の試
問、会員の転出・転入、礼拝の整頓、教理の擁護、宣教、会員の訓練、会員の戒規、諸集
会・諸団体の監督、教会総会開催の責任、予算の編成、会計・財産の管理、記録の保管、教
団・教区への責任、宗教法人の運営など、教会が教会として歩むための重要な意思決定を担
う。」(「宣教基本方針」改訂案)のです。「教会が教会として歩むための重要な意思決定を担
う」という言葉が今回の改訂で新たにつけ加えられます。それは言い換えれば、主イエス・
キリストの権能を託され、それを行使する、ということです。長老はそのために主によって
立てられるのです。今月行われる教会総会における選挙で長老が選出されますが、投票する
者、つまり現住陪餐会員は、主イエスの権能をみ心に従って適切に行使してくれるであろう
人に投票することが求められています。またそのようにして選ばれた長老は、個人として何
らかの地位や権限を与えられたのではなくて、主イエスの権能を託され、それを教会におい
て行使していく長老会の一員として立てられたことを意識しなければなりません。主イエス
の権能が適切に行使されるために、み心を求めつつ会議を行い、その決議に主のご意思が示
されていることを信じてそれに従う、ということが大切なのです。
またこの長老会における主イエスの権能行使は、一つの教会の長老会のみでは適切になさ
れ得ません。自分たちの歩みを自分たちだけで点検し、整えることは困難です。それを支
え、相談に乗り、必要なら指導する、同じ信仰と教会理解に立って共に歩む諸教会の長老会
の交わりが大切なのです。そのために私たちの教会は神奈川連合長老会に加盟しています。
同じ伝統に立つ諸教会の長老会が協力し合って共に歩み、それぞれの教会において長老会が
主イエス・キリストの権能を、み心に従って適切に行使していくことができるように仕え合
っているのが、神奈川連合長老会、そして全国連合長老会なのです。

執事による主イエスの権能行使
執事もまた教会において主イエスの救い主としての権能を託され、その行使に仕える者で
す。執事に託されているのは、愛の業を行い、奉仕に生きる権能です。私たちは弱く貧しく
罪深い者ですが、主イエスの愛によって赦され、救われ、神の民とされました。主イエスは
罪人である私たちに仕えるために来て下さった(マタイ20・28)のです。その愛を受け
た教会は、お互いに愛し合い、仕え合って歩みます。その先頭に立つ者として執事が立てら
れているのです。「執事の務めは、教会員皆がそれぞれに与えられている賜物を生かして愛
の業、奉仕に生きるために、情報を収集、提供し、必要なところに必要な奉仕が行き渡るよ
うに配慮することである。また私たちは、信仰に基づく愛の業を、教会内において、教会員
どうしの間でするだけでなく、教会の外に向けて、地域社会に対してもなしていくことによ
って、キリストの愛をこの世に証ししていくのである。」(「宣教基本方針」改訂案)。ここは
現行のものよりも少し詳しくなっています。執事とは何をする者なのかをよりはっきりさせ
ることも宣教基本方針改訂の目的の一つです。執事選挙もこのことを覚えてなされなければ
ならないのです。

主イエスの権能の下で生きる
教会にはその他にもいろいろな奉仕の働きがあります。教会主事、会計主事、奏楽者、教
会学校教師などは「任職式」を行って教会として公に立てている務めです。その他にもいろ
いろな働きがあり、中にはあまり人の目に触れないものもあります。先ほどの「お互いどう
しの執り成しの祈り」などはまさに、一人ひとりの密室においてなされることで、人に見せ
るものではないし、誰が誰のためにどのように祈っているかが人間の目に明らかになること
はありません。しかしそれらの働きの全てを通して教会が築かれ、主の救いのみ業が前進し
ているのです。そういう意味でどの働きも、主イエスの救い主としての権能の一端を担い、
それを行使していると言うことができます。「天と地の一切の権能を授かっている」主イエ
スは、ご自分の権能によってなされているそれら全ての働き、奉仕を知っていて下さり、
「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束の通りに、私たちと共に
いて下さるのです。
私たちは主イエス・キリストの「天と地の一切の権能」の下で生きています。それによっ
て救われ、生かされているし、またそれを託され、その一端を担う者とされています。そこ
に私たちの喜びがあり、希望があります。主イエスの権能の下で生きるために最も大切なこ
とは、それを認め、それに服すること、つまり、自分が主人となって支配しようとするので
なく、主イエスの権能によるご支配を受け入れ、それに従っていくことです。私たちは「権
能」という言葉が嫌いかもしれません。「権威主義は嫌だ、支配されるのは嫌だ」という思
いです。今はそういう感覚が強い時代です。人間どうしの間ではそれは意味のある、必要な
ことでもあります。しかし、主イエス・キリストの権能(権威と力)の確立なしに私たちの
救いはありません。主イエス・キリストの権能を受け入れ、それに服して生きる者こそが、
その権能を託されて派遣され、それを行使していくことができるのです。そこにこそ教会が
築かれていきます。そして主イエスの権能の下でこそ、人間の権威主義や支配から解放され
た、本当に自由な歩みが与えられるのです。

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