「弱い者を助ける」 牧師 藤掛 順一
・ 旧約聖書; エレミヤ書、第7章 1節-11節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第20章 33節-38節
・ 讃美歌21; 4、122、540、聖歌隊 148-4
パウロの伝えた主イエスの言葉
本日この礼拝においてご一緒に読む聖書の箇所、使徒言行録20章33節以下には、「受けるよりは与える方が幸いである」という、聖書の中でもよく知られている、印象深い言葉が出てきます。この言葉に心を揺り動かされた経験を持つ人は多いのではないでしょうか。聖書の中に沢山ある「珠玉の言葉」の一つであると言えます。これは主イエス御自身が語られた言葉だと35節にあります。しかしこの言葉は福音書には出てきません。使徒言行録のこの箇所にのみ語られているのです。これを伝えているのはパウロです。パウロが伝えている主イエスの言葉はこれ一つです。本日はこのみ言葉を深く味わっていきたいと思います。
パウロの模範
本日の箇所は、パウロが、第三回伝道旅行の終わりに、ミレトスという港に寄港した時に、彼が三年に亘って指導してきたエフェソの教会の長老たちを呼んで語った告別説教の終わりの部分です。もう二度と彼らに会うことはできない、という覚悟の下でパウロは、長老たちに今後の教会の指導を託すに当って、教会とはどのようなものであるかを述べ、教会の指導者は何に気をつけ、どのように指導していくべきかを切々と語ったのです。先週も申しましたように、使徒言行録の一つのクライマックスがここにあります。その説教を私たちは三回に分けて読んできたのですが、気付かされることは、パウロはここで単に、教会とはこういうものだからこのように指導されなければならない、という教えを語っているのではない、ということです。むしろ彼は、自分自身の姿、自分が教会を指導してきたその働きを模範、手本として示し、それに倣うようにと命じているのです。本日の33節以下はまさにそうです。彼はここで、エフェソでの自分の働きの様子を思い起こさせています。そしてその流れの中で、35節のあの主イエスの言葉が語られているのです。ですからここでパウロは、ただ主イエスがこう言われた、と言っているのではなくて、「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました」と言っています。つまりこの主イエスの言葉はパウロにとって、まさに自分がそのように生きている、彼自身の生活の中に形を取っている、パウロ自身の生き方そのものなのです。
それゆえに私たちはこの言葉を、聖書が教えている、印象深いけれどもなかなか実行することは難しい教訓、として読んで、それで終わりにしてしまってはなりません。私たち自身の日々の具体的な生活の中に、このみ言葉が形を取って現れていかなければならないのです。これが私たち自身の生き方にもなっていくことが求められているのです。教会全体がそのように生きる群れとなるように導くことを、パウロは指導者たちに求めているのです。私たち自身がこのように生きる者となり、教会がそのような群れとなっていくために、私たちは先ず、パウロが示している模範を、パウロの生活の中にこのみ言葉がどのように形を取って現れているのかをしっかり見つめていきたいのです。
自分で働く
パウロは33節で、「わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません」と言っています。その意味は34節にあるように、「わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです」ということです。これが、パウロが示した模範です。つまりそれは、人の世話にならず、自分の生活費は自分で稼ぐ、ということです。パウロは伝道をしていくに際して、このことを基本的な姿勢としていました。私たちはこのことを既に、使徒言行録の18章において読みました。そこには、コリントにおいて、彼が当初、テント造りの仕事をして生活費を稼ぎながら伝道していたことが語られていたのです。このようにパウロは、人の世話になるのではなく、自分で稼いで生活することを大切なこととし、それを教会の人々にも教えました。テサロニケの信徒への手紙二の3章6?12節にも、そういう勧めが語られていますので、そこを読んでみます。(382頁)「兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」。ここにも、自分で働いてパンを得ることの大切さが語られており、そのような自分の姿を模範としなさいと言われています。ところで今読んだところの10節に「働きたくない者は、食べてはならない」という、これまたよく知られた言葉があります。「働かざる者食うべからず」という教えです。勘違いをしないようにしなければなりません。この教えは、自分で働くことができるのに、怠惰な生活をし、人の世話になってばかりいることを戒めているのであって、労働力を提供できない者は生きている資格がない、ということではありません。そうでないことは、パウロが自ら示している模範から分かります。先ほど読んだ34節に、自分自身の生活のためにのみでなく、共にいた人々のためにも働いた、とあります。パウロが示した模範のポイントはこの「共にいた人々のためにも」というところにあるのです。パウロは、自分が人の世話にならないためだけではなく、共にいる人々のためにも働いたのです。共にいる人々とは誰でしょうか。それは次の35節からわかります。そこには、「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように」と身をもって模範を示した、と語られています。共にいた人々とは、弱い者、支え、助けを必要としている者たちのことです。つまり、自分で働いて生活していくことができない者たちです。パウロはその人々のためにも働いたのです。つまり、自分で働くことの目的は、自分が人の世話にならないことのみにあるのではなく、むしろさらに進んで、弱い者を助けることにこそあるのです。働ける者がしっかり働いて弱い者を助ける、という模範をパウロは示したのです。
弱い者とは
「弱い者を助ける」とは、私たちにおいてはどのようなことでしょうか。いろいろなことが考えられるでしょう。文字通り肉体の弱さ、あるいは障碍のゆえに、自分の力だけで生きていくことができない人のために、教会の仲間たちが助け合い、支え合っていく、ということもその一つです。あるは旧約聖書以来、保護されるべき社会的弱者、経済的拠り所を失った人々の代表として、孤児と寡婦(いわゆるやもめ)があげられています。そのような人々を支えるために、信者たちが献げた物を分配するということを、教会はごく初期から行なってきました。使徒言行録第6章において、7人の奉仕者が選出されていますが、この人々が託された働きは、そのような人々への分配の働きでした。そこに、教会における執事職の起源があると考えられるのです。教会に執事が立てられているのは、弱い者を支え助けるという働きが教会において整えられていくためなのです。また、聖書が、「助けを必要としている弱い者」として見つめている人々の中に、「寄留の他国人、寄留者」がいます。今日の私たちの社会においてはそれは「在日外国人」です。今そういう人々が大変多くなってきています。先日、在日韓国人の方々の教会である在日大韓基督横浜教会と教団の横浜地区との合同の集会が持たれましたが、そこで教えられたのは、今の日本の社会、また法律は、在日外国人が人間らしく生活する権利を著しく制限しており、諸外国と比べてもその状況はひどい、ということでした。私たちはそのようなことにも目を向けていかなければならないでしょう。私たちが支え助けるべき「弱い者」は私たちの周りに、いろいろな形で沢山います。働ける者が勤勉に働いて、経済的にも、具体的奉仕においても、弱い者を助け、支えていくことが、教会の、先週読んだみ言葉で言えば、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」の、あるべき姿であるということを、パウロは身をもって示したのです。
信仰の弱い者
けれども、パウロが「弱い者」という言葉で考えているのは、体の弱い者、社会的な立場が弱い者、経済的に貧しい者、というだけのことではありません。ここには、「信仰の弱い者」という意味も含まれています。彼が、伝道において、人の世話にならず、自分で生活費を稼ぐことを基本的な姿勢としていたのも、実はこの「信仰の弱い者」のつまずきを防ぐことが主な理由だったのです。彼のその思いは、コリントの信徒への手紙一の9章3節以下に語られています。そこを読んでみます。(310頁)「わたしを批判する人たちには、こう弁明します。わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。モーセの律法に、『脱穀している牛に口籠をはめてはならない』と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます」。ここに語られているのは、まず第一には、福音を宣べ伝え、み言葉を語っている者が、それを聞く人々から報酬を受け、それによって生活をするのは当たり前であり、それは神様によって与えられている当然の権利だ、ということです。しかしパウロは、12節の後半にあるように、この当然の権利を行使せず、自分の生活費を自分で稼ぎながら伝道をしているのです。それは、「キリストの福音を少しでも妨げてはならない」という思いからです。神様によって認められている当然の権利を行使することが、キリストの福音の妨げとなることがあり得るのです。なぜそうなるかというと、それは、人々の信仰がしっかり確立していないからです。弱い信仰だからです。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいるか、羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいるか、律法にも、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」とあるではないか、だから伝道者がその働きの報酬を受けることがあってもよいのだ、という当然のことを受け止めることのできない、信仰の弱い人がいるのです。そのような信仰の弱い人をつまずかせないように、パウロは、自分の当然の権利を放棄して、生活費を自分で稼ぎながら伝道していたのです。つまり彼が自分で働いていたのは、働いて得たお金で貧しい人を助けるためと言うよりも、根本的には、信仰の弱い人をつまずかせないためだったのです。だから、あのコリント伝道において、他の教会、具体的にはフィリピの教会からの援助を受け取った後は、働くことをやめて伝道に専念するようになったのです。今いる教会の人々に負担をかけずに伝道ができるならば、その人々につまずきを与える心配がないのですから、自分で働くことにこだわる必要はなかったのです。このようにパウロが示した模範、パウロの生き方の中心にあるのは、「信仰の弱い者のつまずきとならないために、自分の当然の権利をも放棄する」ということです。そのことは、コリントの信徒への手紙一の第8章にも示されています。そこに語られているのは、いったん偶像の神々への供え物とされた肉を食べてもよいかどうか、という問題ですが、これも実は強い信仰と弱い信仰という問題なのです。人間の造った偶像など、神でも何でもないのだから、それに供えられたと言っても、ただその前にしばらく置かれたに過ぎない。だから普通の肉を食べるのと何も違いはない、というのが、信仰が確立した強い人の考えです。信仰はそのように、人間の様々な迷信から私たちを解放し、自由にするのです。しかしパウロはそのことを認めつつ、8章9節で、「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と言っています。確かに、信仰がしっかり確立した者から見れば、偶像に供えられた肉を食べてもどうってことはない。しかし、まだ信仰の弱い人が、あなたのそのような姿を見た時に、つまずきを覚えてしまい、その信仰が動揺させられてしまうことがあるのだ、というのです。そして8章11節以下で彼はこう言っています。「そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」。信仰の弱い兄弟をつまずかせないために、自分の自由を、当然の権利を放棄する、それが、パウロの生き方なのです。自分で稼ぎながら伝道したのもそのためだったし、「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるようにと身をもって模範を示した」というのも、働いて得たお金で弱い者を助けなさい、というだけのことではなくて、その根底には、私がそうしたように、弱い者を支え助けるために、自分の自由や権利を放棄する生き方を身に付けてほしい、という思いがあるのです。「受けるよりは与える方が幸いである」という主イエスのお言葉は、このような意味で語られています。つまりここでの「与える」ということの意味は、単に物やお金を援助する、支え助ける奉仕をする、ということに止まるのではなく、むしろ第一には、弱い者のために配慮し、そのためには自分の自由や当然の権利を行使することをもさし控える、ということなのです。
「与える」とは?
このことを見つめていくならば、私たちはこのよく知られた言葉を、多くの場合全く誤解して受け止めているということが分かってきます。「受けるよりは与える方が幸いである」、という言葉を、私たちはたいてい、その通りだと思っているのです。人から何かをもらうよりも、人に何かをあげることの方が気持ちがよい、ということを、小さな子供ならいざ知らず、大人になった私たちは皆知っているからです。けれどもそのように考える時に、私たちはその「与える」という言葉で、自分の自由や、自分が当然行使してよいはずの権利を、弱い人のために放棄し、がまんする、などということは夢にも思っていません。しかしパウロが示している模範によって示される、主イエスのみ言葉の意味はそういうことなのです。「与える」とは、自分の自由や、当然の権利を放棄することです。自分の自由に固執していくなら、本当の意味で人に与えることはできないのです。また自分の当然の権利、それは言い換えれば、自分が当然受けてよい誉れや誇りでもあります。それを捨てることが「与える」ことです。自分はこれこれの地位にあるのだから、尊敬を受け、重んじられて当然だ、という思いを捨てることです。あるいは、これこれのことをしてやったのだから、これくらいの感謝、賞賛を受けてもよいはずだ、という思いを捨てることです。つまり、自分を全く取るに足りない者とすること、それこそが「与える」ことなのです。パウロがエフェソ教会において示した模範は、この説教の19節の言葉で言うならば、「自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました」ということでした。「受けるよりは与える方が幸いである」の「与える」とは、このようなことなのです。そのように「与える」ことにこそ、本当の幸いがある、とこのみ言葉は語っているのです。私たちは、パウロが言っている意味での、「与える」ことの幸いに生きているでしょうか。人に親切にしたり、何かを与えることによって、いい気持ちになり、優越感を感じる、というのは、実は与えているのではなくて受けていることです。自分の自由にこだわり、権利が少しでも侵害されることは決して許さない、自分の正当な権利を主張して何が悪い、という姿勢でいるということは、「受けよう受けよう」としていることなのです。そのような生き方においては、「与える」ことの幸いに生きることができません。弱い者を利用して自分が気持ちよくなることはできても、本当の意味で弱い者を助けることはできないのです。
本当の幸い
ですから、「受けるよりは与える方が幸いである」という教えは、決して当たり前のことではありません。その幸いは、「その方が気持ちがよい」ということではないのです。それでは、その幸いは何によるのでしょうか。受けるよりは与える方が幸いであるのは何故なのでしょうか。そのこともまた、この言葉を伝えているパウロの姿から知ることができるでしょう。パウロ自身が、この幸いに生きているのです。だから、自分を見ればその幸いが分かる、と言っているのです。パウロの幸いとは何でしょうか。それは一言で言えば、主イエス・キリストと共にあることです。彼はフィリピの信徒への手紙の3章8節で、「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」と言っています。主イエス・キリストを知ること、主イエスと共に生きることの何ものにも替え難いすばらしさ、それこそがパウロの得ている幸いです。主イエス・キリストは、私たちのために、まさに受けるのではなくて与えて下さった方です。神様の独り子としての自由と権利を放棄して下さったのです。神の子として当然受けるべき誉れや栄光を捨てて、貧しい一人の人間となってこの世に生まれて下さり、しかも、私たちの罪を全て背負って十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。まさに弱い者である私たちのために、私たちが滅びてしまうのでなく、生かされるために、ご自分の命を与えて下さったのです。この主イエスと出会ったことによってパウロは、受けるよりも与えることにこそある幸いを知らされたのです。この主イエスと共に生きていく中で彼は、自分の自由や権利を捨てて、弱い者の弱さを担い、自分を全く取るに足りない者と思い、主に仕えることの幸いを知らされたのです。主イエス・キリストと共に生きることには、本当の自由があります。そこには、私たちの高が知れた権利を主張することよりも、人間のちっぽけな誉れを求めることよりも、人に対するささやかな優越感にひたることよりも、はるかにすばらしい、本当の幸いがあるのです。パウロの模範に従って、私たちも、主イエス・キリストと共に、「受けるよりは与える方が幸いである」という本当の幸いに生きていきたい。私たちの周囲に様々な形でいる、弱さを負った人々を助けるために、自分の自由や権利の行使をさし控えていくことができる、本当に自由な、本当に謙遜な生き方を身に付けていきたいのです。