「神の前に立つ」 牧師 藤掛 順一
・ 旧約聖書; イザヤ書、第9章 1節-6節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第10章 1節-33節
・ 讃美歌 ; 229、170、432
ヤッファからカイサリアへ
本日この礼拝のために与えられている聖書の個所、使徒言行録第10章1節以下には、二つの町の名前が出てきます。ヤッファという町と、カイサリアという町です。そして本日のところに語られているのは、使徒ペトロが、ヤッファからカイサリアへと、招かれて行って伝道をした、ということです。ヤッファとカイサリアは、共に地中海沿岸の町です。その位置関係については、聖書の後ろの付録の地図の6「新約時代のパレスチナ」というのをご覧下さい。両者の間の距離は、直線で50キロぐらいです。本日のところに、カイサリアからヤッファへ、そしてヤッファからカイサリアへと人が移動したことが語られていますが、いずれも、出発した次の日に到着しています。この二つの町は、当時の交通手段でも、一日の旅で着けるぐらい、近い距離にあったのです。
けれどもこの二つの町の間にある精神的隔たりは、距離とは違って非常に大きかったのです。そのことは、この二つの町の歴史をひもとくことによって分かります。ヤッファは大変古い町です。古代のイスラエルにとって、地中海に面した唯一の港町でした。ソロモンの神殿の建設に使われたレバノン杉はこの港から運び込まれたのです。また、旧約聖書のヨナ書において、ヨナが、アッシリアの都ニネベへ行けという神様の命令に背いて反対の方向へ逃げていこうとして船出したのがこのヤッファでした。そのようにイスラエルの人々にとってヤッファは、自分たちの港町として親しまれてきました。ちなみに、このヤッファの近くに、現在のイスラエルの中心都市であるテルアビブがあるのです。
それに対してカイサリアは新しい町です。ここに約十年かけて立派な港を築き、大きな町にしたのは、クリスマスの物語に出て来るあのヘロデ大王です。ローマ帝国を後ろ楯とすることによって権力を維持したヘロデは、この新しく造った大港湾都市を、カイサリアと命名しました。それは、カイサル、即ちローマ皇帝にちなんだ名称です。その名の通りこの町には、ローマ風の劇場や競技場、水道、皇帝アウグストゥスを祭る神殿などがありました。そして紀元6年以降、この地がローマ帝国の直轄領となってからは、このカイサリアに総督と軍団が駐屯して、まさにローマによるユダヤ支配の要の町となったのです。本日のところの主人公の一人であるコルネリウスという人は、「イタリア隊」と呼ばれるローマの軍隊の百人隊長でしたが、この人がカイサリアにいたのはこのような事情によるのです。
ユダヤ人と異邦人
このようにヤッファとカイサリアの歴史を見てみる時に、両者の間には大きな、越え難い精神的隔たりがあることが分かります。それは、ユダヤ人と異邦人との間の隔たりです。それゆえに、ヤッファにいたペトロが、カイサリアに行って伝道をしたというのは、一日で行ける近くの町にも伝道の足を伸ばした、というような簡単なことではないのです。ここには大きな、新しい踏み出し、出発があります。それは異邦人への伝道の開始ということです。旧約聖書の時代以来、主なる神様に選ばれ、契約の恵みを与えられ、神様の民とされてきたのはユダヤ人でした。ユダヤ人は、自分たちは神様に選ばれた民であるという強烈な自覚を持ち、他の民族のことを「異邦人」と呼んで、交際をも避けていたのです。そのことは、28節でペトロが「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」と言っている通りです。ユダヤ人と異邦人の間には、このような隔たりがあり、それは、主イエス・キリストによる救いを信じる者の群れである教会においても、そう簡単に乗り越えられるものではありませんでした。教会の信仰は、主イエスこそキリストである、と信じる信仰です。キリストとは、救い主を意味するメシアという言葉がギリシャ語に訳されたものです。そのメシアの到来を待ち望む信仰は、ユダヤ人の間で、自分たちの救い主を待ち望む信仰として培われてきたのです。主イエス・キリストはそのユダヤ人の一人としてお生まれになり、約束されていたメシア、救い主としてご自身を現わされ、十字架の死と復活によってその救いの業を成し遂げられたのです。主イエスの弟子たち、使徒たちは、この主イエスこそメシア、即ちキリストであるという信仰を与えられ、それを宣べ伝え、伝道をしていきました。しかしユダヤ人である彼らは、当初は、この救い主キリストが、伝統的に言われてきたように、ユダヤ人の救い主である、という常識からなかなか抜け出ることができませんでした。彼らが伝道の対象としていたのは基本的にはユダヤ人たちだったのです。
前進している福音
しかし、主イエスによる救いの恵みは、旧い神の民であるユダヤ人という枠を超え出て、広く与えられているものです。そのことは、既にいろいろな仕方で示されていました。復活された主イエスは、マタイによる福音書の第28章19節で弟子たちに、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」とお命じになりました。また使徒言行録の第1章8節には、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」というみ言葉も与えられていました。主イエスの福音は、ユダヤ人のみのものではなく、地の果てまで、全世界の全ての民に宣べ伝えられるべきものなのです。神様の民の範囲は、主イエス・キリストによって、今や、ユダヤ人という一つの民族から、主イエスを信じる全ての人々に、つまり教会に広げられたのです。教会こそ、主イエスによって結ばれた新しい神の民なのです。そういう新しい救いの出来事が既に始まっています。しかし弟子たちの、教会の意識は、まだその新しい事態に追い付いていませんでした。使徒たちの代表格であるペトロにしてそうだったのです。
私たちは礼拝において、使徒言行録を読み進めています。これまで読んできた所に既に、主イエスによって始まっている救いの新しい事態がいろいろな形で現わされていました。一つは、8章の前半にあった、フィリポによるサマリア伝道です。サマリア人というのは民族的には完全に異邦人というわけではありませんが、ユダヤ人にとってはある意味で異邦人以上に遠い存在、け嫌いしていた存在です。しかしそのサマリア人にも主イエスの福音が伝えられ、彼らがそれを信じて洗礼を受け、サマリア人の教会が生まれたのです。そのことを聞いたペトロとヨハネがサマリアに行き、彼らに手を置いて祈ると、サマリア人が聖霊を受けたのです。主イエス・キリストによる救いがこのようにサマリア人にも与えられたことを既にペトロらは体験していました。また8章の後半には、フィリポがエチオピア人の宦官に福音を伝え、やはり彼が信じて洗礼を受けたことが語られていました。この人は純粋の異邦人です。異邦人が主イエスの福音を信じて洗礼を受けるということが、このように既に起っているのです。これらのことによって、既に異邦人への伝道は始まっていると言うことができます。主イエスによる救いのみ業は、既に異邦人をも巻き込んで前進しつつあるのです。しかし本日の所には、あるいは来週読む10章の後半、さらには11章までも含めて、教会においてなお、異邦人が加わることへの躊躇、ためらいがあったことが語られています。ヤッファとカイサリアの間の、即ちユダヤ人と異邦人の間の隔たりを乗り越えることは、それが長年受け継がれてきた、「ユダヤ人こそ神の民」という常識に基づくものだけに、とても大変なことだったのです。
信仰と体験
使徒言行録第10章は、ペトロとコルネリウスの間の、即ちユダヤ人と異邦人の間の隔たりが乗り越えられたことを語っているのですが、そこにおいて、人間の信仰や体験が豊かに用いられたことが本日の個所から分かります。2節に、コルネリウスのことがこのように紹介されています。「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」。また、22節にも、コルネリウスの召し使いたちが主人のことをこのように言っています。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが」。これらの個所から分かるように、彼の「信仰心」とは、イスラエルの主なる神様への信仰心です。「神を畏れ」というのも、主なる神様を畏れ、信じていた、ということです。つまりコルネリウスとその一家は、異邦人でありながら、ユダヤ人たちの神様を信じ、その神様に祈っていたのです。「民に多くの施しをし」とあるのも、イスラエルの民に、という意味です。ローマの軍隊の百人隊長でありながら、彼は、ユダヤ人とその信仰を尊敬し、ユダヤ人のために何かと助けの手を差し伸べていたのです。あのエチオピア人の宦官と同じように、彼も、主なる神様を心から求めていた異邦人だったのです。神様はその彼の信仰と祈りに応えて下さり、ペトロとの出会いを与えて、主イエス・キリストによる救いにあずからせて下さったのです。また、ペトロの側も、先程申しましたように、既にサマリア人が信仰を得て教会に加えられたことを直接体験しています。その体験が、異邦人との間の隔たりを乗り越えるための備えになったと言えるでしょう。コルネリウスとペトロの、信仰と体験が、主イエスの救いが異邦人へと広められていくために豊かに用いられたと言うことができるのです。
幻によって
けれども、ペトロが、ヤッファからカイサリアへと、その隔たりを越えて出かけて行った、その直接の原因となったのは、人間の信仰や、体験に基づく人間の判断ではありませんでした。本日の個所に語られているのは、彼ら二人が幻を見た、ということです。つまり彼らは二人とも、神様からの示しを受けたのです。コルネリウスは、神様に祈っている時に、天使の語りかけを受けました。ヤッファへ人を送り、ペトロと呼ばれるシモンという人を招きなさい、と命じられたのです。コルネリウスはペトロのことを知りません。そのことは、天使が、ペトロの滞在している場所は皮なめし職人シモンの家だとか、その家は海岸にある、などという細かいことまで教えていることからも分かります。全く見ず知らずの人を家に招くようにと、彼は神様から命じられたのです。彼はその神様の示しに従って、ヤッファに人を遣わし、ペトロを招いたのです。他方ペトロも、ちょうどコルネリウスの使いが到着しようとしていたころ、祈りの中で幻を見ました。天が開いて、大きな風呂敷が四隅を吊るされて彼の目の前に降りて来たのです。その中には、いろいろな獣、地を這うもの、つまり蛇のような動物、そして鳥が入っていました。それらは、律法によって、汚れたものとされており、食べてはいけない、と命じられていたものばかりでした。ところが天から声があって、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と神様が語りかけられたのです。ペトロは、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と答えました。するとさらに、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声があったのです。ペトロはその幻を、三度続けて見ました。いったいこの幻はどのような意味なのだろうか、神様は自分に何を語ろうとしておられるのだろうか、と彼が思案に暮れている丁度その時、コルネリウスの使いの者たちが到着したのです。その時、今度は「霊」によってこういう示しが与えられました。「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」。幻も、ここまで丁寧に与えられれば、その意味は明らかです。ローマの百人隊長コルネリウスが、神様の示しによって自分を招き、み言葉を、主イエスの福音を聞こうとしている。そして神様が自分に行けと命じておられる。あの風呂敷の中の汚れた動物たちは異邦人を意味しており、神様は、私が彼らを清めたのだから、あなたはそれを清くない、などと言ってはならないと言っておられるのだ。ペトロはそのことを悟り、ヤッファからカイサリアへと出かけたのです。
神のみ業に従う
このように、ペトロの、異邦人コルネリウスへの伝道が実現したのは、神様が彼ら双方に与えて下さった幻によってでした。つまり、神様ご自身が、あるいは聖霊が彼らに働きかけて下さったことによって、ユダヤ人と異邦人の隔たりが乗り越えられたのです。言い換えれば、主イエスご自身が、聖霊によって、彼らに先立って働いていておられたのです。ペトロもコルネリウスも、先立って働いておられる主イエスのみ業を受け入れたのです。主イエス・キリストの福音は、このようにして、人と人との隔たりを乗り越えて伝えられていきます。伝道は、このようにして実現していくのです。この第10章は、表面的に見れば、使徒ペトロのコルネリウスへの伝道、あるいはカイサリア伝道を語っています。しかし実際には、それはペトロの業ではありません。神様の、主イエスの、聖霊によるみ業に、ペトロとコルネリウスが共に従ったのです。その時、キリストの福音がペトロからコルネリウスへと伝達されたのです。伝道は、私たち人間が何かをすることによって成し遂げられる業ではありません。神様がしてくださることです。しかしそこで私たちは何もすることがないのではありません。とても大事なことを求められるのです。それは、神様がして下さるみ業を受け入れ、それに従うことです。み言葉を伝える者も伝えられる者も共に、神様のみ業を受け入れ、従う、ということが起る時に、人と人との間に横たわる様々な隔たり、溝が乗り越えられて、福音が伝えられ、伝道が実現するのです。
伝道は神への服従
そしてここで特に大事なのは、伝えられる者よりもむしろ伝える者の方が、神様のみ業へのより大きな服従の決断を求められる、ということです。ペトロがまさにそうでした。彼はこの伝道において、それまで汚れたものと思っていた、それに触れると自分も汚れてしまうと思っていた異邦人に触れることを求められたのです。彼はあの幻の中で、汚れたものを食べることを三度断りました。それは、彼が自分の清さを保とうとした、ということです。それは言い換えれば、自分が望んでいる、思い描いている、自分が満足できる自分の姿に留まっていようとしたということです。彼は、神様によって変えられることを拒み、今の自分のままでいようとしたのです。自分の自尊心と誇り、自己満足を守ろうとしたのです。しかし神様はその都度彼に、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言われました。自分がこうでありたいと思う自分であり続けようとし、自尊心や誇りをあくまでも守ろうとすることは、神様が、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって既に決定的に始めて下さっており、今先立って前進させておられる救いのみ業を否定し、拒否することになってしまうのです。ペトロは神様のみ言葉によって、自分の満足や自尊心、誇りを捨てて、先立たれる主イエスのみ業を受け入れ、それに服従したのです。このペトロの服従によって、ユダヤ人と異邦人の隔たりは乗り越えられ、キリストの福音は異邦人にまで伝えられていったのです。伝道とはこのように、むしろ伝える側の者が、本当に神様のみ業を受け入れ、それに服従するということを通して実現していくものです。伝道とは、人を神様に従う者へと造り変えることではありません。むしろ自分が、神様に従う者へと造り変えられることを通して、主イエスの福音が伝えられていくのです。そのことを見失ってしまうと、私たちの伝道は、人間の業になってしまいます。そうなるとそれは、人よりも高い所に立って、何かを教えてやろうとするような鼻もちならない押しつけになったり、あるいは、「自分には伝道などとてもできません」と言ってしりごみするようなことになるのです。それらはどちらも、伝道に対する間違った姿勢です。伝道は私たちの自己主張ではなくて、神様への服従なのです。
交わりの確立
先立たれる主イエスのみ業に服従するという本当の伝道がなされていく時、そこでは、人と人との間を隔て、交わりを妨げている溝や壁、対立が乗り越えられていきます。25節に、ペトロを迎えたコルネリウスが、その足もとにひれ伏して拝んだとあります。コルネリウスは、神様によって示されたペトロを、神様ご自身であるかのように拝んだのです。ペトロはそれに対して、彼を起こし、「お立ちください。わたしもただの人間です」と言いました。この言葉は、以前の口語訳聖書では「わたしも同じ人間です」と訳されていました。こちらの方が原文の意味を正確に表しています。ペトロは、自分もあなたと同じ人間だと言ったのです。異邦人であるコルネリウスとユダヤ人であるペトロが同じ人間である、これはユダヤ人の言葉としては驚くべきものです。ペトロは、自分がそれまで抱いていた、異邦人に対する伝統的な考え方を捨てることができたのです。ユダヤ人と異邦人との間の溝を乗り越えることができたのです。それは、「人間は皆平等だ」というようなヒューマニズムによることではありません。彼は、神様のみ言葉によって打ち砕かれたのです。み言葉によって打ち砕かれ、それに服従することによってのみ、私たちは、人と人との間を隔てる壁を乗り越え、交わりを確立することができるのです。
神の前に立つ
ペトロはこのようにして、コルネリウスとの交わりを確立することができました。コルネリウスの側においては、それはどのようにして実現したのか、それを示しているのが33節の彼の言葉です。彼はペトロに、「よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」と言いました。み言葉を聞くために、共に神様のみ前に立っている、これが、ペトロを迎えたコルネリウスの姿勢です。そこに、人と人との間の様々な隔たり、溝を乗り越えて、共に真実に神様を礼拝する交わりが生まれます。私たちが、人間としてのいろいろな違い、対立、隔たり、溝を乗り越えて真実に交わりを持つことができるのは、み言葉を聞くために共に神様のみ前に立ち、礼拝を守ることにおいてなのです。そしてこのような姿勢で神様の前に立つ時に、その人は真実に神様のみ言葉を聞くことができます。今この礼拝を共に守っている皆さんの中には、自分は神様を信じてはいない、ただ、教会はどんなことを教えているのか、礼拝はどんなものか、興味や関心を持って来ているだけだ、という方もおられることでしょう。そういう方々をも教会は歓迎します。礼拝に来られる方は、どんな思いでおられてもウエルカムです。けれどもぜひお願いしたいことがあります。このコルネリウスと同じように、皆さんも、「今私たちは、神様のみ言葉を聞こうとして、神の前に立っているのだ」という思いをもって礼拝に連なっていただきたいのです。そのような思いで礼拝を守る時にこそ、神様のみ言葉が、恵みに満ちた語りかけが、私たちの心に響いてくるのです。私たち教会員は、皆さんと、そのような時をここで共有したいと心から願っているのです。
本日から、アドベント、待降節に入ります。主イエス・キリストのご降誕を喜び祝うクリスマスに備えていく時です。この待降節に、私たちは、先立って歩んでおられる主イエス・キリストのみ業を受け入れ、それに従っていく信仰を整えられたいのです。み言葉を聞くための共に神様のみ前に立ち、そのみ言葉によって打ち砕かれ、それに服従することによって、先立って進み行かれる主イエスのみ業を、このクリスマスに見ることを許されるでしょう。主は私たちの思いを超えて救いのみ業を押し進めておられます。私たちの思いや行動がそれに追い付いていないのです。主が押し進めておられる伝道のみ業にしっかりついていく、そういうクリスマスを迎えたいものです。