「わたしだ。恐れることはない。」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:出エジプト記 第3章13-14節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第6章16-21節
・ 讃美歌:12、157、456、76
第四、第五のしるし
ヨハネによる福音書は、主イエスのなさった七つの奇跡を軸にして話が進められている、ということを、先週も説教の冒頭でお話ししました。その奇跡のことがこの福音書では「しるし」と呼ばれていることもです。今読んでいる第6章には、その七つのしるしの内の第四と第五のしるしが語られています。第四のしるしは、先週読んだ15節までのところの、五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人の人々が満腹した、という奇跡です。それに続く本日の16節以下には、第五のしるしが語られています。主イエスがガリラヤ湖の水の上を歩いて弟子たちの乗る舟に来られたという奇跡です。この第五のしるしは、第四のしるしにすぐ続いて語られていますし、話の流れにおいても深く結びついています。6章1節に「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた」とあります。それはおそらく、ガリラヤにおいてしばしば滞在しておられたカファルナウムの町から向こう岸へと渡ったということでしょう。そこは人里離れた所であって、群衆に食べさせるパンを買う場所もありませんでした。そういう場所であの、五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させたという第四のしるしがなされたわけです。それに続く本日の箇所の冒頭の16、17節には「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした」とあります。つまりガリラヤ湖の向こう岸に渡って来た彼らは、その日の夕方に再び向こう岸へと、つまり元いたカファルナウムへと戻ろうとしたわけです。その帰りの舟旅においてこの第五のしるしが起ったのです。
弟子たちのみの舟旅 教会の実感
主イエスと一緒に向こう岸に来た弟子たちでしたが、この帰りの舟旅は彼らのみによるものとなりました。17節の終りには、「既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのとこには来ておられなかった」とあります。主イエスが戻って来ておられないのに、弟子たちは自分たちだけで舟を出したのです。どうしてそうしたのかは語られていません。マタイとマルコ福音書におけるこの話では、主イエスが強いてそうさせたのだと語られています。そうでもなければ、弟子たちが主イエスを残して自分たちだけで舟を出すことは考えられません。しかしヨハネ福音書はそういう事情には無頓着です。ヨハネは、弟子たちが自分たちだけで湖を渡っていったという事実だけを語っているのです。それは、その姿が、この福音書が書かれた当時の教会の、そしてそれはそのまま私たちの、この世における状況を象徴的に表しているからです。私たちの人生はしばしば舟旅になぞらえられます。それは、一人で旅をしているのではない、ということを意味しています。共に舟に乗り合わせている人々と共に、一つの運命共同体として生きている、それがこの世を生きている私たちの一つの姿です。それを最も大きな規模で言い表しているのが、「宇宙船地球号」という言い方です。人類の全てが、地球という舟に共に乗り合わせて旅をしている。その舟が環境破壊などでボロボロになり沈没してしまったら、皆が滅びてしまうのです。このように最もマクロな意味では地球が私たちの乗っている舟になぞらえられるわけですが、教会もしばしば舟によって象徴されます。弟子たちの舟はむしろ教会を象徴していると言えるでしょう。そこには見ず知らずの人たちがたまたま乗り合わせているのではありません。乗っているのは皆主イエスの弟子たちです。主イエスを信じて従っている者たちが共に乗り込み、目指す地に向かって漕ぎ出し、湖の上を渡っていく、それが、この世における教会の姿です。私たちが洗礼を受けて教会に連なる信仰者となったということは、この舟に乗り込み、信仰の仲間たちと共に、一つの目的地に向かって漕ぎ出した、ということなのです。しかし弟子たちのこの舟に主イエスが乗っておられないというのはどういうことでしょうか。教会は、主イエスを抜きにして漕ぎ出しているのでしょうか。このことは、私たちが、そして教会が、この世を歩んでいく中で感じていることを表しています。主イエスを信じて、主イエスに従って行くことを決心して、私たちは信仰者となり、教会のメンバーとなり、この舟に乗り込んでこの世の現実の中へと漕ぎ出すわけですが、その歩みにおいて、主イエスがいつも共にいて下さるということを、私たちはなかなか感じられないのです。そもそも、復活して天に昇られた主イエスは、今この地上に目に見える、手で触れることができるお姿でおられるわけではありません。誰の目にもはっきりと分かる仕方で主イエスが共にいて下さっているわけではないのです。目に見えない主イエスが共におられることは、信仰をもって生きている者たちにとっても、なかなか分からない、体験できないことです。ですから私たちはしばしば、主イエスはここにおられないのではないか、自分たちは主イエス抜きで湖に漕ぎ出し、目指す地に向かっているのではないだろうか、という思いを抱くのです。弟子たちのみが乗り込んで湖を渡っているこの舟は、この世におけるそのような私たちの、教会の実感を表しているのです。
18節の「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」というのも、そのような歩みの中で私たちが、教会が体験していることです。主イエスが共におられず、自分たちだけで舟を漕ぎ進めている、その私たちは、渡ろうとしている湖に強い風が吹き、荒波に翻弄されることを感じるのです。この世の現実は確かに厳しいものです。平穏無事に舟を進めることは、私たち一人ひとりの人生においても、また教会の歩みにおいてもなかなかできません。そこには強い逆風が吹き付けてきます。舟を先に進めるどころか、転覆してしまうのではないかと思われるような困難な事態がしばしば起こるのです。この福音書が書かれた紀元1世紀末の教会は、ユダヤ人たちによる迫害の中にありました。ローマ帝国による迫害も起り始めていました。そのような困難の中にある自分たちの有様を意識しつつ、この福音書は、またこの話は書かれているのです。
水の上を歩いて来られた主イエス
ですからこの第五のしるしは、そのような逆風にさらされ、苦しんでいる教会に、自分たちのところに、主イエス・キリストが、水の上を歩くという奇跡を行って来て下さるのだ、ということを示しています。その奇跡は19節にこのように語られています。「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた」。一スタディオンは約185メートルですから、25ないし30スタディオンは5キロメートル前後となります。岸からそれくらい漕ぎ進めたところで強風に漕ぎ悩んでいた弟子たちの舟に、主イエスが、湖の上を歩いて近づいて来られたのです。岸からの距離をこのように具体的に語っているのは、主イエスが水の上を歩かれたというこの奇跡を、岸辺の浅瀬を歩いていたのがそう見えただけだ、などと捉えられてしまわないためであると言えるでしょう。主イエスは岸から5キロの距離を、水の上を歩いて弟子たちの舟に近づいて来られたのです。それは物理的にはあり得ない奇跡です。しかしそのことに捕われて、こんなことがどうしてあり得るのか、といくら考えていても実りはありません。私たちがここでむしろ驚きをもって注目すべきことは、弟子たちが、水の上を歩いて近づいてこられる主イエスを見て「恐れた」ということです。彼らは何を恐れたのでしょうか。主イエスがおられない中で苦しんでいる自分たちのところに、奇跡の力によって主イエスが近づいて来られたのです。どうして恐れる必要があるのでしょうか。いや彼らはそれが主イエスだとは分からず、幽霊が化け物が水の上を歩いて近づいて来る、と恐れたのでしょうか。マタイとマルコ福音書にはそのように語られています。しかしヨハネはここでただ「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた」とだけ語っています。ヨハネはここでも、彼らが「恐れた」という事実のみを語っているのです。それは、次の主イエスのお言葉への準備です。主イエスは恐れている彼らに「わたしだ。恐れることはない。」とお語りになったのです。このお言葉こそ、ヨハネ福音書がこの第五のしるしにおいて示そうとしていることの中心なのです。
わたしだ
「わたしだ。恐れることはない。」というお言葉は、湖の上を歩いて来る主イエスのお姿を見て驚き、お化けが出たと恐れている弟子たちに主イエスが、「お化けなんかじゃない。私だ。だから恐れることはない」とお語りになった言葉として先ずは読むことができます。それが最も単純な読み方だと言えるでしょう。しかしこの「わたしだ」という言葉には、それだけでは終わらない深い意味が込められているのです。「わたしだ」は原文のギリシャ語の言葉をそのままご紹介すれば「エゴー エイミ」です。それは英語に当てはめれば、「アイ アム」です。それをこの文脈に即して訳せば「私だ」となるわけですが、文脈によってはそれは「私はある」と訳すことができるし、そこに何らかの述語をつけ加えるならば、「私は何々である」という文になります。そしてこの「エゴー エイミ」「アイ アム」という言葉は、ヨハネによる福音書において大変大事な意味を持っているのです。
主イエスとは何者であるか
先ず、これに述語を加えた「わたしは何々である」という言い方を見てみましょう。今読んでいる第6章の35節にこのような主イエスのお言葉が語られています。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る人は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。また51節には「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」とも語られています。これらのみ言葉こそが、五つのパンで五千人の人々を満腹させたという第四のしるしから始まったこの第6章の中心的なメッセージなのです。このように、「エゴー エイミ」「アイ アム」は、主イエスとは何者であるか、というこの福音書の中心的な主題が語られるところに出て来る大事な言葉なのです。
それは6章だけではありません。8章12節には「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」とあります。10章7節には「はっきり言っておく。わたしは羊の門である」、また11節には「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とあります。そして11章25節には、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」とあります。また14章6節には「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のみもとに行くことができない」とあります。15章1節には「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」とあり、5節にも「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とあります。これらはすべて、「エゴー エイミ」「アイ アム」という言葉によって導かれて語られていることであり、どれも、主イエスが私たちの救い主であられるとはどういうことなのかを印象深く語っている、ヨハネ福音書を代表する言葉なのです。
わたしはある
このように「エゴー エイミ」は主イエスとはどなたであるかを語ることにおいて用いられる大事な言葉ですが、この言葉は述語なしにそれだけでもこの福音書に何回も出てきます。既にそれが語られていたのは4章26節の「それは、あなたと話をしているこのわたしである」というお言葉です。ここは、サマリアの女性が、私たちはキリストと呼ばれるメシアが来ると聞かされている、と言った時に主イエスが「あなたと話しているわたしがそれである」とお語りになったところですが、主イエスがお語りになった「わたしである」「わたしがそれである」が「エゴー エイミ」です。主イエスは、ご自分こそがメシア、救い主であられることをお示ししになる時に、「エゴー エイミ」「わたしはある」とお語りになったのです。同じ言葉が8章24節にも語られています。「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」。また8章28節にも「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということを、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」とあります。そして8章58節において主イエスは、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と言っておられます。これらの箇所では、「エゴー エイミ」「わたしはある」という言葉は共通して、主イエスが父なる神から遣わされた独り子なる神であられることを意味しているのです。
生ける神が共におられる
このように「エゴー エイミ」「わたしはある」が、それを語っておられる主イエスが神であられることを示す言葉とされていることの根拠は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所である出エジプト記第3章にあります。ここは主なる神がモーセに現れ、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放するための使命へと彼をお召しになった場面ですが、同胞たちに神のお名前を尋ねられたらどう答えたらよいでしょうかというモーセの問いに対して主は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」とおっしゃったのです。この主なる神の言葉がギリシャ語に訳されて「エゴー エイミ」となりました。つまりこの「わたしはある」「わたしである」「わたしだ」という言葉は、出エジプト記において主なる神がご自身を現される言葉、まさにそこに生きておられる神が力をもって臨んでおられることを示す言葉なのです。湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいて来られた主イエスは、この言葉をもって弟子たちに語りかけ、「エゴー エイミ。わたしはある。わたしだ。恐れることはない」とおっしゃったのです。それは「お化けなんかじゃない。私だから安心しなさい」ということではもはやありません。この世の現実の中で、逆風に悩まされて漕ぎ悩み、恐れや不安に捕えられている弟子たち、信仰者たち、教会に、神の独り子、まことの神であられる主イエスが、神としての奇跡の力、水の上を歩くという常識においてはあり得ない力をもって来て下さり、共にいて下さるのだ、ということを示して下さったのです。
人間の力の限界において
私たちは、教会は、この世の現実の中で信仰をもって歩んで行こうとする時、主イエスが共にいて下さらないのではないか、自分たちだけで暗い湖を渡っていかなければならないのではないか、と感じます。だからそこに起こって来る強い風や波を、自分たちの力で何とかして乗り切っていかなければならないと思い、そのために必死になり、しかし人間の力の限界をすぐに感じて、恐れを覚え、勇気を失い、落胆や諦めに陥るのです。そのように主イエスなしで、自分たちのみで湖を渡っていると感じている私たちの姿は、先週のあの第四のしるしにおいて、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人々では、何の役にも立たないでしょう」と言っていた弟子たちと同じです。確かに五つのパンと二匹の魚では、五千人からの人々を前にしたら何の役にも立ちません。自分たちの力のみで強風の吹き荒れる夜の湖を渡っていくこともそれと同じです。そこには恐れと不安、そして落胆と諦めしか生まれないのです。しかしそのような、私たちの持っている力ではどうすることもできない現実の中で、その中でこそ、主イエス・キリストが、まことの神として近づいて来て下さり、み業を行って下さり、救いを与えて下さるのです。第四と第五のしるしはそのことを私たちに示しているのです。
主イエスを迎え入れようとする
最後の21節に「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」とあります。これも不思議な語り方です。弟子たちが主イエスを舟に迎え入れた。主イエスが乗り込むと、強風もおさまり、間もなく舟は目指す地に着いた。というのならすんなりと分かります。しかし「迎え入れようとした。すると間もなく目指す地に着いた」というのはどういうことなのでしょうか。ヨハネはここにおいても一つのメッセージを語っているように思います。つまりヨハネはここで、大切なことは、「わたしだ。恐れることはない」というみ言葉をもって、生きておられる神として、奇跡のみ業を行って下さる方として来て下さる主イエスを、自分たちの舟に「迎え入れようとする」ことなのだ、と言っているのではないでしょうか。人間の力の限界を思い知らされ、すぐに恐れと不安と諦めに陥ってしまう私たちにできること、なすべきことは、まことの神として来て下さる主イエスを自分の人生に、自分たちの教会に、お迎えしようとすること、主イエスが来て下さることを望み、求めることなのです。それを求めさえすれば、その先のことは主イエスご自身がして下さるのです。主イエスがまことの神としての力を発揮して、人間の力によっては決して実現しない奇跡を行って下さるのです。それによって五千人の人々が満腹したのだし、弟子たちの舟は目指す地に着いたのです。その目指す地とは17節にあったようにカファルナウムです。そこで、次の22節以下の話が展開していきます。そこに語られていく主イエスの教えのテーマは、先ほども申しましたように、人を本当に生かす命のパンとは何かということです。つまり、五つのパンで五千人を満腹にした、という奇跡、あの第四のしるしを見て、主イエスが与えて下さるパンを求めて集まって来た人々に対して主イエスは語っていかれ、その中で先程の35節、つまり「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」というみ言葉が語られたのです。五つのパンで五千人が満腹した第四のしるしから始まった第6章のメッセージは、主イエスこそ、私たちを本当に生かす命のパンである、ということです。そして第五のしるしは、なぜ、主イエスこそが命のパンなのか、その理由を示しています。それは主イエスが、「エゴー エイミ」「わたしはある」という、まことの神がご自身を現して下さるみ言葉をもって私たちのところに来て下さった方だからです。つまり、まことの神であられる主イエス・キリストが、私たち罪人の救いのために人間となり、私たちの罪を全て背負って十字架の死に至る道を歩み通して下さったからです。この主イエスが今私たちのところにも来て下さって、「わたしだ。恐れることはない」と語りかけて下さっているのです。
この語りかけを聞いて主イエスを信じて洗礼を受け、主イエスを迎え入れた者たちは、この礼拝において聖餐にあずかります。聖餐において私たちは、十字架の上で裂かれた主イエス・キリストの体と流された血とに私たちがあずかるのです。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」という主イエスの恵みを私たちは聖餐において、体全体で味わっていくのです。