主日礼拝

わたしの福音

「わたしの福音」 牧師 藤掛順一 

・ 旧約聖書:詩編第1編1-6節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第2章1-16節
・ 讃美歌:14,113,440

異邦人を裁いているユダヤ人
 先々週の礼拝において、ローマの信徒への手紙第2章1~11節からみ言葉に聞きました。本日は、12~16節をも含めて読みたいと思います。もともと11節と12節の間には切れ目はないのであって、1~16節が一つのまとまりをなしています。本日はその全体を読むのです。1~11節に関しては、先々週にお話ししたことと重なる点がありますが、それをもう一度確認しつつ16節まで読んでいきたいと思います。
 1節に「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」とあります。この手紙を書いたパウロはここで、他人を裁きながら自分も同じことをしている人々を厳しく批判しているのです。パウロが批判しているのは、自分もその一人であるユダヤ人たちです。パウロ自身もイエス・キリストと出会うまではそうだったのですが、ユダヤ人たちは、自分たちは神に選ばれた民、神の民であると言って誇り、他の人々を異邦人と呼んで、あいつらは神の民でない、神に従っていない罪人だ、と裁いていたのです。ユダヤ人がそのように異邦人を裁く根拠となっていたのが、12節以下で論じられている律法でした。律法は、主なる神がイスラエルの民つまりユダヤ人に、神の民として生きるための掟、戒めとしてお与えになったみ言葉です。ユダヤ人たちは、自分たちは神から律法を与えられている、だから神の特別な顧み、祝福を受けているのだと思ってそれを誇りとし、律法を与えられていない異邦人を、神に正しく仕えていない罪人として裁いていたのです。パウロは1章において、ユダヤ人が異邦人の罪として裁いていたことの代表として偶像礼拝と同性愛をとりあげました。これらはいずれも律法において禁止されていることであり、しかし当時の異邦人たち、具体的にはギリシャ、ローマの人々の間によく見られたことでした。ユダヤ人はこれらのことを理由に異邦人を裁き、彼らはどうしようもない罪人だと言っていたのです。パウロはこの二つを取り上げることによってユダヤ人たちのその思いに同調しているように思わせた上で、「あなたがたユダヤ人は異邦人を罪人として裁きながら、自分でも同じことをしているではないか」と爆弾発言をしているのです。パウロが見つめているのはこういうことです。ユダヤ人たちは確かに、目に見える像を拝むという狭い意味での偶像礼拝はしていない。しかし偶像礼拝とはそういう外面的なことに留まるものではない。創造者である神と被造物であるこの世のものとの違い、隔たりを見失い、神を自分のもとに引き下ろし、自分の思いや願いを適えてくれる都合のよい存在としようとすることこそが偶像礼拝の本質である。ユダヤ人たちは神を自分たちの神としてしまうことによってそういう偶像礼拝に陥っている。また同性愛も、ユダヤ人たちは確かにそれをしていないが、その本質は、神がお造りになった人間どうしの関係における秩序を逆転させ、破壊することであって、1章29節以下に並べられている、不義、悪、貪り、悪意、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念、陰口に陥っていること、そして人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事を企み、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲であることはまさに、あるべき人間関係の逆転、破壊であって、同性愛と本質は同じだ、ということです。つまりパウロに言わせれば、ユダヤ人たちは神の律法を与えられていることを誇り、それによって異邦人を裁きながら、自分自身はその律法の精神を無にしており、律法が本当に求めていることを行なっていないのです。そういう彼の考えを端的に表しているのが13節です。「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」。ユダヤ人たちは律法を聞いているがそれを実行していない、律法はそれを実行しなければ神の前に正しい者となることはできないのであって、ユダヤ人が律法を与えられていると誇り、異邦人を裁きながら、その精神に反することをしているのは弁解の余地のない罪だ、とパウロは言っているのです。

神は分け隔てをしない
 パウロはこのように異邦人を裁いているユダヤ人を厳しく批判していますが、それは、ユダヤ人が抱いている、自分たちは選ばれた民だという鼻持ちならない優越感を打ち砕くことが目的なのではありません。パウロがここで語ろうとしていることの中心は11節の「神は人を分け隔てなさいません」ということです。神は人を分け隔てしない。このことは、この世の生活における幸福と不幸ということで考えるなら、果してそうだろうか、という疑問が湧いてきます。私たち人間には、人によって様々な賜物の違いがあり、皆同じではありません。ある人には出来るけれども他の人にはできないことが沢山あります。また生まれて来た状況、例えば豊かな家庭に生まれるか貧しい家庭に生まれるかによって、あるいは国や時代の違いによって、人生は随分違ったものとなります。人間は決して平等に造られてはおらず、いろいろな意味で恵まれている人とそうでない人がいることを私たちは感じるのです。そういう意味で私たちは、神が人を分け隔てし、ある人をえこひいきしているように感じることがあります。しかしパウロがここで語っているのは、この世の生活における幸福と不幸についてのことではありません。2節以下で繰り返し語られているのは、神が人を正しくお裁きになる、ということです。神の裁きが見つめられているのです。12節にも「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます」とあります。律法を知らない人たち、つまり異邦人で罪を犯した者は、律法と関係なく、その犯した罪によって裁かれ滅びるのだし、律法の下にある者、つまりユダヤ人で罪を犯した者は、律法違反によって裁かれる、律法を与えられていようといまいと、つまりユダヤ人であろうと異邦人であろうと、罪を犯せばその罪によって裁かれ滅びるのだ、それが神の正しい裁きであって、そこには何の分け隔てもない、神の裁きの前で、その裁きを免除されたり、大目に見てもらえるような人はいない、それが「神は人を分け隔てなさいません」という言葉の意味なのです。この点において、全ての人間は平等です。この世の生活においてどんなに恵まれているように見える人も、あるいは不幸の星の下に生まれて来たとしか思えないような人も、神の前では同じ規準で裁かれるのです。ユダヤ人たちが陥った勘違いは、神から律法を与えられたことで、自分たちが神によって特権を与えられ、神の裁きにおいて他の人々とは違う特別扱いを受けることができると考えてしまって、そのことを誇り、異邦人を裁くようになったことです。神は確かにユダヤ人、イスラエルの民をご自分の民として選んで下さり、彼らをエジプトの奴隷状態から解放して下さり、彼らと契約を結び、十戒を始めとする律法を与えて、彼らが神の民として生きるための指針を示し、また彼らを約束の地に導き入れて下さいました。彼らは確かに神の特別な顧み、恵みを与えられたのです。しかしそれはパウロがこの2章の4節で言っているように、彼らを悔い改めに導くために与えられた憐れみだったのです。悔改めるとは、心と生活の全体が神の方に向き変わることです。神が創造者であり自分は被造物であることを認めて神を礼拝し、感謝し、神に従って生きる者となることです。ユダヤ人が神の民とされ、律法を与えられたのは、彼らを悔い改めへと導こうという神のみ心によってだったのです。その律法を与えられた者たちが悔い改めることをせず、まして自分は神の特別な恵みを与えられていると誇るようになり、他の人を裁くようなことはとんでもない間違いなのです。

律法の命じるところを自然に行う人
 パウロはこのことをさらに明確にするために14、15節でこのように語っています。「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています」。つまり律法を知らない異邦人でも、律法の命じるところを自然に行うなら、それは律法を持っているのと同じだ、ということです。そういう人々は、律法の命じる事柄が自然にその心に記されていてそれを行っている。またそれは良心の働きによることでもある。心の中に良心の声があって、自分の思いや行いをチェックしており、悪いことをしそうになると、それは間違っている、やめなさいと言うのです。そのように心の中の声が、互いに責めたり弁明し合うことの中で、律法が求めていることが行われて行く。そういう人の方が、律法を持ちながら悔改めることをせず、むしろそれを誇りの材料とし、人を裁いている者よりもはるかにましではないか、とパウロは言っているのです。これは、自分たちは神に選ばれた民であり、律法によって神のみ心を知らされているという自負を持ち、その誇りを拠り所としているユダヤ人たちに対する、まことに挑発的な批判です。これを読んだユダヤ人たちはおそらく顔を真っ赤にして怒ったことでしょう。

私たちも陥る思い
 先々週も申しましたが、私たちはこのパウロのユダヤ人たちへの厳しい批判を他人事として見物しているわけにはいきません。パウロが批判しているのは、神が自分に与えて下さった恵みを悔い改めへの招きとして受け止めることをせず、自分の特権として誇り、他の人を裁く材料とするような思いです。それはユダヤ人たちのみのことではなくて、主イエス・キリストによる救いの恵みを与えられた私たちにおいても起ることです。私たちが、キリストによる救いにあずかり、キリストを信じる信仰を与えられたことを、心から悔い改めて神の方に向きを変え、自分が被造物であることを弁えて創造者である神を礼拝し、神と正しい関係を持って、つまり神に従って生きるために与えられた恵みとして受け止めるのでなくて、自分が神の前で立派な者となり、特別な地位や特権を与えられたように思い、信仰を持っていない人々、信じようとしない人々のことを上から目線で見て、「あの人たちは困ったものだ」などと批判し裁くような思いを少しでも持つなら、私たちもこのユダヤ人たちのように、律法を聞いていることを誇るが自分ではそれを行なおうとしない者、悔い改めずに神の豊かな慈愛と寛容と忍耐を軽んじる者となっているのです。そういう間違った思いに陥ると私たちはどうなるのでしょうか。それは、私たちと同じ信仰を持っていない人々によってなされている良い働き、その人々が持っている良心によって、つまり自然に備えられている良いことをしようとする心によってなされている良い業を認めることができなくなるのです。キリストを信じている信仰者のすることのみが良いこと、正しいことで、そうでない人のすることはどこか間違っている、というような、まさに人を分け隔てし、信仰者をえこひいきする思いに捕えられてしまって、世の人々の様々な良い業を公平に、客観的に評価出来なくなるのです。14、15節でパウロが語っているのも、律法を持っていない異邦人だって自分の良心によって正しい業をすることがある、ということです。しかしユダヤ人たちはこのパウロの言葉に怒りを覚える、それは律法を持っている自分たちのすることだけが正しい業だと思っているからです。キリスト者も、このユダヤ人と同じ思いに陥ることがあるのです。

神の裁きの厳粛さ
 パウロはここで、私たちキリスト信者の中にも起って来るそのような思いと対決しています。そのためにパウロがここで強調しているのは、神は裁きにおいて人を分け隔てしない、ということです。人は皆、この世の終わりに、神による裁きを受けるのです。その裁きには何の差別もありません。ユダヤ人であれ異邦人であれ、キリスト信者であれそうでない人であれ、皆等しく、神の裁きの前に立たなければならないのです。神はそこで正しい、公平な裁きをなさいます。クリスチャンだからといってえこひいきすることはなさらないのです。この厳粛な事実をこそ私たちは本日の箇所からしっかり聞き取らなければなりません。それによって、自分がキリスト信者であることを誇ったり、それによって人を上から目線で見て裁いたりする一切の思いを打ち砕かれなければならないのです。私たちに与えられている信仰は、決して、私たちの誇りとなり、自己主張の手段となり、人を裁く口実となるものではありません。そのことを私たちは胆に銘じなければならないのです。

わたしの福音
 それなら、私たちがキリストを信じることにはどういう意味があるのでしょうか。何のために私たちは主イエス・キリストを信じ、教会に連なる者となるのでしょうか。神は裁きにおいてキリスト者だろうとそうでない人だろうと分け隔てをなさらないのであれば、神を信じて従っていくことの意味はないではないか、あさはかな私たちはすぐにそのように思ってしまいます。しかしパウロは本日の箇所の最後の16節で不思議なことを言っています。「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう」。ここでも、パウロが見つめているのは終わりの日の裁きです。神は人々の隠れた事柄をお裁きになるのです。神の裁きにおいては、隠されている事柄が全て明るみに出されるのです。人間の目には隠しおおせても、神の裁きにおいては、私たちの全ての思いや行いが明らかにされるのです。そういう神の裁きの日をパウロは見つめています。それは私たちには大変恐しい、厳しい、救われようのないことに思われます。ところがパウロはそこで「わたしの福音の告げるとおり」と言っています。神の裁きを告げるこの言葉は「わたしの福音」だと言っているのです。福音とは、喜ばしい知らせ、救いの知らせという意味です。しかも「わたしの」福音と言われています。それは、私が宣べ伝えている福音というだけのことではなくて、私がそれによって生かされ、喜びを与えられ、支えられている福音ということでしょう。神が人を分け隔てすることなく、隠れた事柄をもお裁きになることが、「わたしの福音」だとパウロは言っているのです。

キリストの執り成しによって
 どうしてそのように言うことができるのでしょうか。その秘密はこの16節のもう一つの言葉「キリスト・イエスを通して」にあります。神が人々の隠れた事柄をお裁きになる、その裁きは「キリスト・イエスを通して」なされるのです。つまり、神が私たちをお裁きになるその時に、神と私たちとの間に、主イエス・キリストが立って下さるのです。その主イエス・キリストは、私たちの罪を全て背負って私たちの代わりに十字架にかかって死んで下さった方です。本当は私たちが受けなければならない裁き、滅びを、代って引き受けて下さったのです。その主イエス・キリストが、裁きの時に神と私たちの間に立って下さり、私たちのために執り成して下さるのです。そのことをパウロはこの手紙の第8章33節以下でこのように語っています。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。キリスト・イエスを通して神の裁きが行なわれるというのはこういうことです。神の裁きにおいて、私たちがしてきた全てのこと、全ての思いが神の前に明らかになります。そうなれば私たちは罪に定められて滅ぼされるしかありません。しかしその私たちのために、主イエス・キリストが、私たちの全ての罪を背負って、身代わりとなって十字架の死刑を受けて下さった方として、執り成しをして下さるのです。主イエスの十字架の死による罪の贖いに免じて、神は私たちを赦し、義として下さるのです。パウロは終わりの日の裁きをそのようなものとして見つめているのです。それゆえにこれは、「わたしの福音」と呼ぶことができる事柄なのです。この福音を信じて生きているのがキリスト信者です。私たちが主イエス・キリストを信じることの意味はそこにこそあります。神は全ての人を分け隔てなく、その人の行いによってお裁きになります。しかしその裁きはキリスト・イエスを通してなされ、主イエス・キリストが私たちのために執り成して下さるのです。その福音を知らされ、信じているがゆえに、神による裁きの日を、びくびく恐れるのではなくてむしろ待ち望むことができる恵みを与えられているのがキリスト信者、教会に連なる者たちなのです。

福音を信じることによって
 私たちは、神による裁きが主イエス・キリストを通してなされ、その執り成しが与えられるという福音を信じることによってこそ、自分が神の裁きを受ける者であることを、しかもその裁きは、信仰があろうとなかろうと公平になされ、信仰者だからといって何の特権もないのだということを正しく受け止めることができるようになります。パウロ自身も先程申しましたようにもともとユダヤ人であり、神の民であること、律法を与えられていることを誇り、異邦人を裁いていた者でした。つまり自分たちユダヤ人と異邦人は違うのだ、という自負を拠り所として生きていたのです。しかし彼は復活なさった主イエス・キリストとの出会いを与えられ、キリストが十字架の死によって罪人である自分を義として下さり、復活によって新しい命の約束を与えて下さったという福音を知らされたことによって、律法を与えられていることを誇りとし、異邦人を裁いていたユダヤ人としての自負を捨てることができたのです。神は裁きにおいて人を分け隔てせず、異邦人もユダヤ人も同じように神の裁きの前に立つのだという厳粛な事実を受け止めることができるようになったのです。そして神の裁きの前に、何も取り繕うことなく、ありのままの、一人の罪人として立つことができるようになったのです。その自分が、主イエス・キリストによる執り成しによって赦され、救われることを信じたからです。このパウロと同じように私たちも、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって、ありのままの一人の罪人として神の裁きの前に立つという事実を受け止めることができるようになります。そしてその時に、人を裁く思いからの解放が与えられるのです。人を裁く思いは、私たちが自分を誇り、人よりも立派な者となろうとするところに生じます。私たちは信仰すらもそのような誇りの手段としてしまうことがあるのです。そのような思いから解放されるために、私たちは誇りを打ち砕かれなければなりません。信仰者をもそうでない者をも分け隔てすることなく、その行いによってお裁きになる神の厳粛な裁きの前に一人の罪人として立つことによってこそ、私たちの傲慢な心、自分を誇り人を裁こうとする思いは打ち砕かれるのです。そしてそのことは、神の裁きが主イエス・キリストを通してなされるという福音を示されることによってこそ起るのです。

「わたしの福音」によって生きる
 誇りの心、人を裁く思いを打ち砕かれることによって私たちは、他の人のしている良い業、優れた行いを素直に認め、受け入れることができるようになります。ユダヤ人のような誇りに捕えられていると、私たちも、信仰を持っていない人によってなされる良い働きを認め、受け入れることができなくなり、公平を欠いた、えこひいきの目でしかものを見ることができなくなるのです。そういうえこひいきから解放されるためにも、私たちは神の、人を分け隔てしない裁きの前に身を置かなければなりません。信仰があろうとなかろうと、良い業は良い業です。私たちは、信仰を持っていない人によってなされる良い業を喜び、感謝すべきなのです。しかしそれは、信仰などなくても良い業をしていればそれで救われるということでは決してありません。私たちの救いは、神の裁きにおいて私たちのために執り成して下さる救い主イエス・キリストによってこそ与えられます。人間は様々な良い業をするとしても、根本的に神に背き逆らっている罪人であって、自分の良い業によって救いを獲得できる人は一人もいないのです。しかし十字架にかかって死んで復活して下さった主イエス・キリストによる執り成しによって、私たちの救いは既に確かに与えられているのです。パウロが「わたしの福音」と言っているのはそれです。この福音を私たちも「わたしの福音」として信じ受け入れるなら、私たちも、まことに力弱く欠け多く罪深い者だけれども、自分の弱さ罪深さに絶望することなく、精一杯良い業に励んでいくことができるし、また他の人がなす良い業を認め、感謝し、それを喜ぶことができるのです。

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