【2024年7月奨励】「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」

  • ヘブライ人への手紙第13章7〜8節
今月の奨励

2024年7月の聖句についての奨励(7月3日 昼の聖書研究祈祷会)
「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(8節)
ヘブライ人への手紙第13章7〜8節 牧師 藤掛順一

あなたがたに神の言葉を語った指導者たち
 今年は教会創立150周年を覚えつつ、毎月の聖句を選んでいます。今月は、ヘブライ人への手紙第13章8節の「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」という聖句を味わいたいと思います。しかしこの8節の前に7節があります。先ずそこに目を止めたいのです。「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」とあります。教会の150年の歴史は、神の言葉を語った指導者たちの働きの歴史でもあります。神の民であり、イエス・キリストの体である教会は、神の言葉によって養われ、生かされています。そのために神は教会に、ご自身の言葉を語る指導者を立て、遣わして下さいました。教会はその人たちを通して神の言葉を聞くことによって歩んできました。それはペンテコステに生まれた最初の教会から今日まで一貫していることです。使徒言行録第2章42節に、生まれたばかりの教会で行われていたことがこのように語られています。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。「使徒の教え」を聞くことが冒頭にあげられています。使徒たちが語る神の言葉を聞くことが、教会において最初から行われてきたのです。そのために立てられたのが、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たち」です。その人たちの働きを思い出し、その信仰を見倣うことによって、私たちの信仰は育てられていくのです。
 このことは、指導者たちが「神の言葉」を語っていることを前提としています。教会の指導者は、神の言葉を語るために立てられているのだし、神の言葉を語る者こそが教会の指導者たり得るのです。だからこれは、指導者の言うことには何でも従いなさい、ということではありません。神の言葉こそ、私たちが聞き従うべきものです。指導者が自分の主義主張を語っても、それは神の言葉ではありません。神の言葉は聖書に記されているのです。聖書を説き明かし、聖書に語られていることを告げ知らせる時に、指導者の言葉は神の言葉となるのです。この教会の150年の歴史は、指導者たち、つまり牧師たちが、聖書に基づく神の言葉を語ってきた歴史でした。それは決して当たり前のことではありません。聖書に基づく神の言葉が十分に語られなくなってしまったり、あるいは牧師が聖書をダシにして自分の主義主張を語るようになってしまうこともあるのです。いろいろな欠けや問題はありつつも、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たち」が150年にわたって与えられてきたことが、この群れに与えられた神の大いなる祝福なのです。

生き様の結末
 ところでこの7節には、「彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」と語られています。神の言葉を語った指導者たちの「生涯の終わり」を見つめるようにと言われているのです。それは、歴代の牧師たちがどのように死んだかを見つめ、その死に方を見倣いなさい、ということなのでしょうか。新しい聖書協会共同訳ではここは、「彼らの生き様の結末をよく見て、その信仰に倣いなさい」となっています。「生涯の終わり」が「生き様の結末」となっているのです。「生涯」という言葉は、生き方、ふるまい、という意味です。そして「終わり」という言葉は、「結果、それがもたらしたもの」という意味でもあります。つまりここで語られているのは、彼ら指導者たちがどのように人生の最後を迎えたかという、いわゆる「死に様」を見つめなさいということではなくて、彼らの生き方、ふるまい、語った言葉がどのような結果を生み、何をもたらしたかを見つめ、そこに示されている彼らの信仰を見倣いなさい、ということです。教会の指導者たちが、神の言葉を語って生きたことによってどのような結果が生じ、どんな実りが与えられたか、をしっかり見つめることが求められているのです。それは言い換えれば、神の言葉が語られたことによってもたらされた恵みの実りを、つまり神ご自身がみ言葉によって行なって下さった恵みのみ業を見つめる、ということです。私たちが今こうして信仰を与えられて、教会に連なる者として生きていることがまさにその恵みの実りであり、神のみ業です。私たちは、教会の指導者たちから神の言葉を聞き、それによって信仰を与えられ、洗礼を受けて、主イエス・キリストの救いにあずかり、キリストの体である教会の一員として生かされています。その私たちの存在こそ、指導者たちが語った神の言葉が生んだ実りです。また、神の言葉によって信仰を与えられ、救いにあずかった者たちの群れとしてこの教会が今こうして存在していることも、彼らが語った神の言葉のもたらした結果です。この教会の歴代の牧師たちのみでなく、多くの教会の指導者たちの生き方、彼らが語った神の言葉によって、今私たちは信仰者として生かされており、神の民としての教会がここに築かれているのです。そのことをもたらした指導者たちの生き方を見つめ、それに倣っていくことこそ、私たちのなすべきことです。教会の150年の歴史を振り返るとはそういうことなのです。

神のみ業のために用いられた多くの信仰者たちを見つめる
 そしてそのように考えるなら、私たちが見つめ、倣うべきなのは、み言葉を語った指導者たち、つまり牧師たちのことだけではないことが分かります。私たちの信仰は、そして現在の教会は、牧師たちだけの働きによってもたらされたものではありません。牧師たちによって語られた神の言葉によって信仰を与えられ、教会に連なる者となった多くの教会員たちの祈りと奉仕とによって、現在の教会があるのです。また私たち一人ひとりの信仰においても、それが与えられるきっかけとなった先輩の信仰者たちがいるはずです。牧師だけでなく、むしろ身近な所にいた信徒たちの招きと導きによって私たちは信仰を与えられたのです。ですから、私たちに神の言葉を語ってくれたのは、牧師だけではなくて、信徒たちでもあるのです。神の言葉を語るという務めに立てられたことにおいて、牧師たちの働きは大切ですが、彼らが語る神の言葉を聞いて、それによって信仰に生きた、そして神の恵みのみ業のために用いられた多くの信仰者たちのことをも、私たちは覚えていきたいのです。150周年を記念するとは、牧師たちのみでなく、この教会に連なって生きた多くの教会員たちのことをも覚えることです。記念事業の一環として、「指路誌」に載った「私の信仰と聖句」をまとめた「信徒証言集」の第二弾が準備されています。そこに載るのは、この教会の150年の歩みを担ってきたおびただしい人々の中のほんの一握りではありますが、この教会において信仰者として生き、教会の歩みの一旦を担った人々のことを、自分が直接に会ったことがなくても、知り合いではなくても、覚えていきたいのです。

神の言葉はイエス・キリストを指し示し、教会を築く
 さてそこで8節です。神の言葉を語った指導者たちの生き方、ふるまいをしっかり見つめなさい、という勧めに続いて「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」と語られています。指導者たちの生き方、ふるまいを見つめることによって、このことが見えて来るのです。彼らが語った神の言葉、聖書に基づく神の言葉は、イエス・キリストを指し示しています。神がその独り子である主イエス・キリストを人間としてこの世に生まれさせ、そのご生涯、とりわけ十字架の死と復活によって、罪人である私たちの救いを成し遂げて下さった。この主イエスを救い主と信じることによって、私たちはこの救いにあずかり、神の子として新しく生きることができる。そして、世の終わりの復活と永遠の命を待ち望む者とされる。聖書はこのことを語っており、聖書に基づいて神の言葉が語られることによって、私たちはこの主イエス・キリストによる救いにあずかるのです。そしてそこには、洗礼を受けてキリストと結び合わされた者たちの群れが、つまりイエス・キリストの体である教会が築かれていきます。神の言葉はイエス・キリストを指し示し、キリストの体である教会を築くのです。そのことが、この教会において150年にわたってなされてきたのだし、キリスト教会全体の歴史を振り返れば、2000年にわたってなされてきたのです。この教会の歴史によって、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」ということが実現してきたのです。

私たちが、キリストの命を担う者とされる
 つまり、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」というのは、イエス・キリストが、2000年前も、今も、そして将来も、変わることなく生きておられる、ということだけを語っているのではありません。神の言葉が語られることによって、それを聞いて生きる人々の群れである教会が築かれ、その教会が、キリストの体として、きのうも今日も、世の終わりに至るまで歩み続けていくことが見つめられているのです。別の言い方をすれば、このみ言葉は、私たちと関係ないところでキリストがいつまでも生きていると言っているのではなくて、私たち一人ひとりが、キリストの生きている体である教会に加えられ、その歩みを担う者とされている。そのようにして、キリストの体が、歴史の中で存在し続けていくことを見つめているのです。それをさらに言い換えれば、キリストがきのうも今日も、また永遠に変わることのない方として生き続けていくために、私たちがキリストの命を担う者とされているのです。私たちの命、人生は束の間のものです。しかしその束の間の人生が、きのうも今日も、また永遠に変わることのないキリストの命の中に組み入れられ、それを担う者として用いられているのです。教会の歴史は、そのようにして多くの人々がキリストの体に組み入れられ、その命を担う者とされ、生かされてきた歴史です。指路教会の150年の歴史においても、数えきれない人々が、入れ替わり立ち替わり、その歩みに招かれ、キリストの命を担う者とされ、そのことによって一人ひとりが豊かに生かされてきたのです。それらの人々の歩みの総体が指路教会の150年の歴史であり、それによって、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」ということが現実となっているのです。

動的平衡
 生物学者の福岡伸一という人が、「動的平衡」ということを言っています。私たちの体を構成している細胞は、どんどん入れ替わっているのです。数ヶ月すれば、今ある細胞は全て新しいものに入れ替わっている。そのために私たちは食事をして、新しい細胞の素材を常に体に取り込んでいるのです。そのように常に動き、どんどん変化しつつ、「私」という一つの個体が維持されている、平衡が保たれている。それを福岡氏は「動的平衡」と呼んでいます。つまり私たちは、生まれてから死ぬまで同じ体が続いており、それが生きて行くために必要なエネルギーを補給するために食事をしているのではないのです。このことは、「キリストの体」である教会においても言えると思います。私たち一人ひとりは、キリストの体を構成している細胞です。その私たちは、それぞれの人生というほんの束の間の時、この体を築くものとして用いられます。そのことによって私たち自身も生かされ、生きる意味を与えられるのです。そして時が来たら私たちは消えて行き、次の細胞に入れ替わっていきます。細胞は役目を終えたら分解されて排泄されますが、私たちは、主のみもとに迎えられ、平安の内に、終わりの日に与えられる復活と永遠の命を待つ者とされるのです。そのようにして夥しい人々が、入れ替わり立ち替わり、キリストの体を構成する細胞とされ、用いられていきます。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」ということは、そのようにして実現していくのです。

教会がキリストの体として生き続けるために
 細胞が入れ替わっていくことによって、体は少しずつ変っていきます。人間の体も、成長したり、老化したりするのと同じように、キリストの体も変化していくのです。変化していくことこそが、生きているということです。しかしそれはあくまでもイエス・キリストの体であり続けます。まさに「動的平衡」がそこにあるのです。そしてこの体がイエス・キリストの体であり続けることを実現しているのが、神の言葉です。神の言葉が語られ、聞かれることによって、様々に変化していく体が「イエス・キリストの体」であり続けるのです。そのことのために、神は教会に、神の言葉を語る指導者たちを立て、遣わして下さっているのです。「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい」という勧めと、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」という宣言はこのように深く繋がっています。神の言葉を語る指導者たちが立てられ、彼らの語る神の言葉によって生かされた者たちが、キリストの体である教会に共に連なり、キリストの命を担ってそれぞれの人生を歩むことによって、キリストの命が受け継がれてきた、それが指路教会の150年の歴史です。今私たちが、神の言葉を語る者として、またそれを聞いて生かされ、キリストの命を担う者として立てられています。私たちは「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」ということがこの教会において、これからも具体的に実現していくために招かれ、生かされ、用いられているのです。

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