2024年9月の聖句についての奨励(9月4日 昼の聖書研究祈祷会)
「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。」(5節)
フィリピの信徒への手紙第1章3〜11節 牧師 藤掛順一
最初の日から今日まで、福音にあずかっている
いよいよ9月になりました。私たちの教会が創立150周年を迎える月です。今そのことを記念して「聖書全巻リレー通読」が行われていて、この祈祷会の後も、通読が続けられます。ヨハネの黙示録を読み終える9月13日が教会創立記念日です。その日は、通読終了後の午後2時から創立150周年記念日礼拝を行いますので、どうぞご参加下さい。
150周年の記念日を迎えるこの月の聖句をどこにしようかと考え、150年の歴史を通して主がこの教会に与えてきて下さった恵みが端的に語られている箇所として、フィリピの信徒への手紙第1章5節を選びました。「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」。このことこそ、150周年を迎えるこの教会に主なる神が与えてきて下さった恵みではないでしょうか。この教会の設立者ヘボンが、横浜開港の年に日本に来たのは、自らがあずかっている福音を日本の人々に伝えるためでした。福音とは、神が独り子イエス・キリストの十字架と復活によって実現して下さった救いの知らせです。その救いが、自分の良い行いや努力によってではなく、ただ神の恵みのみ心によって与えられている、この福音の喜びを日本の人々と分ち合おうとして、ヘボンは切支丹禁制下の日本に来たのです。ヘボンの下に集っていた日本人たち18名によって、1874年9月13日に「横浜第一長老公会」が設立されました。それがこの教会の「最初の日」です。彼らは、イエス・キリストを信じて、洗礼を受け、福音にあずかったのです。その日から今日までの150年間、いろいろな困難や危機があったし、集う人々が多かった時も少なくなってしまった時もありましたが、この教会において人々は福音にあずかり続けてきました。今は私たちが、福音にあずかっています。そのことは今日、残念ながら当たり前のことではなくなっています。福音とは別の、ヒューマニズムの教えが教会で語られることも多くなっているのです。しかしこの教会においては、最初の日から今日まで、福音が語られてきたし、そのことを大事にしてきました。今この教会が日本のプロテスタント教会の中で最も大きな群れの一つであることができているのは、今もここで人々が「福音にあずかっている」からです。「最初の日から今日まで、福音にあずかっている」。このことこそ、この教会に与えられている最大の恵みなのです。これからもそのことを大切にしていきたいと思います。
フィリピ教会よりはるかに長い期間
パウロは、自分が伝道して生まれたフィリピの教会の人々が、最初の日から今日まで、福音にあずかっているので、「あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」(3、4節)と言っています。フイリピの教会が生まれてからこの手紙が書かれるまでの間は数年でしょう。フィリピ教会を生み出したパウロがまだ生きているのです。それに比べたら、私たちの教会の150年は、何世代にもわたるとてつもなく長い期間です。「最初の日から今日まで」の期間は、フィリピ教会よりも私たちの方がはるかに長いのです。その長い期間、「福音にあずかっている」ことが続いてきたのですから、150周年は本当に喜び祝うべきことなのです。
主なる神の「善い業」=福音
このことは、主なる神の恵みのみ業です。パウロは6節で「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」と語っています。フィリピの教会の人々が、「最初の日から今日まで、福音にあずかっている」のは、主なる神がフィリピの人々の中で「善い業」を始めて下さり、その「善い業」を、今日までなし続けて下さっている、ということなのです。この「善い業」とは、人間がする「善行」ではありません。人々が「善行」を行うことで教会が誕生したのではないのです。「あなたがたの中で善い業を始められた方」とは主なる神です。主なる神が、み心によって「善い業」を、つまり私たちの救いのためのすばらしい恵みのみ業を、始めて下さったのです。それは人間がそれなりの努力をして救いに相応しい者になったからではありません。人間はむしろ、自分たちを造り、命を与えて下さった神に感謝せず、敬わず、神を無視して、自分が主人になって生きようとしています。つまり罪人であり、神に敵対しているのです。そのような人間の罪を赦し、救って下さるためのみ業を、神が、ご自分の意志で始めて下さり、実現して下さったのです。それが主イエス・キリストの誕生であり、十字架の死と復活に至るご生涯です。神があなたがたの中で始められた「善い業」とはこのキリストによる救いのみ業です。そしてそれこそが「福音」です。福音=良い知らせとは、私たちが神に敵対している罪人であるにもかかわらず、神がその恵みのみ心によって、私たちのための救いのみ業を始めて下さり、実現して下さった、という知らせです。「福音にあずかる」とは、「神が、独り子イエス・キリストによって、あなたがたの中で善い業を、救いのみ業を、既に始めて下さり、それを実現して下さっているのだ」という知らせを聞いて、主イエスを救い主と信じて洗礼を受け、主イエスと共に生きる者とされ、主イエスによる救いの喜びにあずかることです。フィリピの教会において、「最初の日から今日まで」そのことが起こっていることをパウロは喜び、神に感謝しているのです。私たちの教会においても、「最初の日から今日まで」150年にわたって、そのことが起こり続けてきました。主なる神が、私たちの中で始めて下さった善い業を、150年にわたってなし続けて下さっていることを私たちも喜び、神に感謝するのです。
善い業の完成に向けて
しかしパウロが6節で語っているのは、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」という確信です。つまり、神が始めて下さった「善い業」=救いのみ業は、まだ完成していないのです。それが「成し遂げられ」完成するのは将来のこと「キリスト・イエスの日までに」なのです。つまりパウロはここで、フィリピ教会のこれまでの歩みを振り返っているだけではありません。現在と将来、今とこれからをも見つめているのです。私たちが教会創立150周年を喜び祝うことにおいてなすべきこともそれです。「最初の日から今日まで、福音にあずかっている」ことを感謝するのは、その福音が、つまり神が私たちの中で始めて下さった「善い業」が、まだ完成してはおらず、これからその完成に向かって前進して行くことを覚え、これからも続いていき、最後には完成するその「善い業」に、今も、これからも、あずかり続けるためなのです。私たちが何かの「善い業」をすることでそれを成し遂げるのではありません。この「善い業」を成し遂げて下さるのはあくまでも、それを始めて下さった主なる神です。しかし主なる神は、この「善い業」つまり私たちの救いを成し遂げていく中で、その救いにあずかる私たちを新しく生かし、用いて下さるのです。「福音にあずかる」とはそういうことです。神に敵対している罪人である私たちが、神の恵みのみ心によって救われ、罪を赦されて、神の民とされる。その福音にあずかることによって私たちは、神に愛されている者として、神と共に、主イエスと共に、新しく生き始めるのです。福音にあずかるというのは、神の善い業によって罪を赦され、新しくされて、神の善い業に仕え、その一端を担う者となることなのです。そのようにして私たちも、神の善い業の前進とその完成に向けて共に歩んでいくのです。
福音を分かち合う交わり
その歩みにおいて私たちは、一つの群れとされていきます。私たちが福音にあずかるのは、一人でではありません。パウロは「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっている」と言っています。「あなたがた」が福音にあずかっているのです。そしてこの「あずかる」という言葉は、原語では「コイノーニア」です。それは「交わり、分かち合い」という意味でもあります。福音にあずかるとは、個人が救われることではなくて、福音を分かち合う交わりに生きる者とされることなのです。パウロは、フィリピの教会の人々との間に、福音を分ち合う交わりが与えられていることを喜んでいます。7節で彼は「あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです」と言っています。福音にあずかるところには、共に恵みにあずかる者としての交わりが生まれるのです。つまりそこには教会が築かれていくのです。「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっている」というのは、そこに教会が築かれ、歩んでいるということです。ですからこの聖句は、教会創立150周年を迎える今月の聖句として相応しいのです。
キリスト・イエスの愛の心で
福音を分かち合う交わりとは、神の愛による救いを分かち合い、その愛に共にあずかる交わりです。そこには互いに愛し合って生きる交わりが生まれます。8節でパウロは「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」と言っています。キリストの愛の心によって救われた、それが福音です。それを分かち合うところには、キリストの愛の心で互いに愛し合う交わりが生まれるのです。それが教会です。教会は、キリストの愛によって互いに愛し合うことによって一つの群れとされるのです。
知る力と見抜く力とを身に着けて
しかし、神が始めて下さった「善い業」がまだ完成していないように、私たちがキリストの愛によって互いに愛し合う教会の交わりも、完成してはいません。それが完成するのは「キリスト・イエスの日」、つまり主イエスがもう一度この世に来られ、生きている者と既に死んだ者をお裁きになる日です。その日にこそ、神が始めて下さった「善い業」、救いのみ業が完成するのです。私たちは、その終わりの日の救いの完成を信じて待ち望みつつ、まだ救いが完成していない、ということは様々な問題があり、従っていろいろな苦しみ悲しみのあるこの世界を、忍耐しつつ歩んでいくのです。しかし私たちは神が既に主イエスによって実現して下さった福音にあずかっています。主イエスは既に私たちのために十字架にかかって死んで下さり、そして復活して永遠の命を生きておられるのです。すでに実現しているその福音によって支えられて、未だなお残る苦しみ悲しみの中を、希望を失わずに、忍耐して生きる、それが私たちの信仰です。そのことは、キリストの愛によって互いに愛し合う私たちの教会における交わりにおいても言えます。それは未だなお完成しておらず、欠けがあるので、愛し合うことができずにかえって傷つけ合ってしまうようなことが起こるのです。教会における私たちの愛は、キリストの日に向かってなお成長していかなければならないのです。9節以下のパウロの祈りはそのことを語っています。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」。私たちも「わたしたちの愛がますます豊かになるように」と祈っていきたいのです。そのためには、「知る力と見抜く力とを身に着けて、本当に重要なことを見分けられるようになる」ことを祈り求めていかなければなりません。「本当に重要なことを見分ける」、その「本当に重要なこと」とは、「神はその独り子主イエスの十字架の死と復活によって、私たち罪人の救いを既に実現して下さっている、神はそれほどまでに、私たちを愛して下さっている」ということ、つまり「福音」です。私たちは既にその福音=キリストによる神の愛を聞いており、それにあずかっています。しかしその福音=キリストによる神の愛によって本当に互いに愛し合う交わりが築けているわけではありません。それは私たちの努力が足りないからではなくて、福音を、キリストによる神の愛を、本当に味わうことができていないからです。福音を本当に味わうためには、神が私たちの中で始めて下さり、実現して下さった「善い業」を「知る力と見抜く力とを身に着ける」ことが必要なのです。その感覚を研ぎ澄まされていくことが必要なのです。そのことを私たちは祈り求めていきたいのです。それによって私たちの愛はますます豊かなものとなり、「キリストの日」に備えていくことができるでしょう。このことを、創立150周年を迎えた私たちの教会の祈りの課題としたいと思います。そしてそれは、「最初の日から今日まで、福音にあずかっている」というこれまでの歩みがあるからこそできることです。私たちは、福音の喜びに既にあずかっており、それを味わっているのです。その喜びをさらに深く、さらにはっきりと知る力を与えられて、福音つまり神の恵みによる救いと、そうでないもの、つまり人間の力によって何かをなしとげようとする倫理道徳の教え、ヒューマニズムの教えとを見分けられるようになっていきたいのです。それによって、キリストの愛の心を本当に知り、その愛で互いに愛し合う群れとされていきたいのです。