「み言葉の実現を待つ」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第62編1-13節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第1章5-25節
・ 讃美歌: 51、149、401
神へと向き直るために
先々週に続いて、ルカによる福音書の第1章5~25節からみ言葉に聞きたいと思います。5節の前の小見出しにありますように、ここは洗礼者ヨハネの誕生が予告された場面です。ここで誕生が予告されたヨハネがどのような人物になるのかは、15~17節に語られています。「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」。ヨハネは、母の胎にいるときから既に聖霊に満たされている、つまり神様に選ばれた人なのです。そして彼は、「イスラエルの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」働きをします。神様に背き、そっぽを向いてしまっているイスラエルの人々を、神様へと立ち帰らせる、つまり悔い改めさせるために、ヨハネは活動するのです。そしてそのことは、「準備のできた民を主のために用意する」という意味を持ちます。神様が約束して下さっている救い主が、いよいよこの世に遣わされようとしているのです。ここで「主のために」と言われているのはその救い主のことであって、それはこの後誕生の物語が語られていく主イエス・キリストです。ヨハネが人々を悔い改めさせ、神様に立ち帰らせるのは、救い主イエス・キリストを迎える準備をさせるためです。悔い改めて神様の方にしっかり向き直ることによってこそ、救い主キリストを迎えることができるのです。私たちがイエス・キリストを信じてその救いにあずかることもそのようにして実現します。聖書の教える救いは、私たちが何かの真理を悟るとか、何か特別の知恵を身に付けることではありません。救い主イエス・キリストを自分の心にお迎えすることこそが救いなのです。そのためには、先ず私たちの心を神様の方に向け、神様が遣わして下さる救い主をお迎えする準備をしなければなりません。何の準備もない所に突然ポッと救いが与えられるわけではないのです。その準備とは、私たちが清く正しく立派な人間になることではありません。神様に心を向けること、神様の方にしっかり向き直ることです。そっぽを向いたり、斜に構えていないで、ちゃんと正面から神様と向き合うのです。そこに、救い主イエス・キリストが来て下さるのです。
ザカリアへのお告げ
ヨハネはそのように人々の心を神様に向けさせ、救い主イエス・キリストのための備えをする人となるのですが、本日の箇所はそのヨハネがまだ生まれる前、母親の胎内に宿る前のことです。ヨハネの父はザカリアといってエルサレム神殿の祭司でした。母はエリサベトといいました。この二人は、6節にあるように「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」のです。しかし7節「エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」。前回も申しましたように、イスラエルの人々において、子供がないというのは、神様の祝福を得ることができていない、という大変大きな悲しみ、苦しみでした。彼ら夫婦も、祝福の印である子供を与えて下さいとどれだけ祈り願ってきたでしょうか。しかし与えられないままに二人とももう年をとっていたのです。ところがある時、ザカリアが神殿の聖所に入って香をたく当番にくじで当たり、その務めをしていた時、主の天使が現れて、「あなたの妻エリサベトは男の子を生む。その子をヨハネと名付けなさい」と告げたのです。その天使が、ヨハネはどのような者になる、と語ったのが先ほどの15~17節です。前回はこの17節の、ザカリアがヨハネ誕生のお告げを受けたところまでをご一緒に読みました。本日はその後の18節以下を中心にみ言葉に聞いていきたいと思います。
悔い改めなければならないザカリア
「あなたがたに男の子が生まれる」というお告げを聞いたザカリアはこう言いました。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか」というのは、要するに、そんなあり得ないことをどうして信じることができるでしょう、ということです。自分も妻ももう年をとっており、これから子供が生まれることなどあり得ない、その私たちをつかまえていったい何をおっしゃるのやら、ということです。つまりザカリアは、天使の告げたこの知らせ、彼らにとって長年の念願だった、神様の祝福の目に見える印がようやく与えられるという喜ばしい知らせを信じることができなかったのです。これと似たような話が旧約聖書にもあります。創世記に出てくるイスラエルの民の最初の先祖であるアブラハムもこれと同じことを体験したのです。彼と妻サラはやはり子供がないまま年をとっていました。その彼らに、神様が、男の子の誕生を告げたのです。その時、アブラハムもサラも、心の内で「笑った」と聖書は語っています。その笑いは、「そんなバカな、そんなことがあるはずはないではないか」という笑いです。神様がお告げになったことを、まっすぐに受け止めることができず、斜に構えて受け流すような、ごまかしの笑いです。それに比べると、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」というザカリアの言葉は、ザカリアの性格そのものの、生真面目なものです。しかし本質においては、アブラハムらが「笑った」のと少しも変わりません。彼もまた、神様がお告げになったことをまっすぐに受け止めることはできていないのです。アブラハム夫妻も、このザカリアも、神様のみ言葉を神様のみ言葉として聞くことが、つまり神様に心を向け、真正面から向き合うことができていないのです。ザカリアは祭司であって、神殿の聖所に入って香をたいています。つまりまさに神様と向かい合い、み前に出て礼拝をする立場、位置にいるのです。しかし本当に神様と向き合うことができていない、神様が与えて下さろうとしている救いの恵みを受ける準備ができていないのです。このことこそ、神様が洗礼者ヨハネをこの世に遣わし、救い主イエス・キリストを迎える準備をさせようとなさった理由であると言うことができます。私たちは、神様が救いを告げて下さるみ言葉を、み言葉としてしっかり聞き、受け止めることがなかなかできない者です。斜に構えてそれを聞き流し、「そんなこと言われてもねえ」と笑ってごまかしてしまうような者です。神様の救いの恵みを受けるには、そのような私たちが神様の方にしっかりと向き直らなければなりません。つまり、悔い改めなければならないのです。ヨハネはそのために遣わされましたが、ヨハネの父となったザカリアも、悔い改めて神様へと向き直らなければならなかったのです。
悔い改めなければならない私たち
アブラハムにしてもこのザカリアにしても、神様が告げて下さったのは、彼らがずっと願い求めてきたけれども与えられなかった子供がついに与えられる、ということでした。つまり神様が彼らの願いを聞き届けて下さり、恵みを与えて下さるということだったのです。ですから本来ならそれを聞いて喜んでもよいはずです。祈り願ってきたことがついに実現するのですから。ところが彼らはそのみ言葉を正面から受け止めることができなかったのです。そういう話が旧約聖書にもあり、新約聖書にも繰り返されているところに、いつの時代にも変わることのない私たち人間の姿が示されていると言えるでしょう。私たちは、神様のみ言葉を、それが自分に対する神様の恵みを語っているみ言葉であっても、なかなかまっすぐに受け止めることができません。正面から神様と向き合おうとせず、斜に構え、疑いの目をもって見てしまうのです。この、神様と向き合おうとせず、斜に構えていることこそが、私たちの罪です。神様による救いにあずかるためには、この罪を悔い改めなければなりません。つまり神様の方に向き直り、正面から神様と対面しなければならないのです。本日のこの箇所は、ザカリアにおいてそのことがどのようにして起ったのかを語っているのです。
口が利けなくなったザカリア
天使は19、20節でザカリアにこう語りました。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。ザカリアに現れたこの天使は「ガブリエル」という名でした。ガブリエルとはどんな天使か、というのはどうでもよいことです。大事なのは彼が、自分は「神の前に立つ者」であり、「あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである」と言っていることです。「神の前に立つ」というのは、神様のみ前で直接にそのみ言葉を聞いている、ということです。そのみ言葉を、しかも恐ろしい裁きの知らせではなくて「喜ばしい知らせ」をザカリアに伝えるために彼は遣わされたのです。この後の26節で、マリアに懐妊を告げるのもこのガブリエルです。天使ガブリエルは、神様からの大切な、喜ばしい知らせをザカリアとマリアに伝えたのです。しかしザカリアはその喜ばしい知らせを信じませんでした。そのためにザカリアに起ることを語っているのが20節です。「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。天使ガブリエルの言葉を信じなかったために、ザカリアは口が利けなくなり、話すことができなくなったのです。
沈黙
このことをどのように受け止めるべきなのでしょうか。せっかく神様が恵みを告げて下さったのに、そのみ言葉を信じなかったので、ザカリアは罰を与えられたのでしょうか。そうではありません。ここには、神様の、ザカリアに対する導きのみ心があるのです。天使は、「この事の起こる日まで話すことができなくなる」と言いました。「この事」とは、天使が告げた通りにヨハネが誕生することです。天使を通して神様が告げて下さった恵みが実現するまで、ザカリアは話すことのできない状態で過ごしたのです。話すことができなかっただけではありません。57節以下には、ザカリアが再び話すことができるようになった時のことが語られていますが、その62節には、ヨハネの命名に際して、集まった人々がザカリアに、「『この子に何と名を付けたいか』と手振りで尋ねた」とあります。ということは、ザカリアは、口が利けなかっただけでなく、耳も聞こえなくなっていたのです。口が利けないことと耳が聞こえないこととは結びついている、ということを私たちは知っています。しかしここで語られているのはそのような障碍についての知識ではありません。これは、ザカリアが、天使のお告げを受けた日から、子供が誕生しその名がヨハネと名付けられる日まで、沈黙の中を過ごした、ということなのです。口が利けず、耳も聞こえないというのは、外からの一切の音、声、言葉を遮断され、また自分も一言も発することがない、という全くの沈黙です。この日から、ヨハネの命名の日まで、ザカリアは全くの沈黙の中を生きたのです。その沈黙の中で、彼は、神様の方にしっかり向き直り、神様と真正面から向き合っていくことを学んだのです。つまり、悔い改めることを学んだのです。
沈黙して、神に向かう
本日共に読まれる旧約聖書の箇所として、詩編の第62編を選びました。その冒頭の2、3節にこうあります。「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」。「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」。沈黙することと、魂がただ神に向かうこととが結び合っています。沈黙の中でこそ、私たちの魂は神様に向かうのです。逆に言えば、私たちの魂は、沈黙しなければ神様に向かうことができないのです。沈黙する、それは、自分の言葉、人間の言葉を語ることをやめることです。自分が語ることをやめて静かにすることです。魂が神様の方へと向き変わることは、その静けさの中でこそ起ります。私たちは、常に、自分の言葉を語っています。人間の思い、論理、理屈、感情、思想などに基づく、人間の語りで私たちの心は常に満たされています。私たち自身の言葉のみではなくて、他者の言葉、自分の属する集団の言葉、社会の言葉、時代の言葉も私たちの心を満たしています。自分の言葉を語っているつもりでも、実はそれは人から聞いた借り物の言葉、自分の属する集団の言葉、この社会の多くの人が言っている言葉、マスコミが語っている言葉、その時代を支配している精神に動かされた言葉だったりするのです。そのように私たちの心の中には、自分のであれ人のであれ、人間の言葉、語りがいつも響き渡っています。それらの人間の言葉が沈黙しないと、私たちは心を神様の方に向けることができないのです。「耳も聞こえなくなった」というのは、私たちの周囲に充満している人間の言葉が遮断されたということです。外から聞こえてくる言葉も、自分が語る言葉も、どちらも失われて、沈黙が、静けさが訪れる、その沈黙、静けさの中でこそ私たちは、神様のみ声を聞くことができるのです。そして神様の方に身を向け、正面からそのみ言葉を受け止めることができるようになるのです。ザカリアが、口も利けず、耳も聞こえなくなったのは、そのことのためです。ですからこれは、神様の罰ではなくて、神様が彼を導くために与えて下さった時だったのです。この時を過ごすことの中で彼は、天使が告げた神様の恵みのみ言葉をかみしめ、人間の常識によってそのみ言葉を疑い、「そんなことがあるはずはない」と思った自分の不信仰を悔い改め、そして神様の恵みのみ言葉の実現の時を待つ信仰を養われていったのです。
エリサベトの沈黙の日々
そのことは、彼の妻エリサベトも同じでした。24、25節にこうあります。「その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。『主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました』」。夫ザカリアに天使が男の子の誕生を告げたことを知った時、エリサベトはどのように思ったのでしょうか。アブラハムの妻サラと同じように、「そんなバカなことが」と笑ったのでしょうか。それは何も語られていないから分かりません。それはどうでもよいことです。大事なのは聖書に語られているこのことです。彼女は、「五か月の間身を隠していた」のです。このことを、妊娠初期の不安定期には家で安静にしていた、などと考えるのは的外れです。あるいは、こんな高齢なのに妊娠するなんて恥ずかしいと思って人前に出なかった、というのも下司の勘ぐりです。この五か月は、彼女にとっても、神様の方に向き直り、正面から神様と向き合い、告げられた恵みのみ言葉をしっかりと受け止めるための備えの時であり、そのために、人々との接触を避け、沈黙の中を歩んだということでしょう。エリサベトのこの五か月は、ザカリアが沈黙の内に過ごした月日と同じ意味を持っているのです。その期間を経て彼女は、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」という感謝へと導かれたのです。
悔い改めへの導き
ザカリアとエリサベトの夫婦はこのようにして、自分たちに神様が与えて下さる大きな恵みを受ける備えをしていきました。その備えとは、清く正しい者となるということではありません。もともと彼らは、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と戒めをすべて守り、非のうちどころがなかった」のです。しかしそのようなことが神様の恵みを受ける備えにはなりません。掟や戒めをどんなにきちんと守っても、それで、「準備のできた民」となることはできないのです。神様の救いを受けるための準備は、人間の言葉を語り、聞くのをやめて、沈黙して、神様の方に向き直ること、そして神様のみ言葉をしっかりと受け止めることです。それこそが悔い改めです。洗礼者ヨハネが、後から来られる救い主イエス・キリストの道備えをするために人々に語り、求めていったのはこの悔い改めでした。彼の両親、ザカリアとエリサベトも、ヨハネの誕生に備えるために、その悔い改めへと導かれ、神様と向き合う者とされたのです。
悔い改めは、人間が自分の罪を意識して反省し、これからは罪を犯さないようにしようと決意することによってできることではありません。罪を反省することと悔い改めることとは違うのです。悔い改めとは、神様の方に向き直り、正面から向き合うことであって、それは神様によって導かれ、与えられなければできないものです。ザカリアは、口が利けなくなり、耳も聞こえなくなるという試練、苦しみの中で、沈黙して神様と向き合う時を与えられました。神様によって、悔い改めへと導かれたのです。神様は私たちそれぞれに、それぞれなりの仕方で、悔い改めて神様と向き合う機会を与えて下さいます。私たちの人生には、神様のみ前に立ち、まっすぐに神様と向き合うために与えられるチャンスというべき時があります。そのチャンスをしっかり捉えることができるかどうかによって、私たちの歩みは全く違ったものとなります。その時に、人間の言葉を語り、聞くことをやめて沈黙し、神様の方に向き直ることができるならば、つまり悔い改めることができるならば、私たちは神様の恵みによって生かされる者となることができるのです。しかしその時に、沈黙することができず、なお自分が語り続け、人の語る言葉のみを聞き続け、心が人間の言葉によって塞がれてしまうならば、悔い改めて救いに至ることができないのです。
神様が与えて下さるチャンスをしっかり捉えて、そこで人間の言葉を語り、聞くことをやめて沈黙し、神様と正面から向き合うためには、日頃から、沈黙して神様のみ言葉を聞くための、言ってみれば訓練を積んでおくことが必要です。その訓練の場が礼拝であると言うことができると思います。一週間の最初の日である主の日に、私たちは礼拝に集い、ここで、自分の言葉、人間の言葉を語り、聞くことをやめて沈黙し、神様のみ言葉に耳を傾ける時を持つのです。礼拝は、聖書を学ぶとか、キリスト教の教えを勉強するための時ではありません。私たちがここでしているのは、沈黙して、神様のみ言葉に耳を傾けるということです。語られたこと、教えられたことをどれだけ覚えていることができるか、それを生活の中でどれだけ実践することができるかが大事なのではありません。神様のみ前に立ち、人間の言葉においては沈黙し、み言葉を聞くという体験が大切なのです。その積み重ねの中で、私たちは、神様と正面から向き合う者へと変えられていきます。悔い改めを与えられていくのです。その歩みの中で、神様が与えて下さる特別なチャンスを捉えることができるようになるのです。先ほど、詩編62編の2、3節を読みました。「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」と始まるこの句は、6、7節においても繰り返されているのです。新共同訳聖書は6節を工夫して訳し変えています。「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ」と、命令形に訳しているのです。この詩の解釈においてこの訳が良いか悪いかはともかくとして、この命令形には意味があると思います。それは私たちが毎週の礼拝に集う時に持つべき心構えを示していると言えるからです。「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ」。私たちは常にそのように自らの魂に語りかけながら、礼拝に集うのです。そのような礼拝の積み重ねの中で、私たちは、悔い改めへと導かれ、それによって、「神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない」という神様への信頼と希望を与えられるのです。「時が来れば実現する」神様の恵みのみ言葉に信頼して、その実現を待ち望む信仰が、沈黙してただ神に向かう礼拝において私たちに与えられるのです。