「わたしのもとに来る人」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書 第55章1-3節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第6章32-40節
・ 讃美歌:14、454(1-4)、454(5-7)
天からのまことのパン
ヨハネによる福音書の第6章は、主イエスが、五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹させたという奇跡を行われたことから始まっています。この奇跡を体験した人々が主イエスの追っかけをするようになりました。主イエスはその人々に、27節で「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」とお語りになりました。あなたがたが求めているパンは、食べてもじきにまた空腹になる、朽ちる食べ物だが、人を本当に生かすまことのパンは、いつまでもなくならずに人を養い続け、永遠の命に至らせる朽ちない食べ物だ、そのまことのパンをこそ求めなさい、とおっしゃったのです。そして27節の後半には「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」とあります。人の子とは主イエスのことです。私こそが、あなたがたに、永遠の命に至る朽ちないパンを与える者だ、と主イエスは宣言なさったのです。それを聞いた人々は、昔モーセが、荒れ野を旅していたイスラエルの民に、天からのパンであるマンナを与えた、という出来事を思い起こしました。そして、あのモーセと同じようにイエスが、自分たちが日々生きていくためのパンを与えてくれるなら、イエスをモーセの再来として、つまり神が遣わして下さった救い主として信じることができる、と言ったのです。彼らが求めているのはやはり肉体を養うパン、朽ちる食べ物です。それを与えてくれることを彼らは主イエスに期待しているのです。すると主イエスは32、33節で、「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」とおっしゃいました。マンナを与えたのは実はモーセではなくて、わたしの父である主なる神なのだ、そして今、そのわたしの父が、まことのパンをあなたがたに与えて下さっている、そのまことのパン、神のパンは、天から降って来て、あなたがたに命を与えるのだ。このお言葉のポイントは、まことのパンを与えるのはモーセでもなければ、わたしイエスでもない、「わたしの父」である神だ、ということです。主イエスの父である神が、まことのパン、神のパンである朽ちない食べ物を与えて、私たちを永遠の命に至らせて下さるのです。五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹にしたという主イエスの奇跡は、このことを示すためになされました。主イエスの父なる神が、そのみ力によって朽ちない食物で人々を満腹にし、永遠の命に至る救いを与えて下さる、そのことを人々に示すための「しるし」として主イエスは、五つのパンで五千人の人々を満腹にする奇跡を行われたのです。
主イエスこそ命のパンである
しかし人々はその「しるし」を正しく受け止めていません。彼らは、自分たちの空腹を満たしてくれる実際のパンを求めて、それをイエスが与えてくれることを期待して、イエスの後を追いかけ、押し寄せて来たのです。34節で彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言っていることにそれが表れています。彼らが求めているパンはやはり肉体の空腹を満たすパンであり、それを主イエスに期待しているのです。五つのパンで五千人を満腹にすることができる方が共にいてくれれば、もう飢えに苦しむこともなくなり、その心配をしないですむようになる、彼らはそういう救いを求めており、主イエスがそういう救い主であることを望んでいるのです。
その彼らに、主イエスはこの第6章の中心となるメッセージをはっきりとお告げになりました。それが35節です。「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない』」。父なる神が与えて下さるまことのパン、命のパン、朽ちない食物とは、主イエスご自身なのです。主イエスが奇跡の力で何らかのパンを与えてくれるのではなくて、主イエスという命のパンを父なる神が天からこの世に送り、与えて、私たち人間を養い、永遠の命へと至らせようとしておられるのです。33節に、「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」と言われていたのも、父なる神が独り子である主イエスをまことのパンとして与えて下さったことを意味していたのです。また34節の「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」も、主イエスこそが天から降って来た神のパンであり、人々に命を与える方だ、ということを語っていたのです。そして35節には、そのまことのパンである主イエスのもとに来る者は決して飢えることがない、と語られています。つまり主イエスは、食べてもじきにまた空腹になる「朽ちる食べ物」ではなくて、「いつまでもなくならない」朽ちない食べ物なのです。主イエスという命のパンを食べることによってこそ、私たちは永遠の命に至ることができるのです。
来て、信じる
しかし主イエスという命のパンを食べるとはどういうことなのでしょうか。そのことが35節の「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」というみ言葉に示されています。主イエスを食べるとは、先ず主イエスのもとに来ることです。主イエスのもとに来ることによってこそ、決して飢えることのない命のパンを食べることができるのです。主イエスのもとに来なければ何も始まりません。しかし主イエスのもとに来た群衆たちが皆、主イエスという命のパンにあずかったかというと、そうではありません。それに続いて、「わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われていることが大事です。主イエスのもとに来るとは、主イエスを信じることでもあるのです。主イエスのもとに来て、信じることによってこそ、主イエスという命のパンを食べ、渇くことのない水を飲むことができるのです。主イエスのことがここでは、命のパンと呼ばれていると共に、渇くことのない水とも言われています。それは既に4章14節に「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」という主イエスのお言葉が語られていたことを思い出させます。またそれはこの後の第7章37、38節で主イエスが「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言っておられることとも繋がります。主イエスは、「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物」であると同時に、私たちの内で尽きることのない泉となる生きた水でもあられるのです。そしてその命のパンを食べ、生きた水を飲むとは、主イエスを信じることです。主イエスのところに来て、主イエスを信じることによって私たちは、主イエスという命のパンを食べ、主イエスという渇くことのない水を飲むことができるのです。
それでは主イエスを信じるとは何をどう信じることなのでしょうか。そのことは先週読んだ29節に示されていました。そこには、永遠の命に至る食べ物を得るためになすべき「神の業」とは何ですか、という問いに対して主イエスが、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とお答えになったことが語られていました。父なる神がお遣わしになった主イエスを救い主と信じることこそが、神の業を行うことであり、それによって永遠の命に至る朽ちない食べ物を得ることができるのです。つまり、主イエスを信じるというのは、主イエスこそ、神がお遣わしになった独り子、救い主であられると信じることなのです。
主イエスの嘆き
このように、人々が主イエスを神から遣わされた救い主と信じて、命のパンを食べ、渇くことのない水を飲み、永遠の命に至る救いにあずかることを主イエスは願っておられます。五つのパンで五千人を満腹にするという奇跡を行ったのは、それを見た人々が主イエスを信じて、この救いにあずかるためでした。しかし36節にはこう語られています。「しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」。主イエスの嘆きの言葉です。主イエスを見ているのに、つまり主イエスのなさった五つパンの奇跡を直接体験しているのに、主イエスが父なる神から遣わされた救い主であると信じようとしない、主イエスという命のパンを食べようとせず、朽ちる食べ物であるパンばかりを求め、自分たちの生活を安定させてくれる救い主を求めている、そういう人々の様子を主は深く嘆いておられるのです。ここに「前にも言ったように」とあるのは、6章26節の「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」というお言葉を指しているのでしょう。主イエスによってパンを与えられ、満腹した、その奇跡を、主イエスこそ命のパンであるという信仰へと導く「しるし」として受け止めることなく、奇跡の力でこれからも自分たちを満腹にしてくれることを願って、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言っている人たちのことを主は嘆いておられるのです。
父がわたしにお与えになる人
このように36節までのところには、主イエスこそが天から降って来た命のパンであり、主イエスを神から遣わされた独り子、救い主と信じることによってこそ、その命のパンを食べ、永遠の命に至る救いにあずかることができる、ということが語られています。主イエスを信じる信仰への勧め、促しが語られているのです。ところが37節以降には、それとは少し違うことが語られていきます。37節にはこうあります。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」。ここに「わたしのところに来る」という言葉があります。それは35節の「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく」と重ね合わせて読むならば、主イエスを救い主と信じる、という意味だと考えてよいでしょう。つまり、わたしのもとに来て信じる人、主イエスこそ父なる神が遣わして下さった救い主であると信じる人を、主イエスはご自分のもとから決して追い出さない、その人は必ず命のパンにあずかり、永遠の命に至る朽ちない食べ物によって養われるので、決して飢えることなく、決して渇くことがない、ということです。そしてこの37節において大事なのは、そのようにわたしのところに来る人は、「父がわたしにお与えになる人」だと言われていることです。父なる神が主イエスにお与えになった人が主イエスのところに来るのだ、と言われているのです。それは言い換えれば、父がわたしにお与えになった人だけがわたしのところに来て、信じて、救いにあずかる、ということであり、それをひっくり返して言えば、父がわたしにお与えになった人でなければ、わたしのところに来て、信じて、救いにあずかることはできない、ということです。主イエスが五つのパンで五千人を満腹させた奇跡を直接体験した人の中にも、主イエスこそが命のパンであることを信じるのでなく、物質的なパンばかりを求めている人が多い、という現実の背後に主イエスはこういうことを見ておられるのです。つまり主イエスを信じて命のパンを食べ、永遠の命にあずかる救いは、父なる神が主イエスに与えて下さった人にしか起らないのです。神の救いにおけるそのような厳しい現実を主イエスは見つめておられるのです。
わたしをお遣わしになった方の御心
父なる神が主イエスに与えて下さった人だけが、主イエスのところに来て、信じて、命のパンをいただき、永遠の命に至る救いにあずかることは、38節以下にも語られています。38節で主イエスは「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」と言っておられます。そして39節では、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終りの日に復活させることである」とおっしゃっています。終りの日に復活させる、ということが突然語られていますが、それは次の40節に「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終りの日に復活させることだからである」とあるように、永遠の命を与えるということです。永遠の命は、今のこの肉体の命がいつまでも続くことではありません。肉体はいつか必ず死んで滅びていきます。しかし私たちは、父なる神と独り子主イエスが、死んでしまった私たちを、世の終りの日、救いの完成の時に復活させ、新しい命、もはや死ぬことのない永遠の命を与えて下さることを信じているのです。その復活の先駆けとなって下さったのが主イエスです。主イエスは十字架につけられて死んで、墓に葬られたけれども、父なる神の力によって三日目に死人の中から復活しました。この主イエスこそ天からのパンであると信じる者は、命のパンを食べることができるのです。つまり主イエスに与えられた復活と永遠の命が、終りの日に自分にも与えられることを信じて歩むことができるのです。父なる神が独り子主イエスをこの世に遣わして下さったのは、この復活と永遠の命を私たちにも与えて下さるためです。主イエスをこの世にお遣わしになった父なる神の御心は、主イエスを信じる者が一人も失われずに、終りの日に復活し、永遠の命にあずかることなのです。主イエスはその父なる神の御心を行うために天から降って来て、人間となり、十字架の死に至る道を歩んで下さったのです。その主イエスを父なる神が復活させ、永遠の命の先駆けとして下さったのです。この主イエスの十字架と復活による救いにあずかることができるのは、父なる神が主イエスに与えてくださった人です。父なる神によって選ばれ、主イエスのものとされた人のみが、主イエスによる救いにあずかり、復活と永遠の命に至ることができるのです。
救いの確かさ
私たちはこれを読むと不安を覚えるかもしれません。父なる神が主イエスにお与えになった人、つまり選ばれた人だけが救いにあずかるのだとしたら、自分はその選ばれた人の中に入っているのだろうか。父なる神は自分を主イエスに与えて下さっているのだろうか。もしそうでないなら、自分がいくら頑張っても救われる可能性は無い、ということになるのではないか、と思うのです。しかしこのみ言葉からそのような不安を導き出すことは間違いです。なぜなら、「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」というみ言葉は、私たちの救いは、父なる神のみ心によってこそ与えられる、ということを語っているのだからです。私たちの救いは、私たちが救われるのに必要な条件を満たすことによって与えられるものではありません。選ばれていないとしたらいくら頑張っても救われないのではないかという不安を感じると今申しましたが、まさにその通りなのであって、私たちは自分が頑張ることによって救いを得ることはできないのです。ただ父なる神が恵みのみ心によって、何の相応しさもない私を主イエスに与えて下さったので、救いにあずかることができるのです。このことは私たちに不安をもたらすのではなくて、私たちの救いの確かさを明らかにするのです。私たちの努力や頑張りによって救いが決るなら、その救いは不確かな、あやふやな、時によってあると思えたり、調子が悪くなるともうないと絶望してしまうものになります。でも、救いは、私たちの側の状態によって左右されるものではなくて、父なる神が私を主イエスに与えて下さったという神のみ心によるのです。そしてそのみ心を私たちは、自分が主イエスのもとに来て、信じている、ということにおいて確かめることができます。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」のであって、そうでない人にはそれは起こらないのですから、このように礼拝に集い、主イエスのもとに来ている私たちは、そして主イエスを救い主と信じ、あるいはその信仰を求めている者は、自分が父なる神によって主イエスに与えられていることを確信することができます。それは私たちの努力や頑張りによって起こっていることではなくて、ただ神の恵みのみ心によって与えられていることなのです。そのことを見つめるなら、私たちは自分が主イエスという命のパンにあずかり、永遠の命に至る朽ちない食べ物に養われていることを信じて歩むことができるのです。
独り子をお与えになった神の愛
38節以下に語られている父なる神の御心には、3章16節のあのみ言葉と共通する響きがあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。これこそが、父なる神の御心の中心なのです。主イエスは父なる神のこの御心を忠実に行って下さって、十字架の死への道を歩んで下さいました。その主イエスを信じる者に永遠の命を与えるために、父なる神は主イエスを復活させて下さったのです。主イエスの十字架と復活に、神の私たちへの大いなる愛が示されています。神は私たちを愛して、主イエスによる救いへと招いて下さっているのです。主イエスは私たちをその救いから追い出すことは決してなさいません。私たちが一人も滅びないで、永遠の命を得ることを願い、そのために祈って下さっているのです。
主イエスの執り成しの祈り
その主イエスの祈りをヨハネ福音書は第17章において語っています。本日の箇所との繋がりがありますので、最後にそこを読んでおきたいと思います。17章はその全体が主イエスの祈りです。捕えられ、十字架につけられる直前に主イエスが弟子たちのために、おして私たちのためにこのように祈って下さったことをヨハネ福音書は語っているのです。その2節にこうあります。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」。主イエスは、父からゆだねられた人、つまり父が与えて下さった人すべてに永遠の命を与える権能を持っておられる、そのことがこの祈りの前提です。そしてその主イエスが6節以下でこのように祈っておられるのです。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです」。
父なる神が私たちを独り子主イエスに与えてくださり、主イエスのものとして下さったので、私たちは主イエスのもとに来て、信じて、命のパンにあずかり、永遠の命への希望を与えられている。その救いは独り子をすら与えて下さった父なる神の愛によって与えられるのだから、私たちがそこから追い出され、落ちてしまうことは決してない。私たちの救いのために主イエスが父なる神に執り成し祈って下さっている。このことはヨハネによる福音書全体を貫いている大切なメッセージなのです。