説教 「この名のほかに救いはない」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 詩編第118編22-25節
新約聖書 使徒言行録第4章1-22節
最初の迫害を引き起こす
使徒言行録を読み進めて本日から第4章に入ります。と言っても、4章から新しい話が始まるのではありません。3章1節から語られてきた出来事の続きが記されています。3章を簡単に振り返ると、ペトロとヨハネが神殿の門のそばで、生まれながら足の不自由な男を癒しました。その癒しの奇跡を目の当たりにした民衆は驚き、神殿の「ソロモンの回廊」と呼ばれている所にいたペトロとヨハネの方へ殺到しました。そこでペトロは民衆に向かって説教を語ったのです。これまで私たちは、この出来事に単にペトロとヨハネ個人の働きを見てきたのではありませんでした。むしろ二人の働きを通して教会の姿を見てきたのです。そこには、聖霊が降りペンテコステに誕生したばかりの教会が力強く伝道する姿が見つめられていました。本日の箇所の4節に「二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」とあります。「二人の言葉」とは、ペトロが代表して語った説教のことであり、別の言い方をすれば教会が語った言葉です。五千人という人数が正確なのかは分かりませんが、教会の語る言葉を聞いて多くの人たちが信じたのです。誕生したばかりの教会の伝道が順調に進んでいる様子が窺えます。しかしそれは同時に、急激にキリスト教会の存在感が増してきた、教会の働きが目立ってきた、ということでもあります。そうなると教会に対する反発も起こってきます。実際3章の出来事が、キリスト教会に対する最初の迫害を引き起こします。本日の箇所では、このことが語られています。
逮捕の理由
キリスト教に対する最初の迫害は、と言っても迫害という程のものではなく、妨害と言ったほうが良いかもしれませんが、その妨害は、神殿で民衆に説教を語っていたペトロとヨハネの逮捕でした。1節以下でこのように語られています。「ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた」。ペトロとヨハネを逮捕した人たちの中に「サドカイ派の人々」が含まれています。当時のユダヤ教は幾つかの派に分かれていましたが、その中で代表的なのがファリサイ派とサドカイ派でした。「サドカイ派」については、聖書の後ろにある付録の用語解説にも説明があります。そこには「サドカイ派」が、「祭司や上流階級を代表していた」こと、「ファリサイ派と対立」していたこと、「霊や天使や復活を否定した」ことが記されています。サドカイ派が祭司を代表していたということは、彼らが基本的にエルサレム神殿を中心に活動していたということです。神殿の秩序を守るのが大事な務めでしたから、ペトロとヨハネが「ソロモンの回廊」で大勢の民衆に向かって説教をしたことは、神殿の治安維持の観点からも看過できない事態であったと思います。しかし彼らが「いらだち」、二人を逮捕した最大の理由は、そのことにあったのではありません。「イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち」とあるように、復活を否定しているサドカイ派の人たちは、ペトロとヨハネが、イエスが死者の中から復活したと宣べ伝えていることに憤り、二人を逮捕しました。キリスト教会に対する最初の迫害、妨害の理由は、教会が主イエス・キリストの復活を宣べ伝えたことにあったのです。
教会は十字架と復活を宣べ伝える
先ほど4節を見ました。「二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」とありました。ここで注目すべきは、「二人が行った癒しの業を見て信じた人は多く」とは言われていないことです。確かに民衆は、ペトロとヨハネが生まれながら足の不自由な人を癒したことに驚きました。しかしそれで信じたのではありません。ペトロが語った説教を聞いて信じたのです。その中心は、神様が十字架で死なれたイエスを死者の中から復活させたことです。民衆はキリストの十字架と復活を告げるペトロの言葉を聞いて信じたのです。教会は誕生したその時からキリストの十字架と復活を宣べ伝えてきました。そして教会が最初の迫害、妨害に直面したのも、十字架と復活を宣べ伝えていたためです。誕生したその時から、教会がキリストの十字架と復活をこの世の人々に宣べ伝えることは、この世の人々の反発を生み出し、時には激しい迫害を生み出すことがあるのです。
最高法院
誕生したばかりの教会は、この妨害に直面して、その伝道が停滞したのでしょうか。5節以下では、そうではなかったことが語られています。冒頭5節に「議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった」とありますが、これはユダヤ教の議会が開かれた、ということです。15節に「二人に議場を去るように命じてから」とありますが、「議場」と訳された言葉が、「議会」という言葉で、使徒言行録の著者ルカが第一巻として書いたルカによる福音書では「最高法院」(22:66)と訳されていました。最高法院は、大祭司が議長となり、祭司と律法学者と長老の中から選ばれた70人の議員で構成されるユダヤ教の最高議会でした。そこには大祭司一族が集まったとも6節に記されています。カイアファはその時の大祭司ですから、最高法院の議長であったはずです。アンナスはカイアファのしゅうとで、カイアファの前の大祭司でした。ヨハネやアレクサンドロについて確かなことは分かりません。いずれにしても錚々たる顔ぶれが揃った最高法院で、ペトロとヨハネは裁判にかけられたのです。
かつて主イエスが裁判にかけられた場に
しかしペトロとヨハネにとって、このことは単に自分たちが逮捕され、最高法院で裁判にかけられる、ということに留まりませんでした。何故ならほんの二ヶ月ほど前に、主イエスが同じ最高法院で裁判にかけられたからです。議長はやはり大祭司カイアファでした。そのとき、ペトロとヨハネはその場にいたわけではありません。その前に、主イエスを見捨てて逃げ出してしまったからです。ペトロは主イエスが連行された大祭司の家まで隠れてついて行きましたが、しかしそこで、三度「イエスのことを知らない」、「自分はイエスとは関係ない」と言って、主イエスを拒みました。そのように主イエスを裏切り、見捨て、逃げ出してしまった自分たちが、今、かつて主イエスが裁判にかけられたのと同じ最高法院の場に立たされている。あのときは逃げ出してしまったけれど、今は逃げずに立っている、ペトロとヨハネはそのような思いを持って、この場にいたのです。
最高法院における対立
議員たちは二人を真ん中に立たせると、このように尋問しました。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」。「権威」と訳されている言葉は、ここでは「力」や「能力」と訳したほうが良い言葉です。議員たちは二人に、「お前たちが、生まれながら足の不自由な人を癒したのは、何の力によってなのか、誰の名によってなのか」と問い質したのです。この尋問に対して、私たちは疑問を感じるのではないでしょうか。何故なら二人が逮捕された理由は、彼らが「イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えて」いたことにあったからです。そうであるなら、「お前たちは、何故、イエスの復活を宣べ伝えているのか」と問い質すべきです。しかし議員たちはそのように尋問しませんでした。その背景には、最高法院を構成する議員たちの間の見解の不一致がありました。すでに見たように、二人の逮捕はサドカイ派の人たちが中心となって行われました。復活を認めないサドカイ派にとって、死者の中からの復活を宣べ伝えることは、許容できないことであったからです。ところがファリサイ派は、サドカイ派と違って復活を認めていました。そして最高法院の構成メンバーにはファリサイ派もサドカイ派もいたのです。5節でそのメンバーとして挙げられていた「律法学者」の多くは、ファリサイ派に属していたと考えられます。だから逮捕の理由は、主イエスの復活を宣べ伝えたことであったにもかかわらず、実際、最高法院の場で尋問された内容は、それとは異なる、「何の力によって、誰の名によって癒しを行ったのか」であったのです。この内容であれば、ファリサイ派の議員もサドカイ派の議員も対立することなく尋問できたからです。
この尋問に対するペトロの答えが8節以下で語られていますが、その9節で、ペトロはこのように言っています。「今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば……」。このペトロの答えは、「何の力によって、誰の名によって癒しを行ったのか」という尋問に対して、回りくどい答えのように思えます。しかしペトロはここで最高法院における対立を見抜いた上で、「主イエスの復活を宣べ伝えたことで逮捕されたはずなのに、そのことについて取り調べを受けるのではなく、病人が何によって癒されたかについて取り調べを受けている」、そのことのちぐはぐさを指摘しています。ペトロは逃げることなく、しかも冷静に現状を見極めつつ、この場に立っていたのです。
神がイエスを死者の中から復活させた
その上でペトロは10節後半でこのように語ります。「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」。尋問の内容が、「何故、イエスの復活を宣べ伝えているのか」ではなく、「何の力によって、誰の名によって癒しを行ったか」に変わっても、ペトロが語ることは一貫して変わりません。神様が死者の中から復活させられたイエス・キリストの名がこの人を癒した、と語ります。それは、単に身体的な癒しだけを見つめているのではありません。癒された人が神様を賛美した、と語られていたように、この癒しの出来事は、キリストの十字架と復活による救いにあずかることによって、神様を賛美し、神様に感謝して生きる者へと変えられ、新しく生き始めることを見つめているのです。かつてまさにこの議員たちが、最高法院でイエスは死刑に当たると判断し、ピラトのもとに連行することで、イエスを十字架に架けて殺しました。しかし神様はそのイエスを死者の中から復活させてくださいました。復活し、天に昇られ、今も生きて働かれる主イエス・キリストがこの人を救ったのです。
ペトロは続く11節で、このことが旧約聖書で指し示されていたことを語っています。「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です」。共に読まれた詩編118編22節が引用されています。「家を建てる者」とは、家を建てる専門家のことであり、その専門家が捨てた石が「隅の親石」、つまり家を建てるときの要の石となった、と言われています。それは、最高法院の議員たちに代表されるユダヤ教の宗教指導者たちが拒み、十字架に架けて殺したイエスを、神様が死者の中から復活させることによって、新しい神の民である教会の要とし、基としてくださったことを指し示していたのです。
この名のほかに救いはない
そしてペトロは12節でこのように宣言します。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。主イエス・キリストによってしか救いは得られない。私たちが救われるべき名は、天下に主イエス・キリストの名のほか、人間には与えられていない。こう宣言したのです。教会が語るべきことは、突き詰めれば、このことだけです。誕生したその時から今に至るまで、教会はこのことだけを語ってきました。私たちの救いは、主イエス・キリストにしかない。その十字架と復活によってしか、私たちは救われないのです。
十字架と復活によって救われ、生かされているから
しかし教会がこのことを語ることは、特に現代にあって、評判が悪いことであるかもしれません。世の中には色々な救いがあるけれど、その中で教会は主イエス・キリストによる救いを語る、というのであれば何の問題もないでしょう。しかし私たちの救いは、主イエス・キリストのほかにはない、と語るのは排他的過ぎるように思えます。そのような排他的な主張が、今も世界で起こっているような宗教的な対立を、そして戦争を生み出している、と言われたりもします。確かにキリスト教会の歴史の中で、12節のみ言葉などを根拠として、ほかの宗教を批判し、攻撃することがありました。私たちはそのことを忘れてはならないし、悔い改めなくてはなりません。しかしこのペトロの言葉を、ほかの宗教を攻撃するために用いるのは、そもそもこのみ言葉の読み方として間違っています。別の言い方をすれば、ペトロの想いからまったく離れてしまっているのです。
ペトロは自分の思想信条を叫び、ほかの思想信条を攻撃しようなどと思っているわけではありません。では、ペトロはどのような想いでこのことを告げたのでしょうか。今、ペトロは、かつて主イエスが裁判にかけられたのと同じ最高法院の場に立たされています。かつてペトロは主イエスが裁判にかけられる前に、主イエスを裏切りました。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカによる福音書22:33)と言っていたのに、あの大祭司の家の中庭で、「自分は主イエスなんか知らない」、「自分は主イエスなんかとは関係ない」と、三度主イエスを拒み、裏切ったのです。ペトロの「死んでも構わない」という覚悟や決意は、あっという間に打ち砕かれ、彼は自分の無力さに、自分の罪に打ちのめされました。自分の力では決して立ち直ることのできない深い失意の中にあったのです。しかしそのペトロに、復活した主イエス・キリストが出会ってくださり、その罪を赦して救ってくださり、深い失意の中でうずくまるしかなかったペトロを立ち上がらせてくださったのです。それは、あの生まれながら足の不自由な男にも起こったことです。本日の終わりの22節に「このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた」とあります。生まれてから四十年以上に亘った苦しみは、彼に深い絶望をもたらしたに違いありません。しかしイエス・キリストの名が、復活して今も生きて働かれる主イエス・キリストご自身が、彼を立ち上がらせ、神様を賛美して生きる者へと変え、新しく生かしたのです。ペトロは、自分の覚悟や決意が木っ端微塵に砕かれたその先で、主イエス・キリストを死者の中から復活させた神の恵みによって救われ、新たに生かされました。そして今、この場に立っています。あのときは逃げてしまったけれど、キリストの十字架と復活によって、今は逃げずに、冷静に立つことができている。だからペトロは、私たちの救いは主イエス・キリストにしかない、と告げるのです。自分自身がキリストの十字架と復活によって救われ、生かされているから、私たちはキリストの十字架と復活によってしか救われない、と告げている、そう告げずにはいられなかったのです。
語らずにはいられない
最高法院が下した結論は、16節にあるように、ペトロとヨハネの行った癒しが、すでに「エルサレムに住むすべての人に知れ渡って」しまったので「否定することはできない」が、「これ以上民衆の間に広まらないように」、今後イエス・キリストの名によって誰にも話さないように、二人を脅す、というものでした。そしてペトロとヨハネに、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」命令したのです。しかしこの命令に対しても、二人は19、20節でこのように答えています。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」。話すな、教えるなと言われても、見たことや聞いたことを話さないではいられない。12節の「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」とは、「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられない」ということでもあります。私たちを救うために主イエス・キリストが十字架で死んで、復活されたことを語らないでいることができない、語らずにはいられない、ということなのです。
教会の伝道の根底にあるのは、あるいは教会の伝道の推進力は、このことにあります。教会は、ほかの宗教を攻撃するためではなく、教会に連なる者たちを、つまり私たちを救い、新しく生かしている、キリストの十字架と復活による救いを語らずにはいられないから、ただ語り続けていきます。主イエス・キリストによってしか救いは得られない。私たちが救われるべき名は、天下に主イエス・キリストの名のほか、人間には与えられていない、と語らずにはいられないのです。教会が語ることを聞いた方々が、それをどのように受けとめるかは、私たちには分かりません。私たちが相手を説得しようなどと思うなら、それこそ自分の正しさを振りかざし、ほかの宗教を批判、攻撃することへとつながっていきます。人々が教会の語ることをどのように受けとめるかは、神様に、聖霊のお働きに委ねれば良いのです。教会は、私たちは、ただ自分たちを救い、生かしている、イエス様というお方を、人々に紹介せずにはいられないから、紹介していくだけなのです。
聖霊とキリストの働きによって
しかしその中で、「決してイエスの名によって話すな」と脅されることが起こらないとは限りません。今、私たちが生きている社会は、憲法によって思想信条の自由が保障されていますから、公然とそのような脅しを受けることはないでしょう。しかし将来もそうであるとは限りません。いえ、今であっても、私たちは、もう主イエスによる救いを語らないほうが良いかなと、もうイエス様を紹介するのはやめよう、と思ってしまうことがあります。勇気を出して、家族や友人や知人に、イエス様を紹介してみたのに、冷たい反応が返ってきて、心に深い傷を負うことがあります。紹介せずにはいられないと思っていても、いざ紹介してみて傷ついてしまうと、もう紹介するのはやめよう、と思ってしまうのです。13節には「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見」とありますが、ペトロとヨハネは特別だから、使徒だから、大胆に、堂々と語れるけれど、私たちには難しいと思わずにはいられないのです。
けれどもペトロやヨハネが大胆に、堂々と、私たちの救いは主イエス・キリストにしかない、と語ることができたのは、彼らが特別だったからなのでしょうか。私たちよりもしっかりした決意や覚悟、精神力を持っていたからなのでしょうか。そうであるはずがありません。ペトロは誰よりも、自分の決意や覚悟、精神力なんて何の役にも立たないことを知っていました。ペトロがキリストの十字架と復活を語らずにはいられなかったのは、それによって自分自身が救われ、生かされているからだけでなく、根本的に聖霊のお働きによるものです。だから8節に「ペトロは聖霊に満たされて言った」とあるのです。聖霊のお働きによってこそ、教会は、私たちは大胆に、堂々と、キリストの十字架と復活による救いを語ることができるし、それを語らずにはいられないのです。
さらに言えば、14節に、最高法院の議員たちは「ひと言も言い返せなかった」とあります。これはルカ福音書21章15節の、「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」という主イエスの約束の実現です。そうであれば主イエスご自身が、復活して今も生きて働かれる主イエスご自身が、ペトロとヨハネに、そして私たちに、キリストの十字架と復活を語る言葉を、イエス様を紹介する言葉を授けてくださるのです。だから教会は、今も生きて働かれるキリストに信頼し、聖霊のお働きに信頼して、私たちを救い、生かしている、キリストの十字架と復活による救いを語り続けていきます。主イエス・キリストによってしか救いは得られないと、私たちが救われるべき名は、天下に主イエス・キリストの名のほか、人間には与えられていない、と語らずにはいられないのです。
