2023年10月の聖句についての奨励(10月4日 昼の聖書研究祈祷会) 牧師 藤掛順一
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
ルカによる福音書第19章1〜10節
10月の聖句とした10節は、「人の子」つまり主イエス・キリストが、何のためにこの世に来られたのかを語っています。この言葉は、二ヶ月後に迎えようとしているクリスマスの意味を私たちに教えてくれています。私たちがクリスマスにお祝いするのは、主イエスが、失われたものを捜して救うためにこの世に来て下さったことです。またこの10月の第四主日に私たちは「秋の伝道礼拝」を行います。教会が伝道するのは、主イエス・キリストが、失われたものを捜して救うために来て下さったことを人々に伝えるためであり、それによって「失われたもの」が捜し出されて、9節にあるように「今日、救いがこの家を訪れた」ということが実現するためです。伝道とは、失われたものを捜して救って下さる主イエスのみ業に仕えることなのです。そしてこの10月の第二主日は「神学校日、伝道献身者奨励日」です。牧師、伝道者は、失われたものを捜して救うために来て下さった主イエスのみ業に教会の先頭に立って仕える者です。その「伝道献身者」が、神の召しによってさらに起こされることを祈り求め、そしてその伝道献身者たちを教育し、養成している神学校のことを覚えて支えていくための日です。伝道が前進し、教会が築かれていくためには、伝道者が立てられ、遣わされなければなりません。それらのことの根本にあるのは、主イエス・キリストが失われたものを捜して救うために来て下さったことです。この10月の、そしてクリスマスに向かっての教会の歩みの土台となっていることが、この聖句に語られているのです。
「失われたもの」であるザアカイ
この10節は、「徴税人ザアカイ」の話の結論として語られています。ザアカイこそまさに「失われたもの」であり、主イエスがそのザアカイを捜して救うために来て下さったのです。その話をご一緒に味わいたいと思います。ザアカイは、エリコの町の徴税人の頭で、金持ちでした(2節)。徴税人は、当時この地を支配していたローマ帝国の統治のために生まれた職業で、ユダヤ人でありながら、同胞たちから税金を徴収してローマ帝国に納める「徴税請負人」です。征服者であるローマに喜んで税金を納める人はいません。ローマの役人が徴税をしたら、ローマへの恨みが募るばかりです。それを現地のユダヤ人にさせることで、人々の恨みは、同胞なのにローマのために徴税をしている徴税人に向けられます。そのように人々の恨みをかう務めは誰もしたがりませんが、そのためにこの務めには「役得」が設定されているのです。決められた額をローマに納めさえすれば、それ以上に徴収した分は自分の懐に入れることができるのです。だから徴税人は、人々の恨みはかうが「金持ち」になれるのです。後ろ盾にはローマ帝国の強力な軍隊がいますから、人々は文句を言いながらも税金を納めるしかありません。そうやって私腹を肥やせるので、徴税人の成り手がいるのです。「支配の天才」と言われるローマらしいやり方です。それゆえに徴税人はユダヤ人たちの間では、神の民でありながら敵であるローマに擦り寄って金儲けをしている裏切り者と見做されていました。「徴税人や罪人」という言葉がよく出て来るように、罪人の代表とされていたのです。ザアカイはその「徴税人の頭」だったわけで、やり手の徴税人であり、それだけ人々の恨みも沢山かっていたのでしょう。まさに、神の民であるイスラエル、9節の言葉で言えば「アブラハムの子」であることから「失われたもの」だったのです。
イエスを見ようとしたザアカイ
そのザアカイが「イエスがどんな人か見ようとした」と3節にあります。今評判のイエスという人がエリコの町を通って行かれることを聞いて、どんな人か見たくなったのです。彼は何故イエスを見たいと思ったのでしょうか。ルカ福音書の5章27節以下には、主イエスがレビという徴税人を弟子にしたとあります。その5章には、主イエスが徴税人たちと食事を共にしていたことが語られています。15章1節にも「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」とあります。主イエスは、罪人の代表として忌み嫌われていた徴税人たちと食事を共にし、交わりを持っておられたのです。そのことでファリサイ派や律法学者たちに批判されてもいたのです。このように徴税人の友となっているイエスの噂をザアカイは聞いていたので、そのイエスとはどんな人なのか見たいと思ったのです。
ザアカイと人々の関係
しかし「背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」(3節)。ここには、エリコの町の人々とザアカイとの関係が描き出されています。人々と良い関係があったなら、背が低い彼を前に出してくれて、見えるようにしてくれる人がいたでしょう。でもそうする人は一人もいなかった。いやむしろ「あんなやつに見せてやるもんか」という人々の思いが伝わってきます。彼はそのように人々に嫌われ、交わりから「失われたもの」だったのです。彼自身もそのことを自覚しており、人々の好意などもはや期待してはいません。「それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである」(4節)。人には頼らない、自分で何とかする、という彼の姿勢がここに現れています。彼はこれまでずっとそうやって生きてきたのです。人々に恨まれ、嫌われながら、その孤独の中で、自分の力で人生を切り開いてきたのです。徴税人になったからそうなったと言うよりも、そのように生きてきた結果として徴税人になったのではないでしょうかのか。わざわざそう書かれてあるくらいですから、彼の背はかなり低かったのでしょう。そのハンディのゆえに人々から馬鹿にされ、差別されてきたのでしょう。自分を馬鹿にしていじめる人々に反発して、彼らを見返して、より強い立場に立とうとして徴税人になったのかもしれません。自分をいじめる人に対抗して、自分の力で必死に人生を切り開いてきた彼は、その結果神に背く罪に陥り、人を傷つけ、その結果人に恨まれ、嫌われ、自分も人に対して心の扉を閉ざして、孤独な日々を送っていたのです。
いちじく桑の木に登ったザアカイ
その彼がイエスを見たいと思って、出かけた。そこに、彼が決して幸せだとは思えていないことが現れています。人より豊かに暮らすことができているけれども、「このままで満足」とは思えない、何かが欠けている、という思いがあったのです。寂しさがあったのです。徴税人の友となっているというイエスがこの町を通っていくことを聞いた時、その寂しさが突然意識されて、居ても立っても居られなくなったのです。彼に欠けているもの、彼の寂しさの原因は、自分を迎え入れてくれ、信頼して共に生きることができる友がいないことでした。そんなものはいらない、と思って生きてきた彼でしたが、そこには深い悲しみ、寂しさがあったのです。彼がそれを自覚していたかどうかは分かりません。しかし自分でもよく分からない思いにつき動かされて、彼は走り出し、いちじく桑の木に登ったのです。しかし木の上から群衆に妨げられずにイエスを見ようとした彼は、それ以上のことを願ったり期待していたわけではないでしょう。自分もイエスの友になりたい、と思っていたのではありません。イエスとはどんな人かを、木の葉の陰からそっと見ようとしていただけです。イエスが自分に気づくことはなく、そのまま通り過ぎて行ってそれでおしまい、そしてまた以前と同じ日常が続いていくと思っていたのです。イエスと自分との間に関係が生まれることなど、あり得ないし、そんなことを望んでもいなかったのです。
「失われたもの」である私たち
これが、いちじく桑の木に登ったザアカイです。このザアカイこそ「失われたもの」です。そしてそれは私たちの姿です。私たちは、それぞれにいろいろな苦しみ悲しみをかかえて生きています。人との比較の中で劣等感にさいなまれることがあります。何とかそれを乗り越えて、自分のプライドを守ろうとしてあくせくしているうちに、人との関係がおかしくなり、人と共感し、共に歩むことができなくなっていきます。自分のプライドを守ろうとすることによって私たちは人を愛することができなくなり、傷つけてしまうようになるのです。それがザアカイの陥った罪であり、私たちもその罪に陥っています。愛することができなくなると、愛されることもできなくなり、孤独に陥っていきます。ザアカイが抱えていた寂しさを、私たちも感じているのです。その寂しさ、満たされない思いの中で私たちも、イエス・キリストのことを耳にします。罪ある者、苦しんでいる者、悲しんでいる者の友となって下さる救い主イエスのことを聞くのです。そして、そのイエスとはどんな方なのか見てみたいと思うのです。私たちが教会に足を向けるのはそういう思いからではないでしょうか。しかしその私たちは、いちじく桑の木の上から、イエスが通り過ぎるのを見ようとしているのです。ちょっと覗いて見ようとしているだけで、イエスと自分の間に関係が生まれるとは思っていないし、そんなことは望んでもいないのです。イエスを遠くから少し見ることが自分の生活に何かの糧になればと思っているのです。つまり自分の力でどうにかして生きていこうとしながら、主イエスを見ることが何かの足しになれば、と思っているのです。それが「失われたもの」の姿です。初めて教会に来た人がそうだ、というだけではありません。洗礼を受けてクリスチャンとなり、礼拝をしている私たちもそうであることが多いのではないでしょうか。自分の人生、自分の力で生きていくしかない、そのための何らかの支えや助けを主イエスから得たいと思っている。しかし主イエスと自分との間に真実な出会いと交わりが生まれることは、つまりそれによって自分が大きく変えられることは期待もしていないし願ってもいない。そういう私たちこそが「失われたもの」なのです。
押しかけて来て居座る主イエス
主イエスはザアカイのいる木の下で立ち止まり、彼を見上げて、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と語りかけました。「そこの木の上の人」ではありません。「ザアカイ」と彼の名を呼ばれたのです。このことを私たちも体験します。ちょっと覗いて見るだけのつもりで、主イエスとの交わりが生まれることなど望んでいなかったのに、主イエスは私の名前を呼んで、私に向かってまっすぐに語りかけて来られるのです。そして「急いで降りて来なさい」とおっしゃる。それは、離れた所から見ているだけではなくて、私のところに来なさい、私の前に立ちなさい、ということです。そしてそれと共に「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃるのです。「今日あなたの家に泊めてもらえないだろうか」ではありません。ここは聖書協会共同訳では「今日は、あなたの家に泊まることにしている」と訳されています。「泊まりたい」という願いではなくて、「必ずそうする、そうすることにしている」という強い意志の表明です。主イエスは私たちの意向を尋ねたりはなさらず、押しかけて来るのです。「泊まる」は「留まる」という言葉です。私たちのところに押しかけて来て、居座るのです。ザアカイにとっても私たちにとってもそれは、全く期待していなかった、びっくりするようなことです。しかしそれは、期待していなかった、びっくりするような喜びです。「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」(6節)。主イエスが「今日泊めて欲しいのだがあなたの都合は?」と言われたなら、彼はいろいろな理由をつけて断ったでしょう。そうしたらこの喜びななかったでしょう。私たちは基本的に、自分の中に主イエスを迎え入れようとはしないのです。「離れた所から見ているだけでいいです」というのが私たちの思いです。主イエスはそのような私たちのところに押しかけて来て、居座るのです。主イエスが「失われたものを捜して救うために来た」というのはそういうことなのです。
今日救いがこの家を訪れた
押しかけて来て、共にいて下さる主イエスを喜んで迎えたことによってザアカイは、自分を迎え入れてくれる友がいない寂しさ、孤独を癒されました。それによって彼の生き方も変わりました。8節に語られているのは、彼が人を愛することができる者、人と共に生きることができる者へと変えられたということです。主イエスが押しかけて来て友となって下さり、その愛を受けることによって私たちは、人を愛し、人と共に生きる者へと新しくされるのです。そこに「今日、救いがこの家を訪れた」ということが実現するのです。
失われたものである私たちを捜して救って下さるために、主イエスは私たちのところに押しかけて来て下さり、共にいて下さる。その喜びを、私たちは毎週の礼拝において味わっています。その主イエスがあなたのところにも来て下さり、あなたを捜し出して救って下さる、と人々に伝えていく伝道のために、この秋、用いられていきたいのです。