主日礼拝

世から選び出された者

「世から選び出された者」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第50章4-9節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第15章18-25節
・ 讃美歌:

弟子たちへの告別説教
 ヨハネよる福音書の第15章を読み進めています。この15章は、主イエスが捕えられ、十字架につけられる直前の、いわゆる「最後の晩餐」において、弟子たちにお語りになった「告別説教」(別れの説教)の一部です。最後の晩餐の場面は13章から始まっています。13章の1節に「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とありました。主イエスはこの後捕えられ、翌日には十字架につけられて殺され、そして三日目に復活するのです。それらのことを通して、主イエスはこの世から父なる神のもとへと移ろうとしておられます。それによって私たちの救いを実現して下さるわけですが、しかしそのことは同時に、弟子たちのもとから去って行くということでもあります。主イエスが父のもとに行くことによって、地上を生きる弟子たちは、もう主イエスを見ることができなくなるのです。主イエスを見ることができない中で、主イエスを信じて生きていかなければならなくなるのです。主イエスは弟子たちのことをこの上なく愛しておられ、彼らのことを深く案じておられます。主イエスを見ることができない中を生きていくことになる彼らが、それでも主イエスとしっかりつながって歩んでいくために、この告別説教を語っておられるのです。

私たちのための説教
 それゆえにこれは私たちのためのみ言葉でもあります。私たちも、主イエスの十字架の死と復活、そして昇天の後の時を生きています。復活して天に昇った主イエスは今、父なる神の右に座しておられるのです。それは主イエスによる救いが既に実現しており、救い主である主イエスが父なる神のもとでこの世を支配し、導いて下さっているということです。しかし、地上を生きている私たちは今、父のもとに行かれた主イエスをこの目で見ることができません。私たちも、主イエスを見ることができない中で、主イエスを信じて生きているのです。主イエスを見ることができないということは、主イエスこそが救い主であられることの目に見える証拠はない、ということでもあります。主イエスによる救いは、証拠を見て納得することではなくて、信じるしかないことです。弟子たちと同じように私たちも、主イエスをこの目ではっきりと見ることができない中で、信じて生きていくのです。その弟子たちのために語られたみ言葉は、私たちのためのみ言葉でもあるのです。

世に憎まれる
 本日の箇所の冒頭の18節で主イエスは、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」とおっしゃいました。主イエスを見ることができない中で、主イエスによる救いを信じ、主イエスに従って生きていく弟子たちは、世に憎まれ、迫害を受けるのです。主イエスはそのことを前もって告げて、弟子たちにそのことへの心備えをさせようとしておられるのです。私たちにも、同じ心備えが必要です。「世があなたがたを憎む」ということは、私たちにも起るのです。
 主イエスを信じて、教会に連なって生きる信仰者は世の人々に憎まれる、そのことを私たちはあまり身近な現実として感じていないかもしれません。確かに、弟子たちや、最初の頃の教会が激しい迫害を受けたことを私たちは知っています。キリスト教の歴史の最初のおよそ三百年間は、ローマ帝国による迫害の時代でした。イエス・キリストを信じることは禁じられており、信じているだけで殺されてしまうことがあったのです。日本においても、江戸時代にはキリシタンに対する激しい迫害がありました。その中で信仰を守ろうとした人々は、仏教徒を装いつつ、いわゆる「潜伏キリシタン」として生きたのです。また戦前戦中の時代にも、キリスト教は「敵性宗教」として警戒され、監視され、時に弾圧されました。そのように主イエスを信じる者が人々に憎まれ、迫害を受けたことを私たちは歴史上の出来事として知っています。しかし今の時代を生きている私たちにとってそれは、「そういう時代もあった」ということであって、身近なことには感じられていないのではないでしょうか。勿論今でも、主イエスを信じる信仰が周囲の人々に理解されず、変人扱いされるとか、家族にも認めてもらえないとか、あからさまに反対されるようなこともあります。しかしだからといって私たちは今、主イエスを信じることによってこの社会で生きていけなくなるとか、殺されてしまうようなことはありません。この後の16章2節には「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と言われています。この福音書が書かれた当時には実際にそういうことがあったわけですが、今の日本ではそこまでのことはありません。勿論、今ないからといってこれからもずっとないとは言えないのであって、私たちは信仰の自由、思想信条の自由を守っていく努力を怠ってはなりませんが、でもそれは、今は起っていないことが今後も起らないように気をつける、ということです。今現に世に憎まれている、とは私たちは感じていないのではないでしょうか。

あなたがたは世に属していない
 しかし主イエスがここで言っておられるのは、教会が生まれてから三百年ぐらいは世に憎まれる時が続くとか、時代の流れの中で教会は時として世の人々に憎まれ、迫害を受けることがある、ということではありません。主イエスは、世とあなたがたの間には根本的に対立関係があり、あなたがたは常に世に憎まれるのだ、と言っておられるのです。そのことをはっきり語っているのが19節です。こう語られています。「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」。あなたがた、つまり弟子たち、教会は、そしてそこに連なる私たちは、もはや世に属しておらず、世の身内ではなくなっているのです。この「身内」という言葉は「自分のもの」という意味です。あなたがたはもうこの世にとって自分のもの、身内ではなくなっている。それは「そういう時もある」という話ではなくて、私たちに根本的に起こっていることです。主イエスを信じて洗礼を受けて教会に連なって生きている私たちはもう、世の身内ではなくっており、世にとってよそ者になっているのです。だから世はあなたがたを憎み、嫌うのだ、と主イエスは言っておられるのです。

世から選び出された者
 私たちは自分の意志や願いによって主イエスに属するものとなったのではありません。今の19節に「わたしがあなたがたを世から選び出した」とあったように、主イエスご自身が私たちを、世の多くの人々の中から選び出して、ご自分に属する者として下さったのです。主イエスを信じて教会に集っている私たちは、主イエスによって世から選び出された者たちなのです。そのことは先週読んだ16節にも語られていました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。このみ言葉は、15章の前半で主イエスが「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とお語りになったことを受けています。主イエスと私たちの関係は、ぶどうの木とその枝という譬えによって言い表されるのです。枝である私たちは、自分だけで実を結ぶことはできません。主イエスというぶどうの木につながっていてこそ、豊かに実を結ぶことができるのです。それは、頑張って努力して主イエスにつながる枝となろう、という勧めではありません。主イエスは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とおっしゃったのです。あなたがたはもうわたしにつながっている枝なのだ、とおっしゃったのです。私たちが頑張って努力することで主イエスというぶどうの木の枝となることによって実を結んでいくのではありません。主イエスご自身が私たちを、世の人々の中から選び出して、ご自分につながる枝として下さり、実を結ぶ者として下さっているのです。

実を結ぶことと世に憎まれることは表裏一体
 本日の箇所は、そのことによって同時に起っているもう一つのことを語っています。主イエスが私たちを選んで、ご自分のぶどうの木の枝として下さったことによって、私たちはもはや世に属する者ではなくなり、主イエスに属する者となったのです。そのために世に憎まれる者となったのです。主イエスというぶどうの木につながる枝とされたことによって、世に憎まれるようになる、ということも同時に起っているのです。
 主イエスにつながる枝となることによって私たちは豊かな実を結ぶ者とされています。それがどのような実なのかを先週聞きました。私たちは主イエスの愛を豊かに受け、その愛に応えて自分も主イエスを愛する喜びに満たされます。そして主イエスのみ心に従って互いに愛し合っていくのです。主イエスと父なる神の愛のみ心を知っており、主イエスと父なる神を心から信頼して生きる者、つまりもはや僕ではなく主イエスの友となるのです。主イエスにつながる枝である私たちはそのような豊かな実を結ぶのだ、ということが先週の箇所に語られていました。本日の箇所には、そのような豊かな実を結んでいく私たちは、もはや世につながっているのではなくて主イエスにつながっている、世に属しているのではなくて主イエスに属しているのであって、そのために世に憎まれるのだ、ということが語られています。つまり私たちが豊かに実を結ぶことと、世に憎まれることとは、コインの表と裏のようなもので、切り離すことはできないのです。

主イエスが憎まれたから
 でもどうしてそうなるのでしょうか。主イエスにつながることによって私たちが喜びに満たされ、愛し合うという実を結ぶことが、世の人々に憎まれることと結び付いているというのは不思議です。それはわたしのせいだ、と主イエスはここで語っておられるのです。世が憎んでいるのは主イエスなのです。主イエスを憎んでいるから、主イエスに属する者をも憎むのです。そのことがこの箇所に繰り返し語られています。先程読んだ18節には、世が「あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」とありました。主イエスが先ず憎まれたのです。だから私たちも憎まれるのです。20節にも、「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」とあり、それは「僕は主人にまさりはしない」ということだと言われています。私たち信仰者は主イエスに従う者、主イエスの僕です。先週のところには「もはやあなたがたを僕とは呼ばない。あなたがたはわたしの友である」と語られていました。それは、主イエスに従う僕である私たちが、しかし単に命令されたから従うのではなくて、主イエスの愛を受け、そのみ心を弁えて、自分からみ心を行っていく、そういう意味で僕ではなく友、同志として生きていく、ということです。主人は主イエスであり私たちはその僕であるという関係には変わりはないのです。主人である主イエスが迫害を受け、憎まれたからには、僕である私たちが迫害を受け、憎まれるのは当然です。私たちが世に憎まれるような何かをしたからと言うよりも、主イエスという主人の僕であるから、私たちは世に憎まれ、迫害を受けるのです。21節には「然し人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる」ともあります。世が私たちを憎み迫害するのは、わたしの名、主イエスの名のゆえです。私たちは主イエスに属するクリスチャン、キリスト者として、主イエス・キリストの名を帯びて生きています。それゆえに世に憎まれるのです。

主イエスはなぜ憎まれたのか
 では主イエスはなぜ世に憎まれ、迫害されたのでしょうか。21節の終わりには「わたしをお遣わしになった方を知らないからである」とあります。世の人々は、主イエスが神の独り子であり、父なる神が主イエスを救い主としてこの世にお遣わしになったことを知らなかったのです。いや、知らなかったと言うよりも、人々は、主イエスを救い主と信じることを拒んだのです。主イエスは、ご自分が弱く貧しい者として歩み、罪人たちをご自分のもとに招き、弱い者、貧しい者、苦しんでいる者、悲しんでいる者への神の愛を語り、その神のみ心を奇跡のみ業によって示されました。その主イエスのお姿は、世の人々が願い、期待していた救い主の姿とは違っていたのです。世は、清く正しく強い救い主を求めています。人々に、清く正しい立派な者となるように促し、そうすれば救いを獲得できると励ましてくれる救い主を求めているのです。主イエスは人々のそのような期待をことごとく裏切りました。それが、主イエスをお遣わしになった父なる神のみ心だったからです。父なる神が独り子主イエスを遣わしてもたらそうとしておられる救いは、世が求めている救いとは違っていたのです。だから人々はイエスを憎み、こんな奴は救い主ではない、と退けたのです。その主イエスに属する者である私たちも憎まれるのです。でもそれは、私たちが主イエスに属する者として生きているところにこそ起こることです。私たちが、主イエスがもたらして下さった救いをこそ信じて、世が求めているように清く正しく立派な者となろうとするのではなくて、罪人を迎え入れて赦して下さり、苦しんでいる者、悲しんでいる者を愛して下さる神の愛の下で生きることによって、世は私たちをも憎むのです。もしも私たちが、主イエスを信じる者となってもなお、世が求めているのと同じ救いを求めているなら、世に憎まれることは起らないのです。

世を愛された神
 23節には「わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる」とあります。主イエスによる救いを受け入れず、主イエスを憎んでいる者は、主イエスをお遣わしになった父なる神をも憎んでいるのです。世は、主イエスと、主イエスの父である神を憎み、敵対しています。それでは、父なる神と主イエスも、世に敵対し、世を憎んでおられるのでしょうか。そうではない、ということを私たちは繰り返し聞いてきました。それがこの福音書の3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。父なる神は、その独り子を与えて下さるほどに深く、世を愛して下さったのです。独り子主イエスも、この父のみ心を受け止めて、神に背き逆らっている私たちのために、人となってこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。先週の13節に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とあったように、主イエスは私たちのためにご自分の命を捨てて下さるというこれ以上ない愛で、敵だった私たちを友として愛して下さったのです。本日からアドベント、待降節に入ります。クリスマスに備えていくこの時、私たちは、神がその独り子を与えて下さるほどに世を愛して下さったことを感謝をもって覚えていくのです。

世の罪
 しかし神がそのように世を愛して下さったのに、世は、独り子主イエスを受け入れませんでした。主イエスを憎み、迫害し、殺したのです。そこに世の罪がはっきりと示されています。22節には「わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない」とあります。また24節にも「だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる」とあります。主イエスが人間となってこの世に来て下さり、父なる神の恵みのみ心を話して下さり、誰も行ったことのない業を行って父なる神による救いのみ心を示して下さったのです。その最大のみ業が十字架の死です。神の独り子が、罪人である私たちのために身代わりとなって死刑を受けて下さったのです。誰も行ったことのない、これ以上に大きな愛はない、そういう愛でこの世を、私たちを、愛して下さったのです。それでも世は主イエスを憎み、迫害しました。それは25節にあるように、「人々は理由もなく、わたしを憎んだ」ということです。これ以上ないほどに愛されていながら、その方を憎み、拒み、抹殺する、そのいわれのない憎しみに、私たち人間の深い罪が現れているのです。

憎しみに勝利した神を信じて
 しかし私たちは知らされています。独り子主イエスを与えてくださるほどに世を、私たちを愛して下さった、その神の愛は、私たち人間の、世の、憎しみと罪に勝利し、それを乗り越えているのです。神は主イエスの十字架の死によって世の、私たちの罪を赦して下さり、その復活によって私たちとの間に新しい、愛と信頼の関係を打ち立てて下さったのです。そして私たちを選び出して主イエスに属する者として下さり、主イエスというぶどうの木につながる枝として下さったのです。主イエスに属している私たちは、主イエスを憎み、殺したこの世に憎まれ、迫害を受けます。命を奪われてしまうことだってあるかもしれません。しかし私たちが世を憎むことはありません。神が、ご自分の独り子の命を与えて下さったほどに世を愛された、その神に属する者として、私たちはあくまでも世を、人々を愛するのです。憎まれても愛し続けるのです。私たちは知っているからです。神は既にその憎しみに、罪に、勝利して下さっている。だから神に敵対する憎しみや罪の力が勝利することは決してない。最終的に勝利するのは、憎しみではなくて神の愛なのだということを。

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