「裁かれる主」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; イザヤ書 第53章1ー10節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第15章1ー15節
・ 讃美歌 ; 342、280
ポンテオ・ピラトのもとに
主イエスが、人々の手によって裁かれる箇所を読んでいます。主イエス・キリストは十字架につけられますが、それは、社会の中で悪人とされるような、心ない人々の手によって、殺されてしまったということではありません。当時の裁判の制度に則って、時の権力者によって裁かれたのです。主イエスは先ず、直前の箇所に記されているように、ユダヤの最高法院で死刑にすべきことを決められます。その決定に基づいて、主イエスはローマの総督ポンテオ・ピラトの下に引き渡されたのです。当時、ユダヤを支配していたのはローマ帝国で、犯罪人を死刑にするための決定は、ローマの法廷でなされなければなりませんでした。ここで、主イエスの十字架刑が決められるのです。 ポンテオ・ピラトと聞いて、私たちが思い浮かべるのは、毎週礼拝で告白している、使徒信条です。その中で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白されているのです。使徒信条というのは古代教会で成立した基本信条と言われるもので、世々の教会が告白して来た信仰の告白です。主イエスは、ポンテオ・ピラトの下で苦しんだのだと世々の教会は告白して来たのです。そう考えると、ポンテオ・ピラトという人は血も涙もない極悪非道な人物であったのだろうとさえ思わされます。しかし、後で見るように、この人は、主イエスを積極的に十字架につけようとしたのではなく、むしろ、主イエスを死刑にすることを避けようと務めた人物なのです。そのような意味では良識のある人物であったと言って良いでしょう。使徒信条がポンテオ・ピラトの名を語る時、ピラト個人のことが見つめられているのではありません。ピラトは、私たち人間の代表、更には、私たち人間の支配を代表する者として登場するのです。ですから、ピラトの下で苦しみを受けたとは、自分の思いが実現することを求め、人々を裁く立場に立って歩む人間の支配によって苦しめられたと言うことなのです。 確かに、私たちは、当時のポンテオ・ピラトのような権力を行使する立場に立っているのではありません。しかし、やはり、心の中で、人を裁き、人を判断しつつ歩んでいるのではないでしょうか。「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け」とは、私たち自身とはかけ離れた、昔の支配者の圧政によって主イエスが苦しんだのだと言うのではありません。人間の支配を実現しようとする人々の罪によって主イエスが苦しめられたということなのです。
ユダヤ人の王
ピラトは、ユダヤ人たちが縛って連れてきた、主イエスに向かって「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問します。主イエスを殺そうと企んでいたユダヤ人たちは、ピラトに、このイエスという男は自分こそユダヤ人の王であると言っていると主張したのでしょう。ローマ帝国に反逆を企てる指導者に仕立て上げようとしたのです。そもそも、主イエスが、ユダヤの最高法院で死刑にすべきであるとされたことの根拠は、主イエスが自らを神の子と言ったからです。それが神に対する冒涜とされたのです。しかし、神を冒涜したという根拠は、ローマの法廷では通用しません。ですから、ピラトの前では、この人はユダヤ人の王であってローマ帝国に脅威を与えようとしている、ローマに対する反逆を企てかねない者であるということを問題にしたのです。ここには、最高法院の人々が、主イエスを死刑にしたいという自分の願望のために、策を弄し、その実現のために狡猾に振る舞う姿が現れています。最高法院を構成する人々は、自分たちの正しさ、正義を語りつつ、自らの思いを実現させることしか考えていないのです。ユダヤ人の訴えを受けて、ピラトが主イエスに、ユダヤ人の王なのかと問いかけた時、ピラトが関心を抱いていたのは、果たして、主イエスが、ローマの支配を打倒することを目指している指導者であるのかどうかです。もちろん、主イエスは、ローマの支配を打ち倒す民族の指導者という意味で王だと言うのではありません。主イエスが王であるという時、意味することは、神様の救いの御支配のために罪と戦い、その支配を打ち破り、人間を罪から解放しようとしている救い主であるということなのです。そのような意味で、主イエスが王かどうかという問いかけは、表面的には、祭司長たちのでっち上げた逮捕の根拠によって、問われた問いでありますが、根本的には、主イエスについての本質を問う問いでもあるのです。
それは、あなたが言っていることです
ピラトの問いに対して、主イエスは「それは、あなたが言っていることです」とお答えになります。最高法院で、大祭司が「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問うた時、主イエスは「そうです」と肯定なさいました。しかし、ここでは、主イエスは、「そうです、あなたが言っている通り、私こそユダヤ人の王です」とはっきり肯定することはありませんでした。ここで、言われていることは、「私のことをユダヤ人の王と言っているのは、わたしではなく、あなたである」ということです。つまり、主イエスは、ピラトの問いに対して、肯定も否定もしておられません。そもそも、主イエスはご自身のことを主張したり弁明することに関心はないのです。事実、この一言を発した後、主イエスは沈黙なさるのです。主イエスは、主イエスがどのような方なのかは、主イエスが主張することではなく、むしろ、ピラトに問われていることであるとおっしゃっているのです。主イエスが誰なのか、それは、ピラトに、ひいては、人間の支配を求め、人を裁く支配者として歩む人間一人一人に問いかけられていることだと言って良いでしょう。私たちは主イエスを誰だと言うのでしょうか。果たして、私たちは、主イエスを王としているでしょうか。もし王としていたとしても、どのような王であると考えているのでしょうか。
不思議に思った
では、ピラトは主イエスを、どのような方として認識したのでしょうか。少なくとも、ローマの支配を脅かすような王とは考えませんでした。祭司長たちは、色々と主イエスを訴えます。それに基づいて、ピラトが再び尋問するのです。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに」。しかし、主イエスは何もお答えになりませんでした。「ピラトは不思議に思った」とあります。被告人は、自分を訴える者の前で、自分の正しさ無実を主張して、口を開くのが普通だからです。しかし、主イエスは、自らの口を開かないのです。そして、その弱く、無抵抗である主イエスのお姿からは、人々が訴え出ているような「ユダヤ人の王」としての威厳は全く感じられないのです。本日お読みした、イザヤ書53章の7節には、次のようにあります。「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」。ここには、十字架を前にした主イエスのお姿が預言されているのです。主イエスは、ただ黙って、主なる神様の御心に身を委ねているのです。ピラトは、主イエスが死刑に当たるような罪を犯しているとは思いませんでした。主イエスの姿と、死刑を求める人々の姿との間のギャップに驚かざるを得なかったのです。10節には、はっきりと「祭司長たちが主イエスを訴えたのは妬みのためだと分かっていた」と記されています。
犯罪人の釈放
そこで、ピラトは、主イエスを釈放するように事を進めようとするのです。6節には「ところで、祭の度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた」とあります。当時、ピラトは恩赦の制度を儲けて統治していたのです。ピラトは、ユダヤの民は、信仰熱心でそう簡単に支配出来るような民ではないことを良く心得ていました。祭の時となれば、人々が大勢集まり、民族感情も高まります。下手をすると暴動につながりかねないのです。そのために祭になると、暴動等で捕まった囚人を一名釈放することによって、民衆の反抗する感情を抑えようとしたのです。現代でも、政治犯の釈放を求めて、テロや拉致事件が起こることを考えれば、このような策は、反抗を抑えるという意味では相当の効果があったに違い在りません。ピラトは、この恩赦の制度によって、主イエスを罪に定めるのを避けようと考えたのです。しかし、ピラトの思い通りにはなりません。 ここに、バラバという囚人が登場します。「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒」であったことが記されています。群衆はピラトの下に押しかけて来ていつものようにしてほしいと願い出たのです。ピラトは「あのユダヤ人の王を釈放してほいしのか」と問いかけます。「人殺し」というはっきりとした罪を犯した囚人よりも、死刑に当たるような悪事をしたとは思えない主イエスを赦す方が良いと考えるのは当然と言えば当然です。このバラバという人は、おそらく、ローマに対するユダヤ人たちの暴動の先頭に立って抵抗し騒ぎを起こした人で、支配国であるローマの総督としては最も釈放したくない者の一人であったに違いありません。しかし、この時、祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように民衆を扇動するのです。ユダヤの人々にとってバラバは、ローマ総督にとってそうであったように極悪人であったかと言えば、必ずしもそうではありません。むしろ、自分たちを支配し苦しめているローマに立ち向かった英雄の一人であったかもしれないのです。ですから、民衆を扇動するのはたやすいことです。ピラトの思いに反して群衆はバラバの釈放を求めたのです。
「十字架につけろ」
ピラトは、改めて、バラバを釈放してほしいと願う群衆に対して、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言います。群衆は、それに対して「十字架につけろ」と叫んだのです。主イエスに罪を見いだせずに、「いったいどんな悪事をはたらいたと言うのか。」というピラトに向かって、「群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び立てた」とあります。主イエスがエルサレムに入城なさった時は「ホサナ、主の名によって来られる方に」と口々に語って称賛した人々です。しかし、今は手のひらを返すように、主イエスの十字架を支持しているのです。主イエスが、自分たちが思い描いていたような王ではなかったからです。そもそも、ローマの支配を打ち倒して、自分たちの支配を回復したいと思っていたのは、ユダヤの民でした。ですから、主イエスを、ローマの支配を打ち倒す王として迎え入れたのです。しかし、そのような王ではないことが分かると、期待を裏切られたという思いに支配されたのです。そのような思いに祭司長たちの煽動が加わり、怒りを顕わにしているのです。この時の、十字架を支持する民衆の喝采の中には、人間の支配の愚かさが現れていると言って良いでしょう。第二次世界大戦の時、民衆の喝采の中でこそ真の民主主義が実現するということが説かれ、ヒットラーの出現が擁護されたことがありました。しかし、主イエスを迎える人々の姿、又、主イエスの十字架を支持する人々の姿が示していることは、人々の喝采の中程、人間の支配の愚かさが現れる場所はないということではないでしょうか。そこでは、理性を失った人間のむき出しの罪が顕わになるのです。ユダヤ人たちは、自分たちが期待したローマを打倒する王でないことが分かると、今度は、自分たちの憎んでいるローマ帝国の支配者の下で、この人は、ローマを打ち倒そうとしている王であると主張したのです。それは、結局のところ、自分を支配者として振る舞い、周囲の人々、更には神様をも裁きつつ歩む人間の罪の姿なのです。
ピラトの恐れ
この群衆の喝采の中、ピラトは自分の良心を貫くことが出来ませんでした。激しく叫び続ける群衆を満足させようと思い、バラバを釈放したのです。そして、主イエスを鞭打って引き渡したのです。ピラトは、自分自身に主イエスを生かすか、殺すかの判断が委ねられたのです。主イエスをどのような方と受け入れるのかが問われたのです。この時、ピラトは、主イエスに悪を見出すことが出来ませんでした。むしろ、主イエスが連れてこられたのが祭司長たちの妬みのためであることまで分かっていたのです。しかし、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆を恐れて、主イエスを十字架の死に引き渡してしまったのです。そもそも、自分の統治の安泰のために恩赦を行っていた指導者です。正義を貫くということではなく、穏便に事を運び、自分自身の地位が安定することをのみ第一に考えているのです。その結果、真の裁きを行うことをせずに、人々の叫び声の中で、人々を恐れて歩むのです。実際に、そう思っていなくても、主イエスについて、この人は十字架に相当するという決断を下すのです。ここに描かれるピラトの姿は、支配者としては、いささか気が弱いように思えます。ピラトは、ユダヤを支配する支配国の総督です。被支配国のユダヤの人たちが騒いでいることなど、気にすることはないように思えます。しかし、自分が支配する民の叫び声を恐れるピラトの姿に、人間の支配がどのようなものかが明確に現れていると言って良いでしょう。主イエスが、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみをお受けになったというのは、私たち人間の不確かな支配によって裁かれたということなのです。この自分の身を守ることだけを考え、人々を恐れつつ歩むピラトの姿は私たち自身の姿でもあります。私たちも、主イエスをどのような方かと問われ、主イエスが王であることを知りながら、尚、主イエスを王として受けいれずに、神様よりも周囲の人々を恐れて生きているということがあるのではないでしょうか。そのような時、私たちも、主イエスを十字架の死に引き渡して生きているのです。
裁かれる主
ポンテオ・ピラトの下で行われた主イエスの裁判において明らかとなるのは、人間の支配と、そこにある人間の罪です。しかし、主イエスは、そのような人間の支配の中に身を置かれるのです。そこで、ご自身を捧げて、裁きに身を委ねているのです。ピラトの尋問に対して、自分の無罪を主張する訳でもなく、群衆の喝采を退ける訳でもなく、沈黙を貫いて、無抵抗のまま、十字架への決定を受け入れるのです。 それは、この自分の思いにのみ従う群衆の喝采と、自分の地位を守ることから自由になれないピラトが示している人間の支配の中にあって、主イエスが神さまの救いの御支配を実現されているからです。主イエスは、人間の支配によって裁かれました。しかし、人間の真に愚かな支配によって裁かれたかに見える十字架は、同時に神様の御支配が実現することでもあったのです。主イエスが十字架で裁かれたということは、本来、ピラトや、群衆をはじめ、罪に支配されている、すべての人々が受けなくてはならない裁きでした。自分の支配を求めて、自分が王となって歩もうとしている人々の罪に対する神の怒りを自分自身の身にお受けになったのです。それによって、私たちの罪は赦され、神からの裁きを免れたのです。主イエスが十字架に付けられることが決められたのと引き替えにバラバは十字架の死を免れたのと同じです。バラバという名は、「父の子」という意味があります。このバラバの姿の中にこそ、主イエス・キリストの救いに与り、父なる神様の子とされた者の姿が現されていると言って良いでしょう。自分の支配のみを求め、神に反して歩んでいる、十字架で死刑に処せられるべき私たちが、主イエスの十字架によって赦されているのです。私たち人間の支配の中で主イエスが苦しみを受けることを通して、神様の救いの御支配を成し遂げて下さった。そのことによって、私たちは、神様によって罪が裁かれることを免れ、真の救いに与って、神の子とされて歩むことが出来るのです。そのような中で、真に罪を悔い改めつつ、神様の救いの御支配がなることを求めて行く者とされるのです。