主日礼拝

信仰・希望・愛

「信仰・希望・愛」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 103編1-22節
・ 新約聖書: コリントの信徒への手紙一 第13章1―13節
・ 讃美歌:56、404、451

尊ばれるべき三つのこと
 「信仰と希望と愛」という題でお話をします。この題は、先ほど朗読された新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の第13章の最後の13節から取られています。そこには「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」とあります。いつまでも残る三つのものとして、信仰と希望と愛があげられているのです。この三つは、キリスト教において尊ばれていることの代表です。同じように三つの尊ばれるべきことをあげた言葉として「真善美」があります。真実の真、善行の善、そして美しいの美です。真実なること、善なること、美しいこと、その三つは、ギリシャ文明において尊ばれていたものです。それに対して、聖書、キリスト教においては、信仰と希望と愛が尊ばれており、それは本日のこの箇所から来ているのです。
 その三つの中で、最も大いなるものは愛であると言われています。そして事実、この箇所にはもっぱら「愛」のことが語られています。本日の13章は「愛の讃歌」とも呼ばれています。キリスト教は「愛の宗教」と言われるわけで、聖書において愛は最も大事なテーマですが、その聖書の中でも、愛について集中して語っている代表的な箇所がここなのです。この箇所を読むことによって、聖書が愛について何を語っているのかを知ることができるのです。

愛がなければ一切は空しい
 1~3節のところには、たとえどんなに素晴しいことができたとしても、愛がなければ一切は空しい、と語られています。1節には「人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも」とあります。異言を語るというのは、一般の人々には分からない不思議な言葉を語る、ということです。これを今の私たちの生活になぞらえてみるなら、外国語を自由に話せることに例えることができるでしょう。外国語というのは、分かる人どうしでは話が通じるけれども、分からない人は何が語られているのか全然理解できずにおいてけぼりになるわけです。「異言が語られる」というのはそれと似た状況です。何を言っているのかさっぱり分からない、でも通じている人には通じているのです。外国語だけではありません。年配の方々は、若い人たちがパソコンや携帯や今流行のスマートフォンなどについて話しているのを聞いて同じように感じることがあるのではないでしょうか。知識を持っている人の言葉は、知識のない人にはチンプンカンプンということがあるのです。だからそのような言葉を語る時には愛が必要です。分かる人どうしの間だけで納得して、他の人をおいてけぼりにするような愛のない言葉は、「騒がしいどら、やかましいシンバル」のように、迷惑なだけのものなのです。私のこのお話も、皆さんにとってどらやシンバルになってしまわないように気をつけて語っていきたいと思います。
 2節には「たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも」とあります。「預言する」というのは、ここでは未来のことを予告することではなくて、今の「異言」とは対照的に、人々に分かる言葉で説明するということです。「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じて」いて、それを分かりやすく説明することができる、そういう賜物つまり才能を持っていても、ということです。本当に分かっている人の話というのは分かりやすいものです。分かりにくくて難しい話というのは、実は語っている人自身が分かっていないんだ、と私は思うことにしています。ということは、今日の私の話が分かりにくかったら、それは皆さんのせいではなくて私のせいだということです。そしてここに語られているのは、私がたとえ皆さん全員をうならせるような素晴しく分かりやすい話をすることができたとしても、愛がなければなんの意味もない、ということです。
 この神秘とか知識に通じているというのは単に博学であるということではなくて、信仰における事柄です。それゆえに2節後半は「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも」と続いていきます。「山を動かすほどの完全な信仰」というのは、イエス・キリストが「からし種一粒ほどの信仰があれば、山を動かすことができる」とおっしゃったことから来ています。主イエスは吹けば飛ぶようなからし種一つほどの信仰があれば山を動かすことができるとおっしゃいましたが、私たちにとっては、山を動かすという奇跡を実現することができるのは「完全な信仰」だと感じられます。しかしそういう完璧な信仰を持っていたとしても、そこに愛がなければ無に等しいのです。さらに3節には、「全財産を貧しい人のために使い尽くそうとも」とあります。全財産を貧しい人のために使い尽くすというのは究極の愛の行為です。それほどの愛に生きることができる人はめったにいません。でもそこにも愛がないことがあるというのです。愛がなくてどうしてそんなことができるのでしょうか。次の「誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」と合わせて考えると少し見えてくるかもしれません。「わが身を死に引き渡す」それは自分の命を犠牲にするということです。全財産よりもさらに大事な命までも人のために犠牲にする、そこにも、愛がないことがある。「誇ろうとして」という言葉がそれを理解するためのヒントです。自分の愛の行為を誇ろうとして、それを人に見せびらかし、人々から、あの人はすばらしい愛の人だという賞賛を受けるためになされるとしたら、それは本当の愛による行為ではない、だとすれば素晴しい愛の行為に見えるそれらのことも何の益もない、と言われているのです。

愛するとは
 このようにここには、私たちの歩みにおいて愛が、しかも見せ掛けでない真実の愛が必要であり、それなしにはどんなに素晴しい能力も、才能も、また行いも無益だ、ということが語られています。そのようになくてはならないものである愛とはどのようなものなのでしょうか。それが4~7節に語られています。聖書は、真実の愛とはこういうものだ、と語っているのです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。ここに並べられていることを味わっていくことによって、聖書が愛というものをどのように考えているかが分かります。そしてそれが私たちが普通愛について抱いているイメージとどう違うのかも見えてきます。「忍耐強い、情け深い、ねたまない」これらは一続きで考えることができるでしょう。人に対して、情け深くあり、自分にとって不快なこと、傷つけられるようなことがあっても、怒ったり憎しみを抱いたりするのでなく、忍耐強く、寛容であり続けること、それが愛です。そして「ねたまない」は次の「自慢せず、高ぶらない」に続いていきます。「ねたむ」ことと「自慢する」ことは裏表の関係にあります。自慢したいという思いがねたみを生むのです。あるいは、「あの人は自慢している」という思いが「ねたみ」なのです。このねたみと自慢の根本には「高ぶり」つまり傲慢があります。人よりも高い者でありたい、あるいは、人が自分よりも高い者であることに我慢がならない、という思いが、ねたみや自慢を生むし、次の「礼を失すること、自分の利益を求めること、いらだつこと、恨みを抱くこと」などもそこから生じてくるのです。それゆえに愛するとは高ぶらないことです。高ぶらないとは、自分のことだけを考えるのでなく、人の利益を思い、いらだったり恨みを抱いて人に対して無礼な振る舞いをしないことです。高ぶりに陥らずにそのように生きることが愛することなのです。
 次の6節の「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」は少し種類の違うことです。何を喜びとするか、ということが見つめられています。不義ではなく真実を喜ぶ。それは嘘をついて人を騙したり、真実を隠ぺいするなどのごまかしによって事を運ぼうとするのでなく、正直に生きることをこそ喜ぶということでしょう。愛するとは、人に対して正直であり、策を弄してごまかすことをしないことなのです。そして7節には「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」とあります。「忍び」と「耐える」とを合わせれば「忍耐」となります。その忍耐に挟まれて、信じること、望みを持つことがあげられています。愛するとは、人との関わりにおいて、忍耐しつつ、相手を信じ、相手との関係に望みを抱き続けることです。忍耐できなくなり、相手を信じ、望みを抱くことができなくなる時に、私たちは愛することをやめてしまうのです。

愛の出番
 この4~7節は私たちに、愛するということは単に「好きだ」という感情の問題ではない、ということを教えています。私たちは誰かを理屈抜きに好きになることがあります。男女の恋愛感情においてだけでなく、同性であれ異性であれ、人として好きになることがあるのです。しかしそれと愛することとは違うのです。愛するというのは、自然に起る感情ではなくて、自覚的に、意志をもって決断し、忍耐をもってそれを実行していくことです。理屈抜きに好きだ、という関係においては、「愛するとは」などと考える必要はありません。むしろ、好きだ、という思いが自然には生まれて来ないような相手との関係においてこそ、ここに語られている「愛」の出番があるのです。好きだ、という思いが自然には生まれてこない相手、それは私たちが、どうもあの人は苦手だ、意見が合わない、好きになれない、と思う人でもあります。けれどもそれだけではありません。例えば愛し合って結婚した夫婦であっても、共に暮らしていく中で、お互いのそれまで見えなかった面が見えて来て、いろいろなすれ違いが起ります。こんなはずではなかった、期待していたのとは違う、ということも生じて来るのです。その時にこそ、愛が試されるのです。意志をもって、忍耐しつつ相手を愛し続けることができるかが問われるのです。そこにおいてもなお「好きだ」という感情のみを追い求めていくなら、そのうち破局を迎えるしかないでしょう。愛し合って結婚した夫婦においても、最初の燃え上がるような感情が冷めていった所に、真実の愛の出番が訪れるのです。
 真実の愛の出番は男女、夫婦の関係においてのみ訪れるのではありません。私たちは、自分の身近にいて、顔を見知っている人、直接出会うことのできる人のことは心配するし、何かあれば助けよう、支えようと思います。それもまた、自然に起ってくる感情です。しかし直接知らない人、出会う機会のない人、あるいはいろいろな意味で住む世界が違う人のことはなかなかそのように親身になって覚えることができません。何か目立つ出来事があれば、一時はそれらの人々のことを心配し、何かしようと思いますが、時が経てば次第にその思いは薄れ、失われていくのです。東日本大震災から半年が過ぎましたが、直接の被災地で生きているわけではない私たちにおけるこれからの課題がそこにあると思います。今はまだ、あの地震による被災の現実が強く私たちを捉えています。一昨日は八景島の駅の近くのお宅で磯子・金沢地区集会が行われましたが、その近辺で、横浜でも生じた液状化の聞きしに優るすさまじさを見て驚かされました。また原発の事故はまだ収束したわけではなく、この横浜でも新たに放射線量の高い所が見つかったりして、不安が広がっています。これらのことは直接私たちの問題として意識されているわけです。けれどもこれからは次第に、あの震災の影響は私たちの生活から、少なくとも目に見える形ではなくなっていくでしょう。液状化の跡も、修復工事がなされれば消えていくでしょう。放射能の不安は長く続いていきそうですが、次第に落ち着いてはいくでしょう。そうなっていった時に、私たちが、直接見知らない被災地の人々のことをどれだけしっかりと意識し続けることができるか、時が経てば経ったで新たな問題に直面していくその苦しみや悲しみをいかに思いやり、継続して覚え、支援し続けることができるか、ということが問われていくのです。それは私たちが真実の愛をもって、つまり意志と決断をもって、遠くにいる見ず知らずの人々を愛し続けることができるかが問われていくということです。まさにこれから、長い期間にわたって、真実の愛の出番が私たちにおいてあるということです。
 そして実はそのように私たちが意志と決断とをもって愛するべき人は、遠くの被災地にだけいるわけではないでしょう。もっと身近な所にも、私たちが出会い、交わりを持ち、愛するべき人がいるのではないでしょうか。愛するべき人を愛して生きるためには忍耐が必要です。寛容さが必要です。高ぶりを捨てることが必要です。自分が好きだと思える人々の範囲の中だけに閉じこもり、その他の人々との交わりをシャット・アウトしていては、その愛に生きることはできません。心の扉を開き、見知らぬ人を受け入れ、新たな人との出会いを喜び、共に生きていくこと、そういう出会いと交わりによって自分が変えられていくことをよしとすること、それこそが、私たちの歩みにおいてなくてはならない愛なのです。そういう愛がなければ、どんなに豊かな賜物、才能を持ち、素晴しいスキルを持ち、あるいは深い信仰を持ち、誰よりも素晴しい愛の奉仕をすることができたとしても、一切は無益なのです。

「今」と「そのとき」
 今7節までをご一緒に読んできました。ここまでは、初めて聖書を読むという方も、聖書が愛について教えていることのイメージをある程度理解することができ、愛するとはどういうことかを考えさせられる箇所であると言えると思います。私がお話してきたことも、一つの読み方としてご理解いただけるのではないかと思うのです。けれどもこの後の8節以下については、いったい何を語ろうとしているのかよく分からない、という感想を持つ方が多いのではないでしょうか。8節は「愛は決して滅びない」と始まります。これは最後の13節の、いつまでも残る三つのものの中で最も大いなるものは愛である、ということにつながります。しかしその間に語られていることは、「完全なものが来ると部分的なものは廃れる」とか、「幼子だった時と成人した今」とか、「はっきり知られているようにはっきり知ることになる」とか、何のことかさっぱり分からないことばかりです。ここをどう理解すればよいのでしょうか。
 そのための鍵となるのは12節です。ここには、「今は」と「そのときには」という言い方が二度繰り返されています。このことこそ、ここに語られていることの中心です。ここは「今」と「そのとき」との対比を語っているのです。8~10節に語られているのもその対比です。つまり「完全なものが来たときには」というのが「そのとき」のことです。それに対して「今」は、私たちの知識や預言の時であり、それは一部分でしかないのです。だから「完全なものが来たとき」には、それらの部分的なものは廃れるのです。11節の、幼子だった時と成人した今との対比も同じことを語っています。幼子だった時と成人した今では、話していることも考えていることも違う、そのように、「今」と「そのとき」では大きな違いが生じるのだ、ということです。12節前半ではその違いが、鏡におぼろに映ったものを見ているのと、顔と顔とを合わせて見ることの違いに例えられています。昔の鏡は今のように鮮明に映し出すことができなかったのです。今は鏡に映ったようにおぼろげにしか見えていないが、そのときには、はっきりと顔と顔を合わせて見るようになるのです。12節後半ではそれが、今は一部しか知らないが、そのときには、「はっきり知られているようにはっきり知ることになる」のだと言われているのです。このように、8節から12節は一貫して、「今」と「そのとき」の対比を語っています。その「今」とは、文字通り、私たちがこの世を生きている今です。その今を、私たちは、真実の愛に生きるという課題を持って生きているのです。それでは「そのとき」とは何時のことでしょうか。それを知るためにはこの手紙の全体を読む必要があるのですが、中でも大事なのは第15章であり、さらにその15章の終りの方、50節以下です。今ここで読むことはしませんので、それぞれ後で読んでいただきたいのですが、そこには、この世の終りに主イエス・キリストによる救いの完成が与えられることが語られています。その救いの完成とは、イエス・キリストの復活にあずかって、私たちも復活して朽ちないもの、つまり永遠の命を生きる者とされる、ということであり、それによって死の力に対する神様の恵みの勝利が完成する、ということです。神様の独り子である主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、父なる神様の力によって復活し、朽ちない、永遠の命を生きる者とされた、そのことによって私たちの罪の赦しが実現し、復活と永遠の命の約束が与えられている、とこの手紙は、そして新約聖書の全体は告げています。そのイエス・キリストによる救いが完成するのがこの世の終りの時であり、それがここでの「そのとき」なのです。神様によるその救いの完成の時には、完全なものが来るのだし、顔と顔とを合わせて見るようにはっきりと見ることができ、はっきり知ることができるようになるのです。その時が来るまでの間である「今」は、私たちの知識も一部分だし、幼子のように幼稚なことしか語ることも考えることもできないし、鏡におぼろに映ったものしか見ることができないのです。
 「今」と「そのとき」とのこの対比は、「愛すること」について語られています。愛することにおいても、「今」と「そのとき」との違いがあるのです。7節までに語られていたのは、愛するとは本来このようなものであり、それなくしては私たちの全ての営みは空しい、ということでした。しかし「今」、私たちはその愛をほんの一部、おぼろげにしか見ることができていないし、持つことができません。愛することにおいて私たちは幼子のような未熟な者でしかないのです。愛するとはこういうことだと4~7節に語られていますが、それを読む時、私たちは、自分の愛がいかにこれとかけ離れているかを感じずにはおれないのです。私たちの愛は、感情に左右されて揺れ動き、意志と決断をもって忍耐して愛し続けるという真実の愛にはなっていないのです。「今」、私たちはそういう状態です。しかし聖書はその私たちに、「そのとき」が来るのだという約束を与えてくれているのです。世の終りの救いの完成の時には、真実の愛をはっきりと知り、行うことができる者とされる、そういう希望が与えられているのだ、と語っているのです。

信仰と希望と愛
 そしてそこにおいて、12節の最後の、「はっきり知られているようにはっきり知ることになる」という言葉が大きな意味を持ってきます。「そのとき」には、つまり救いの完成の時には、はっきり知ることになる、つまり本当の愛をもって愛することができる者となる、その約束がここに語られています。しかしそこにおいてもう一つのことが示されているのです。「はっきり知られているように」ということです。私たちは今既に、はっきり知られているのだ、私たちのことを、はっきり知っている方がおられるのだ、ということです。それは、今既に私たちのことを、真実の愛をもって愛して下さっている方がおられるのだ、ということです。今、この地上を生きている私たちは、愛において未熟な者であり、まことに不完全な、部分的な愛しか持つことができない者です。しかしそのように真実の愛からかけ離れている私たちを、意志と決断をもって愛し、忍耐し、どこまでも信じ、望みを持ち続けて下さっている方がおられるのです。その方こそ、主イエス・キリストの父なる神であり、その神の愛の現れが、私たちの救いのために十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストなのです。神様は独り子イエス・キリストの命を与えて下さることによって、私たちを、今、徹底的に愛して下さっている、そのことを知り、信じて、その神様の愛を受けて生きることが私たちの信仰です。そしてその神様の愛が今与えられていることを信じるなら、神様がその愛によって「そのとき」、世の終りの救いの完成の時に、私たちの愛をも真実なものとして下さることを希望をもって待ち望むことができるのです。つまり、信仰に基づく希望が与えられるのです。このようにして、13節の結論に達することができます。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」。その三つの要は愛です。しかもそれは、私たちの持っている不完全な愛ではなくて、神様の愛です。神様の完全な愛が与えられているから、私たちはその愛を信じる信仰に生きることができるし、その信仰に基づく希望を抱くことができるのです。そしてこの神様の愛に基づく信仰と希望によって支えられているからこそ、私たちも、隣人との関わりにおいて、意志と決断をもって、忍耐しつつ、相手を信じ、相手との関係に望みを抱き続けることができる、つまり、愛に生きることができるのです。

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