主日礼拝

見えないものに目を注ぐ

「見えないものに目を注ぐ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:列王記下 第6章15-17節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第4章16-18節
・ 讃美歌:

信仰とは、見えないものに目を注ぐこと
 信仰をもって生きるとは、見えないものに目を注いで生きることです。今日ご一緒に読む新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙二の第4章18節に「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」とあります。この「わたしたち」が、信仰をもって生きている人々、クリスチャンと呼ばれる、教会に通っている人々です。教会というのは、見えないものに目を注いで生きている人たちの群れなのです。もちろんクリスチャンたちも、目に見えるこの世界を生きているのですから、この世界の様々なものや出来事に目を注ぎ、自分自身と他の人々を見つめながら、それによって喜んだり、悲しんだり、苦しんだり、怒ったりしつつ生きています。信仰をもって生きているからといって、見えないものだけに目を注いでいるわけではありません。でも私たちは、目に見えるものが全てだとは思っていません。目には見えないものがあり、それこそが私たちを本当に生き生きと、喜びをもって生かしてくれると信じているのです。見えないものに目を注いで生きるというのは、見えないものに支えられて、目に見える具体的なこの世界と人生を生きている、ということです。それが信仰をもって生きるということなのです。

見えないものを見えるようにしてきた人間
 この世界には目に見えないものがあって、それが私たちの歩みにいろいろな影響を及ぼしていることは、クリスチャンでなくても、誰でも知っています。この三年間私たちの生活は、目に見えない新型コロナウイルスに脅かされ続けています。ウイルスは目に見えないから、あるのかないのか分かりません。アルコールで手指を消毒しても、それでなくなったのかどうか分かりません。ウイルスを含んだ飛沫がどのくらい飛んでいるのかも、見えないから分かりません。だから、いつどこで感染したのか分からないけれども発症する、ということが起っているのです。私たちの周りにはそういう目に見えない脅威が他にもあります。放射線もそうです。11年前の東日本大震災における福島第一原発の事故の時、まかり間違えば東日本に人が住めなくなるような危険な事態だったわけですが、あの時私たちが思い知らされたのは、放射線は目に見えないし、においもないので、危険が迫っていても分からない、ということでした。見たところ普段と全く変わらないのどかな田園風景なのに、放射線量が高くて人が住めない、ということが起っていたのです。11年経った今でもまだそういう所があります。そして今新たに、ウクライナでの戦争において、同じことが起こるのではないかと心配されています。私たちの命と生活は、目に見えないいろいろなものに脅かされているのです。
 ウイルスにしても放射線にしても、肉眼では見えないけれども、勉強して知識を得ればその存在が分かるし、検知器を用いてそれを測ることができます。たとえばこの二酸化炭素濃度検知器によって、目に見えない二酸化炭素がこの空間にどれくらいあるかを知ることができます。私たちの教会ではそのようにして換気の状態をモニターしながら礼拝をしています。知識と技術の進歩によって今は、目に見えないものをこのように可視化することができるのです。誰でも子どもの頃は、目に見える世界が全てでした。しかしいろいろなことを勉強することによって、目に見えていないものの存在が分かるようになっていきます。勉強というのは、見えないものの存在が分かるようになるためにある、と言うことができます。勉強することによって分かってくるのは、ウイルスや放射線のような、肉眼では見えないものの存在だけではありません。ロシアのウクライナ侵攻が始まって明日で八ヶ月、多くの人々が傷つき、命を失い、町々が破壊され続けています。なぜこんな悲惨なことが起ったのか。プーチンの頭がおかしくなった、では説明になりません。この事態を理解するためには、歴史を勉強しなければなりません。歴史というのは、今私たちの目には見えない、過ぎ去った過去です。それを知ることによって、今この世界に起っている目に見える出来事の背景や原因が分かってくるのです。このように人間は、学ぶことによって、目に見えないものを見えるようにしてきました。神さまは私たち人間に、目に見えないものを探求して分かるようにする能力を授けて下さったのです。その能力によって人間の文明は進歩してきたと言えるでしょう。つまり人間の歴史は、見えないものを見えるようにしてきた歴史だとも言えるのです。

見えるものは過ぎ去る
 そういう人間の営みによって、例えば細菌やウイルスなどの存在が明らかになり、それによっていろいろな病気の原因が分かり、治療の方法が確立されてきました。見えないものを見えるようにする努力が人間を苦しみから救い、幸せをもたらしてきた、という面が確かにあります。しかしそのようにして、それまで見えなかったいろいろなものが見えるようになり、分かるようになってきたことによって、私たちが今はっきりと知らされていること、それは18節の後半に語られている「見えるものは過ぎ去りますが」ということなのではないでしょうか。
 昔は見ることができなかったいろいろなものを私たちは今見ることができます。気象衛星から地球の姿を見ることすらできるようになり、台風とは雲の渦なのだ、ということを私たちはテレビで実際に見ることができます。そしてその台風によって起っている災害の様子も中継で見ることができます。そういう自然現象だけではありません。ウクライナで起っている戦争を今私たちはほぼリアルタイムで、鮮明な動画によって見ることができます。もちろんそれで戦争の実態が分かったなどと言うべきではないでしょうが、以前ならなかなか目にすることができなかった、遠い地での戦争の生々しい現実を、今私たちは目の当たりにしているのです。それによって見えてきたのは、この世界は苦しみや悲しみに満ちている、ということです。
 隠されていた事実が明るみに出されることによって幻滅させられる、ということもしばしば起っています。コロナ禍の中での開催には疑問を持ちつつも、それなりに感動もした東京オリンピック、パラリンピックの背後であんな金が動いていたとは‥、旧統一教会が自民党にあそこまで食い込んでいたとは‥。そのようにいろいろなことが見えてくるにつれて私たちはがっかりさせられます。そして感じるのは、「見えるものは過ぎ去る」ということではないでしょうか。過ぎ去る、というのは、いつまでも残るものではない、無くなっていく、失われていく、だから本当には頼りにならない、私たちに本当の喜びや励ましを与えて生き生きと生かすことはできない、ということです。目に見えるこの世界に起っていることは、肉眼では見えないものや、今は隠されていて明るみ出されていないことも含め、過ぎ去るものでしかない、永遠に存続するものなどどこにもないのです。

見えないものは永遠に存続する
 そのような世界において、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と信じて生きているのがクリスチャンです。しかし「見えないものは永遠に存続する」というのはどういうことなのでしょうか。肉眼で見えないものは何でも永遠に存続する、ということではありません。目に見えないウイルスだって永遠に存続するわけではないし、放射性物質にもそれぞれ「半減期」があって、放射線の量は次第に減っていくことを私たちは知っています。その半減期が一時間以内のものもあれば、何億年というものもあるわけですが、目に見えない放射線だって永遠に存続するわけではない。しかしこの「永遠に存続する」というのは、ただいつまでもあり続けるということではありません。この言葉は、先ほどの「過ぎ去る」の反対の意味で使われています。つまりそれは、私たちに本当の喜びや励ましを与えて生き生きと生かす、ということです。「永遠に存続するもの」とは、本当に頼りになるもの、確かな支えとしてあり続けるもの、ということです。この世のあらゆるものが過ぎ去っていき、確かそうに見えたのに本当は頼りにならないことが分かってがっかりする、ということばかりのこの世にあって、私たちを確かに支え、しかも永遠に支え続ける目に見えないものに目を注ぎ、それを信じて生きる、それが聖書に基づく信仰なのです。

外なる人と内なる人
 目に見えない、しかし永遠に存続するものに確かに支えられていることを信じると、私たちはどのように生きる者となるのか。それを語っているのが16節です。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」。自分たちを確かに支え続ける目に見えないものを信じている人は、外なる人においては衰えていっても、内なる人は日々新たにされていくのです。だから落胆せずに生きることができるのです。見えないものに目を注いで生きるところには、落胆しない、がっかりしてしまわない人生が与えられるのです。
 「外なる人」と「内なる人」というのはどういうことでしょうか。「外なる人」とは私たちの肉体のことで、「内なる人」は心のことだろう、と思うかもしれませんが、そうではありません。私たちの肉体が年をとるにつれて衰えていくことは確かだし、それは避けられません。それでも心だけは衰えずに元気でありたい、若い心を持ち続けたい、と私たちは思いますが、ここに語られているのはそういうことではないのです。そもそも、内なる人だけは衰えずに元気であり続ける、ではなくて、内なる人は日々新たにされていく、と語られているのです。心とからだは繋がっていますから、からだが衰えていけば、気力や理解力だって衰えていきます。つまりからだも心も含めたすべてが「外なる人」として衰えていくのです。その現実の中で、「内なる人は日々新たにされていく」。それはもはや私たちの心の持ちようや努力によることではなくて、神さまのみ業です。目に見えない神が、私たちに本当の喜びと励ましを与えて、日々新たに、生き生きと生かして下さるのです。「内なる人は日々新たにされていく」というのはそのように、神によって日々新たに生かされる、とういうことです。つまり「内なる人」というのは、神の恵みによって生かされ、支えられている自分、神と共に生きている自分です。神と関係なしに「内なる人」はありません。「外なる人」はその反対で、神の恵みを受けておらず、支えられていない自分、神なしに生きている自分ということです。その「外なる人」は、年齢と共に、心もからだも衰えていき、そしてついには死んで滅びていくのです。目に見えるこの世のすべてが過ぎ去るように、私たちの「外なる人」としての目に見える人生もまた過ぎ去り、滅びていくのです。しかし私たちが、目に見えない神の恵みを受け、本当の喜びと励ましを与えられているなら、その「内なる人」である私たちは、体や心においては衰えていっても、神の恵みによって日々新たに生かされていくのです。

落胆しない人生
 「わたしたちは落胆しません」と言うことができるのはこの「内なる人」です。目に見えるこの世のものはどれも過ぎ去るものであり、私たちを本当に生かしてはくれません。それらにより頼んでいると落胆するばかりです。神の恵みを受けておらず、支えられていない外なる人である私たちは、一時栄えることがあっても、またたく間に衰え、過ぎ去っていくのです。しかし聖書は、そのような現実の中でも、「わたしたちは落胆しません」と言うことができると語っています。強がって、虚勢を張ってではありません。目に見えない神が共にいて下さり、恵みによって生かし、支えて下さっていることを知らされるなら、私たちは「内なる人」として、日々新たにされつつ生きることができるのです。目に見えない、しかし確かに共にいて下さり、喜びと励ましを与え、支えて下さっている神に目を注いで生きるなら、この世の全てのものは過ぎ去っていき、私たち自身も過ぎ去っていくことを思い知らされる中でも、がっかりして落胆してしまうことなく、永遠に存続する神の恵みに支えられて歩むことができるのです。その恵みの中で生き、そして死んでいくなら、肉体の死も滅びや絶望ではなくなります。目に見える地上の歩みの全てが過ぎ去ることが死ですが、目に見えない、永遠に存続する神の恵みが、そこでも私たちを支えて下さり、新たにして下さり、永遠の命にあずからせて下さると信じることができるのです。目に見えない神の恵みに目を注ぐなら、目に見える全てが失われる死においてもなお落胆しない人生が与えられるのです。
 目に見えない本当のことに目を開かれる
 先ほど読まれた旧約聖書の箇所、列王記下第6章15節以下には、目に見えない神の恵み、支えに目を注ぐことができたことによって絶望、落胆から救われた人のことが語られていました。これは預言者エリシャの物語です。イスラエルの敵であるアラムの王が神の人エリシャを捕えようとして軍馬や戦車を派遣し、エリシャのいる町を包囲しました。それを見たエリシャの召使いはうろたえました。もうだめだ、おしまいだ、と思ったのです。しかしエリシャは「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と祈りました。すると召使いの目が開かれ、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た、つまり神の軍勢がエリシャを守っていることを示されたのです。そしてこの後のところを読むと、主なる神がアラムの軍勢の目をくらませたので、彼らはエリシャに導かれて別の道を進み、目が開かれた時にはイスラエルの真ん中に連れて来られていて全員捕虜になってしまった、ということが語られています。この一連の話によって示されているのは、エリシャの召使いも、アラムの軍勢も、目に見えていない本当のことが分かっていなかった、ということです。エリシャの召使いは、大軍に包囲されている現実を見て落胆し、もうだめだ、絶望だと思っていました。逆にアラムの軍勢は、これだけの数で包囲しているのだからエリシャを捕えて勝利できる、と思っていたでしょう。しかし彼らは共に、主なる神によって目を開かれたことによって、目に見えない本当のことを示されたのです。その本当のこととは、主なる神がご自分の民イスラエルをしっかりと守っておられるということであり、目に見える人間のいかなる力も、主なる神に対抗することはできない、ということです。見えないものに目を注ぐとは、この「本当のこと」を見つめることです。そこに、「わたしたちは落胆しません」と言うことができる新しい人生が開けていくのです。

主イエス・キリストによる救いの知らせ
 しかし、目に見えない本当のことを見つめる目はどのようにしたら開かれるのでしょうか。エリシャの召使いは、自分で努力してその目を獲得したのではありません。主なる神が彼の目を開いて下さったのです。見えないものに目を注ぐことは、私たち人間の努力によって実現することではありません。それは神がして下さることです。そのために主なる神は、ご自分の独り子である主イエス・キリストをこの世に遣わして下さったのです。主イエス・キリストは、私たちと同じ一人の人間となってこの世を生きて下さいました。そして十字架にかかって死なれました。神の独り子、まことの神である方が死刑に処せられたのです。それは主イエスが何か罪を犯したからではありません。主イエスは、私たち全ての者の罪を背負って、私たちに代って、十字架の死刑を受けて下さったのです。私たちは、神を神として敬わず、そっぽを向いて、自分が主人となって、自分の願いを実現することばかりを考えて生きています。それが、聖書が言うところの罪です。神は、その私たちを赦して、罪による滅びから救い出し、新しい命、永遠の命を与えて下さるために、独り子イエス・キリストを人間としてこの世に遣わして下さり、その主イエスが私たちのために、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったことによって、救いを与えて下さっているのです。この主イエスの十字架の死にこそ、神の私たちへの愛と恵みが示されています。神の独り子主イエス・キリストを、とりわけその十字架の死を見つめることによって、私たちは、目に見えない本当のこと、つまり目に見えない神が共にいて下さり、恵みによって生かし、支えて下さっていること、その神の恵みは永遠に存続し、私たちを新たに生かし続けて下さることに目を注ぐことができるのです。教会は、聖書に語られているこの主イエス・キリストによる救いの知らせを毎週の礼拝において聞き、主イエスとの出会いと交わりを与えられ、目に見えない神の恵みに目を注いで生きている者の群れです。教会の礼拝において、聖書のみ言葉を聞くことによってこそ、目に見えない本当のことを見つめる目が開かれていきます。そこには、「見えるものは過ぎ去る」という現実の中でも、「わたしたちは落胆しません」と語って生きることができる幸いな人生が与えられていくのです。

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