「主の弟子となる」
王艾明(ワンアイミン)牧師・教授(南京金陵協和神学院副院長)
翻訳/通訳 松谷曄介 中国語版(PDF) >
・ 旧約聖書: 詩編 第139編1-6節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第1章43-51節
主にある兄弟姉妹の皆さんに、平安がありますように。中国のキリスト者にとって、日本は近くて遠い国ですが、この度このようにして生まれて初めて日本に来ることができました。聖霊のこの不思議な導きに心から感謝しております。私が今日皆さんに語る御言葉の証しは、中国のキリスト者として考え、感じていることです。主にある日本のキリスト者の皆さんにもご理解いただき、また祈っていただきたいと願っております。
さて詩編139編1~6節は、私たち人間と、いと高き無限の神との関係を言い表しています。キリスト者の霊的命の深みにおいて、神と私たちとの関係はそのようなものなのです。万物をご覧になるいと高き方は、いつでも・どこででも私たちを見ていて下さいます。もし私たちが主なる神を畏れ敬う心を持つことができれば、私たちはそのことを知ることができます。
今日の教会生活において、私たちがどのようにして真に敬虔や謙虚さを養うかということは、この世の権威に従うか、それとも一切の権威を主の御言葉の上に置くかにかかっています。そうでなければ、私たちキリスト者は疑いのままでいるか、立場を保留するか、または神様に反抗するかのいずれかだからです。中国のキリスト教の現状に則して言うならば、私たちは二つの大きな課題と、一つの信仰的な絶対的原則を持っています。
第一の課題は、広範にわたる社会の底辺層の中に広がっている「宗教混交(シンクレティズム)」です。神への畏れと現実生活における直接的・実際的要求とが結び付くことで、病気を癒したり悪霊を追い出したり、一時的に何かの必要を解決できるといったような力が、神様の霊的な守りと見なされてしまっています。このため、主なる神様に対する畏れというものは、しばしば、民間信仰と結び付きやすいのです。
第二の課題は、都市部のエリート層や知識階層の出現に伴う道徳相対主義(Moral relativism)です。私たちと主なる神様の関係という唯一の真理が軽視され、中国人はユダヤ人と同様に神からの直接的啓示を得ることができると思いこみ、聖書を信仰の基盤とする必要がなくなってしまいます。その結果、文化主義的聖書観が一部の知識人エリートたちの中に広がり、真理問題の相対主義が起こって来ているのです。
一つの信仰的な絶対的原則というのは、次の事です。すなわち教会は正しい信仰によって信徒たちを牧さなければなりません。主なる神は万物の創造主であり、世界と歴史の統治者でもあります。主を畏れ敬うことは、良き弟子となるための第一歩です。社会・政治・文化上のいかなる変化の中にあっても、この畏れ敬う心こそは、キリストに対する純粋で揺るがない信仰の基盤となります。
それでは、どのようにして主なる神の弟子となることができるのでしょうか。
ヨハネによる福音書1章43~51節の御言葉にある、イエス・キリストがフィリポとナタナエルを召し出した出来事の中に、主の弟子となるための一つの秘訣が示されています。「わたしに従いなさい(1:43)」という主の御言葉にこそ、信仰の真理が示されています。ひとたび神によって選ばれるということは、絶対的な神の恵みです。キリスト教信仰の伝統における「服従」とは、まさにキリストへの従順に生きることなのです。
主なる神と私たちの関係が、イエス・キリスト対する私たちの服従として表されて、はじめて私たちは主の弟子となることができます。これは、二千年余りにわたって、教会がこの世俗の世界の中で描き出してきたすばらしい証しの光景です。イエス・キリストは、御自身が選び招かれたフィリポとナタナエル、またペトロやパウロなどの初代教会の弟子たちに恵みを賜り、神と人との関係をはっきりとお示しになりました。教会は助け主である聖霊の導きによって、このようにして成長してきたのです。主の弟子となることは、このようにして始まりますが、しかし更には主なる神の福音と真理を伝えるという大きな務めを担い始めることでもあります(マタイ福音書28章18~20)。すべての人々の中から選び招かれた祝福された者は、キリストに倣い、自分自身も全世界に出て行き、キリストの福音を証し伝えるものとされます。代々にわたる弟子たちの群れはこのようにして奮い立ち、救いの真理を宣べ伝え始めたのです。
今日の中国教会が直面している課題は、いかにして主の弟子として歩んでいくかということです。すなわち、どのようにしてキリストに倣っていくのか、どのようにしてキリストの真理を伝えていくのかという課題です。主の弟子となるために、私たちは、畏れ敬いと謙虚さとをもって主を仰ぎ見、祈りの中で聖霊の導きに従いながらキリストに倣うことから始めなければなりません。また私たちは、唯一の真理に堅く立ち、あらゆる人為的な虚しい主義主張や誤った教えを乗り越えることです。
私はかつてヨーロッパで何年も過ごしました。その中で、メディアを通して、中国国内では知る事のできない多くのことを知ることができました。特に政府とその体制の枠組みの中にある多くの問題です。私は自分自身の国と政府のことで非常に悲しみ嘆いていておりました。ここ数年来、中国は経済発展にともない、メディアに対する政府の制限が次第に緩くなってきており、知識人たちは限定的ながらも言論空間や批判する権利を獲得し始めています。そのため今では、中国国内のメディアでも多くの問題に関する報道を見ることができるようになりました。現在の中国は、一方では勤勉に働いて大きな富を生み出し、貧困を脱して豊かになる人々がどんどん増えています。しかし他方で、汚職や腐敗が驚くほどはびこるようになりました!このように社会全体が道徳的バランスと信頼性を失い、粉ミルク汚染や手抜き工事といった問題や、司法上の冤罪事件などが後を絶ちません。根本的には、信仰を喪失したため、このような無法状態が生じたと言えるでしょう。中国が人類のために道義的責任を担い「王道」を歩むのか、それとも見かけや嘘に満ちた極端な民族主義的政権となり「覇道」を歩むのか、今日全世界が中国に注目しています(※訳者註)。前者の「王道」は祝福に満ちた恵みの道であり、後者の「覇道」は神の創造の秩序に反する滅亡の道です。中国においてキリストの弟子となるということは、神の正義[公義]と戒め、愛を国家・社会・一般民衆の守るべき基準、また平和の希望とするために努めることを意味しています。
最後に、キリスト教信仰の核心部分である三位一体の神という神観念が、中国教会にとって神の選びと招きを理解する鍵である、と申し上げたく思います。教会であれ個人であれ、十字架のキリストを信仰全体の中心としなければなりません。このようにしてこそ、主の弟子とされた者たちは、福音を真に中国全体に伝えることができ、信仰多元主義がもてはやされ、ポストモダンの危機にある今日であっても真理のために良き証しを立てることができるのです。
主が日本の教会に祝福をお与えくださいますように。また日本と中国に祝福をお与えくださいますように!アーメン。
※訳者註:
「王道」と「覇道」は、孫文が1924年(大正13年)11月28日に神戸で行った「大アジア主義講演」の中で述べた有名な発言。日本が「西洋的覇道」を歩むか、それとも「東洋的王道」を歩むかと説いた内容を、ここでは中国が「王道」を歩むのか、それとも「覇道」を歩むのか、ということに転用している。