主日礼拝

無に等しい者を

「無に等しい者を」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第103編1-22節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第1章26-31節
・ 讃美歌 ; 3、51、516

 
党派争いを諌める
 礼拝において、コリントの信徒への手紙一を読み進めておりまして、本日は第1章26節以下をご一緒に読みます。しかしそこに入る前に先ず、これまでに語られてきたことを振り返っておきたいと思います。この手紙は、使徒パウロが、自分が伝道してその礎を据えたコリントの教会に、自分が去った後で様々な問題、トラブルが起ってきたことを聞き及び、それについて教会を指導するために書き送ったものです。1章10節から手紙の本文に入っており、そこで早速取り上げられているのは、コリント教会の中にいくつかのグループが生まれ、お互いが対立し合っているという党派争いについてのことです。12節に「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』 『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです」とあるのがその党派、グループのことです。パウロ自身の名を冠した、つまりパウロを指導者として尊敬し、その下に集まろうとする党派もあったのです。パウロ自身は、一つの派閥の領袖になろうなどという気持ちは少しもありません。ですから彼は「パウロ派」と自称する人々に対して、「あなたがたが祭り上げているそのパウロとやらは、いったいあなたがたのために十字架につけられたことがあるのか、あなたがたはそのパウロの名によって洗礼を受けたのか」と問うています。私たちの救いのために十字架にかかって死んで下さったのは主イエス・キリストではないか、私たちが受けた洗礼は、この主イエス・キリストと結び合わされること、私たちの人生の全体が、主イエス・キリストの中に植え込まれることではないか、私たちが結びついているのは、人間の指導者ではなくて、この主イエス・キリストお一人であるはずだ、だから、教会の中に、「パウロ派」などというものが起ってはならない、とパウロは諭しているのです。

知恵を求める思い
 パウロはそのように、教会の中の党派争いを戒めていますが、彼がここで語っていることは、単に党派争いはよくないから、みんな仲良くしなさい、ということではありません。彼は、このような争いの根本にあるものを深く見つめています。政治の世界ならいざ知らず、教会の中に何故このような党派が生まれるのか、それは、あなたがたが知恵を求めているからだ、と彼は語るのです。知恵を求める、それは、より賢くなろうとする、より立派になって、神様に近付いていこうとすることです。政治の世界の党派は、数の力で自分たちの主張を通そうとするために生まれますが、教会の中に党派が生まれるのは、より高い者、より神様に近い者になろうという思い、つまり私たちの向上心によってなのです。向上心自体は決して悪いものではありません。少しでも自分を良くしていこうと努力することは、人間として基本的に大事なことです。向上心を失ったら人間はおしまいだ、と言われるのは間違っていないでしょう。けれどもその向上心の中に、大きな落とし穴があることを私たちは見逃してはならないのです。向上心が、自分自身において、昨日から今日、今日から明日へと少しずつでも進歩していこうと努力することであるうちは問題はないのです。しかし私たちはしばしばそこで、人と自分を見比べるようになります。どちらがより立派か、より優れているかと考えます。その時、向上心は競争心になり、そこに党派が生まれてくるのです。パウロ先生とアポロ先生とケファ先生とを比べて、誰が一番立派か、優れているか、パウロ先生だと思う人はその周りにグループをつくり、自分たちは一番立派な先生の教えを受けているのだ、と他に対して誇っていくのです。そしてそのような対立の中には、「私たちは人間の指導者ではなく、キリスト様の教えを直接受けているのだ」と主張する「キリスト派」というものも生まれて来ます。主イエス・キリストご自身をも、自分たちのグループの頭にしてしまい、そのグループの正当性を主張する旗印にしてしまうということが起るのです。党派争いはこのように、自分たちが正しい、立派な、優れた者になろうとする思いから生まれて来ます。その根本には、知恵を求め、より高い者、より神様に近い者になろうという思いがあるのです。

神の愚かさ
 それゆえに問題の根本は、人間の、知恵を求める思い、より立派になろう、高くなろうとする思いです。そういう思いは、学問や技術の進歩、それによる生活の向上には欠かすことのできないものです。しかし私たちの救いの問題、神様との関係、信仰においてはどうでしょうか。私たちは、次第に知恵を身に付け、賢くなり、より立派な者へと一歩一歩進歩向上していくことによって救いを獲得するのでしょうか。そうではないのだということをパウロはここで語っています。23節に「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」とありました。パウロが、教会が宣べ伝えている救いは、十字架につけられたキリストによる救いです。神様の独り子であられる主イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さった、それによって、死ぬべき罪人である私たちが赦されて救いにあずかることができる、という福音です。つまり、主イエス・キリストによる救いとは、私たちがより高い者となり、神様に近い者になる、そういう私たちの努力によって得られる救いではなくて、神様の方が、私たちのところへ降りて来て下さったことによって、私たちの罪のゆえの十字架の死を引き受けて下さったことによって与えられた救いなのです。この神様の救いのみ業をパウロは、「神の愚かさ」と言い表しています。人間の目には愚かな、見栄えのしない、むしろ厭わしいことに見えるキリストの十字架にこそ、本当の救いがあるのです。私たちは、自分で自分を向上させていくことによって救いを獲得するのではなくて、この主イエス・キリストの十字架による救いを、神様の恵みとしていただくのです。その救いにあずかることにおいては、私たちの向上心、知恵を求める思いは、何の役にも立ちません。役に立たないどころか、むしろそれは妨げにすらなるのです。神様が愚かさに徹することによって救いを与えようとしておられるのに、私たちが賢さ、知恵を求めていたのでは、その救いにあずかることができないのです。別の言い方をするなら、自分の向上心によって救いを得ようとするのは、救いにおける主導権を自分が握ろうとすることです。それに対して主イエス・キリストの十字架による救いにおいては、救いの主導権は徹底的に神様が持っておられるのです。知恵を求める思いは、人間が主導権を握ろうとする思いであって、それゆえに、神様の主導権による救いの妨げとなるのです。

神の召し
 救いの主導権は神様が持っておられる。そのことをパウロは、神様の召しという言葉で言い表しています。24節に「召された者には、神の力、神の知恵であるキリスト」とあります。私たちが救いにあずかるのは、神様が私たちをご自分のもとへと召して下さることによってなのです。その召しを受けた者のみが、人間の目には愚かな、見栄えのしないことと見えるキリストの十字架に、神様の救いの力を見ることができるのです。
 本日の箇所の冒頭の26節の「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」という言葉は、これらのことを受けて語られています。「あなたがたが召された」それは今申しましたように、神様の主導権によって主イエスの救いにあずかったことです。そのときのことを思い起こせとパウロは言っています。ただし、「そのときのことを」という言葉は原文にはありません。原文を直訳すれば、「あなたがたの召しを思え」となります。つまりここでパウロがコリント教会の人々に思い起こせと言っているのは、信仰を与えられた時にどんな状態だったか、ではなくて、神様の召しによって救いにあずかったという事実そのものです。自分の知恵や力で救いを獲得したのではなくて、神様の召しによってこそ救われた、私たちの救いは神様の主導権によることだ、そのことをもう一度思い起こしなさいと言っているのです。

無力な者を
 どのような者がその召しにあずかったのでしょうか。「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません」とあります。知恵のある者、権力のある者、家柄のよい者は、コリント教会に、いないことはないが、多くはなかったのです。むしろ、27、28節「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」。救いの主導権を握っておられる神様が選んでお召しになったのは、知恵のある者よりもむしろ無学な者、権力のある者よりもむしろ無力な者、家柄のよい者よりもむしろ身分の卑しい者や見下げられている者でした。そのような者が神様の召しを受け、信仰を与えられ、主イエスの救いにあずかっているという事実をもう一度思い起こしなさい、とパウロは言っているのです。このことは、パウロが、あるいは教会が謙遜して言っていることではなくて、本当にそうだったようです。紀元3世紀ごろの、キリスト教に対する批判の文章が残されています。「彼ら(教会)の命令は次のようである。『誰も、教育を受けた人、知恵ある人、分別ある人は近寄るな。こういう才能はわれわれには悪徳と見えるからである。むしろ、誰でも、無知な者、バカ者、教養なき者、幼稚な者は、はばかることなく来たれ』と。彼ら自身がこういう人こそ自分たちの神にふさわしいと認める事実によって、彼らは、愚かで軽蔑すべきバカ者らだけを、奴隷、女、小さい子どもだけを説得しようと願い、また説得できるのだということを示している」。つまり、教会は、愚かで軽蔑すべきバカ者たちの集まりだということです。奴隷や女子供(今こんなことを言ったら差別発言で大変ですが)しか説得できない教えだから、そういう者だけを集めているのだ、というのです。教会は世の人々からこのように見られていたのです。ひるがえって今日、私たちの社会において教会はどのように見られているでしょうか。教会には、無知な者、教養のない者、幼稚な者が集まっている、と見られているでしょうか。どうもそうではないようです。特に私たちのこの教会などは、立派な、教養ある、尊敬すべき人の集まりと見られており、そのために教会を敬遠してしまう人も多いのです。また教会の仲間たちの中にも、教会に集まっている人は皆立派な、教養のある、社会的地位も高い人ばかりで、自分のような者は肩身が狭い、と感じてしまう人もいるのです。教会が、人々から軽蔑されるのでなく、むしろ立派な人の集まりと思われている、それは喜ぶべきことでしょうか。それはむしろ、私たちがどこかで間違ってしまった、大事なものを見失ってしまったということの現れなのではないでしょうか。私たちは、知らず知らずの内に、人間的な知恵を、立派さを、人々に尊敬されることを追い求めているのではないでしょうか。しかし神様は、知恵ある者、立派な者、尊敬される者をではなくて、無学な者、無力な者、身分の卑しい、見下げられている者をこそ召しておられるのです。このみ言葉は、知らず知らずの内に知恵を求め、立派さを求め、上へ上へと昇っていこうとする私たちの上昇志向と、天から降って来て私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さる神様の下向きの思いとのすれ違いを意識させる大事なみ言葉なのです。

存在しない者を
 ところで、28節は、原文の語順を生かして訳すとこのようになります。「この世の身分の卑しい者や見下げられている者を神は選ばれた。即ち、存在しない者を、存在する者を無にするために」。つまり、27節から、神様が、無学な者や無力な者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたということが語られてきて、その最後に、全体をまとめるような形で、「存在しない者」が選ばれたと言われているのです。新共同訳聖書はそれを「無に等しい者を」と訳しています。前の口語訳聖書も、「無きに等しい者を」となっていました。「無に等しい」とか「無きに等しい」と「存在しない」とは、非常に近いようですが、しかしそこには無限の隔たりがあるとも言えます。何故なら、「無に等しい」「無きに等しい」は、限りなくゼロに近いけれども、しかしゼロではないからです。存在しているのです。有なのです。それに対して、「存在しない」は全くのゼロ、無です。有と無とは根本的に違います。どんなにゼロに近いとしても「有る」ものと、ゼロ、無とは、天と地ほどの隔たりがあるのです。神様が選ばれたのは、「存在しない者」でした。無に等しいほど小さいけれども、しかし存在している者、ではなかったのです。このことが意味しているのは、神様の選びと召しは、人間的な一切の比較を越えて与えられるということでしょう。比較できるものは、存在しているものです。有るものどうしだから、どちらが大きい小さい、どちらが高い低いと比べることができるのです。私たちがお互いの間で、どちらがより知恵があるか、どちらがより立派か、どちらがより強いか、と見比べているのは、お互いを有るものとしてのことです。しかし神様の選び、召しは、「存在しない者」に与えられるのです。存在しない者を召し出して、存在する者として下さるのです。それは神様がこの天地の全てをお創りになった、あの天地創造の出来事とつながるものです。天地創造は、「無からの創造」であると言われます。材料があって、それを加工して何かを造るのではなくて、何もないところに新しい存在を呼び出すのです。何もない所に神様が「光あれ」と言われると光が存在し始めたのです。私たちが神様の選びと召しによって信仰を持ち、イエス・キリストによる救いにあずかる者となるところには、それと同じ、無から有を生じさせる奇跡的なみ業が働いているのです。それは私たちの中にある、人と比較することができる事柄を材料としてではありません。神様は、そのような事柄を見て人を選び、召しておられるのではないのです。そういう意味では、先ほど、神様は知恵ある者、立派な者、尊敬される者ではなく、無学な者、無力な者、身分の卑しい、見下げられている者をこそ召しておられると申しましたが、それも実は正確ではないのです。神様の召しは、その人が無学で無力で身分が卑しく見下げられているから与えられるのではありません。そのような比較を越えたところで、神様は私たちを召し、救いにあずからせて下さるのです。それゆえに私たちは、神様の選びと召しの前では、人間的な、この世的な価値の比較から完全に解放されるのです。自分の方が人より上だという優越感からも、自分の方が下だという劣等感からも、人より立派になることで救いを得ようとする思いからも、人より劣っているからこそ救われるのだという思いからも、解放されるのです。そのような、存在するものどうしの間での比較、優劣、上下関係は、神様の救いにおいては一切無意味なのです。「存在する者を無にするために」とありますがそれは、有力な者、地位のある者をその地位から引き降ろして、代わりに無力な者、蔑まれている者を重く用いる、というようなことではないのです。神様は、私たちがどのような者として存在しているかによって私たちを選ぶことをなさらないのです。立派な人だから選ばれることもないし、みすぼらしい人だから選ばれないということもない、逆に、立派だから選ばれないこともないし、みすぼらしいから選ばれるということもないのです。神様の選びと召しは、つまり救いは、私たちの側の条件によるのではなく、ただ神様の恵みのみ心によって与えられるのです。

義と聖と贖い
 「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」と29節にあります。この神様の選びと召しは、人間の一切の誇りを打ち砕きます。自分の立派さ、清さ正しさを誇る思いも、また逆に自分の弱さ、罪深さを強調して、そんな者だからこそ救いにあずかるのだという屈折した誇りも、あるいはまた、口を開けば自分は弱い者だ、罪深い者だとへりくだる、その謙遜を誇ろうとする思いも、そういう一切の誇りが、神様の選びと召しの前では打ち砕かれるのです。そういう人間の誇りが全て打ち砕かれるところに、ただ一つ残るもの、それは30節にある、神様が私たちを選び、キリスト・イエスに結びつけて下さったという恵みの事実であり、そのキリストが、私たちにとって「神の知恵」となり、「義と聖と贖い」となって下さったということです。私たちの知恵が無とされ、誇りが全て奪い去られるところに、十字架につけられた主イエス・キリストが、神の知恵として、私たちの義と聖と贖いとして登場するのです。「義」とは、神様の前に立つことができる正しさです。私たちの中にはそれはありません。私たちは、神様の前にとうてい立つこのできない罪人です。主イエス・キリストは、その私たちのところに来て下さり、私たちに代って義となって下さいました。私たちは、キリスト・イエスに結ばれることによって、キリストの義をまとって、神様の前に立つことができるのです。「聖」とは、神様に近付くことができる清さです。それもまた私たちの中にはないものです。主イエス・キリストが私たちに代って聖なる方として生きて下さり、信じる者を聖として下さるのです。「贖い」とは、罪人が赦され、捕えられている者が解放されるために身代金が支払われることです。私たちは、その贖いなしには神様の民となることができない、救いにあずかることができない罪人です。その私たちのために、主イエス・キリストが、ご自分の命を身代金として与えて、贖いの業を成し遂げて下さいました。それがキリストの十字架の死です。主イエス・キリストは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの義と聖と贖いとなって下さったのです。このイエス・キリストに結ばれることにこそ、私たちの救いがあるのです。

主を誇る
 最後の31節には、「誇る者は主を誇れ」とあります。私たちは、何かを誇って生きようとしています。自分の中に何がしかの誇るべきものを見出そうと必死になっています。そのために、自分をあの人この人と見比べて一喜一憂しています。そういう私たちの思いが、自分の誇りの拠り所となるグループ、党派を生み出していくのです。しかし主イエス・キリストの十字架の前では、私たちが誇ろうとするものは全て無に帰します。そこに救いはないことが明らかにされるのです。私たちが誇り得るものは、私たちの中にではなく、外に、十字架の死によって私たちの義と聖と贖いとなって下さった主イエス・キリストにこそあるのです。この主イエスを唯一の誇りとして、唯一の拠り所として生きる時に、私たちは、無に等しい、いやむしろ存在しないものである自分を選び、召し出して、信仰を与え、罪を赦し、良いもので満たして下さる神様の御計らいの中で歩むことができるのです。
 これから聖餐にあずかります。聖餐のパンと杯は、神様の独り子主イエス・キリストが、十字架の死という愚かさの極みにまで降ってきて、私たちの義と聖と贖いとなって下さったことを示しています。この聖餐に共にあずかることにおいてこそ、私たちは一つになるのです。お互いの間で誇り合い、比べ合っていく思いを打ち砕かれ、優越感からも、その裏返しである劣等感からも解き放たれて、本当に自由になり、私たちを選び、召し出して救いにあずからせて下さった神様に感謝して、主イエス・キリストに結ばれた一つの群れを築き上げていくのです。

関連記事

TOP