主日礼拝

送られたみ言葉

「送られたみ言葉」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; イザヤ書、第52章 7節-10節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第10章 34節-48節
・ 讃美歌 ; 233、183、436、77

 
驚くべきこと
 教会というのは、驚くべきことが起る所です。私は教会に仕える伝道者となってようやく二十年を過ぎたところで、牧師としてはまだまだ駆け出しの未熟な者だと思っておりますが、その私のつたない歩みの中でも、驚くべきことを何度も体験しています。それは、教会に来ると病気が直るとか、悩みや苦しみがたちどころに解決するというようなことではありません。そういうこともないことはないだろうと思いますが、残念ながら私はまだ一度もそういうことを見聞きしてはいません。しかし、驚くべきことは何度も体験しています。それは、人が新しくなる、変えられるということです。
 企業戦士としてバリバリ働いてこられ、部下にクリスチャンがいると、「変わったやつだなあ」ぐらいに思っていた人が、ふとしたきっかけで教会の礼拝に出席して、それまで自分が生きて来たのと全く違う世界がそこにあることを知り、カルチャーショックを受け、求道を始めて洗礼を受けるに至った、ということもあります。教会員である知り合いに、全然別の用事で会うためだけに礼拝に出席した人が、そのまま続けて礼拝を守るようになり、洗礼を受けたということもあります。自分は絶対神様なんか信じない、信仰など持たない、という反発の思いを持ちながら礼拝に集っていた人が、いつしか信じるようになり、信仰者へと変えられていったということもあります。あるいは、肉親の病いや死という深い悲しみ、嘆きに捕えられていた人が、教会において慰めを得て、新しく歩み出す力を与えられていった、ということもしばしばです。教会は、その礼拝は、このように人が新しく造り変えられるという奇跡が起る場なのです。

新しくされたペトロ
 今私たちが読んでいる使徒言行録の第10章にも、教会において人が新しくされた、という驚くべき出来事が語られています。その人とは、使徒ペトロです。ペトロは、「使徒」というくらいですから、既に主イエス・キリストを信じる信仰者であり、それどころか、その信仰を宣べ伝えている伝道者、教会の指導者です。しかしそのペトロが、教会の歩みの中で、なお、新しくされなければならなかったし、実際に新しく造り変えられたということを、この第10章は語っているのです。彼がどのように新しくされたのかを、私たちは先週の礼拝において10章の前半から聞きました。具体的にはここでペトロは、カイサリアという町に出かけて行って、ローマ帝国の軍隊の百人隊長コルネリウスという人とその一家にキリストの福音を宣べ伝えたのです。コルネリウスはユダヤ人ではない、いわゆる異邦人です。旧約聖書の時代以来ユダヤ人は、自分たちこそ神様に選ばれた神の民であるという強い自覚を持ち、それ以外の民、異邦人を汚れた存在として、できるだけ交際もしない、家にも入らない、という生活をしてきました。ましてや、コルネリウスは今ユダヤ人たちを征服し支配しているローマ帝国の軍人です。ユダヤ人であるペトロにとって、異邦人でありローマの軍人であるコルネリウスと交わりを持ち、その家を訪ね、そこで伝道をすることは、大変抵抗のある、できればしたくないことだったのです。けれども彼は祈っている時に神様からの幻による示しを受けました。食べてはいけないと律法に命じられている汚れた動物たちが入った風呂敷が彼の前に出されて、「これを屠って食べなさい」と神様がお命じになったのです。ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と言ってそれを拒もうとしました。するとさらに、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声が聞こえたのです。これは神様が彼に、異邦人を汚れた者として避けるのではなく、むしろ積極的に出て行って福音を宣べ伝えよ、と命じておられるのだと知ったペトロは、コルネリウスの招きに応えてカイサリアへ出向きました。このようにして、使徒ペトロによる異邦人伝道が始まったのです。ペトロは使徒たちの筆頭と言ってもよい存在ですから、これは教会が公に、異邦人を仲間として受け入れ、キリストによる救いがユダヤ人だけでなく異邦人にも与えられていることを認め、受け入れたということです。キリスト教が世界宗教となり、今私たちがこの日本で、主イエス・キリストの福音にあずかり、神様の民として生きることができる、その第一歩がここに踏み出されたと言ってもよいのです。
 使徒言行録第10章は、教会の伝道におけるこのような大きな新しい出発を語っているのですが、そのことが、使徒ペトロに起った変化、彼が新しくされ、造り変えられたという出来事として語られていることに注目したいと思います。教会が新しく歩み出す、伝道の新たな展開が起る、それは、教会に連なる者たちが、伝道をする者たちが、新しくされる、造り変えられる、ということを通して起るのです。先週も申しましたが、伝道は、人を神様に従う者へと造り変えようとすることではなくて、まず自分自身が、神様のみ言葉に従う者へと造り変えられるということを通してなされていくのです。教会において、驚くべきことが起るのを見るためには、先ず自分が、神様のみ言葉によって新たにされるという驚くべき体験をする必要があるのです。

驚き
 本日ご一緒に読むこの第10章の後半、その最初の34節には、ペトロ自身が、自分が神様の示しによって新しくされ、造り変えられた、そのことを驚いている言葉があります。彼は「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」と言っています。この「よく分かりました」というところは、前の口語訳聖書では、「ほんとうによくわかってきました」となっていました。ここの原文には、この口語訳のように「ほんとうに、真実に」という言葉があります。「まことに、私は分かった」と彼は言っているのです。それは、驚きの言葉です。ペトロは、自分に起った変化に驚いているのです。神様のみ業が前進していく時、そこで自分が用いられるという体験をする時、私たちは自分に対する驚きを与えられます。自分に起っている変化にびっくりするのです。この驚きに生きることが信仰です。またこの驚きを常に新たに体験していくことが、信仰に生き続けるということなのです。

分け隔て
 ペトロが本当によく分かったことは何だったのでしょうか。それは、「神は人を分け隔てなさらない」ということでした。神様は人間を分け隔てなさらない、だから私たち人間も、人を分け隔てしてはならない、そのことをペトロは本当によく分かったのです。このことは、私たちにとっては、当り前のことのように思えます。人を分け隔てしてはならない、人間は皆平等である、誰もが同じように生きる権利を持っている、ということを私たちは今日、耳にタコができるくらい聞かされています。今日の社会はこのことを基本的前提として成り立っているのです。けれども私たちは、ある意味で常識ともなっているこのことを、本当によく分かっているでしょうか。「分け隔てをする」という言葉は、もともとは「顔で判断する」というような意味です。顔を見て人のことを判断する、それは、外見、表面に現れた姿のみによって人を評価し、判断することです。それが「分け隔てをする」ということなのです。つまり、「分け隔て」は何によって起るかというと、人をその外に現れた目に見える事柄によって評価したり判断したりすることによってです。性別の違い、民族の違い、体や心に障害があるか、どのような職業についているか、社会的地位はどうか、家柄、出自はどうか、経済力がどうか、学歴がどうか、そういったことで人を評価したり判断しているところには「分け隔て」があるのです。私たちは、「人間は皆平等だ、分け隔てをしてはいけない」ということを頭では分かっています。しかし、そのことが「本当によく分かって」いるとは言えないのではないでしょうか。人のことを見つめる時に、今並べたようなことを気にし、そういうことを知りたがり、それを知るとその人のことが分かったような気になる、そういう思いがある限り、私たちの心の中には、人を分け隔てする思いが依然として根強くあるのです。そして私たちがそういう思いから本当に解放されなければ、人間の平等が建前としてどんなに叫ばれても、この社会に根強く残るいろいろな差別はなくならないのです。

分け隔てからの解放
 ペトロも、神様は人を分け隔てなさらない、外見で人を判断したりはなさらない、ということはもともと知っていました。しかしユダヤ人と異邦人という区別は別だと思っていたのです。この区別は神様ご自身がしておられることで、救いは神様の民であるユダヤ人のみに与えられている、それが彼及びユダヤ人たちが抱いていた常識だったのです。差別というのはそのようにして起こります。つまり私たちは、人を分け隔て、差別する時に、自分が分け隔てをしたり差別をしているとは思わないのです。「差別はいけない」という総論には皆賛成します。しかし、自分の身近な事柄になると、例えば子供が結婚するというようなことになると、相手の家柄はどうか、職業はどうか、学歴はどうか、障害を持っていないか、などということを気にするのです。そしてそれは分け隔て、差別ではなくて、子供のためを思う当然の親心だ、と思うのです。そのような具体的な場面においては、「人を分け隔てしてはいけない、人間は皆平等だ」というお題目は何の力も持ちません。そういういわゆるヒューマニズムで、人を分け隔てる思いから自由になることはできないのです。ペトロがここで、異邦人との間の、ユダヤ人の常識だった分け隔てを乗り越えることができたのは、人間の善意によってではありませんでした。彼は、33節までに語られてきたように、神様のみ言葉と、それに伴って起った出来事によって新たにされたのです。神様が今行なっておられ、押し進めようとしておられるみ業を本当によく理解し、それに従う者となったのです。彼が理解したことの内容がさらに35節に語られています。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」。「どんな国の人でも」とは、「異邦人でも」ということです。異邦人であっても、神様を畏れて正しいことを行う、つまり神様を信じて従うならば、神様がご自分の民として受け入れ、救いにあずからせて下さろうとしている、主イエス・キリストによる神様の救いのみ業の前で、もはやユダヤ人と異邦人という分け隔ては取り去られている、その神様のみ心を彼は受け入れ、それに従ったのです。ペトロは既に信仰者であり、伝道者でもありましたが、その彼が改めてここで、神様のみ言葉に従う者へと造り変えられたことによって、主イエス・キリストの福音はさらに広く、異邦人にまで宣べ伝えられ、教会は飛躍を遂げていったのです。

送られたみ言葉
 36節以下に、ペトロがコルネリウスたちに語ったことが示されています。「神がイエス・キリストによって平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉」それを彼は伝えたのです。それは、37、38節によれば、「ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事」「つまりナザレのイエスのこと」です。神様がイスラエルの子らに送って下さった御言葉、その「送って下さった」という言葉は「遣わしてくださった」とも訳せます。それは、ナザレのイエスのことです。主イエス・キリストこそ、神様から送られ、遣わされたみ言葉であり、ペトロはこの主イエスを今異邦人であるコルネリウスたちに伝えているのです。そこにおいて彼は、そのみ言葉が先ずイスラエルの子らに、つまりユダヤ人たちに送られたものだということを語っています。主イエスはユダヤ人として、ユダヤ人の地にお生まれになり、ユダヤ人たちの間で、38節以下に語られているように「方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされ」るという恵みのみ業をなさいました。39節にはわざわざ、「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です」と語られています。主イエスの救いの業は、ユダヤ人の住む地方で、特にエルサレムでなされたのです。そのユダヤ人たちは主イエスを「木にかけて」即ち十字架につけて殺してしまいました。しかし父なる神様はこの主イエスを三日目に復活させ、ペトロら弟子たちの前に現し、彼らを主イエスの復活の証人として立てて下さったのです。これらすべてのことは、ユダヤ人たちの間でなされました。ユダヤ人はそういう意味でやはり、神様に選ばれた、神様の民なのです。そのことをペトロはここで、異邦人であるコルネリウスに対してもはっきりと語っています。私たちもこのことをしっかりと覚えておかなければなりません。主イエス・キリストによる救いは、旧約聖書以来の神様の民ユダヤ人に先ず示され、与えられたのです。それゆえに旧約聖書が新約聖書と並んで大事なのです。旧約聖書に記されている神様の民イスラエルとのつながりなしに、主イエス・キリストによる救いはないのです。そしてこのことをしっかりと確認する時に、ペトロがここで語っていることの重大さが見えてくるのです。ペトロは、イスラエルの子ら、即ちユダヤ人に送られ、遣わされたみ言葉である主イエス・キリストが、「すべての人の主」であると語ったのです。それは36節の、先程は読まなかった所です。「イエス・キリストによって」と言った後に彼は、「この方こそ、すべての人の主です」とつけ加えています。この36節は原文の語順を生かして日本語にするのが難しい所なのですが、強いて言えばこのようになっています。「イスラエルの子らに送られたみ言葉、それはイエス・キリストによって平和を告げ知らせるみ言葉であり、そのイエス・キリストは全ての人の主なのだ」。つまり、イスラエルの子らに送られたみ言葉である主イエス・キリストは、全ての人の主でもあるのだ、と彼はここで宣言しているのです。このことこそ、ペトロが新たに示されたことです。イスラエルの民、ユダヤ人の間に遣わされ、十字架と復活による救いのみ業を成し遂げて下さった主イエス・キリストが、異邦人をも含めた全ての人々の主として立てられている、神様は主イエスの救いのみ業を異邦人にも及ぼし、御自分の民の範囲を全ての人々へと広げて下さっている、そういう新しい救いの事態が実現していることを、ペトロははっきりと理解し、そのことを告げ知らせたのです。

聖書の読み方が変わる
 そしてこの全ての人の主であるイエス・キリストが、彼ら使徒たちに使命を与え、お遣わしになりました。それが42節です。「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました」。死者の中から復活した方である主イエスは、生きている者と死んだ者全ての審判者として立てられている、その主イエスの、生と死を貫くご支配を、神様の民に宣べ伝え、証しすることを彼ら使徒たちは命じられたのです。この場合の「民」とは、もはやユダヤ人ではなく、新しい神の民である教会、主イエスを信じる者の群れです。そこには異邦人も、信仰によって受け入れられているのです。また43節には、預言者たちも皆、この主イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられると証ししている、と語られています。これも、ペトロが新しく示され、理解したことです。彼は、主イエス・キリストの救いが異邦人にまで広められ、与えられようとしている、という神様の救いの新しい展開をはっきりと知ることによって、聖書に記されている預言者の言葉を改めて読み直すことができたのです。そしてそこに、主イエスを信じる者はだれでも、つまり異邦人でも、主イエスのみ名によって罪の赦しが受けられる、という福音が証しされていることを示され、驚きをもってそれを受け入れたのです。ペトロが新しくされた、変えられたというのは、一つには、聖書の読み方が変えられたということです。聖書の中に、それまで自分が考えてもみなかった神様の救いの恵みを見出して驚き、それを受け入れることによって、彼は新しくされたのです。同じことが私たちにも起ります。私たちは聖書のみ言葉の中に、自分が思ってもみなかった、新しい、神様からの恵みのみ言葉を見出して、驚くのです。その驚きによって新しくされ、変えられるのです。本日共に読まれた旧約聖書の個所、イザヤ書第52章7節には、「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」とあります。これもまた、神様のみ言葉の中に「恵みの良い知らせ」を聞いた人の驚きと、そして喜びの叫びであると言えるでしょう。この驚きと喜びを共有していくことが私たちの信仰です。最初に申しました、教会において人が変えられる、新しくされるという驚くべき出来事は、このみ言葉に対する驚きと喜びの中で起るのです。

聖霊が降る
 ペトロがこのように神様から送られたみ言葉を語っていると、それを聞いていた人々一同の上に聖霊が降りました。聖霊が人々に降ったことは、これまでに何度も語られてきました。ペンテコステの日に教会が誕生したのも、聖霊が降ったことによってでした。4章にも、弟子たちが聖霊に満たされ、大胆に神の言葉を語りだしたとありました。8章にも、主イエスを信じたサマリアの人々の上にペトロとヨハネが手を置くと彼らが聖霊を受けたことが語られていました。教会の歩みの節目節目の大切な時に、聖霊は繰り返し降り、力づけ、導いて下さったのです。本日の所もそうです。異邦人にもキリストの救いが告げ広められ、教会に加えられていく、その大きな転換において、聖霊が降り、その歩みを助け導いて下さったのです。特にここには、異邦人にも聖霊が与えられたのを見た、ペトロと一緒に来た人々、つまりユダヤ人の信仰者たちが、彼らに洗礼を授けることをも認め受け入れたということが語られています。洗礼を受けることよりも、聖霊を受けることの方が先だったのです。主イエスの十字架の死と復活による救いにあずかる洗礼が、異邦人にも授けられ、教会が異邦人をも含む群れとなって成長していく、その大切な出発において、聖霊が先立って働いて下さったのです。教会は、また私たちは、いつもこのように、聖霊のみ業によって先立って進み行かれる主イエスの後を追いかけていくのです。そして私たちがこの主イエスの後にちゃんとついて行くためには、み言葉によって新しくされ、造り変えられるという驚くべき体験を積み重ねていかなければならないのです。自分が思いもしなかった恵みをみ言葉によって示される驚き、そしてそのみ言葉によって自分が変えられ、新しくされる喜び、それを積み重ねていくところに、私たちの信仰の生命があるのです。生命のあるところには成長があります。また、驚きのあるところには前進があります。クリスマスに備えるアドベントの時、主イエスが、聖霊を私たちにも豊かに注いで下さり、恵みのみ言葉による驚きと、それによって新たにされる喜びを豊かに与えて下さるように祈り求めたいと思います。

関連記事

TOP