「聖霊を信じ、祈り求めよう」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:ヨエル書 第3章1-5節
・ 新約聖書:使徒言行録 第4章23-31節
・ 讃美歌:37、345、469
キリストの福音を大胆に宣べ伝える
今日ご一緒に読む使徒言行録第4章23~31節の最後の31節にこう書かれています。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。教会の皆が大胆に神の言葉を語り出したのです。神の言葉とは、神様が独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちの罪を赦し、神の子として新しく生かして下さるという「キリストの福音」です。その福音を告げる言葉が大胆に語られ、キリストの福音の伝道が力強くなされていったのです。今日は、この主日礼拝を開会礼拝として、本年度第二回の教会全体修養会が行なわれています。主題は第一回と同じ、本年度のこの教会の年間主題である「キリストの福音を伝道する教会」です。この年間主題において、また本日の修養会の主題において目指されているキリストの福音の伝道が、最初の教会において力強く大胆になされていったことが、本日のこの箇所に語られているのです。そのことはどのようにして実現していったのか、それを知りたいと私たちは思います。そして私たちも同じように、キリストの福音を大胆に宣べ伝えていく教会となりたいのです。
聖霊に満たされて
彼らが大胆に神の言葉を語りだしたのは、皆が聖霊に満たされたことによってでした。聖霊に満たされることによってこそ、神の言葉を、つまりキリストの福音を大胆に伝道していくことができるのです。私たちがキリストの福音を伝道する教会として歩んでいくための鍵となるのはこの聖霊に満たされることです。私たちの努力や工夫や学び、そして本日のこの修養会で行なおうとしている、お互いに語り合って交わりを深めるといったことの全ては、私たちが聖霊に満たされることなしには生きてきません。聖霊に満たされる中でこそ、私たちの努力や工夫や学びや交わりの全てが、伝道へのよい実りを生んでいくのです。教会の全ての営みを支え、導き、実りを与えて下さっているのは聖霊なる神様です。ですから私たちがキリストの福音を宣べ伝える教会として歩もうとするなら、聖霊に満たされることをこそ真っ先に求めていかなければならないのです。 しかし私たちは、この「聖霊に満たされる」ということがよく分かっていないのではないでしょうか。だから何をどのように求めたらよいのかもよく分からないでいるのではないでしょうか。まだ洗礼を受けておられないいわゆる求道者の方がそうだというのではなくて、既に信仰者となって歩んでいる者たちも同じです。聖霊に満たされることは、勉強して理解できることではないし、説明されて納得できることでもありません。「理解」とか「納得」を超えたところで、私たちは聖霊に満たされるのです。それは体験するしかないことです。洗礼を受ければ自動的にそういう体験が与えられるわけではありません。洗礼を受けて何十年経ってもそういう体験をしていない、ということもあり得るのです。またその体験は人為的に造り出すことはできません。だから努力して、修行を積んでそういう体験を得る、というものでもないのです。要するにこの聖霊に満たされる体験は与えられるものであって、私たちが自分の力で得ることができるものではないのです。
聖霊を信じ、祈り求めよう
しかしこの体験を与えられるために私たちの側でなすべき準備があります。それは、聖霊を信じることです。聖霊の存在と働きを信じて、聖霊なる神様に、この私に、また私たちに降り、満ちて下さいと祈り求めるのです。本日の説教の題を「聖霊を信じ、祈り求めよう」としたのはそのためです。そしてそれを、本日の修養会のテーマにおいて副題として掲げました。聖霊を信じて祈り求める中で、聖霊に満たされ、そしてキリストの福音を大胆に伝道していく群れでありたいと願っています。その第一歩は聖霊を信じることです。信じていなければ祈り求めることはできません。聖霊をまことの神として信じることこそ、聖霊に満たされるために私たちがしなければならない準備なのです。私たちは毎週の礼拝において使徒信条を唱えています。その中で「我は聖霊を信ず」と告白しています。聖霊をまことの神として信じますという信仰を毎週告白しているのです。しかしこの告白は本当に私たちのものとなっているでしょうか。父なる神様を信じる、その独り子イエス・キリストを信じる、それと並んで、聖霊なる神様を信じる、その三者をそれぞれ独立したまことの神として信じる、しかし同時に、神は三人ではなくてお一人であると信じる、それがいわゆる「三位一体」の神を信じるということです。その三位一体の神の第三の存在として聖霊を、父と子と並ぶ方として信じるというのが使徒信条の信仰ですが、私たちの信仰はともすると、天地を造られた父なる神様と救い主イエス・キリストは信じるけれども、聖霊については、神の「働き」とか「力」ぐらいにしか捉えていないことが多い、つまり聖霊を父と子と並ぶ方として信じていない、という傾向があるのではないでしょうか。それゆえに私たちは、聖霊が降って下さることを真剣に祈り求めておらず、つまり聖霊に満たされるための準備が出来ておらず、だから聖霊に満たされる体験が得られない、ということがあるのではないでしょうか。
聖霊の存在を信じる
このことは、私たちが受け継いでいる信仰の系譜、教派的伝統とも関係しています。プロテスタント教会の中でも、「福音派」と呼ばれる系譜の教会においては、聖霊を信じることがより強調されています。それを現しているのが「聖霊様」という言い方です。私たちの教会が受け継いでいる信仰の系譜においては、「聖霊様」という言い方はしてこなかったので、私もそれを聞いた時には違和感を感じました。しかしそういう違和感は自分の信仰を見つめ直していくためのよい機会です。「神様」「イエス様」と並んで「聖霊様」と呼ぶことに違和感を感じるのは何故だろうかと考えていく中で私は、「聖霊様」という呼び方は決して間違ってはいないし、意味があると思うようになりました。私たちが受け継いでいる信仰において「聖霊様」と言わないのは、聖霊の「働き」や「力」を見つめることに重きが置かれているからです。「聖霊の働き」という言い方を私たちはよくします。しかしそこには、聖霊の「存在」を見つめ信じることがともすれば希薄になる傾向があると思います。聖霊を三位一体の神の第三の「存在」として信じ、聖霊が私たちに満ちて下さることを祈り求めていくことにおいては、「聖霊様」という呼び方にも積極的意味があると今は思っています。ですから私はこのところ意識して、祈りにおいては「聖霊なる神様」と呼ぶようにしています。どのように呼ぶかはともかく、生きたまことの神であられる聖霊が私たちに満ちて下さることを、信じて祈り求めていくことが大切なのです。
揺り動かされる体験
聖霊に満たされる時に、私たちに何が起こるのでしょうか。今読んだ31節には、「一同の集まっていた場所が揺れ動き」とあります。その場が揺れ動くという体験を、この時人々はしたのです。地震が起こったわけではありません。これは信仰における体験です。信仰において、自分のいる場所が揺れ動くような体験をする、そういうことは私たちにもあるのではないでしょうか。神様のみ言葉を聞き、神の独り子である主イエス・キリストがこの自分の全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって、罪の贖いを成し遂げて下さった、神様がそれほどまで罪人である自分を愛し、救おうとして下さっている、その神様の深い恵みのみ心に触れた時に私たちは、それまで自分が立っており、安定していると思っていた人生の土台が揺れ動くことを体験したのではないでしょうか。そして自分自身が揺さぶられ、揺り動かされ、今までのまま生きていてよいのだろうか、という思いを与えられたのではないでしょうか。あるいは、今まで全く知らなかった神の恵み、愛が自分に注がれていることに気づいて心震える思いをしたのではないでしょうか。洗礼を受け、信仰者となった者は誰でも、そういう体験を与えられていると思います。そしてそれは洗礼を受けた時だけではありません。信仰者となって礼拝を守りつつ生きていく中で私たちは、神様のみ言葉によって自分が揺さぶられ、打ち砕かれ、そして慰められ、新しく生かされることを繰り返し体験しているのではないでしょうか。このように私たちがみ言葉によって揺り動かされる時、そこに聖霊なる神様が満ちておられるのです。ですから私たちは実は、自分でそう意識していなくても、聖霊に満たされる体験をしているのです。繰り返し聖霊に満たされることによって私たちの信仰は深まっていくのです。
教会が新しくされる
この31節においてもう一つ注目したいのは、「一同の集まっていた場所」が揺れ動いたということです。一同というのは、使徒言行録第2章のペンテコステの出来事によって、つまり弟子たちに聖霊が降り、伝道が始まったことによって誕生した最初の教会の信仰者たちです。洗礼を受けてその教会に加えられた信仰者たち一同がここに集まって祈っていたのです。その場が揺れ動いた、それはつまり教会が揺れ動いたということです。聖霊が満ちて下さるのは、私たち一人一人にだけではありません。ここに語られているのはむしろ、教会に聖霊が満ちたということなのです。聖霊なる神様が教会に満ちて下さる時、教会は揺れ動くのです。私たち一人一人がみ言葉によって揺さぶられるように、教会も揺さぶられるのです。ある意味で動揺するのです。新しいことを示され、問いかけられて、それまでと同じ歩みを続けることができなくなるのです。どうしたらよいのだろうか、という不安や動揺が生じるのです。私たち一人一人が、そのように揺さぶられることを通して打ち砕かれ、そして慰められ、新しく生かされていくように、教会もそういうことを通して新しくされていくのです。最初の教会もそのように聖霊に満たされて新しくされたことによって、大胆に神の言葉を語りだしたのです。
試練の中で
最初の教会は、ペンテコステに弟子たちに聖霊が降ったことによって生まれました。使徒言行録2章には、聖霊に満たされた彼らの力強い伝道によって、その日に三千人ほどが洗礼を受けて教会に加えられたと語られています。そして3章の始めのところには、ペトロとヨハネとが、エルサレム神殿の門前で、生まれつき足が不自由だった男を癒したことが語られています。この奇跡に驚いて集まって来た多くの人々にペトロは、イエス・キリストのみ名こそがこの人を癒したのだ、主イエスこそ神が遣わして下さった救い主メシアであると語りました。ペトロのこの伝道によってさらに多くの人々が主イエスを信じ、教会に加えられました。生まれたばかりの教会によってこのように力強い、目覚ましい伝道がなされていったのです。しかしそこには妨害も起こってきました。ペトロとヨハネは神殿の責任者たちによって逮捕され、ユダヤ人の議員、長老、律法学者たちの取り調べを受けたのです。しかし二人はそこでもひるむことなく、主イエスを力強く証ししました。捕えた者たちはどうすることもできずに、二度とこういうことはするなと脅しただけで彼らを釈放しました。そして本日の23節につながるわけで、釈放された二人が仲間たちの所へ行って祭司長や長老たちの言ったことを報告したのです。それが本日の箇所における教会の状況です。つまり教会は今、力強く伝道をしていますが、そのことによって同時に妨害、迫害も始まっているのです。つまりこの場面は、教会が最初の試練に直面した時の様子を語っているのです。29節の「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」という祈りがそのことを示しています。妨害する者たちの脅しによって、思い切って大胆に神の言葉を語ることができなくなるという危機に、教会は直面しているのです。そのような試練、危機の中にある教会が、再び聖霊に満たされ、それによってさらに大胆に神の言葉を語りだしたというのが本日の箇所です。聖霊に満たされることによって、教会は試練、危機を乗り越え、新たに前進していったのです。教会の歩みというのはそういうことの連続です。試練や危機の中でキリストの福音の伝道が妨げられたり停滞してしまう時に、聖霊に満たされることによって教会は新しくされ、危機を乗り越えて前進してきたのです。世界の教会の歴史を振り返るならば、例えば16世紀の宗教改革によってプロテスタント教会が誕生したのもそういう出来事でした。そしてもっと身近なことで言えば、私たちのこの指路教会の139年の歴史においても、そういうことが繰り返されてきたと言えます。様々な試練、危機がありました。最大の危機は昭和26年の教会の分裂です。その危機と停滞の中で、村田四郎牧師が着任し、この群れは聖霊に満たされて新しく前進し、発展していったのです。この教会の歴史においても私たちは、聖霊に満たされて新しくされることを体験してきたのです。
最初の教会の祈り
教会が聖霊に満たされて揺り動かされ、新しくされ、ますます大胆に神の言葉を語っていった、そのことは、試練や危機の中にある教会の人々が心を一つにして神に祈った、その祈りに神様が応えて下さったことによって実現しました。本日の箇所にもその教会の祈りが記されています。教会が聖霊に満たされ、キリストの福音を大胆に宣べ伝えていくことを願う私たちは、ここに記されている最初の教会の人々の祈りを見倣いたいと思います。彼らは何を祈ったのでしょうか。 24節から30節にその祈りの言葉が記されているわけですが、注目すべきことは、彼らは「私たちを聖霊で満たしてください」と祈ったのではなかったということです。この祈りは先ず、「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」という信仰の告白から始まっています。主なる神様が天地の全てを造られたことを先ず告白しているのは、その主がこの世界と人間とを今も支配し、導いておられるという信仰を言い表すためです。その主なる神様が、聖霊の働きによって僕であるダビデの口を通して語られた預言が25、26節です。「なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう」。これは詩編第2編の言葉ですが、地上の支配者たちが主に逆らって立つけれども、それは虚しい企てだ、ということを語っています。その預言がつい先ごろ現実となったのです。それが27、28節です。「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです」。つまり主イエス・キリストが十字架につけられて殺されたことです。主イエスは、神様が油を注がれた聖なる僕、つまり神様がお遣わしになった救い主でした。地上の支配者たちはその救い主イエスに逆らい、十字架につけて殺してしまったのです。しかしそれは、既に神様が預言しておられたことであり、「実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたこと」でした。まさにこのことを通して、私たちのための神様の救いのご計画が実現したのです。主イエスの十字架の死は、神様の独り子でありまことの神であられる主イエスが、父である神様のみ心に従って人間となり、僕となって徹底的に仕えて下さることによって、神様に背き逆らっている罪人である私たちを救って下さる、その神様のみ心によることだったのです。地上の支配者たちは主イエスを殺して排除するという自分たちの企てを実現したかに見えましたが、実は神様のご計画こそが実現したのです。そのように、人間がどんなに力を振るって神に逆らい、その力が支配しているように見えても、この世界を、また私たちの歩みを、本当に支配し、導き、み業を行なっておられるのは主なる神様なのだ、という信仰を、教会の人々はこの祈りにおいて告白しているのです。そしてこの信仰のゆえに、今自分たちが体験している試練、危機の中でも、全てを支配しておられる主がみ心を示し、み業を行なって下さるようにと祈っているのです。それが29、30節です。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」。教会は今、支配者たちの脅しを受けています。福音の伝道を妨げる力に取り囲まれています。その中で教会は、自分たちの工夫や才覚で事態をどうにかしようとするのではなくて、天地を造り今も支配しておられる主なる神様のみ手に委ね、神様がどうにかして下さることを信じて、試練の中でも御言葉を、キリストの福音を語らせ、主イエスの名によるみ業を行なわせて下さいと祈ったのです。この祈りに主が応えて下さって、彼らは聖霊に満たされ、大胆に神の言葉を語りだしたのです。
伝道のための祈り
私たちはこの祈りを見倣いたいと思います。この祈りを私たちも祈るとは、試練や危機の中にあっても、主なる神様のご支配と導きを信じ、主イエス・キリストによる救いが、人間の妨害や敵対に打ち勝って前進していくことを信じ、それゆえに私たちに御言葉を宣べ伝えさせて下さいと祈ることです。このような伝道のための祈りによってこそ、教会は聖霊に満たされるのです。伝道のための祈りに満たされることが聖霊に満たされることだと言ってもよいでしょう。聖霊に満たされた群れは、主なる神様の、この世界全体に対するご支配を信じ、神様の独り子イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しの恵みを信じ、そして父なる神様が主イエスを復活させて下さったことによってその救いが死の力にも勝利して確立していることを信じ、主イエスによる救いを告げる福音が、人間のいかなる妨害や敵対、迫害によってもおさえつけられることなく前進していくことを信じるのです。そして、その福音の前進のために自分たちが用いられていくことを祈り求めていくのです。
聖霊を正しく信じ、祈り求めよう
聖霊に満たされるためには、先ず聖霊を信じなければならない、と先程申しました。聖霊を信じて祈り求めることが大切だとも申しました。しかし聖霊に満たされることは、「聖霊なる神様、私たちに降り、満ちてください」と祈り求めることによって実現したのではありませんでした。最初の教会が最初の試練の中で聖霊に満たされたのは、今見てきたように、主なる神様が天地の全てを造り支配しておられることを信じ、その独り子であり私たちの救い主である主イエス・キリストによる救いを信じ、キリストの福音の伝道のために自分たちを用いて下さいと祈り求めたことによってだったのです。私たちの救いは、またこの世の全ての人々のための救いは、父なる神様とその独り子主イエス・キリストによって実現しています。その救いに私たちを、そしてさらに新たな人々をあずからせて下さるのが聖霊なる神様です。それが聖霊の「働き」です。私たちの教会が受け継いでいる信仰においては、この聖霊の「働き」を見つめることに重きが置かれています。それはつまり、私たちを父なる神のご支配の中で生かし、独り子主イエスによる救いにあずからせ、その救いを宣べ伝えるために用いて下さる方として聖霊を見つめることを大切にしている、ということです。言い換えれば、三位一体の神様の相互の関係の中でこそ聖霊を見つめようとしているのが私たちの信仰の特色なのです。父なる神と主イエス・キリストと聖霊の相互の関係を見失って、聖霊の存在を体験することだけに思いが向かうと、聖霊を正しく信じることができなくなり、オカルトの世界にはまり込んでいくことにもなるのです。霊的な体験が全て聖霊の働きなのではありません。私たちは聖霊の働きと、そうでない霊の働きとをしっかりと見分けなければならないのです。父なる神様のご支配と、主イエス・キリストによる救いへと私たちを導き、福音の伝道へと私たちを力づけてくれるものこそが聖霊の働きです。その聖霊なる神様が、私たちに働きかけ、語りかけ、私たち一人一人の内に、また教会の群れ全体に満ちて下さることを信じて祈り求めましょう。それによって、私たちは今よりさらに大胆に、キリストの福音を宣べ伝えていくことができるようになるのです。